別れの後の静寂に、爺が煽ぐ火酒。出会いの数奇は神の気紛れ——と、落ち着かぬのも、理由有りで。若い頃、あんな可愛い娘と恋をしたかった、と、年甲斐も無く羨む気持ち。そして亦、孤独地獄で不良の孫を探す無聊。
手元に残る嬰児の写真——と、思った筈が、胸内袋は虚無の手触り。耄碌したかと省みて、否ゝ、矢張り、消えたぞ——と、脳髄を寒気が素と駆け上がる。其れなら——と、懐中探り、御神籤出せば、真ん中で破裂ゝと裂けて真っ二つ。あの娘、もしや真実に迷ったか。火酒を仰ぐ、胃の腑が焼ける。
怪談などじゃあるまいし——などと最初は頻りに否み続けるが、九十歳超えれば、そんな物かとしっくり馴染む。想い迷うも悪くない。其れだけ人を想った証拠。
老いの極みの感傷に耽っていると、其れを邪魔する男が一人。襟立襯衣に生真面目羽織る背広は、歌小屋で踊る為じゃなく、業界人の仕事着か。
「もしかして、自由振楽の新宿三ツ星に居た……済みません、名前を失念しちまいました」
伺う男の視線には、畏れ多さを装った、商機窺う光が燦然。素早く名刺を取り出して、颯と机に置いて見せ、此方の意見も聞かないで、暢ゝ先を進めていった。
「こんな時、お眼にかかれて光栄ですよ。あの店は若い頃、能く行きました」
どんな時だ——と、睥睨するよに名刺を見れば、高名な音畜盤会社の斡旋で、言われてみれば、年甲斐の無い金髪に、首から下げた携帯電話、其の風貌は業界風。
「貴方みたいな大手の人が、こんな中古に何の用だね」
「否、実は視て貰いたい新人が今夜生演奏に出るもので」
男の指に促され、扉の方に眼を遣れば、不釣合の二人が妙に気に成った。あれか——と、問えば、斡旋は愛想笑いで頷いて、此方ゝゝ——と、手招きをする。太った方が屈むのは多分御辞儀の算段だろうか。小さい方は自信無さげな顔で笑った。来るより前に暫くの間を置いたのは、腹を括った時間の所為か。小さい方が長椅子の横まで来て一礼。
「今晩は。珍しいすね。爺さんがこんな所に一人でなんて」
「其れは可愛い道連れがつい先刻まで居たんだが。たった今、廃棄れたよ」
「へえ、やる事かなり若いすね。俺が今まで見た中で、文句無しっす、最年長。女に夢中、世界記録級」
「左様かい、其りゃ亦、光栄だ。其れでお宅は……期待されてる新人か。どんな音楽演るんだい」
「其れはこれ見て、この恰好。何処を如何、割り引いたって、悪餓鬼流でしょう」
腕を開いて見せるのは、背伸びした子供の服装らしき物。蛇足ついた丁襯衣の胸、大きな文字で忌語と書いて、裾に襞つく藍染の、其の亦下に、巨い灰黄色の裏革靴。髪形は真ん中残しの猛者刈で。
「何の小僧か、理解不能だ。給仕でもすると言うのか」
「まさか。生演奏に出演るんすよ。後方の色眼鏡掛けた豚、其れに皿回の奴がも一人、準備で此処に居ないんすけど。全部合わせて三次元。御見知り置き、宜しく、且、確認しな」
「三次元……聞いた名だ。貴方等、今日の大取か。随分と余裕のようだ」
「其の所為で、取り零すのも多いけど」
空ゝと陽気な声で笑うにつれて、余ゝの大きな服が無邪気に揺れて。派手な髪とは裏腹に面然とした顔に在る眼は、笑い無くても変わらず細い、能面めいた一筆書きか。
「処で今日の大取が、こんな爺に何用だ」
「其れなんですよ」
斡旋は身を乗り出して饒舌に。聞いた話じゃ、今夜の大取三次元、近頃どうも伸び悩み、流行の振楽を街角芸能に導入れては試たが、振楽風に成った自信無く、耳の確かな人の意見を取り入れたいと、思っていたら、其処に偶ゝ、自由振楽から大御所が。
「この爺さんは偉いんですか」
斡旋が再度呆敲と一発叩く。痛え——と、呻く男を眺め、爺は明るく笑って云った。
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