マスターピース

いい曲だけど名前は知らない(第2話)

高橋文樹

小説

8,355文字

平凡を自称する男が近所にできたばかりの床屋を訪れる。好奇心から始まった床屋通いが、いつしか深刻な映画監督マリオ・マチャードの話になるという非対称会話小説。

私は平凡な男だったと思う。都心まで電車で四十五分の住宅街に住み、家族は妻と子供が年子で二人、上の子は五歳。会社勤めだ。歳は三十七歳、趣味の釣りは月に一度海釣りに行ければ御の字という程度。もし自己紹介をする機会があって、何か気の利いたことを言わねばならないとしたら、学生の頃誰でも知っている映画のエキストラに出たことがあると言う。そう、私はその程度には平凡な男だった。

私には結婚してから身に付いた習慣があった。散髪は妻にしてもらう――実につましい習慣である。会社勤めをしてからは、制限の色々とある中で自己主張をしたいという若気も薄れていき、子供が生まれたばかりの経済的に不安定な時期を経て、妻に頼むようになった。妻はちょっとした縫い物や紙細工などを喜んで作るたちで、散髪もそれと似たような種類の娯楽として捉えたらしく、あれこれと工夫しながら喜んでいるようだった。髪を切るという行為には秘め事めいた部分があって、それは他でもない、刃物を頭の辺りで振り回されすことを許し許されるという関係のことなのだが、私達夫婦はそうした関係を結ぶことで、お互いの繋がりを強めていたように思う。

ある日、妻が少し離れた床屋に行ってみるよう勧めてきた。夫婦の間にぴしっとヒビが入ったように思ったが、どうも店主がブラジル人だというのが勧める理由らしかった。店を居抜きで借りたのか、何かの縁で店を継いだのかしらないが、ともかく看板は「カットサロンムラタ」のままで、ブラジル人が白衣を着て店番をしているらしい。傑作でしょ、と妻は頬を緩ませていった。いまにも吹き出しそうな表情を眺めていると、陽気なブラジル人がひなびた床屋で店番をしている姿が、私の脳裏にも浮かんでくるようだった。

その次の日曜日、自転車にまたがってカットサロンムラタへと向かった。携帯電話に送信しておいた地図情報によると、住宅街の真ん中、公園のすぐ脇にあるようだった。私の胸は高鳴った。チャンスがあれば写真を撮ってくるように、と妻に言われていたので、携帯電話の充電を確かめた。たとえ三時間待ちだったとしても、撮影は確実にできそうだった。

店の前、サインポールの脇に自転車を止めた。店舗の正面は全面ガラスだったため、もう店主の姿は見えてしまった。たしかに、ブラジル人だった。頭は坊主で、太い眉の下にくりっとした目があって、背が大きく、サッカーの国際試合でブラジルチームにこんなコーチがいたような気がした。人当たりは良さそうで、歳は四十代から五十代に見えた。客は一人で、ごく普通に談笑しながら散髪していた。

店に入ってまず私を驚かせたのは、店主の日本語が異様に上手いことだった。「いらっしゃいませ」という挨拶から、客と話している会話の内容まで、イントネーションは正しかった。私は携帯を取り出すと「とりあえず日本語上手い」というメッセージを妻に送った。妻はおそらく待ち構えていたのだろう、「えー、それは残念」と返事をしてきた。夫婦のコミュニケーションをやめてまで来たのだから、もっとブラジル人の床屋として面白い要素を発見して持ち帰らねばならないという復讐にも似た使命感があった。

前の客が散髪を終え、私の番になった。どんな言葉をかけられるだろうと緊張していた私を迎えたのは、店主の「はじめましてマリオです。弟はルイージでーす」という言葉だった。私は唇をへらっと歪めながら、スーパーマリオの、と答えた。店主は「嘘でーす。弟はいません」とおどけた。

「ルイージはイタリア人の名前です。ブラシルではルイス。サッカー選手にいるでしょ」

その後、ひとしきりサッカーの話題で盛り上がった後――といっても私は日本代表の試合しか見ない平均的なサッカー好きなのだが――ついに髪型を聞かれた。結局のところ、このまま短く、と答えた。マリオは鏡の向こうで肩をすくめた。

「どれぐらい短くしたらいいかわからないから、お任せということでいい?」

私は少しだけ不安を覚えつつも、仮に変な髪型になったとしたら、それはそれでいい笑いぐさになるだろうと納得した。それほど髪型についてうるさく言われる職種でもなかったし、いざとなったら丸坊主にしてしまえばよい。同僚には禿隠しを含めて、坊主頭が三人ほどいた。そういう意味で保険は利く。

マリオは櫛で髪を掬い上げると、小気味よいリズムで鋏を鳴らした。髪の毛がカットクロスの上をさらさらと滑り落ちていった。カリスマ美容師がするように格好良くはしてくれないだろうが、理容師が持つ安定した技術の確かさは持っているようだった。私は幾つかのことを訪ねた。いつ日本に来たのか、床屋の技術はどうやって身につけたのか、などなど。マリオは特に隠す風でもなく、目を手元に落として髪を切りながら答えた。

日本に来たのは九年前。浜松の飲食店で働いていたが、日本人女性と結婚した。子供はいない。五年ほど前、専門職を身につけようと、理容専門学校に入った。千円カットの店を転々としていたが、妻の実家近くに引っ越した後、縁あってこの店をかなり安く使わせてもらえることになった。どうして店名を変えないのか、という私の質問に対して、マリオは笑いながらこう答えた。

「だって、その方が面白いでしょ? ムラタさんだと思ったらブラシル人がいるんだよ」

ね、と微笑まれると、看破された私としては、頷かざるをえなかった。マリオの言い方には見透かした上での嫌みったらしさというものがまるでなかった。ささやかな悪戯いたずらを一緒に作り上げる共犯関係のような心地よさがあった。散髪の時間は四十分ほどで、会話をしているとあっという間に過ぎた。顔に熱いタオルをかぶせられた状態でも会話は続いた。生まれつきの日本人とでも、初対面でこれほど気安い人間とは会ったことがなかった。

また来るという約束をして店を出た。自転車を漕ぎ出すと、刈り出されたうなじを風が撫でていった。

2014年11月19日公開

作品集『いい曲だけど名前は知らない』第2話 (全9話)

© 2014 高橋文樹

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