ひきこもりはついに外へ出た。
ゆるゆると並走する隅田川と荒川がきゅっと寄り添ったようなところが彼の居室だった。足立区の荒廃と乗換駅の喧騒が猥雑に入り混じった下町の端も端で、彼は長い間ひくひくしていた。
北千住は南北へ走る交通網によって、西と東に分かたれる。西にはできたばかりの丸井があり、観音開きのガラス扉が何枚も並んだ正面入り口はベッドタウンから東京へ眠たげに出勤する人々の帰路を吸い込んでいる。同居人である五十君の言によれば、平日でも七万人近くが訪れるらしい。遠距離通勤者にとってただ通り過ぎるだけの駅でしかなかった北千住駅は、丸井の登場によって生まれ変わった。ひきこもりが篭もっていた三年の間に、町さえもが彼を置いてけぼりにした。
いかんせん、西は眩しすぎた。スウェット上下にダウンジャケットを併せた休日のコギャルでさえ、眩し過ぎる。口にチュッパチャプスを突っ込んだリラックス・スタイルでも、だ。息が上がる。俺は新宿に行ったら人が多すぎて死ぬだろう、シックな大人の町銀座だってかなり危ない――ファック。そう、それはかなりファックだった。
巨大デパートが繁盛しすぎるせいで寂れきった東の方が、まだ慕わしかった。絶え間ない修繕を行わなければ建っていることさえままならない都営住宅、昼食を求める工員を狙った手作りのおにぎりを並べる米屋、エナメルバッグを背負ったいかつい体育会系高校生をうぞうぞと吐き出す高校――みんなみんなショボくれていた。建物の影につましさを孕んだ東は、ひきこもりを暖かく迎え入れた。誰も彼を責めなかった。おまえはそれでいいんだ、臆するな、そのままでいい、ビー・ユアセルフ。東はそう言ってくれるように思えた。西のように輝いていることを求めなかった。安っぽい70Sロックンロールの歌詞みたいだった。
常磐線、東武線、千代田線、日比谷線、つくばエクスプレスと、南北にいくつもの動脈で分断された北千住の西側へ出ると、ほどなくして商店街が直交する。来客のすべてを万引き犯と疑っている文房具屋の傍までなら、どうということもない。流行らないブティックや美容室の傍を過ぎるまで進んでも何とかなる。待ち合わせ場所はそのすぐ近くだ。
が、主婦たちの集うスーパーの前まで行けば、早まる心臓の動悸がこめかみまで昇り詰め、視界が端から白んでくるだろう。森鴎外の旧宅跡地はダイエーグループに買収され、トポスという名のスーパーが屹立していた。同居人はいつもそこで食材を買っていて、そのうちの幾分かは引きこもりの胃袋に収まっていた。鴎外の場所がダイエーのトポスへ! 考えただけで吐き気が込み上げた。もうとうに消化され排出されたはずの食物が、亡霊となって胃の中に満ちていた。商店街に敷き詰められたオレンジ色の煉瓦までが、悪趣味などぎつさとなって俺をよろめかすだろう。駅を通り過ぎるのは考え物だ。改札口は乗換客でごった返す。出会したら、内臓が全部口から飛び出すだろう。そうしたら俺はアンコウだ。ひきこもりは踵を返し、駅へ向かうのを止めた。踏切を越え、遠回りに近寄らねばならない。
よそ行きに粧した恰好は、フリンジのついた革ジャンとラッパズボン、そして変なスニーカーだった。近寄りつつある踏切の警報音に合わせて、ぺたぺたと靴底が鳴る。
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