人生を台無しにするちらかしの魔法

高橋文樹

小説

16,813文字

タイトルを思いついてからすぐに書き始めたが、発表の機会がなかった。本日、アメリカでブレイクした「こんまり」が散々人に物を捨てさせた挙句、その空いたスペースに彼女のオリジナルグッズを売りつけようとしていてクソウケるというミームを見たので、公開に踏み切った。

モンチ・マリオことモンマリはいままさに墜落しようとしている飛行機の中で産声をあげた。「お客様の中にお医者様はいらっしゃいませんか!」という趣旨の発言をマレーシア語と英語で交互に叫びながら客席の間で身をよじっていたマレーシア航空のキャビン・アテンダントがようやく見つけたのは、高知県須崎市の皮膚科医だった。専門外でよくわからないなりに子供を取り上げた医師は「もういいですか」と一言呟いただけで座席に戻ると、シートベルトとお腹のあいだにクッションを挟んだ。そして、もうすぐ消えてしまう自分の命を愛おしむかのように、両手でそっと自分を抱きしめた。

タイの国立公園の近くでバラバラになったボーイング737MAXの残骸の側で、モンマリは産声を上げていた。胎盤も出し切らないまま墜落死した母親の亡骸がたまたまクッションになったのだろう。拾い上げたタイ警察はその子供を空から落ちてきた輝ける喜びジョイ・プラカイ・ルィビャップ・カッ・トンファと名付けた。アナグマの巣穴に持ち帰られていたブラックボックスの回収および乗客リストとの照合が済んだのち、妊娠の時期を偽って国際線に乗り込んだ日本人夫婦の息子だろう、ということになった。異国の地から届いたニュースに、三十年以上も前の日本航空機墜落事故の国民的記憶が蘇った。正直なところ、モンマリはそのままタイで育っていたら普通の人生を送ったことだろう。人生の出発点が声の大きな老人達の琴線をかき鳴らしたことにより、彼の人生はどうしようもないほどとっちらかってしまうことになる。

異常な数の引き取り手が名乗りを挙げた。幾百、幾千と。限定品を買い求める珍品ガジェットオタクさながら、徹夜を厭わない老人たちが自治体の役所に列をなし、里親になるための資格を求めた。彼の幸せを考えるなら、こんな風に欲しがるべきではない——とは誰も思わなかった。いや、正確には、そう思った人は沢山いたのだが、思わない人の数が十分に多かった。そしてその誰もが、自分がジョイプラ——それがモンマリの最初の呼び名だった——を手に入れられないとわかると、里親の申請を取り下げるか、それなりにまあジョイプラっぽい年齢の男児を引き取った。その年、新生児の男児で引き取られなかった子は一人もいなかったが、女児は平年並みだった。ジョイプラに向けられた欲望とそれが見捨てた子供達に関して抗議するフェミニストの声は黙殺された。

里親に選ばれた門地夫妻は、群れをなした里親希望者たちの中でもっとも無害な部類に入った。厚労省の職員の多くが高評価をつけた門地夫妻は、東京都北区に住み結婚九年を迎える四十歳の夫婦だった。欲すれど子宝には恵まれず、諦めきれずにいたところ降って湧いたのがジョイプラであった。夫妻はジョイプラにマリオという名前をつけた。いつか海外の人に出会ってもすぐに名前を覚えてもらえるように——真理夫という名にはそんな願いが込められていた。

門地夫妻は概ね善良で、殺到したメディアのすべてに誓約書を書かせ、けして自分たちの肖像をアップロードさせなかった。野次馬が写真を撮ろうとすれば、父となった喜びのあまり筋トレにいっそう精を出すようになった門地条が烈火のごとく駆け寄って必ず画像を消去した。条が血管の浮き上がった前腕で叩き割ったアイフォーンの数は十指に余った。十二年に渡ってブラジリアン柔術を続けた条は、それまでの人生にかつてなかったほど家父長的に振る舞うようになった。そんな夫の側で、妻の留美は子育てとスプラトゥーンにのめり込んでいった。銃殺を仮想体験するファーストFirstパーソンPersonシューティングShootingゲームに「ペンキを塗っているだけで殺してはいない」という最高のエクスキューズを与えた任天堂のゲームと適切な距離感をもって接していた留美は、子供ができたことの昂りを沈めるために、対人戦闘にのめり込んだ。もちろん育児放棄ネグレクトなどをするわけではない。自己沈静カーム・ダウンが彼女の流儀だった。

門地夫妻の名誉に誓って、筋トレとFPSがモンマリの生育を妨げたということはない。ただ、その禁欲主義ストイシズムはモンマリの生育に決定的な影響を与えた。夫妻が過剰な真面目さをもってモンマリに向き合った結果、モンマリはそれ以上に苛烈な真面目さで世界に向き合うようになったのだ。

二歳児の頃はベビーチェアに並べられた食事を皿ごと部屋のあちこちに撒き散らすくらいだった。図書分類法に則って並べられた本棚も片っ端から床に叩き落とされた。その程度なら、こんなものかな、と思うのが親心だ。実際にインターネットで検索すると似たような事例が散見され、「じきに収まる」という解答がベストアンサーに選ばれていた。

しかし、四歳になり、モンマリが保育園に通うようになったある晩、留美は夕食の準備をしているわずかな間に、モンマリが部屋の壁紙を自分の手の届く範囲すべてにわたって剥がしていることに気づいた。母の視線に気づいたモンマリは悪びれるでもなく、とりあえず続きは母の目の届かないところで、といった風に足元に散らばっていた仮面ライダーで遊び始めた。その切り替えの早さとちらかしかたの徹底ぶりに留美は戦慄を覚えた。ちょうど、スプラトゥーンでウデマエXに出会ってしまったときのように。留美はその後三ヶ月に渡ってインターネットで検索し続けたが、最終的に「インターネットは役に立たない」という結論に達した。壁紙を剥がす四歳児はたくさんいたが、脚立を引きずり出して天井に至るまで剥がし終える四歳児は少なくとも日本に存在しなかった。起きていないことには対処法も存在しない。

夫婦は悩み、議論を重ねた。そして開き直った。この転換をもたらしたのは条が生まれ持った能天気さである。彼のたちはモンマリと相性がよかった。能天気はちらかしの触媒である。ちらかしは立ち止まらない。けして片付けたりしない。能天気はその初期衝動を加速する。

門地夫妻は二十五年ローンを組んだ家がバラバラに解体される最後の一週間、どこか夢を見ているような気分で過ごした。破壊は壁紙を剥がしはじめた幼稚園年少の頃に始まり、小学校に上がったモンマリの二回目の夏休みがもう終わろうという頃、軽量鉄筋造プレハブ工法で建てられたシックな濃紺の一軒家の破壊は完遂した。七歳の子供がタイガーロープと糸鋸を器用にあやつってプレハブ外壁を剥がしはじめたときには絶望よりも期待の方が大きかった。まだランドセルに背負われているような年齢の子供が、ボーイスカウト顔負けのロープワークを使って金属に覆われた一軒家を元の材料に戻したのだ、これを感嘆せずにいられようか。条は敷地内にちらかった建材をまとめ、メルカリに出品した。三十五万円で落札され、それが高いのか安いのかも判断できず発送作業に移ろうとしたが、発送する方法がわからなかったので、そのままにした。どうせ中国かどこかの業者だろう。かつて門地家があった場所には、山ほどの建材と二十年弱の住宅ローンが残された。

門地夫妻はクレジットカードの限度額を最大限活用し、中古のシエンタを現金一括で購入した。TOYOTAの販売員は納車時に少しも驚きを見せず、「せっかく買ったのだからカーポートから修繕してはどうでしょう」という至極真っ当なアドバイスを残して帰った。門地家は手に入ればかりの新しい足でガソリンスタンドとアウトドア用品店に立ち寄ると、車中泊のための完全なセットを購入し、戻らない旅に出た。

門地家はその後三年に渡り、それこそ本に書かれるような日本一周旅行をした。最終的には行方知れずとなったため、実際に本が三冊書かれ、映画が一本作られた。明らかに門地家をモデルにしたフィクションは数多く発表された。幼い子供を連れて盗みを働きながら日本を巡る家族というのはボニー&クライドのアップデート版だった。かつて飛行機事故で奇跡的に生き残った赤ん坊が稀代の盗人一家になって人知れず日本全国を駆け回り、九州の海で心中したというストーリーは圧倒的な話題バズとなり、あっという間に忘れ去られた。

しかし、門地家の物語はその先までずっと続いていたということは、後年になってわかったことだ。実際の門地家の旅はその後も続いていた。博多湾に沈んだシエンタの最後の持ち主は自動車の密売業者で、ガサ入れの噂を恐れて証拠隠滅しただけだった。モンマリたちは中古車を売り払った金で韓国に渡っていた。韓国に渡ってチキン屋を始めた門地夫妻は、その後三年に渡って店を繁盛させる。その間、十三歳になっていたモンマリは店の手伝いをするでもなく、元脱北者のチェ・ドンヨルという男にオルグされていた。オルグといっても、軍事的な知識や秘密警察のノウハウといったものが大半であり、モンマリにしてみたら面白いことを色々と教えてくれるお爺さんの相手をしていた、ぐらいのつもりだったのだろう。チェは後年、モンマリの印象についてこう語っている——にこやかでいながら何も思想的な核を持たない恐ろしい少年だった。

モンマリが十六歳になる頃、門地夫妻はチキン屋を畳んだ。居抜きでチェーンのチキン屋に入れ替わったのだが、経営上の理由があったかどうかは定かではない。少なくとも、繁盛していなかったり、膨大な買掛が残っていたり、という事実はない。ただ、いくつもの取引先に売掛や買掛が少しずつ大量に残っていた。それらすべてをほっぽり出して、門地夫妻は中国の新疆ウイグル自治区にほど近い地域にある巨大ショッピングモールにカーペット卸の商社として店舗を構えていた。どうやったのかはつまびらかにされていない。日本で三桁に及ぶ窃盗を働いた一家が警察の捜査を打ち切ったまま韓国で三年間チキン屋をやり、そのまま中国の辺境で絨毯を売る……そんなことが可能かどうか、考えてみたことがある人は門地家以外に存在しない。しかし、実際にそうすることができたのだから、やり方はあったのだろう。

三三四五公司は商社の名前であり、モンマリが持っていた携帯電話番号の下四桁でもある。六年に渡って存続した三三四五公司のオーナーであるフェイ一家は、最初の一年半を除き、ほとんど中国内にいなかった。取引先である青の都サマルカンドまでの往復に大半の時間を割いていた。帳簿上は名産の繊維スザニを仕入れるためだったが、それだけではないようだった。ウズベク語のブログには高級住宅街に居を構える日本人親子の記録が残っている。日本語学科を持つ大学の学生たちが興味を持ったようだ。

> 日本の商社マンがすごく面白くて、しかも名前がマリオだった。二週間ぐらいでうちらの言葉を覚えて、すごく賢かった。

> 串焼きシャシリクを無限に食べてる中国人の男の子がいて、話しかけたら日本語がすごい上手だった! 昔、日本に住んでたんだって!

こうした証言を総合すると、門地家はウズベキスタンに住居を持ち、二重ならぬ多重生活を行なっていたようだ。韓国では日本人として、そして、中国では韓国人として振舞っていたが、ウズベキスタンでは日本人としても韓国人としても中国人としても振る舞った。その一貫性のなさはモンマリの根幹をなす散逸ちらかしそのものだった。当然彼らがそのままウズベキスタンに留まることはなかった。

その後の二年間、門地家に関する一切の公的な記録は残っていない。三三四五公司の創業一家であったはずの飛一家は三人家族のままだったが、息子ではなく娘だった。そうした戸籍における誤謬がモンマリの意思によるのかどうかはいまもって不明だ。ただ単に、戸籍管理がずさんだったのかもしれない。あるいは、戸籍にはそもそも価値があり、当然のように売買されていた、ということでしかないのかもしれないのだが、結果だけ見ればある日本人家族が中央アジアで忽然と姿を消したということになるのだろう。しかし、門地家の、いや、モンマリの散逸に対する執念としか呼びようのない情熱は、公的な記録から読み取れる以上のちらかしを後世に残すことになる。

あれほど熱狂した奇跡の航空機事故遺児に日本国民が再会したのは、西アジア発のインターネット・ミームとしてだった。

オレンジ色の服を着てこれから火あぶりにされるはずだった東洋人の青年がインターネットの歴史上でも記録的なアクセスを稼ぎだしたのは、彼を先頭に掲げたパレードがゆっくりと刑場へ向かう途上にクルド人部隊ペシュメルガから側撃を食らう動画がYoutubeにアップされた日だった。女に殺されると地獄に落ちる、そう信じるテロリスト国家軍は、RPGの迫撃からジグザグを描きつつ散開し、最も素早い者は丘の中腹で、確認したがった心配性は灌木の下で、動けなくなった臆病者は戦車の砲塔やキューポラの上で……それぞれの流儀でバラバラになった。解体されたパレードの先頭だった場所にポツリと残された檻。すでに絶命したカメラマンの手で横転した世界を映し続けていたソニー製のハンディカムは、突如取り上げられ、世界を正立させた。檻の中の青年はまっすぐカメラを見つめていた。その東アジア的な黒い瞳と切れ長の目を見た多くのアジア人が、「あれは私たちだ」と直感した。中国、韓国、日本、シンガポール、モンゴル、台湾——けして少なくない世界の一部が、ほとんど同時に自らの象徴を見た。

感動の矢がインターネットミームとなって東アジアを貫いた。その他の地域の人々は、なぜこんなにもサムズ・アップいいねがつくのか理解できなかったため、YouTubeの運営に対して苦情を入れたが、際限なく複製される動画のどれもがランキングを占めた。時差による混乱は八日で収まった。それぞれの地域にそれぞれの信仰がある——よく考えてみたら当たり前のことだった。

檻の中にいた黒い瞳の青年が何者かはすぐに判明した。とりわけ、日本の熱狂は凄まじいものがあった。モンマリだ! あの航空機事故で生き残ったモンマリが生きていた! さっきまで殺されそうになっていたにも関わらず済んでのところで生き残って笑っている青年は、あのモンマリだ! そして、ある程度の教養を持った人々はすぐに気づいた。涅槃だ、と。モンマリの笑みは古拙な笑みアルカイックスマイルで、何も照り返さない暗い瞳は涅槃を見ている、と。

いくつものクラウドファンディングが立ち上がった、何十、何百と。航空券代、ツアー代、衛星携帯電話の通信費、食費、服飾費、そしてお願い代……その他使途不明のクラウドファンディングが一日と経たず目標額を達成した。記録によれば、総額は四億円。モンマリの身柄はシリアに駐留していたトルコ軍部隊によって安全理に空輸された。エルトゥールル号のお返し、という見出しがトルコ系のニュースメディアで踊った。クラウドファンディングで集めた資金はすべて日本赤十字社に寄付された。新東京国際空港には報道陣を含む多くの人々が集まっていた。空港職員たちがモンマリの入国ゲートを出るタイミングを見計らっているうちに、国粋主義的な勢力と人道主義的な勢力の小競り合いが始まった。罵り合いをしていた人がやがて相手の肩を小突くようになり、怒りの振幅が次第に大きくなった。波濤の勢いで暴力が広まり、英雄の帰国を讃えるはずだった群衆は暴徒と化し、最終的には入国ゲート側にあった携帯電話会社を襲撃してSIMを奪うまでになった。空港警察と消防が駆けつけ、暴徒は散り散りになった。暴徒化しなかった群衆のうち何人かは、参考人として一時的に現行犯逮捕され始め、それが別の混乱を生んだ。一人また一人と減り、最後にいかにも無害そうなメガネをかけた男女のカップルが三組残った。モンマリを保護するために肩を抱きかかえていた警備員は、在トルコ大使の顔色を伺うと、モンマリに覆いかぶさっていた腕を解き、「行ってください」と囁いた。モンマリは宅配便が訪れた日曜の午後の主婦のように立ち上がると、そのまま入国ゲートを出た。パラパラとした拍手が出迎えた。周囲をぐるりと見回したモンマリはその右腕をすっと天井に向けた。人差し指が一本、伸びている。その姿勢を見た数少ない聴衆は、それまで気づきもしなかったであろう民族的自我を刺激され、「おおーっ」と歓声を上げた。モンマリはその声の主たちに一瞥もくれないまま、まっすぐに高速バスの時刻表へと向かい、上野行きの時刻を確かめるとさっさとバスターミナルに出た。バスを待つ間、モンマリはチョコレートをかじった。HARSEY’Sのロゴをもじったそのチョコには、やはり大麻ハシシが混じっていた。おそらく、シリアで購入したものだった。この一連の経緯を収めた動画はYouTubeにアップされ、爆発的なアクセスを稼いだ。タイトルは「バベルの塔」だった。

上野の漫画喫茶に落ち着いたモンマリは、やがて生活の拠点を松戸に移し、ほどなくして行方知れずとなった。漫画喫茶チェーン「快適倶楽部」の経営者は帰還英雄であるモンマリを国外へ出すわけにはいかないと考える程度には愛国主義者で、個人情報保護法を無視してでもモンマリを見つけ出して欲しいと情報公開に踏み切ったが、単に株価を下げただけだった。二年間は日本にいた、ということだけがわかった。出国の方法や資金源はいまもって不明だ。モンマリはなんらかの方法を用いてサハリン経由で大陸に渡り、そこから西を目指した。長春から北京を避けてバスで西へ向かった。少なくとも五つの農村戸籍を買い、蘭州まで南下したあとトルファンを経由してカザフスタンへと入った。その後は共産圏の秘密警察でも舌を巻く速度で陸路を移動し、カスピ海の北側を経由してロシア南部のアストラハンを通過すると、ジョージアを経由してトルコへと入った。

最終的にモンマリはシリアへと到達し、かつて彼を救ったペシュメルガに合流した。末端の民警組織で深緑の警備服と赤い軍帽で身を飾り、TOYOTAのランドクルーザーを駆って地雷撤去を行ったのだ。

無給義勇兵の東洋人はスマートフォンの動画に収められた。無線から伝えられる頼りない緯度経度を頼りに、車で現場へ向かい、近しい場所に着くと地雷を探す。通常は情報を頼りに工兵が文字通りの先鋒パイオニアを務めるが、モンマリの流儀はそうではなかった。すでに発見された爆弾がある場合はまっすぐにそこへ向かい、ほとんど確認もせず信管を引き抜いた。埋められた爆弾の場合も無造作にスコップで掘り返し、ニッパーでコードを切って起爆装置を機能停止させた。モンマリは無力化した爆弾を地面に転がすことさえあった。まだ爆薬が詰まっている金属管が地面を転がる音を周囲の人間は肝を冷やして聞いたが、爆発することはなかった。通常は携帯電話による即席爆弾IEDの起爆を警戒して周囲に接近する者を警戒するのが常だが、モンマリはそれさえしなかった。近づこうとする者がいても無視した。建物や車に爆弾が仕掛けられていても、モンマリはまるでそこに起爆用の仕掛けがあることを予め知っていたかのように、コードや腕時計を発見した。アフガニスタンからイラクへと引き継がれてきたテロリストたちの伝統工芸は、モンマリの前でレゴブロックさながらバラバラにされた。

その特異な爆弾処理のスタイルは、それまで人々が知っていたやり方とは雑さにおいて際立っていた。一九八〇年代にIRAを題材に多くのコミックを残した漫画家は、「あんなやり方でよかったんだ」と投げやりなコメントを残している。

最激戦区パルミラの住民はその雑さを勇猛と捉え、モンマリの勇姿を動画に収めた。インタビューに答えるモンマリはイラク訛りのアラビア語で端的にその方針を説明した。とっととバラバラにする——その言葉の遊牧民的な簡潔さはパルミラの人々を十分に説得した。モンマリが爆弾処理に向かえば人々は納得したし、邪魔をすることもなかった。即刻避難すること。携帯電話を近くで取り出さないこと。話しかけないこと。爆弾処理において多くの工兵が惑わされる障壁が自然とモンマリから排除されるようになった。モンマリが爆弾の信管を抜いて投げ捨てたあと、所属の工兵隊が爆弾をトラックに積んで基地へと戻っていく。その処理の素早さは日に日に早まっていき、いつしかトラックが巻き起こした土煙が収まるよりも早く人々は日常を再開するようになった。携帯電話屋を営むサイドは自身が開発したジャミング装置について得意気にブログを残している。爆弾を遠隔起爆するための携帯電話の構造解析とその利用シーン、有効半径十メートルに渡ってシリアテルとMTNの端末に効力を発揮する発生装置ジャマー、そして起爆役に抜擢されて命を落とした父——それらについて二千語を費やしたのち、サイドはモンマリとのやりとりについてこうまとめている。

「あの人はジャマーを受け取った三日後、爆弾の上にポンと置いたんだ。それで、いつものように爆弾を解体するそぶりを見せた。ところが五分経っても終わらない。集まってる奴らはざわめき始める。おいおい、大丈夫なのか? そのうち、様子を見るようなそぶりをすると、すぐに走り出した。白いシャツを着た男の肩を掴むと爆弾の側まで連れて行った。男は狼狽していたよ。でもあの人の力はすごくてね。手首を見たことがあるかい? 筋張ってて細いんだけど、溝が深いんだ。肩の肉を削り取られるとでも思ったんだろう、諦めた白シャツの男は携帯を取り出した。手はものすごく震えていたね。数えちゃいないが、少なくとも三回は落としていたよ。ついにあの人は白シャツの耳元で何か囁いた。聞こえなかったけどね。鳴らせよ、とかそんなことだと思う。白シャツは携帯の番号を押したよ。何も起きなかった。着信音が十回ぐらい鳴た頃だろうな、みんな笑い出したよ。なんたってグレンダイザーの主題歌だったんだからな。飛べ飛べ、グレンダイザーってさ」

サイドが開発した装置はIEDによる被害者を激減させるかもしれない。興味を持ったBBCのクルーがドキュメンタリー班を組んだ。イギリス・トルコ・シリアの三ヶ国合作ドキュメンタリーになるはずだったその映画は、動画の容量が1テラバイトを超えたあたりから次第にモンマリを注視するようになった。集音マイクを持った音響スタッフもモンマリが爆弾を地面に投げる時のズゴンという不穏な音をなるべく大きく録りたがり、近づきすぎて画面に収まってしまうことさえあった。その映像は、本来のタイトル「砂漠のジャマー」とはかけ離れた”Messing Up”という題で公開された。ベルリンでの封切りから一年半後、日本でも公開された。死ぬほどダサいポスターを作ってSNSの話題を独占した配給会社は、なによりもその邦題において際立っていた。「人生を台無しにするちらかしの魔法」——それがポスターの真ん中にでかでかと印刷され、背景はニッパーを持って爆弾のそばに佇みながらこちらを眺めているモンマリだった。

日本での興行成績はおよそ一二〇〇万円だった。振るわなかった、といっていいだろう。しかし、「人生を台無しにするちらかしの魔法」はロバート&フランシス・フラハティ賞を受賞した。この受賞によりヨーロッパに逆輸入される形となり、興行成績は二億四〇〇〇万と二十倍になった。この小さな成功は十分な火種となった。モンマリがどうやら日本の映画スターらしいという解釈がシリアの人々に広まり、モンマリの動画をSNSにアップするようになった。日本語へと自動翻訳したであろう不安げなタイトルがつけられた動画がオススメリストに中に並ぶようになった。中でも最も成功したのは、「モンマリはスプラトゥーン2ビデオを再生す」である。十年も前に流行っていたゲームを砂漠のど真ん中でプレイしながら、「黒洗濯機」ことスクリュースラッシャーベッチューで塗り続けるモンマリの勇姿は少なくない日本人の心を揺さぶった。とりわけ、1でも3でもなくバージョン2が始めてプレイするゲームだった世代が強く反応した。人は誰しも、初めて恋に落ちた相手のことは忘れない。やがてゴールデンタイムのバラエティ番組でさえモンマリの実況動画を取り上げるようになった。砂漠で爆弾処理をしながらゲームをする飛行機事故の生き残りの青年。各メディアの取り上げ方は次第に大袈裟なものになっていき、最高潮の象徴たるインターネット・ミームは、映画『ハート・ロッカー』で主演を務めた米国人俳優ジェレミー・レナーがツイッターに投稿したスプラトゥーン2の実況動画だった。イラク戦争下のバグダッドにおいて命知らずの爆弾処理班を描いた映画の主演男優がセルフパロディをするかのようにゲーム実況に興じる姿は、そのプレイの質の低さとともに、ワールドワイドウェブに哄笑を引き起こした。

レナーの動画が拡散しバズったことで、多くの救援物資が届けられた。そのほとんどはモンマリのいる前線に届くより前にしかるべき場所で消費され、NINTENDOの端末とソフトはシリアの子供たちに配られた。わざわざ会いに来ようとする目立ちたがり屋も何人かいたが、誰一人モンマリの元には辿り着けなかった。その頃のモンマリはすでに複数存在する敵対勢力によって監視対象となっており、おいそれと居場所を知ることはできなかったのである。もっとも行動力のあった日本人青年は、すでにアル・マヤディンに移っていたモンマリを追ってダイルアッザウルまで迫る勘の良さを見せたが、乗合バスを降りてすぐに統一シリア戦線に誘拐され、莫大な身代金と取り消すことのできない恥辱によって御厨みくりやかけるという大層な名を世界に晒すことになった。しかし、その名はおそらくモンマリの耳に入ることはなかっただろう、モンマリがその生涯において同胞に興味を示すことはほとんどなかったから。

問題は、情報戦においてモンマリがスプラトゥーン2を好むという属性が知られてしまったことだった。無邪気にアップロードされた数々の動画は、モンマリの敵にシンプルなヒントを与えた。モンマリはNINTENDOの前で子供になる——それだけで十分だった。七つを超える敵対勢力たちにとって、モンマリはただひたすら謎であった。ISILもターリバーンもこれまで数々の爆弾処理班を粉々にしてきた。過激派たちにとって何一つ通じないモンマリはつけいる隙のない脅威だった。携帯でIEDを爆破するために市井人を装っても、腹に爆弾を巻きつけて近づいても、モンマリを殺すことは叶わなかった。敵たちを何よりも戸惑わせたのは、捉えどころのなさである。モンマリは所在地や作戦パターンを隠す技術があったため、待ち伏せや対策の取りようがなかった。それがどうだ、いまは少なくともわかっていることがある。モンマリはスプラトゥーン2が好きなのだ!

あとから振り返る形で調査してみても、この時点ではモンマリがスプラトゥーン2以外に特定の趣味嗜好を持っていたかどうか、わからなかった。なに一つ好きではなかったといってもいいほどだった。彼の両親である門地条と門地留美がどうなったのかについても、ウズベキスタンでの偽装生活以降は白紙だ。まだ生きているのかもしれないが、門地夫妻は少なくともどこかに散逸してしまっている。「酷薄」とモンマリの性質を断ずることもできるかもしれないが、そのための判断材料がほとんど残っていない。少なくとも、ウズベキスタンに流れ着くまでは家族として時間を共にしていたわけなのだが……とにかく、養父母に対してさえ心の底でどう思っていたのかがよくわからないモンマリが好きなものは、誰も知らなかったわけだ。それがスプラトゥーン2の実況動画に関しては明らかに楽しそうにしている。動画というメディアの解像度が彼の感情を生き生きと描き出していた。

抜け目ない敵対勢力は砂漠をかけるラクダの軍勢さながら、スプラトゥーン2大会を次々に開催した。西アジアに流通する中古のNINTENDO端末はすべて買い占められた。そのほとんどにモンマリは参加しなかったが、大会の形式を取る以上、警察や軍の管理下に入らざるを得ない。反政府勢力の多くはそうした状況下で爆弾を持ち込めるほどの練度を誇らなかった。実際のところ、何年も前のゲームをスポンサーなしで開くことのバカバカしさにめげようとしないテロリスト達の根気には驚嘆すべき点があった。そもそも、モンマリの活動は軍事行動としてはそれほど意味のあるものではなかった。爆弾を撤去し、被害を未然に防いではいるが、ゴミ箱や路石や車のボンネットで人を肉塊に変えるために息を潜めている爆弾の絶対量に対して、個人のできることなどたかが知れている。戦略的な局面からは、モンマリに固執しなければならない勢力は存在しないはずだった。しかし、登山者が別々のルートでついには頂上に至るように、いくつかの反政府勢力やテロリストがモンマリを排除しなければならないという結論に至っていた。モンマリの不確実性は敵対勢力、特にシリア東部に展開する自由アル=シャーム戦線をひどく苛立たせた。

我々の手元に残っている最後の動画実況は、郊外の住宅で行われた。収録はスマートフォンのカメラを用い、これまでモンマリが投稿してきた定点録画とは異なり、手ブレの激しい、後方からの画面だった。モンマリの横にはローティーンの少年が五人座り、代わる代わるモンマリに勝負を挑んだ。爆弾処理のスペシャリストは一切の慈悲を与えることなく、黒洗濯機で敵陣地を塗り尽くしていった。少年達の中で一番の手練れは、モンマリ同様黒洗濯機で武装したいわゆる模倣者エピゴーネンだった。腕前はかなりのもので、潜ってばかりいるモンマリが出てきた瞬間にヒットさせることも何度かあった。とはいえ、藍より出でて藍より青し、とまではいかなかった。かなり追い詰めたと見せて、遠くから狙撃するのがスプラトゥーンにおけるモンマリのやり方である。時間切れの直前、モンマリが狙撃によって敵プレイヤーを自陣まで押し込むと、一気に領地を塗り尽くした。少年たち、そして撮影者の落胆の声が上がった。それに轟音が続いた。

IEDを結びつけたドローンのカミカゼアタックによって、大会に参加していたモンマリ、模倣者の少年、ギャラリーの少年たち、撮影者の少年とその両親、全員が死亡した。とりわけ、大会会場である二階の被害は大きく、モンマリと少年達の身体はバラバラに吹き飛んだので、大掛かりなパーツ以外は、どれがどれだかわからなくなっていた。身体の一部は外にまで吹き飛んでおり、撮影者の右手とセットで外に吹き飛んだかつてスマートフォンだったものは回収されたが、モンマリの前頭部の一部は回収されなかった。遺体回収に協力したある老婆は「モンマリの前頭部の右半分が砂漠の上に落ちていた」と主張した。頭部と呼ぶにはあまりに薄い、鞄の部品にでもできそうなぐらいの頭皮と眼部周辺が落ちていたという。そこにはどのような奇跡か、まだ眼球がくっついていて、ユーフラテス川の空の青を映し出していた。老婆の助言に従い、ペシュメルガ部隊は捜索に当たったが、最後にモンマリが見たであろう光景を焼き付けた眼球は見つからなかった。

動画はモンマリと親しかった有志によって、まったく別のアカウントから公開された。”Monmari’s Last Game”——モンマリ最後の試合。動画の説明文には短い言葉が添えられた。「我々と共に戦った有志の最期の表情を残す」それだけだ。はたしてその表情がどんなものかというと、黒洗濯機、つまりスクリュースラッシャーベッチューで子供達をボコボコにするいつもの表情だった。そもそも表情はほとんど収められておらず、TOSHIBA製のテレビとコントローラーを操る異常な指さばきを交互に映す過程でプレイヤー達の顔が画面に映り込む程度だった。その記録の粗さから、モンマリがもしかしたら笑っていたかもしれないと期待することはできなくはないが、これまでのプレイ実況動画を見ていた聴衆は誰もそんなことを思わなかっただろう。

モンマリの葬儀はパルミラで行われた。出身地の風習が尊重され、火葬が選ばれた。敬虔なムスリムにとっては遺体を灰に変えてしまうことは復活の妨げとなる禁忌だったろうが、それでも火葬を選んだということは、復活を果たした世界にモンマリが存在するべきかどうか、よくわからなかったのだろう。まったき異教の神は、ここではないどこかへ、というわけだ。荼毘に付されるあいだに幾つかの賞賛歌マディーフが詠まれたと伝わっているが、そのいずれも残っていない。砂漠気候のパキッと乾いた青い空に立ち上るガソリンの黒い煙とともに消えてしまったのだという。

モンマリの死を知った日本人たちの感想はかなり複雑だった。その死を悲しむ者、嘲弄する者、無視する者……。統計でも取ったのならば、多くの英雄の死がそうであるように、モンマリの死は惨めなものと受け取られただろう。特筆すべきはモンマリの死を信じない者の多さだった。モンマリの遺体は全部ではなかったが集められ、火葬ののち日本へ移送され、有志による葬儀が執り行われた。たしかに、だ。しかし、門地家は長いあいだ日本政府にその動向を知られることなく、偽造パスポートで出国したことさえあったのだから、「復活派」の人々にとって政府発表やそれを伝えるマスコミ報道は一笑に付すべき戯言だった。モンマリの両親を見つければ、きっとそこにモンマリについてのなにかがわかるはずだ。復活派はそう考えた。中には、両親ならばもう一度モンマリを産むことができるのでは、という信仰にも似た狂気を主張をする過激派さえいた。そもそも門地夫妻はモンマリの養父母であるにもかかわらず。

有り体に言えば、モンマリのような日本人はこれまでもいた。風船で太平洋を横断しようとしたり、中東や南米に義勇兵として参加したり、まだ飛行機もない時代にシベリアを犬ぞりで横断したり、アフリカで春をひさいだり。本当に多くの人びとが同時代人が思いもよらないことをしてきた。それでもモンマリが際立っていたのは、生存説を唱える人々——復活派——の多さによる。インターネット上で放射やヴィーガン、反ワクチンなどと同一視されていた復活派は、ある著名人がモンマリの生存可能性について言及したことで急遽具体的な行動に出るようになった。若い頃はリバタリアンの旗手と目されたのち、子供の死産を契機に空想社会主義へと大きく舵を切った新井理子という社会学者がその煽動者であり、彼女はモンマリの両親の足跡をもとめてサマルカンドを訪れ、門地家が名乗ったフェイ家の従業員だったという老婆にインタビューを行った。老婆によれば、モンマリがシリアで「発見」される二年前、飛家はロシア警察を名乗る男たちによって連行されていったという。この情報はモンマリがロシア軍と決定的な対立にあり、シリアで親露派と目される勢力のIEDを解体し続けた事実とたまたま合致した。モンマリは敵の目を欺くために死んだフリをしており、両親を取り返す機会を狙っているのだ! 実際のところ門地夫妻はサマルカンドでの交通事故で早々に亡くなっていたのだが、それも今になって明らかになっている事実というだけの話だ。当時は少なくない人々にとって、モンマリの両親はロシア警察によって拉致されており、復讐のため一時的に身を隠しているにすぎないという影武者物語が説得力を持った。

シリアやトルコ、イランへと小さな観光需要を起こしていた復活派だが、二年ほどでその舞台を極東に移すこととなる。影武者物語の補強は新疆ウイグル自治区から中国北東部、樺太、そして北方領土へと東に移った。そもそも中東へ行くことが難しかったという即物的な事情が大いに関連していた。少なくとも地続きならパスポートは不要だし、格安航空券を検索する必要もない。

北方領土への関心を高めていた活動分子は復活派だけではなかった。折しも日露関係が緊迫していた時期であり、九・一六はまさにそんな偶然が引き起こした事件である。その日はロシア新興財閥オリガルヒの経営するクナシル島のホテルに「黒い森の騎士」ことロシア外相ミハイル・ジェルジンスキーが宿泊する手はずになっていた。大量のゴムボードに乗った復活派は国境を越えてホテル・ノヴォルシビスクへ向かった。それは単に、KGBの流れをくむロシア対外情報庁と深いパイプを持つジェルジンスキーに対して門地夫妻解放の陳情を行うためだった。突然日本人が訪れたことに戸惑った護衛部隊はすぐさま門前払いしたものの、深夜になってから日本人たちがホテルの外壁を登り始めたことで戸惑いを冷たい排除の決意へと変えた。胸元のホルスターに下げたサイレンサー付きウダフを煉瓦仕上げの外壁に向けて囁かせた護衛部隊は、物言わぬ復活派の遺体をイズメナ海峡に流した。標津町にある「しべつ海の公園」に漂着した二つの遺体は北海道警によって検分され、戦闘行為によって死亡したと判断された。外務省よりも先にその報を得た維新党根室支部は私設部隊によって戦闘行為を開始、一週間後にはユジノクリリスクを陥落、市庁舎に旭日旗を立てた。極右の民間人からなる私兵部隊によるはじめての戦闘行為の代償は大きく、その犠牲者は二百四十人に及んだ。

多数の犠牲者を自国領土で出したという引くに引けない事情から第二次日露戦争がその火蓋を切った。ロシアは太平洋進出の野心を隠さない中国との間で期限切れになった中露善隣友好協力条約を急遽再締結、日本は中露との二正面作戦を余儀なくされた。圧倒的な不利に陥っていた日本は、ヴィジャヤナル日印同盟の締結によって日米安全保障凍結を解除、汎アジア戦争、事実上の第三次世界大戦が開戦となった。あとは歴史の知るところである。

汎アジア戦争の戦後処理について詳しい歴史学者カニエ・イトウは、米中露の複雑なパワーバランスによって日本の領地が決定的に無意味な割譲をされたことを指摘している。まず、関東、関西、東北などのすべての第一行政区は解体され、それぞれの国の自治区がまだら状に成立した。その結果、山梨県から東京都に、あるいは滋賀県から大阪に出勤する日本人はビザを二種類持つ必要があった。近代国家がこれほどしっちゃかめっちゃかにされたことはなかった、それも戦争それ自体ではなく、戦後処理という文化的な手段によって。イトウは次のようにまとめている。

——それにしても、東南アジアの飛行機事故の瓦礫から発見された少年が、巡り巡って最終的に日本という国を徹底的に取り返しがつかないほどバラバラにしたのは、驚くべきことである。そこに歴史的教訓を見出すことは不可能だ。偶然とはまた少し違う。そこに見出されるのは意志の不在だ。ユーゴスラヴィア建国の雄J・B・ティトーの例を引くまでもなく、通常は歴史を動かすような大きな出来事は——様々な偶然ももちろんあるが——強烈な意志が必ず伴う。精緻な計画、崇高な目標、人々を惹きつける魅力、そうしたものは究極的にはあってもなくてもいいのである。あるにこしたことはないが、どれも必須ではない。しかし、必ずなにかをするのだという強烈な意志は必要だ。なくてはならない。ところがどうだ、モンマリの場合はなんの意志もない。すべて場当たり的に行動している。そもそも日本を出たことにもさしたる意味はなかった、そのまま日本でコソコソ生きていたってよかったのに! 彼が飛行機事故で生き残ったことにまったく意味がなかったように、彼の人生にも意味がない。偶然性への挑戦という、ある種芸術的な視点から彼の美学をとらえなおそうとする見方も存在するが、それは無理筋だろう。モンマリにはなんらの意志もなかった、それだけが現時点で——そしてこれからも——もっとも可能性の高い推論である。なんらかの意志を持った主体が自らを翻弄する運命を縒りあわせるようにして一つの帰結へと向かっていく、たとえその帰結が偉大であれ悲惨であれ……そうした収斂こそが人生の軌跡だ。モンマリの驚くべき点は、まったくのめちゃくちゃ、ただ単になにかをたまたまめちゃくちゃにするという人生を送り続けたことだけでなく、その帰結として自らの命はおろか、国家さえもバラバラにしてみせたことである。もちろん、それが目的ではなかったろう。いい時もあれば、悪い時もあった。市井の人や、英雄や、悪人や、象徴的存在として様々な役割を場当たり的に引き受けた。その無目的な生き様を総括する言葉をまだ人類は持っていない。日本というかつて東アジアにそれなりの存在感を発揮した国家を解体せしめた象徴的人物の名を取り、フランスの哲学者ディック・マハムは「なにかを台無しにする」ことを”monmalizerモンマリする“という端的な動詞で表現した。モンマリの人物史から引き出せる教訓があるとしたら、それは私たちが多大な時間を費やしてきた日本消滅の研究そのものである。なにに役立つのかわからないがとりあえず取っておこう——ただそれだけである。

いま、世界は混迷を極めている。これはすなわち、モンマリの魔法がまだ解けていない証拠だと私は考える。イトウと私の意見は異なる。魔法が解けていないことは必ずしも悪いことではない。山大理シャンダーリ。モンマリが絨毯商を営んでいる最中に従業員に伝えていた社是である。山に大きな理あり。なにかわからないが大量にあるモノには理由がある。私たちはこの苦境を糧としなければならない。まだ終わってはいないのだ。幸い、若い人たちはこの概念について興味を示し始めている。その証拠に、カリフォルニアの青年たちはShandahriシャンダーリをとてもうまく発音する。おそらく、感覚的に気づいているのだ。収縮する喜びシュリンキング・ジョイによって、いつか世界がこの多様性ゆえにいい感じになるだろう、ということを。

2019年11月21日公開

© 2019 高橋文樹

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