私達はテキストを書く。そこにはおそらく何かを込めることができる。と、私達は信じている。というのも、何かを込めたはずだからだ。時として、それが間違った風に受け止められることも私達は知っている。書き手自身が己の技量不足を反省することもあるだろうし、読み手が良い読者ではないと息巻くこともあるだろう。
また、私達はテキストを読む。そこにはおそらく何かが込められている。と、私達は期待している。何かが込められているはずだからだ。時として、それを正しく受け取れないことを私達は知っている。読み手自身が己の読解力不足を惜しむこともあるだろうし、書き手の力量を危ぶむこともあるだろう。
こうした書き手と読み手の思惑がなんにせよ、テキストには意味があるはずだと私達はなんとなく考えている。柄谷行人はスーザン・ソンタグをもじって『意味という病』という評論集を出しているが、このタイトルにはどこかハッとさせられるものがある。もしかして、意味を求めてるのは間違っているのではないか?——いや、こんな疑問を抱くのはやめておいた方がよいのかもしれない。ちょっと考えてみただけでも、気が狂ってしまいそうだ。とりあえず、テキストには意味があるということにしよう。テキストとは意味を込めるための器であり、中には意味が入っているのだ。テキストは開けてみるまで決して中身のわからないブラックボックス(航空機に搭載される頑丈な録音機)なのだということにしておこう。
ブラックボックスは一つで十分
さて、すべてのテキストが意味の詰まったブラックボックスだとしても、短いテキストの場合はほとんど問題にならないだろう。私達はTwitterのつぶやき140文字を見て、それが途切れたりしていない限り、ほとんどの場合瞬時に意味を汲み取ることができる。
ところがこれがある程度のテキストになると、そうもいかなくなる。ブラックボックスを手当たり次第開けていこうという奇特な人はいないはずだ。映画『フォレスト・ガンプ』には人生とは箱入りチョコレートのようなもの。開けてみるまで何が入っているかわからない
という台詞が出てくるが、そのような類いのブラックボックスは人生一つで十分である。私達には有限の時間しかないのだから。たとえそのテキストが長さの割に工夫を凝らしてあり、他のテキストに比べて短時間で読み終えることができても、分量と読了にかかる時間は比例する。できれば「どんなことが書いてあるのか」を読む前に知りたいと思うはずだ。
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