村上春樹について語るとき、僕が語ること

メタメタな時代の曖昧な私の文学(第20話)

高橋文樹

エセー

8,187文字

およそ文学に携わる者において、村上春樹についていうべきことはなにもないという人はいないだろう。「村上? 龍だろ。春樹? 角川だろ」とか、そういうことは言ってるんじゃない。本稿では、現時点の日本人作家で最も強い存在感を放つ作家のテキストの質について書く。

私は大学卒業後、北千住に四年ぐらい住んでいて、その最初の半年ぐらいを大学の同級生Iとともに過ごした。

Iと出会ったのは私と彼が20歳の頃で、ちょうどドイツ語の授業が行われている教室の前のベンチだった。彼は講談社文庫の『ノルウェイの森(上)』を持っていた。東大では三年生になるときにクラス替えのようなもの(1,2年生はすべて教養学部生となり、3年生から学部がわかれる)があり、そのオリエンテーションで見知った顔だったので、私は話しかけた。

「春樹とか読むんだ」

私がその質問に若干の侮蔑のようなものを含めていたことは認めよう。20歳の文学青年が村上春樹を読むのは信じがたいほどダサいと当時の私は思っていたのだ。それよりももっと読むべき小説はあった。まあ、私も春樹を読んではいたのだが。

椅子に座っていたIは、顔を上げると、「俺、この本100回読んでるから」と言った。私はなにか挑戦を受けたような気がした。よりによって『ノルウェイの森』を100回読むということが許されるのだろうか。そんな人生の無駄があり得るのだろうか。私はすぐさま挑み返そうと思ったのだが、続く彼の言葉に先を制された。

「俺、彼女死んでるから。直子みたいに」

そう言われては認めるしかない。そんな体験をしたのなら、『ノルウェイの森』を100回読むこともあるだろう。そういうことだ

それから2年ほど経ち、生物学的な意味において彼女が死んだわけではないということを知るのだが、それはまあいい。そんな春樹フリークのIとともに、まっとうな人生からドロップアウトして辿り着いた北千住で、私はある朝、村上春樹という作家の偉大さを思い知ることとなる。

その日は村上春樹の新作『アフターダーク』の発売日だった。私は警備員として働いていたので、夜勤明けに帰宅したところだった。ソファに腰をかけ、タバコを吸い、ご飯を食べてから寝るか、それともすぐに寝てしまうか、シャワーを浴びた方がいいかと思案していた。すると、Iが帰ってきた。Iは紀伊国屋の紺色のビニール袋を抱え、いそいそとトイレに入った。そして、すぐに出てくると、「おい、高橋。おまえウンコ流し忘れてるぞ」と言った。私はソファに深く腰を落としたまま、大江健三郎の小説に登場するヒロインばりに「あ?」と答えた。するとIは目をきょろりと中空に泳がせ、「あ、俺か」と呟いた。トイレに戻ったIはコックをひねってそのクソを流すと、私に「クソ流さず」の汚名を着せたことを謝りもせず、部屋へ戻っていった。私はソファに腰を沈め、タバコの灰を落とそうかどうか悩んだ。

このとき私が受けた衝撃というのは次のようなものだ。

普段のIは昼過ぎにならないと起きてこない。その彼がこんな朝早く、歩いて15分もかかる紀伊国屋へ向かい、しかも出かける前にしたウンコを流し忘れるほど楽しみにしたのが『アフターダーク』だったのだ。果たして、私の書いた本がそれほど人々の心を踊らせることがあっただろうか。いや、より正確にいえば、私はまだ読んでもいないテキストによって人々を忘我の境地——クソを流し忘れる境地——に至らしめるほどの実績を積んだだろうか?

その夜、私はIから『アフターダーク』の感想を聞かされた。主人公が私と同じタカハシという名前であること。そして、タカハシは私と同じくキャメルを吸っていたこと。さらに、主人公のガールフレンドらしき少女がマリという名前で、私は昔マリという女の子と付き合っていたこと。そうしたことどもがIにとっては貴重なことらしかった。だが、私は正直いって、そんなしるしはどうでもよかった。重要なのは、Iがクソを流し忘れるほど楽しみにしていたという、ただそれだけだった。

村上春樹の正統性

さて、このようなエピソードを書くまでもなく、村上春樹が現時点の日本人作家として、世界的に最も著名だということはわかるだろう。いちおう断っておくが、私はハルキストではない。以下、その理由を掲げる。

  • 主要な登場人物が軟弱であり、すぐ逃げるのが気に触る。なにが「あなたのことはいまでも好きよ、といって妻は出て行った」だ。『世界の終わりとハードボイルドワンダーランド』ぐらいが丁度いい。
  • ハードボイルド文学に多大な影響を受けているにも関わらず、半熟ソフト・ボイルドであること。また、カート・ヴォネガット Jr.などから受けた影響について明確に書いていないこと。
  • 深淵を周到に回避していること。綿矢ノボルがした悪事がそんなに大したことなのだろうか。ここら辺は加藤典洋『村上春樹 イエローページ〈1〉』などを参考にしてほしい(私は読んでいないのだが、似たようなことが書いてあるだろう)。

こうした理由もあるにはあるが、あくまで私個人の好悪の話だ。文学史的に、そして、ある程度中立的な立場から判断すると、私は村上春樹という作家が日本近代文学において重要であるのみならず、正統的だとも思っている。

まず、私の日本近代文学史観においては、重要な二つの要素がある。それは、「輸入」と「自然主義」である。

海外文学の輸入

2015年10月13日公開

作品集『メタメタな時代の曖昧な私の文学』第20話 (全22話)

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© 2015 高橋文樹

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