平家の女とテキストの質

メタメタな時代の曖昧な私の文学(第19話)

高橋文樹

エセー

6,514文字

「テキストの質」について語るとき、私たちはそれがなにを示しているのかについてあまり自覚していない。平家の女についての説明がそれを明らかにしてくれるだろう。

私の通っていた中学校に通う生徒は、その地域にある3つの小学校の出身だった。その中の一つは畑小学校と言った。もちろんはたという町にある小学校だからで、その名前から期待される通り、実際に田舎染みた町並みだった。蔵のある家や住宅街の中にあるだだっ広い畑、宮家がわざわざ訪れる神社など、これぞ田舎だと納得させられる風景が広がっていた。私のように戦後の新興住宅街に移り住んできた世帯の子供にとって、畑町の友人たちは少し田舎じみて見えた。

もう2つの小学校はそれぞれ花園小学校と検見川小学校という。花園町はいかにも新たにこさえた地名という感じだ。私の生まれた町は花園小学校の学区にある朝日ケ丘で、サザヱさんの舞台と同じ名前の虚構的な町だ。検見川は北大路魯山人がわざわざ「検見川の貝」と呼ぶような古くからある漁師町だが、その由来はもっと古い。その近くには花見川という川が流れているのだが、もともとは川の名前をとって花見川と呼ばれており、古くは華見川と書かれた。しかし、日蓮上人が巻き起こした法華経ブームの折、気取った僧侶が華見川はなみがわを気取って華見川けみがわと読んだらしい。畑という地名も元々は旗と書き、源頼朝が平氏打倒の旗揚げをした土地だからだそうである。そういう意味で、私は古い歴史を持つ2つの町の間にある新造の虚構で生まれたわけだ。

田舎町というのは苛烈な格差社会だ。畑町には広大な土地と蔵を持つ大地主もいたが、彼らの持つ小さい借家に住む根無し草デラシネのような人々もいた。借家といっても、平家が軒を連ねているだけで、屋根はトタン、一様に茶色く塗られた壁際にはプロパンガスが鎖で止められており、ひどいところは水色の風車が付いた煙突が突き出ていた。そう、まだ下水道が普及していない地域でボットン便所の匂いを逃してくれる臭突である。私が中学一年生のときに仲良くしていたSという友人はまさにそのデラシネの息子であり、悪い遊びをよく教えてくれた。彼は私と長い時間一緒にいたがったし、私も同じだった。それはおそらく、彼に父親がいなかったからだろう。私は彼と一緒にすごす時間を惜しむあまり、下校のさいに遠回りをして畑町を通って帰っていたほど仲が良かった。

Sは私よりはるかに小柄だったが、髪を脱色し、改造した制服——ドカンというやつだ——を着て、かかとの潰れたHARUTAのローファーを引きずっていた。ようするに私よりも大人びていた。そんな彼が教えてくれた遊びの一つに覗きがあった。彼の家にほど近く、そして彼の家に酷似した貧乏くさい平家、そこに若い女が住んでいて、ちょうど私たちが下校する時間にカーテンを開けっぱなしで着替えているのだ。

はじめはその部屋が見えるギリギリの角度まで移動して、ひゃっと逃げる程度だった。だが、Sは大胆だった。彼はいつも私より先を行った。

「あれさ、たぶん見せてるんだよ」

Sの言葉に私は驚いた。そんなことをする若い女がいるとは思わなかったのだ。2歳離れた私の姉は当時中3だったのだが、学校の廊下ですれ違ったとき、ちょうどブルマ姿で、ついついその姿を凝視したところ、「は、何見てんのよ?」と凄んでいた。姉が風呂に入っているときに私が脱衣所を使ったりすると、母に「文樹、わざとやってない?」と相談したりするのだ。わざわざ着替えをするところを覗かせる女がこの世に存在するということがあるわけはなかった。たぶん見せてるんだよ。Sの言葉は私の心に深く刻まれた。私は毎日Sと帰っていたが、毎日覗いていたわけではない。たまに——そう、3日に一度ぐらい——Sが「いく?」と聞くのだ。私はいつも「おう」と答えた。声は少し上ずっていただろうが。

そんなある日、Sは一緒に帰れないことになった。彼はバスケ部に所属していたが、ずっと幽霊部員だった。数日前、ついに退部届けを出したところ、上級生にシメられることになった。私は柔道をやっていたので、一緒にいってもいいと提案したのだが、彼は断った。

「俺の問題だから」

彼の言葉を聞いて、私は「あっそ」と答えた。そう、彼の問題なのだ。ならば仕方がない。私は家路を急いだ。そして、いつもとは違う、小学校のときに通いなれていたが最近めっきり通ることがなくなっていた道に差しかかった頃、ふと思い立った。いま、一人で平家の女を覗きに行くのはどうだろうか。私はそのアイデアに夢中になった。そのまま道を曲がらず、まっすぐ畑町を目指した。

平家は6軒ほどがまとまって石塀の中に並んでいた。石塀の角で待っていると、やはり女が着替え出した。仕事帰りなのかどうかはわからないが、いつも白いブラウスと紺か灰色のタイトスカートを履いていたので、私は彼女が銀行員だと踏んでいた。銀行は3時でしまる。だから、彼女はこんな時間に帰っているのだ、そう納得していた。彼女は着替えるとき、ルーチンを辿る。ブラウスを脱ぎ、それを壁のハンガーにかける。クリーニング屋でもらえる青い鉄製のハンガーだ。そして、タイトスカートを落とすと、それを足の親指と人差指でつまんで、後ろに蹴り上げて掴む。その後、スカートをパンパンと叩いて椅子にかける。続いて、パンストを両手でしごきながら脱ぐ。そして、ズロース姿になると、床にまるめてあるパジャマを拾い、それを着る。それで私達の覗きは終わるはずだった。だが、私の覗きは終わらなかった。

女はズロースをたくし上げ、下着だけの姿になった。ズロース。あなたはこの言葉を知っているだろうか。少なくとも、私が中学1年生だった頃、ほとんどすべての女がズロースを着ていた。その鎧を女は剥ぎ取ったのだ。そして、ズロースをぽいっと窓ガラスへ——つまり、私の方へ——投げた。ガラスにぶつかった白いズロースが床に落ちた刹那、女は私を見ていた。私と彼女はそのときはじめて目が遭った。

私は逃げ出そうとした瞬間に、足を止めた。女の叫び声を聞いたからだ。いや、正確には女の叫び声が想定と違ったからだ。女は「待って!」と言った。キャーでもギャーでもウォッでもなく、待って、と。私は止まろうとし、すぐ横にあったブロック塀を掴んだ。だが、指がするっと外れてしまい、転んだ。柔道をやっていたので、特に怪我はなかったのだが、指先がブロック塀の突起に引っかかって裂けていた。私は仰向けのまま自分の指に滲む血を眺めながら、その向こうで「大丈夫」とにやけている下着姿の女を仰ぎ見ていた。初秋の突き抜ける空が彼女の向こう側で青んでいた。

女は私を家に招いた。私の指にはオキシドールが塗られ、絆創膏が巻かれた。私は終始うつむきながら、おそらくこのあと警察に引き渡されるであろう瞬間への覚悟を決めつつあった。母は泣くだろう。姉は軽蔑するだろう。そういうことを私はした。だが、女のいった言葉は私の虚をついた。

「暑いね。なんか飲む?」

私は頷いた。女は台所へ行き、製氷皿を捻ったらしかった。プラスチックの氷受けに氷塊がガタガタとぶつかる音がした。やがて、女はコップを2つ持ってきた。女がそのコップを机に置くと、氷がガラスにぶつかるカランという音が響いた。私は俯いたまま、そのグラスに口をつけた。麦茶を飲めば落ち着くと思ったのだ。

「狡くない?」

女は言った。花柄のビニールシートをひいた卓袱台に頬杖をついて、微笑んでいた。その口角は右に少しつり上がっていた。

「ずっと覗いてたでしょ。狡くない?」

私はほとんど頭を垂れて「はい」と答えた。確かに覗きは卑怯な行為だった。それについて私にはなんの正義もなかった。せめてSがいてくれたら。だが、私はSに頼るべきではなかった。私は彼を見捨てたのだから。私は卑怯な人間だった。

「君のも見せてよ」

女が言った。私は、はいと頷きシャツのボタンに手を掛けた。

 

 

ところで、話は変わるのだが、テキストの質とはなんだろう。あなたは私が書いた平家の女についてのテキストを読んで、どう思っただろうか。このテキストの質は高かっただろうか。それとも、低かっただろうか。そのような評価を下した理由はなんだろうか。平家の女との思い出話をしていた私に突然テキストの質を尋ねられて、狼狽しているのだろうか。

編集文献学という耳慣れない学問に従事するピーター・シリンズバーグはその画期的な著書『グーテンベルクからグーグルへ』において、このように告白している。

「テキストの質」という表現はいささか曖昧である。これは、作品の質について、つまり、内容やスタイルの長所について、述べているようにも取れるからだ。先に示唆したように、グーテンベルクが自分の発明の最初の実演材料として聖書を選択したことは優れた着眼点だったといえる。なぜなら、自分の新たな生産手段を、社会的かつ商業的に重要な価値を持つ本と同じ地位に置くことができたからだ。周到な生産過程において、聖書の質にふさわしいだけの超一流の品質の書物を作り出したという事実が、グーテンベルクが世紀を超えて力強い伝説となった一因ではないだろうか。だが、忘れてはならないことが一つある。アリストテレスやゲーテやセルバンテスやシェイクスピアといった著作家たちの研究者が、自分がなぜ彼らのテキストに興味を抱いたのかを説明する必要を感じない、それどころかこれらの著作家のファースト・ネームを述べようとすらしないのに対して、マニリウス、ポール・ド・コック、トマス・ラブ・ピーコック、ウィリアム・ギルモア・シムズらの著作の研究者たちは、自分が抱える高度に専門的な問題点を論じる以前に、そもそも彼らが誰なのか、そして彼らの著作に関心を抱く理由は何なのかを説明しなければならない、ということだ。

前掲書 p.30

この指摘はいささか赤裸々にすぎるとも言えるだろう。そう、こうした文学的態度はかなり珍しい。というより、ほとんど理解されない。それは又吉直樹『火花』を読み、「しょせん芸人の書いた小説だが、文学の復興には一役買っただろう」と嘯いている出版関係者に比べて一億倍実直な態度である。あなたがまっとうな文学者であれば、私のこの意見に同意するはずだ——すべての出版社が潰れても、文学はなくならい。

この一節に共感を覚える私やあなたのような書き手にとって、「テキストの質」とは、テキスト自体の質であり、そのテキストに出会った読者がそれまでに積み重ねた文脈コンテクストや、そのテキストを書いたのが誰であるか、そのテキストがなんというタイトルを冠されているか、それどころか、そこに書かれている内容が何か、といった問題とは関係がないはずなのだ。

内容と関係ない、という私の主張は奇異に感じるだろうか。私がいいたいことはこういうことだ。

私のブログではバズった記事が二、三あるのだが、その中の一つにマラチオン入りピザ食べた感想というものがある。マルハニチロの冷凍食品混入事件において被害者となった私がそのときの経緯を綴ったのである。この記事に対する反応ははてなブックマークなどでよく確認できるのだが、「文章のうまさ」について述べているコメントが幾つかある。

  • すらっと読める文体、どこか客観的な視点、と思ったら文筆家の文章でした。
  • この方、文章力ありますね。なるほどと感じさせてくれた。
  • 主観が入っていても読みやすくて文筆業の人の文章って読みやすいなって思いました(小並感)
  • 締めの言葉がやたらとカッコイイと思ったら、小説家の方のようです。さすが、他の記事も読んでみたくなる内容と構成。
  • すごく冷静で淡々としてて読みやすかった。
  • 完結で明瞭な分かりやすい文章を久し振りにWeb上で読んだ気がする。しかし、一口食べただけで分かるほど混入されてたのか。
  • 当事者とは思えないほど冷静で過不足ない文章/しかしフォント細すぎでは
  • 異常に達観した文章だ。はてな民なら1000行の不平不満をまとまりなくだらだらと続けた上で何も伝わらないだろう
  • 内容よりも文章が綺麗なのに感動しつつ内容にも関心。はてブ経由で伝わりやすい良い文章をはじめて読んだ気がした。
  • >というわけで、農薬入りのピザからは高度資本主義社会の暗い闇の味がした、ということで終わり。←筆者の妻(妊娠中)も口にした(飲んではない)のに、この一文でシメれる冷静さは凄い。
  • 文書力いい
  • 締めの文句が上手い。ガチガチな取り締まりをしても別な形でこの手の事案は増えるだろうね。”地雷を踏んだらさようなら”だなぁ。

こうしたコメントを寄せられ、若干鼻が高くもなるのだが、この中の幾つかは「テキストの質」についての言及ではない。たとえば、「過不足ない文章」という評価について。これは一見「テキストの質」について語っているようだが、そうではない。そもそも、「テキストの過不足」とはなんだろうか。書かれるべきものがあり、そのもっとも純粋な形式があるかのようだ。私は散々文章を書いてきたのだが、そんな状態があるようには思えない。円周率がいつか有理数になるような、馬鹿げた夢想にも思える。

とはいえ、この人が「テキストの過不足」について語る事それ自体が馬鹿げているとまでは思わない。そうしたことをテキストが目指すべきだからだ。なにかを愛する人にとって、その純粋な形式を見る事は心休まる体験だ。たとえば、インターネットにおいてガチャガチャとした主張を目にするよりも、ただ単にその事象について述べられているミニマルなテキストを読む方がずっといい。その純粋な感動は、音楽や絵画や映像やスポーツに抱くものとなんら変わりない。

結局のところ、私が書いたブログ記事に好感を抱いた人は、私の他人を責めない態度に好感を抱いたのだろう。おそらく、こういった事件の被害者は色々と喚き立てるはずだ。それが普通の人間だ。だが、私はたまたまそうしなかった。健康ということに関して多大な自信を持ち、少なくとも嫁が農薬入りピザを飲み込んでいない時点で「大丈夫だろう」と思うほどに図太い人間だったから、そうしなかった。それだけの話だ。「テキストの質」とは関係がない。

実際のところ、私はこのテキストを綴るにあたって、ブログ記事を読みなおしてみた。すると、やはり直したい部分が見つかった。「という」があまりにも繰り返されている。そういう意味で、このテキストは質が低いわけだ。

 

 

さて、話を戻そう。平屋の女についてだ。この文章の「テキストの質」はどうだっただろうか。高かっただろうか。低かっただろうか。私が赤裸々に過去の体験を語ったことについてあなたは好感を抱いただろうか。それとも、続きを——中学生の私がはるかに年上の女に脱げと命令された後どうなったかを——知りたいと思っただろうか。もしくは「このテキストは嘘だ!」と思っただろうか。

それでは、種明かしの時間だ。

  • 私はこのとき童貞を失っていない。私が童貞を失うのは、この四年後、17歳セブンティーンの冬だ。
  • そもそも平屋の女は存在しない。私が中学生のとき、一度だけそういう光景を目の当たりにしただけだ。
  • この記事のタイトルが『平家の女とテキストの質』であることは書き損じではない。冒頭にあった源頼朝の下りから、あなたがおそらく違和感を感じないだろう、もしかしたら歴史的に価値があるテキストであると勘違いするのではないか、と思ってしかけた悪戯だ。事実、その後は「平屋」と書いている。
  • Sはバスケ部の先輩にシメられていない。ただし、同級生には殴られていた。

どうだろう。種明かしをされたあと、あなたは私が書いたテキストについて違った印象を抱いただろうか。もしそうなら、それはなぜだろうか。

私は疲れた。もう眠ろう。一眠りすればまた明日、テキストについて考える元気も湧いてくるだろう。もうあまり語りたくないのだ。ジョルジュ・バタイユは言っている。精髄の部分は告白するに耐えない、と。

2015年8月27日公開

作品集『メタメタな時代の曖昧な私の文学』第19話 (全21話)

© 2015 高橋文樹

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