グッド・ルーザーになるための準備はできているか

メタメタな時代の曖昧な私の文学(第4話)

高橋文樹

エセー

4,295文字

あなたのテキストは1000年前の人間が書いたテキストよりも良いだろうか。いい場合もあれば、悪い場合もあるだろう。ただし、機械はそうではない。あなたのテキストに関する能力のうち、かなり多くのものが機械によって代替されるようになる。

高校一年生の世界史の授業で、数学の問題が出されたことがある。ひどく抽象的で難しい問題だった。20分ほどの時間を与えられ、40名いたクラスの誰も解けなかった。皆、答えを知りたいというよりも、「なぜ世界史の授業で数学の問題を解かなければいけなかったのか」を知りたいといった顔をしていた。意地悪いメガネをかけた教師はその問題がなんであったかを説明した。この問いはサービト・イブン・クッラが1000年以上前に解いたユークリッド幾何学である。教師のメッセージは明白だった。おまえらは県下一の進学校に入って天狗になっているかもしれないが、1000年以上前に成し遂げたられたこともできないんだぞ、と。

この教師はムスリムだったから、西洋に重きを置きすぎる現代日本社会への批判として無垢な高校生をオルグしたと言ってしまえばそれまでだが、なにごとにも一抹の真実はあるものだ。千葉県一の進学校の生徒40人は1000年前の一人のアラブ人に勝てない。そして、機械はそうではない。

新しいことは良いこと、それも圧倒的に

あるソフトウェアやハードウェアを利用して「まだまだだな」と思うことはよくある。新しいスマートフォンの使い勝手が悪い、リリースしたばかりのWebサイトがひどい、などなど。しかし、この「まだまだ」は、40代の管理職が新卒社員の電話対応を見て「まだまだだな」と思うのとは訳が違う。後者は1000年経ってもそのままだが、前者はそうではない。

コンピューター業界にはムーアの法則と呼ばれる経験則がある。Intelの社長が論文の中で何気なしに書いた一節が一人歩きしたものだが、概ね真実らしいと受け止められている。コンピューターの性能は3年で倍になるという主張は、先進的な製造業の世界で一つのクリシェとなっている。そう、機械は新しい方がいいのだ。それも圧倒的に。

実際のところ、ムーアの法則が3年で倍だろうが10年で1.5倍だろうが、どちらでもいいことだ。問題は、1000年前の人間と今日の人間が大して変わらないどころか劣っていることさえ多いというのに、機械の方がそうではないということだ。

あなたの能力で陳腐化するだろうもの

さて、翻ってあなたのテキストである。私達はもうほとんど進化しないが、機械はそうではない。当然、いまはできなくてもそのうちできるようになるものが沢山ある。これについてあなたは知っておいた方がいいだろう。機械が自動で出力するテキスト以下のものを得意げに代表作として掲げるような事態は避けたいものだ。

編集作業としてのフィルタリング

Webサイトが新聞社を滅ぼすだろうということが言われ、実際にそうなりつつあるのだが、旧メディアを擁護する言説の中に「そうはいっても人間のセンスによって選ばれた良質な記事を求める読者はなくならない」というものがあった。だが、現時点においてすでにこのフィルタリングは陳腐化しつつある。10万件あるニュースの中から面白い記事を10件選べと言われたとしよう。たとえどんなにひどい結果だったとしても機械は選別を終えるが、人間は選別できない。10万件を読み終える前に寿命が来てしまうだろう。ひどい結果だったら意味がないとは思わない方がいい。ムーアの法則によれば、このひどさは3年で半分になる。30年で0.4%だ。その一方、30年経っても人間は相変わらず10万件のニュースを読み切れない。そのうち、人間のフィルタリングよりも機械によるフィルタリングの方が精度が高いということになるだろう。そうなると、あなたは自分で書いた自分のテキストを良いかどうか判断せずに、機械にお伺いを立てるようになる。

語彙・構文などの知識量

昨今のライトノベルではわりに難しい漢字が使われているということをご存知だろうか。これをもって日本人の語彙が向上したと思うのはあまり意味がない。若かりし頃の三島由紀夫の語彙が豊富だったというのとは訳が違う。単にIME(日本語入力システム)の性能が向上しただけである。昨今の自費出版ブームをワープロの普及が支えたのと同じ事情だ。

シェイクスピアは驚異的な語彙を誇ったことで有名だが、多くの現代人は彼よりも語彙が少ない。書ける語彙は読める語彙の10分の1程度だという説を聞いたことがあるが、これには確かに頷けるところがある。読める語彙の中からすべてを思い出すことは不可能だろう。だが、機械は百科事典分の語彙を容易に収めておくことができる。この結果、あなたが豊富な語彙を持っているということそれ自体の価値はかつてほど大きくない。というのも、あなたがせっかく選んだほとんど使われることのない印象的な単語は他の誰かがIMEの予測変換候補から選んだものと一致してしまうかもしれないのだから。人は書くために機械を使うというよりは、機械があるから書くのである。そこであなたの語彙が多いか少ないかはさしたるアドバンテージにはならない。100年以上前にポール・ヴァレリーは「侯爵夫人は午後五時に外出したとはもう書けない」と頭を抱えたそうだが、あなたは今、「ことごとく」と得意げに書くことはできないのだ。

作品の質量をはかる能力

あなたが自作に対して驚異的な暗記力を持っていて、登場人物の動きすべてを把握しており、伏線の回収やプロットの適切な配置までかなり適正に行うことができるとしよう。文体の統制などを取れるとなおよしだ。しかし、こうした能力は機械によって補助できるため、そのアドバンテージは少しずつ失われていくだろう。

私は原稿を書くにあたってScrivenerというライティングソフトを使っている。日本語化はされていないので万人に勧められるソフトではないが、興味深い機能がいくつかある。登場人物名を登録し、その出現頻度をはかることができる。各章の文字数をターゲットとして設定し、そこに向かって書くことができる。欧米の物書きにはプロットやキャラクターの配置をこうしたソフトに頼りながら書いている者も多いらしく、実例として何人かの作家が取り上げられている。残念ながら私はそれらの作家を知らないが、得意げに掲げるぐらいだからどこぞの馬の骨ということはないだろう。医療が軍事によって発達するように、文学は教育によって発達する。効率よく物語を生み出すための機械にあなたの文学的能力が打ち破られないという保証はどこにもない。

偶然を演出する能力

偶然というのは本当に不思議なものだ。それは人々を驚嘆させる。あなたがまだ生まれたばかりでなければ、偶然に驚嘆したことが何度か——そう、何度もではなく、何度か——はあるはずだ。たまたま立ち寄ったかつての住居の前に佇んでいたら往時の恋人が新しい伴侶と一緒に笑顔で歩いていたとか、なんの気なしにマドレーヌを紅茶に浸して食べたら大好きだった祖母のことを思い出したとか、そういうことだ。偶然はほんとうに特別な体験だ。偶然さえあれば永遠などいらないとさえ思いたくなる。

こうした偶然は読書においても重要とされる。Amazonを敵視する書店愛好者が偶然の出会いについてこのように語るのを聞いたことがあるだろう——ぶらっと立ち寄った書店で出会った本が人生最良の読書を云々かんぬん。これには一理あるし、もしもこうした偶然の出会いを生み出す能力があるならば、ぜひ身につけたいと商魂逞しくないあなたでも思うことだろう。いや、実際にあなたはあなたのテキストにそうした偶然を織り込もうとしたことが一度はあるだろう。まさかそんな、と読者に言わせたくて。誰もがそれを求めているのだ。あなたはそれを偶然の演出と呼ぶかもしれないし、そうした偶然と出会う能力をセレンディピティという名前で聞いたことがあるかもしれない。

さて、FacebookがOpenGraphという名目で人々のWeb上における行動履歴を逐一収集しようとしていることはすでに述べた。広告企業である彼らの目的の一つは、あなたの一挙手一投足を把握してあなたを脅迫することではなく、できるだけ多くの人々の行動を集め、そこから出来る限り多くの行動パターンを知ることだ。あなたが広告代理店に勤務していると想像してみてほしい。もし人が特別だと感じるような演出ができたとしたら、どんなに素晴らしい広告ができることだろう。みな躍起になってそれを探している。そんなことができるわけないと思うのは早計だ。あなたもFacebookやmixiで思わぬ旧友と再会して驚いたことがあるはずだ。そういう偶然を量産すべく、機械達は今日も演算を続けている。あなたと違って、眠ることなく。

良き負け犬としての心構え

こうした調子で一つ一つあげつらっていくこともできなくはないが、それで人類は終りだとか、機械より人間の方が偉いのだというつもりは毛頭ない。そんなSF的妄想よりも重要なのは、あなたのテキストが陳腐化してしまうということであり、いまこうしている間も陳腐化しているということだ。機械自身にしばらくは負けないだろうが、機械を使いこなす人間にはすぐに負ける可能性がある。いずれにせよ、あなたのテキストに関する能力は機械的なものに負けるのだ。これはもう決定事項といってもいい。

あなたはこれからの時代、良き敗北者として陳腐ではないテキストを紡いでいかなければならない。取るべき態度は二つだ。

まず一つは、あらゆるテキストが機械によって峻別/価値付けされる時代を儚む余り、「メタの時代こそベタ」などと10年以上前にどこぞの批評家がしたり顔で上げそうな言葉を錦の御旗としてただひたすら何も考えずに書くというベタな態度。この場合、あなたは陳腐ではないテキストがどのように生まれるのかを知らないまま書くことになるため、ひたすら物量を重ね、あとは機械のフィルタリングに任せて天命を待つはめになる。

もう一つは機械のアルゴリズムに通暁し、機械がテキストをどのように理解するだろうかを考えながら書くというメタ・メタな態度。これはかなりスマートなやり方だが、機械のアルゴリズムに精通するための労力が大きいせいで、知的消耗戦を余儀なくされるだろう。最終的にあなた自身が文学機械を作り出すまで、この知的消耗戦は終わらない。あなたに要求される知的能力はどんどん増えていく。

どちらの道を選んでも楽ではないが、グッド・ルーザー(良き敗北者)とは、敗れてなお鞭打たれながらもそれを粛然と受け入れる者のことである。そのための心構えをしておくのは悪くない。

2012年3月16日公開

作品集『メタメタな時代の曖昧な私の文学』第4話 (全21話)

© 2012 高橋文樹

読み終えたらレビューしてください

リストに追加する

リスト機能とは、気になる作品をまとめておける機能です。公開と非公開が選べますので、 短編集として公開したり、お気に入りのリストとしてこっそり楽しむこともできます。


リスト機能を利用するにはログインする必要があります。

あなたの反応

ログインすると、星の数によって冷酷な評価を突きつけることができます。

作品の知性

作品の完成度

作品の構成

作品から得た感情

作品を読んで

作者の印象


この作品にはまだレビューがありません。ぜひレビューを残してください。

破滅チャートとは

この機能は廃止予定です。

タグ

この投稿にはまだ誰もタグをつけていません。ぜひ最初のタグをつけてください!

タグをつける

タグ付け機能は会員限定です。ログインまたは新規登録をしてください。

作者がつけたタグ

テクノロジー

"グッド・ルーザーになるための準備はできているか"へのコメント 1

  • 投稿者 | 2012-05-23 17:43

    今日も一日肉体労働して、どうにかビールを飲むことが出来ました。マジで旨い、風呂上りの一杯って、本当に酔っ払っちゃう。
    この文章を読んで、10年後も同じ様に、旨いって言えるのかなって思いました。

    肉体労働って本当にキツイ、体ヤバイ、毎日バラバラになりそう、心もすさんじゃう。チョットした事で、イラっとくるし、この歳でまさかみたいな事も…しそうになる。
    10年後には、肉体労働は出来ないと思う。これは完全に衰えだ。今まで、出来た事が出来なくなるときっと凹むんだろうな。この文章を読んで、10年後に凹む自分を想像して、少し凹む。

    ビールの10年後、ビールはきっとそんなに変わらないだろうな。
    pcとかの10年後、マジで便利。ポケット叩くと目の前にブラウザ立ち上がるし、
    イヤホン無いのに音楽聴けちゃう…マジで便利。
    自分の10年後、ハゲてんじゃん、それ前髪?真ん中の方からきてない?汗とかべっとりしてそう
    ビールは…やっぱ旨いって。

    でも、その旨いは…何か違う気がする。

    グッド・ルーザー、どんなに頑張っても機械の進歩に、自分の進歩にが追い付く気はしないな。

    今の俺に出来る準備って言ったら、腕立て伏せくらいかな…もう三年くらい続けたから、とにかく10年やってみようかな。

    もしかして、チョットだけグッド・ウィナーになってたりして…シェイクスピアが36歳の時より、俺が36歳の方が、腕周りだけ勝ってたりして、部分的に勝ってたりして。

    そんな風に思うと、腕立てが続いて、少しだけグッド・ルーザーに近づけたりして。
    10年後も酔っ払ってんのかな、そんなわけないか笑。

コメントを残してください

コメントをするにはユーザー登録をした上で ログインする必要があります。

作品に戻る