真に恐れるべきは異形のモノ

メタメタな時代の曖昧な私の文学(第7話)

高橋文樹

エセー

4,304文字

機械が発達するにつれ、ついにテキストは自動的に生成されるようになった。この時代に私達のテキストはどのようにして奪われていくのだろうか。

19世紀のある米軍将校によれば「良いインディアンとは死んだインディアンだけ」だそうだが、その半世紀前に猛り狂って機械を壊し回ったイギリス人労働者達も同じように「良い機械とは死んだ機械だけだ」と暴言を吐いたのだろうか。おそらく、吐かなかっただろう、そもそも機械は生きていないので。

IT技術の発達する現在、ネオ・ラッダイト運動——私達の雇用を守るために技術発展を止めよう——がジョークまじりに語られる一方で技術革新が労働を奪っていくことへの薄ら寒さもまた確かに存在している。私は「グッド・ルーザーになるための準備はできているか」において、おそらく機械が人間より優れるであろう領域について幾つかは挙げた。だが、私はここでもっとSF的想像力を発揮して、「機械はテキストを書くだろうか」という問題について考えてみたい。そしてまた、「もし機械が書けるのならば、私達は何を書くべきだろうか」という問題にまで射程を広げてみよう。

コンピュータは理解しない(いまのところは)

自然言語処理という人工知能と言語学をあわせた一分野がある。自然言語とは我々が普段話したり書いたりする言語のことであり、その対義語は人工言語(ex. プログラミング言語)である。その対象とする分野は広いが、実用的なものではIME(かな漢字変換)や機械翻訳などがある。自然言語処理はAI完全問題と呼ばれることもあり、人工知能分野においてもっとも困難な問題の一つと言われている。この困難は自分が人工知能の開発者だったらと考えると、すぐに想像できるだろう。質問者がゲーデルやハイデッガーだったらと想像してほしい。あなたはあなたの作る人工知能が彼らの話を理解できるレベルにまで仕上げられるだろうか?(そもそもあなた自身が理解できているのだろうか)

ためしに、日本言語処理学会の2011年度プログラムを見てもらえるとわかるのだが、自然言語処理の研究対象は「Wikipediaの編集履歴を用いた書き換えパターンの抽出」などの言語分析に関する分野が多く、文章の生成に関するものは少ない。文章を書くのは少なくとも読むより難しいということを考えると、これは納得のいく結果である。日本語における言語の生成については、数々の人工無脳圧縮新聞星野しずるなどの事例があるが、これらはいずれもシュルレアリスムにおけるダダイスムのような偶然性における遊びという性質を帯びている。

日本語に限定すれば、自然言語処理における困難は日本語の独自性にある。西欧諸語のように半角スペースで分かち書きされないこと、漢字カタカナひらがなアルファベットが混在した表記を行うこと、語順がかなり自由であることなどの性質によって、「いかにして一つながりの文字列を品詞に分解するか」という形態素解析———「すもももももももものうち」のどれが桃でどれがすももなのかを機械に理解させること———が重要な研究領域となっている。いまはまだ書くことよりも読むことの方が優先事項であるというのが現状だ。

私達の肩ならしだった要約

ここまでのテキストを読んで、「なんだ機械のやつらもまだまだ俺のテキストには及ばないな」と早合点してはいけない。先日、WIRED日本語版において、「アルゴリズムは記者より優れた記事を書けるだろうか?」という記事が掲載された。同記事では、幾つかのベンチャー企業が特定のデータソースからニュース記事を自動生成するアルゴリズムを発表したことが紹介されている。事例としては野球の試合結果からスポーツ記事を生成するといったものである。スポーツ新聞を読む人ならわかるだろうが、野球のニュース記事のある部分は特定のデータの要約からなっている。何回に誰がヒットを打って打点を上げただとか、ピッチャーが120球を投げたあとに150kmの球を投げただとか、まずその試合におけるデータがある。もしヒットで入った点が試合の行方を決定付ける逆転打だとすれば、記者はそう書くだろうし、120球を超えてなお150kmの速球を投げられるピッチャーが希有なのだとすれば、ピッチャーの今年の成績と併せて書くだろう。あるいは、過去のデータに照らし合わせて、完全試合が8年振りならそのことも書くはずだ。

WIREDによれば、アルゴリズムによって自動生成された記事は『ニューヨーカー』誌に掲載できるほどではないけれど、アマチュアの試合の記事で地方新聞のページを埋めるには十分すぎるほどだそうである。他にもビジネス用途のものなどが幾つか紹介されており、たとえば意思決定をしなければならないが忙しい会社役員のために膨大な経理データから現在の問題点をレポートするということなども可能だろう。そうすれば、少なくとも経理部の一般職を一人ぐらいリストラできるかもれない。

最高について語るほど馬鹿げたことはない

こうした話題には「そうはいっても『カラマーゾフの兄弟』のような作品を機械が書くことはできないだろう」という馬鹿げた反論が必ずついて回る。よく考えてみてほしい。そもそも『カラマーゾフの兄弟』のような作品は人類もほとんど書いていないのだ。数多の小説家がそれほど優れた作品を書くことなく死んでいったのであり、私はそのことで激怒したりしない。一人の人間の人生というのはそんなものだ。いったい、これまでの人類の歴史でどれほどの人間が『カラマーゾフの兄弟』よりも優れたテキストを書いたというのだろう。その人数が泣きたくなるほど少なかったからといって、世界が滅びただろうか。『カラマーゾフの兄弟』よりも優れたテキストがそんなにないということは大した問題ではないし、『源氏物語』より優れたテキストがそんなにないということもいまのところは大した問題にはなっていない。憂慮すべきは平均や普通といった概念についてである。

たとえば、最終的にテキスト生成において人類が機械に勝利するとしよう。最高のテキスト、私が読んで心震えるようなテキストは結果的にある一人の人間が書いたものだったとしよう。ピュリッツァー賞を取るのはいつも決まった記者だったとしよう。その記者はおそらく、凡百の詩人よりも美しい文章を書き、大量のデータを前にしても怯まずそれを咀嚼するはずだ。では、彼はいったい何歳なのだろう? それほどの技術を身につけるためにどれほどの時間を費やしたのだろう? まだ大した記事も書けないうちは、どんな記事を書いていたのだろう? 彼が新人の頃書いた記事は地方紙のアマチュアスポーツの結果についてではなかっただろうか。彼はその修業時代を経ずして、それほどの記者になることができたのだろうか。機械が「どうでもよく取るに足らない記事」を代わりに書いてしまう時代に、いかにして彼は修行を行ったのだろうか。実家が裕福で、親に寄生しながら無料でブログを書き続けたのだろうか。

問題はいつも市場である。世の中にはたくさんの読者が存在するはずだが、彼らはピュリッツァー賞を獲ったテキストをどれだけ読んだことがあるのだろう。日常生活において、くだらないテキストを消費している時間の方が、高尚なテキストを消費している時間より多いのではないだろうか。「いいや、私はほんとうに良質なテキストしか読まない」とあなたは言うかもしれないが、そんな人間がいったいどれだけいるというのだろう。ほとんど存在しない市場——ピュリッツァー賞を獲るぐらいのテキストしか読みたくないという人々だけのための市場——が自立的に存在しうるという考えは、馬鹿げた優生思想のようにしか思えない。

恐ろしい異形のモノ

ジャン・ボードリヤールは『象徴交換と死』において、自動人形オートマットとロボットについて興味深い対比を行っている。育ちの良い貴族階級の人間に似せた自動人形はあくまで演劇的な遊びであり、人間と相似を持つこと(つまり、僅かな差異を持っていること)こそに形而上学的な価値を持っていた。しかしロボットは労働する人間の等価物であり、外観は人間にまったく似ていない。それは生産と労働のためのシンプルな実体である。

テキストを量産できる時代がもうすぐそこまで来ている。霊感を受けたテキスト、芸術的なテキストでなくとも、それがテキストであることに代わりはない。私達が真に恐れるべきはどうでもよいテキストを書く機会が、他でもない死んだ機械によって失われていくことである。機械達は「芸術的ではないがそこまでひどくないテキスト」を無限に生成していくだろう。人類がテキストの消費に費やせる時間が有限である以上、消費されるテキストのうち人類の手によるものの割合は減っていくだろう。ゼノンがいかに逆説を述べてもアキレスは結局のところ亀に追いついてしまう。

さて、機械たちのがんばりによってお払い箱になってしまったテキストの書き手達はどうすればよいのだろうか。映画『ターミネーター』におけるスカイネットよろしく、機械の側から断罪されるのであれば、レジスタンスとしてテキストを紡ぎ続けるという未来もあるだろうが、どうもそうはならなそうだ。現実的に考えると、生き残りの方策としては、「機械にはできないことを人間がやればよい」という態度、つまり、テキストの方向付けや基本的なアイデアを人間が考えて、実際の執筆は機械にお任せという態度である。単純労働は工場のロボットに任せて、人間は高度な知識労働者(ホワイトカラー)を目指すべきとした産業発展の歴史と瓜二つだ。おそらく、このアプローチはビジネスとしてうまく行くだろうし、漫画編集などを見る限りは既存の出版産業もおよそに似たような歴史を辿ってきた。ただし、工場労働者の数が機械の発達によって減ったように、テキストの書き手も機械がテキストを生成することで減っていくだろう。テキストの書き手として生き残っていく人間は、「機械が生み出すよりもはるかに高度なテキストの書き手」もしくは「機械を効率よく働かせて良いテキストを生成させる機械の操り手」のいづれかに分類されることが想像される。この退屈な未来予想図を打ち破るのはなまなかなことではない。こうした未来が避けるためには、「読者の時間が有限であること」や「人間は労働の対価として報酬を受け取って生活する必要があること」などの難問を解決しなければならないからだ。それだったらまだ機械とテキストの質で勝負する方が楽だな、とあなたは結論づけるだろう。私もそうだ。あと何年間その戦略が有効なのかはわからないが、少なくとも、いまのところは。

2012年6月25日公開

作品集『メタメタな時代の曖昧な私の文学』第7話 (全21話)

© 2012 高橋文樹

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