私は死んでもいいねしない、その結果死ぬ

メタメタな時代の曖昧な私の文学(第18話)

高橋文樹

エセー

5,696文字

テキストを読むという行為は、ある意味で時間の投資である。私たちはこの投資効果を上げる仕組みを日常的に受け入れている。Amazonのレビューであり、Facebookのいいねである。それらの仕組みがシステムに組み込まれている状況で私たちはどう振る舞うべきだろうか。

私の父である高橋義夫は直木賞を受賞するまでに四回候補になっている。受賞したのは五回目なので、それなりに苦労人ではあるのだろう。なぜそれだけ苦労したかについて父は頑なに語っていないが、母によれば「お礼状を出さなかったから」だそうである。なぜそう思うのか? 井上ひさしのエッセーにそう書いてあったからだそうだ。私の母は小説家でもなんでもないので、ほとんど外野の意見に等しいと思っていたのだが、ある時それもあながち間違いではないのかもしれない、と思った。

2007年、たしか私が新潮新人賞を受賞した年のことだ。大江健三郎賞が開催され、その第一回の記念講演が講談社ゆかりの施設で執り行われた。私は大江健三郎を尊敬していたので参加した。講演会は受賞者である長嶋有と大江健三郎の両氏による対談という形式を取り、受賞理由などについての話題からスタートしたのだが、大江氏がぽろりと「長嶋さんから手紙を貰って」という話をした。長嶋氏が受賞者決定の前に送った手紙には、自身がどれだけ苦境にあるか、この賞をとって海外への足がかりをつかめればどれだけ助かるか、ということが書かれていたらしい。すわスキャンダルか、と私は一人色めいた。賞の発表前に候補者——といっても、体裁上すべての作家が対象ではあった——が、選考委員に対して内々で陳情するなどということが許されるはずがない。しかし、そう思ったのは私だけだったようで、対談はそのまま進んだ。一度、おそらく昔からの大江ファンだろう中高年の男性客が「くだらん!」と叫んでそのまま帰ってしまうという事件はあったが、それさえも大江氏は慣れているようだった。※ゲームクリエイターの米光一成氏から公開後にご指摘があったのだが、手紙は内定後に送られたようである。したがって、会場が騒がなかったのも当たり前だ。長嶋有氏にはあらぬ疑いをかけてしまったことをお詫びする。申し訳ございませんでした。なお、私は当時、受賞決定前に送ったと思い込んでいたので、以下は原文ママとする

帰り道、護国寺の駅へ向かいながら私は少し不安になった。当時、幻冬舎で一度デビューしてから新潮社で再デビューを果たすまでそれなりに苦労をしていた私(そして、その後も苦労することになる私)は、やっと掴んだこのチャンスをふいにしないために、自分の考えを変えるべきではないか、ということに思い悩んだのだ。私の母によれば、井上ひさしが語る文壇処世術の一つとして、「書評を受けたらお礼状を出す」というものがあった。そうすることによって、次の作品も褒めてもらえるし、たとえ否定的な書評だったとしても、一度付き合いができてしまえば否定的に書きづらくなるというわけだ。私はテキストを評価する空間がテキスト以外の部分で決定されるのは恥ずべきことだと思っていたが、先ほど見た講演会によれば、そうしたことは日常的に行われているのかもしれなかった。私は受賞時の選考委員にも、自分の作品を好意的に受け止めてくれた書評家に対しても、お礼状など出さなかった。

そういえば、と私は思い出した。幻冬舎で賞を取り、はじめての単行本が世に出た直後、幻冬舎の機関紙(という言い方が適当かわからないが)で書評の仕事を貰った。選考委員である唯川恵氏が幻冬舎から出す新刊についての書評だ。もちろん、駆け出しの作家である私に対して仕事を作ってくれたわけだ。その新刊は確かOLの話だったのだが、私の書評はあまり良くないものだった。その書評を読み、実際に手に取ろうと思った読者はいなかったろう。担当編集者も「まあ、いいんじゃないですか」といった反応だった。それも仕方がない。当時の私にとって重要なのは次の小説を出すことであって、それ以外の仕事はあまりやりたくなかったのだ。さらに正直にいえば、当時の私は22歳で、自らたのむところすこぶる厚い隴西ろうさい李徴りちょう状態だったのである。それでも、キャリアのある作家というのは立派なものだ。唯川氏から私にお礼のメールが届いた。「クソみたいな書評書きやがってこの三下」「ジャンル違いでなにも書けなくなるのかこのボケ」とか、そういうことは一切書いていない、純然たるお礼のメールが、年齢も作家としての格もはるかに下の私に対して届いたのだ。私がそれになんと返したかはあまり覚えていない。思い出したくない記憶なのだろう。

他にも例を挙げればいくらでもあるのだが、私の思い出話はいったんここで区切ろう。私が断片的に見た情景を総合すると、文学賞や書評という空間では、その評価者と対象者の間でなんらかのコミュニケーションがあり、文芸誌などで良好な関係を築いている者達は実際に仲がいいということだ。そして、私はそれをしなかったし、いまもしようと思っていない。

Amazonはユーザーのことしか考えない

さて、先日Gizmodoにてアマゾンがあちこちで「親しいのはわかってんだよ」とレビューを削除という記事が発表された。要点は以下の通りである。

  • あるブロガー兼作家が別の作家の本を買って面白かったのでレビューを書いた
  • そのレビューはガイドライン違反だということで削除された
  • 理由を尋ねると、「あなたが作者と知り合いだということがわかったから」とのことだった
  • 「SNSでつながりがあるけれども知人ではない」という旨を伝えたが、Amazonはそれを受け入れなかった

このニュースについてGizmodoは次のように結んでいる。

  • どこまでを知人と線引きするつもりか?
  • 個人情報を預けすぎるとなに使われるかわからないね
  • ポジティブ評価を削るなら、ネガティブ評価も削れ(アンチによる低評価レビューなど)
  • Amazonの作家いびりひどいよね

現在、DIY作家達の間では、相互レビューの仕組みが緩やかに広まりつつある。厳密に「お互いを必ず好評価するもの」と決まっているわけではなく、単に情報交流や志を同じくする者が集っているだけなのだが、結果としてみればお互いを高く評価し合う個人作家の集団である。

そういった動きをAmazonが嫌うのはよくわかる。作家同士が仲良しこよしかどうかなど、これからその作品を読もうか悩んでいるユーザーにとっては多くの場合関係ないからだ。Amazonにとって「サクラ」となにも変わらない。Amazonはユーザーのことしか考えていないし、そのために作家をいびりぬくのは当たり前だ。厳しい環境の中で生き残ってきた作家達にほんのわずかな報酬を与え、その後さらに共食いの檻の中にぶち込むのがAmazonの流儀だ。私はそうしたAmazonの姿勢に賛成だし(もっとも私の作品を低く評価されたら怒るだろうが)、利害関係のないレビューのみを残そうとする潔癖な姿勢には共感を覚える。それどころか、私のようにお礼状を書かない人間にとっては朗報だとさえ言っていいだろう。

だが、私には一つ疑問がある。果たしてユーザーはそれを求めているのだろうか。ユーザーは本当に「作品の質だけの評価を見たい」と思っているのだろうか。厳粛にテキストに向き合うよりも、馴れ合いコミュニティの中で生まれた作品を読み、「いいね!」と言い合う方が楽しい、と思ってはいないのだろうか。

ブログメディアの勃興や最近のYoutuberの隆盛など、「一億総クリエイター時代」と呼ばれるにふさわしい環境が整いつつある。私たちはその巨大な文脈の中で、なんらかのコンテクストを共有しており、ある時はクリエイターでありながら、同時に批評家でもある。私がFacebook上である作品や作家を褒めれば、その作者が別の機会に私を褒めてくれるかもしれない。それでもほんとうに、純粋な評価だけを求めるのだろうか。

私はこの疑問を晴らすべく、ちょっとした思考実験をしてみた。

すべてがクリエイターの世界はどうなるのか

ある単純化された世界を仮定してみよう。

  1. すべての人はクリエイターであり、批評家である
  2. それぞれには才能と反応率がある
  3. 才能がある者は他者に反応せず、才能がないものは他者に反応しやすいという負の相関を持つ(これらは足して1になる)
  4. 例外的に50人に1人は負の相関を持たず、社交的かつ才能があるか、非社交的かつ才能なしとなる
  5. 毎年お互いがお互いを評価し合い、その結果が資産として蓄積されていく
  6. 20年が経つとクリエイター同士が交配し、子供を産む。子供は以下の条件を備える
    • 才能は同様の確率で優れた親を受け継ぐか、劣った親を受け継ぐか、両者の平均かのいずれか
    • これまでに築いた資産は両親の資産の平均である
    • 出生率は3と仮定するが、資産の低い下位30%は死に絶える。結果的に質の高い者だけが残り、人口は増える。

私はこれらを簡単なプログラムで組み、200年経過するとどうなるのかを見てみた。その画像を以下に紹介する。

図1: 20年が経過した様子

図1: 20年が経過した様子

赤い丸は「才能はないが、他人によく反応する人」であり、緑の丸は「才能はあるが、他人に反応しない人」である。灰色の丸は「特に突出した部分はない人」だ。丸の半径はその人が集めた評価を示す。巨大な丸ほど高い評価というわけだ。

図2: 60年が経過した様子

図2: 60年が経過した様子

60年が経ち、3代を経ると「才能はないが、他人によく反応する人」はほとんどいなくなった。これはなかなか私好みの結果だ。

図3: 100年が経過した様子

図3: 100年が経過した様子

100年が経つと、今度は「才能はあるが、他人に反応しない人」がいなくなってしまった。赤い大きな丸が一つあるが、これは突然変異体だろう。

図4: 200年が経過した様子

図4: 200年が経過した様子

200年が経つと、すべてが凡庸な人で埋め尽くされてしまった。みな、それほど才能があるわけではないが、他人にもきちんと反応する。結果としてそれぞれの丸は大きくなっているので、人類全体の資産としては増えているのだが。

これらのプログラムは厳密に作っていないので、結果的に平均値の方へ収斂してしまっている。したがって「面白味のないクリエイターで埋め尽くされる未来」というのは私がいまでっち上げただけなのだが、そんなに現実と乖離しているだろうか。信じるか信じないかはあなた次第だ。

なお、このプログラムのソースコードはGithubに、実行環境は高橋文樹.comに上げておくので、自由に時間を潰してほしい。

メシアの出自はどこになるのか

どのようなクリエイターであれ、それがある程度集まれば同質の集団になって平均に収斂していくというのは、いかにもありそうな未来だ。DIY作家による相互扶助的な集団はよほどの工夫をしない限りこの轍を踏むだろう。プログラムを書いてそれっぽく見せるまでもなく予想できることだ。お互いに批評をしあい、関係を続けていくということそれ自体が社会的にまともでない人間には難しい。世慣れたフリーランサーよろしく、返礼を欠かさず、会合には足しげく通い、そこそこの実力を持っている人々がその構成員となるだろう。

そうした同質的集団から提示されるものが面白いのかといえば、そこそこ面白いのだろう。なぜならあなたはその集団と近しいからこそ、その集団から出てくる作品を読むのだから。そうした文脈の醸成は技術的に可能だ。こうした意味で、私はAmazonが提示した「知り合いによるレビューを許さない」という姿勢をやや急進的に感じる。

とはいえ、平均的な質が担保された集団から出てくる文芸作品で埋め尽くされるというのもまた暗黒世界ディストピアだ。Amazonがそうした危機感から潔癖症を呈しているのかどうかはわからがないが、ともかくそのように平均的で退屈な作品が世に溢れるのは困るという思いを抱いている人は多いだろう。

では、ある相互扶助的なDIY集団で常識的な振る舞いを繰り返して頭角を表すという方法以外に何があるだろうか。たとえば文学賞を作ったところで事態はあまり変わらないだろう。私たちは出版の歴史をすでに見ているので、文学賞の歴史もまたよく知っている。たとえば、金の余っている不動産会社が始めた日本ファンタジーノベル大賞はその初期において変わった数々のすぐれた作品・作家を輩出したが、途中からつまらなくなってその役割を終えた。例外的な理由(ex. バブルの余波で金が余っていた)で生まれたからこそ面白かったものが、その例外性ゆえに続かなくなる。私たちはこうしたものをたくさん知っている。

余談ではあるが、私は同賞の後援である新潮社の編集者に「日本ファンタジーノベル大賞に出しておいて欲しい」と原稿を託したことがあるのだが、「ベクトルが違う」とかそんな理由で一次選考すら通らなかったことがある。たとえば、ポプラ社文学大賞がそうなのかまではわからないが、多くの公募型の文学賞はわりと公正に審査されている。

閑話休題。文学賞でもダメとなると、必要なのは例外を生み続けられる余白を持つことしかない。あなたや私というお礼状を出さない一個人が、その余白から生まれるメシアなのか、それとも単に集団から排除される異分子なのかまではわからない。たぶん、後者なのだろう。確率という点に関しては、明らかに集団の仲間たちとうまくやった方が得だ。少なくとも、あなたの人生の目標が得をすることならば。そうでなければ死んでしまうだろう。

さて、私がここまでわかっていながら、やはり選考委員や書評家にお礼状など出すべきではないと思っている。もしかしたら、過去の私は誰かにお礼状的なものを出していたかもしれないが、それは恐らくビビってそうしていたのであり、本来は恥ずべきことだ。「いいね!」「いいね!」と馴れ合いながら生まれる文学作品にろくな物があるわけがない。

では、私は自棄やけになってやっているのだろうか? それとも恐ろしくバカなのだろうか? それらの可能性も否定できないが、一応考えはあるのだ。次回以降、システムを実装するという観点から、いくつかのアイデアを出していきたい。

2015年7月13日公開

作品集『メタメタな時代の曖昧な私の文学』第18話 (全21話)

© 2015 高橋文樹

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