JBG48、あるいは純文学に課された48の課題

メタメタな時代の曖昧な私の文学(第8話)

高橋文樹

エセー

4,626文字

衰退する音楽業界の中でAKB48だけがひときわ高いセールスを誇っている。これはなにがしかの事実を指し示していないだろうか。純文学という「売れないジャンル」をAKBと対比させることで、私達の電子的なテキストが割けられないだろうビジネスモデルについて思いを巡らせたい。

開高健だったかどうかは忘れたが、文学的にはそこまで卓越した作家とされてはいないが、ある程度の商業的な成功を収め、いまなお中途半端な文学的名声を博している作家の発言に「時代と寝る」というものがある。この発言にはその作家の自負と自惚れを垣間見ることができる。まず、流行しているものに対してよりそうことは売春に等しいということ。そして、「自分は本来なら春をひさぐような人間ではないのだ」というスノビズムである。そういえば、フランスの詩人ボードレールも——幸いなことにこちらはきちんと憶えている——、「文学とは売春である」と言っている。

さて、私はこれまで機械と文学の関わりについて語ってきた。機械が発達することによって、人間にできることはどんどん少なくなっていくということをやや煽り気味の口調で語ってきた。だが、正直なところをいえば、人類のことなど私にとってどうでもいいのだ。1万年後に人類が絶滅していたとして、それがなんだというのだろう。そういうこともあるだろう。

私はいまこの瞬間、よりによってAKB48を題材にして、純文学が現在抱えている同時代的な問題について語りたいと思う。その問題はおそらく、電子的なテキスト——もっとも純粋なテキスト——が流通する時代において示唆に富んだ問いとなるだろう。

なお、この課題は48個もないかもしれない。というのは、いまこの文章を書きながら、私が頭に思い浮かべていることは4つぐらいしかないからだ。仮にそれが48個なかったからといって、どうか目くじらを立てないで欲しい。私がもし4個を48個と言い張った場合は、時代の要請から生じた詩的飛躍だと思って欲しい。少なくとも、いまここにおいては三文字のアルファベットのあとには48という数字が必要なのだ。

課題1. 純文学は不良債権である

AKB48はもっとも売れているミュージシャンであり、純文学はもっとも売れない文芸ジャンルである。

大塚英志が「不良債権としての『文学』」というエッセー(早稲田文学)で笙野頼子と論争を交わしたのはもう10年近く前だが、みずほ銀行でさえ法人税を納めたというのに、純文学はいまだもって不良債権である。10年前よりももっと状況は悪くなっているかもしれない。純文学が以前より儲かるようになったという話は寡聞にして聞かない。その是非については問わないが、少なくとも純文学は優良債権になっていない。

もっとも、純文学のみが文学ではないので、ある特定の文学ジャンルは単体で黒字化している例もあるだろう。角川書店の堅調を支えているのがライトノベルなどであることは知られているし、文学全般が不良債権として焦げついているかどうかまでは本論で述べない。

課題2. 純文学にはパトロンが少ない

芸術にはつねにパトロナージュの問題がつきまとう。パトロンになることは投資に似ているが、本質的に金銭的な見返りを求めていない点で異なる。「パトロンになることは無償の奉仕を行うことである」という半ばグノーシズム的な主張がされることはあるが、何の理由もなく援助をするということは稀有なことなので、ほとんどのパトロナージュは金銭以外の見返りを求めていると考えるのが妥当だろう。18世紀であればそれは少数の富める者にとっての高貴なる者の義務ノブレス・オブリージュだったろうが、現代のポップカルチャーの特徴は、無数の大衆たちが娯楽として消費することでパトロナージュを分散していた点である。AKB48は多くの大衆の支持を勝ち得たが、純文学はより少ない大衆の支持しか得ていない。パトロンの少ない純文学は出版社の持ち出しによってなんとか命脈を保っている。

課題3. 純文学は文学にこだわっている

純文学はその名の通り「純粋な文学」を標榜しているが、AKB48は純粋な音楽を売っているとは一言もいっていない。これはAKB48のプロデューサーである秋元康のことを考えてみればすぐにわかる。秋元康が作曲をしないという事実は、よく考えるととてもおかしい。なぜ曲を作らない人間がCD売上のトップに君臨しているのだろう。ミュージシャンの中には言葉の意味に音楽的価値を託すこと自体を邪道だと捉え、インストゥルメンタルにこだわったり、どうでもよい歌詞をつけたりする者さえいるというのに。

あまつさえ、AKBのCDシングルには投票権がついている。AKBの序列を決定する総選挙——実態としては一人一票ではないため株主総会のようなものだが——は、推しメン(推しているメンバー)を一位にするための唯一のチャンスである。総選挙と「毎日会えるアイドル」というコンセプトが両輪となって、AKBのCDはこのCD不況の時代にあって圧倒的独り勝ちを示している。音楽としての質の高さがCDの売上とは必ずしも比例しないということをこれほど思い知らせてくれるケースは稀有である。

一方で純文学はその看板を信じれば、文学性に重きを置いている。それ以外の部分でこれといった工夫は見られない。何冊本を買おうが、純文学における総選挙(芥川賞)に私達は参加することができない。

課題4. 純文学はコストがかかる

これは上記の課題と密接に関連しているのだが、純文学には製作コストがかかる。どれと具体的に例示することはしないが(興味のある方は「花村萬月 脱兎のごとく」で検索されたし)、純文学において紋切り型の表現クリシェはしょっちゅう批判の対象になる。「○○という構成はすでに××という作品で採用されている」「この時代に△△という言葉を使う作者の良識を疑う」などの言説は文学賞の選評などでもよく見ることができる。とかく純文学には新規性が求められる。これがはたして事実であるかどうかは置いておいて、純文学は常に新規性を志向しなければならないことになっている。

その一方、AKBはいままで見たことのないようなダンスは踊らないし、8オクターブの声域も持っていない。AKB本人たちはそれなりに大変な練習をしているだろうが、少なくとも、見たことのないような技術を持った人間を48人集めることはしていない。

課題5. 純文学には非採算部門でもよい理由がない

純文学がコスト度外視で新規性を追求したとして、それが許されるとしたら、別の場所で採算を取れるからである。これは一般的な製造業においてR&D(研究開発)と呼ばれる部門の仕事となっている。

製造業においてR&Dが存在を許されているのは、その研究成果がいつか実を結ぶと考えられているからだ。製薬会社などを想像すると理解しやすいが、直接的な利益をあげない研究をやめてしまっては未来の利益がなくなるのである。

仮に新規性を追求する純文学がR&Dとしてその存在を許されるとすれば、純文学を行うことがなんらかの将来的な利益をもたらす可能性においてのみである。だが、どうもそんなことはありそうにない。手塚治虫がゲーテやドストエフスキーを元ネタに漫画を描いていたことはあったかもしれないし、ヒッチコックが短編小説を元に映画を撮ったことはあったかもしれないが、現代において純文学がそのような役割を果たしているとは思えない。数少ない例としては、自ら脚本家を育てる力を失った映画業界から芥川賞作品が脚本として採用されるケース(外注)である。

ともかく、純文学はR&Dの役割を果たしていないし、果たしていたとしてもごくわずかな役割のみである。

課題6. 純文学の文化的な価値は逓減していく

単体では収益を出せず、R&D的な価値もないとすれば、もう開き直って「文化・芸術的な価値があるので損をしても存続させるべきである」と主張することができる。おそらく現状の純文学を説明するのにもっとも適切な主張だ。

しかしながら、この「芸術的な価値」は不良債権である限り少しずつ減っていく。大阪市長の橋本徹が「文楽は脚本が古い」という主旨に取られかねない発言(参考:毎日新聞 )をしたばかりだが、こうした発言をするテクノクラートは増えていくだろう。文化的な価値にたいして保護資金を出す決定者の多くは、直接的に作品の価値を理解して出すのではなく、作品の価値がステークホルダー(ex. 有権者)に対して一定の訴求力を持つから予算を割くのである。

いま60代の人にとっての純文学と、いま20代にとっての純文学を比較すると、明らかに価値が減少している。よほどのことがないかぎり、この減少傾向は止まらないだろう。

たとえば、集英社では『少年ジャンプ』の名物編集者マシリトとして有名だった鳥嶋氏が取締役に就任している。各出版社のボードメンバー達は時代を経るごとに入れ替わっていくのであり、当然取締役会における純文学志向度は減っていくだろう。その結果として「もう赤字を出して純文学をやるのはやめよう」という経営判断を下すことになるのはいかにもありそうな未来だ。

あなたは純文学をどうすることもできない

さて、これまで純文学の抱える48の課題(実際は6つ)を挙げたが、そもそも純文学とはなんだろうか? 私はテリー・イーグルトンのように1冊の本を書き上げることなく説明をしてしまうが、純文学とはレーベルである。より具体的に定義すると、初出が『新潮』『文学界』『群像』『文藝』『すばる』のいずれかであることが純文学の条件である。これに準ずる定義としては「太宰治賞を受賞している」などがあるものの、純文学かどうかを決めるのは中身ではなく出身地である。ライトノベルの定義が「絵があること」でも「当世風の文体であること」でも「改行が多いこと」でもなく、「角川スニーカー文庫・電撃文庫・ファミ通文庫・スーパーダッシュ文庫などから出ている小説」であるのと同様である。

当然ながら、純文学の抱える問題はレーベルの問題であり、ひいては版元(出版社)の問題となる。版元がジャブジャブに儲かっていれば、何の問題もないのだ。将来的な利益を生み出すことの望めない部門を一つ抱えていることぐらい、なんだというのだろう。この問題を解決できるかどうかはひとえに版元次第であり、私やあなたは遠くからお祈りするしかない。場合によっては上記版元に入社し、経営的手腕を発揮して純文学を優良債権化することもあるかもしれないが。

私達の純粋なテキストが売るべき春とは

さて、私は長々と純文学が抱えている課題と現状についてAKBを引き合いに出して述べてきたが、最後は版元の努力次第と結論づけた。AKBが売れている理由はビジネスモデルであり、純文学が売れていない理由もビジネスモデルである。

純文学はその看板とは異なり、実際には純粋な文学からのみ成り立っているわけではない。コミュニティ(文壇)があり、プラットフォーム(文芸誌)があり、プロモーション(文学賞)がある。これらの中には上手くいっているものと上手くいっていないものがある。結果として不良債権となっているのだ。

私達の書く電子的なテキストもまた、こうした問題と無縁ではない。目下のところ、電子的な文芸テキストにはコミュニティもプラットフォームもプロモーションもあるが、AKBはおろか、純文学のそれと比べても遥かに弱いものばかりだ。電子的なテキストはどのようにして春を販いでいくべきか? 次回以降はその問題について深く掘り下げて考えたい。

2012年7月29日公開

作品集『メタメタな時代の曖昧な私の文学』第8話 (全21話)

© 2012 高橋文樹

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