生のものと紙に刷られたもの

メタメタな時代の曖昧な私の文学(第1話)

高橋文樹

エセー

2,029文字

紙に刷られないテキストの流通量は次第に増えている。あなたのテキストは「なまのまま」でも大丈夫だろうか。紙に刷られることを前提とした「レイアウト」があなたのテキストの価値を支えているのだとしたら、「なまのまま」では価値がないということになる。

あなたは自分の書いた文章を印刷したことがあるだろう。そして、なにがしかの満足を覚えたことだろう。プリンタの設定やレイアウトの不備などで悪戦苦闘したかもしれないが、最終的には自分のテキストを見て喜びを得たはずだ。もっと率直にいえば、印刷された自分のテキストがなにがしかのものであるように感じたことだろう。無理からぬことだ。DTP(デスクトップ・パブリッシング)技術によって印刷物の品質はかなり向上している。あなたがこれまでに読んできたものと体裁が似ている――ただそれだけでの理由で、あなたの印刷物は読むに値するように思えてくるのである。

あなたのテキストに対するフェティシズム

印刷された自分のテキストに対する感動が薄れていくとともに、そのこだわりはより鋭く尖っていく。章を分ける記号を何にするかで悩んでみたり(§セクション記号? *アスタリスク? †ダガー? ♪ちょっとおどけて音符?)、特定のキーワードを二重山括弧でくくって《謎めかせて》みたり、雑誌のインタビュー形式を真似て人名を太字ゴシック体にしてみたり。テキストに向き合う姿勢に自己陶酔とフェティシズムが混ざり込み、いつしかレイアウトというものに関する一家言が生成されていく。場合によって、あなたはそれをテキストの一部だとさえ思うようになり、違ったレイアウトで表示されることを嫌がるかもしれない。奔放な服を着始めた娘に対して母親が眉を潜めるように。

世界全体におけるテキストの見映えに対する欲望の総量はいまもって増加中だ。パソコンとプリンタの普及により、ペーパーレスの向こうをはって紙の使用量は増え続けている。一度でも事務仕事をしたことがあれば、ある書類の書式がいかに神聖視されているかということがわかるだろう。テキストからなる印刷物はテキストそのものよりも遥かに重要である――と、断言してもいいかもしれない。

あなたのフェティシズムを台無しにする読者達

テキストが紙に刷られず、インターネット上(Webページ、電子書籍、etc.)で流通する場合、読者の閲覧環境は必ずしも同一ではない。ざっと挙げて、下記のようなものが考えられる。

  • パソコン
  • iPhoneのようなスマートフォン
  • スマートフォンではない旧式の携帯電話
  • iPadのようなタブレット
  • Kindleのような電子書籍閲覧に特化した端末

テキストはこれらの異なる端末上で閲覧されることになり、その見映えをあなたが完全にコントロールすることは難しい。場合によっては諦めなくてはならないことも出てくるだろう。その最も端的な例は自由詩に見られる「改行」である。自由詩は明確な韻律のルールを持たず、実態として朗読されることも少なくなっている。だからこそ、その最後の形式として「頻繁な改行」を残しているのだが、この形式は端末による解像度の違いによって破られる。

井川博年『平凡』より

井川博年『平凡』より。iPhoneで閲覧した場合、文字は行から溢れる。

また、パソコンを使い慣れている者が見落としがちなことだが、同じ端末においてさえも文字の見映えは同様ではない。通常、パソコンには高齢者や弱視者のために標準文字サイズを変更する機能(ユニバーサル・アクセスなどと呼ばれる機能)がある。文字サイズを大きくすれば、当然ながら一行に収まる文字数は減ってしまう。つまり、一行が24文字であることを保証することは原理的にできないのだ。

iBooks

拙著『北千住ソシアルクラブ』より。iBooks上でフォントサイズを変更して比較。

あなたのテキストは特定の位置で折り返されていなければならないものだろうか。もしそうなら、それはなぜだろうか。特定の位置で改行しないことによって損なわれる価値とはなんだろうか。

フェティシズムのない世界

どのような形式であれ、インターネット上にテキストを配布する場合、それは紙に刷られないことがほとんどだ。あなたのテキストはほとんど生のままで流通することになる。娘を裸で衆目に放り出しているようなものだ。あなたはそれをかわいそうだと思うかもしれないし、せめて何か服を着させてやりたいと思うかもしれないが、無駄なことだ。何か綺麗な服を着させてやったところですぐに時代遅れになり、何も着ていない方がいくらかましという状態になってしまうのがインターネットの速度である。ならばせめて、人に見せても恥ずかしくないぐらいの体型に育て上げてやるのが親心というものだろう。

紙に刷られたものに価値があるというのは、現時点において一定の真実ではある。自分の書いたテキストが紙媒体に掲載されることを喜ぶ人は多い。たとえそれが同人誌であっても。だが、DTP技術が発展し、これほど容易く印刷物を刷ることができる現在、紙に刷られることの実際的な価値は減少しているし、これからはもっと減少していく。もしかしたら、最後にはあなたのテキストに対するフェティッシュな欲望しか残らないのかもしれない。

2012年2月26日公開

作品集『メタメタな時代の曖昧な私の文学』第1話 (全21話)

© 2012 高橋文樹

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"生のものと紙に刷られたもの"へのコメント 2

  • 投稿者 | 2012-02-27 01:49

    現代の物書きが出会う「戸惑い」ですね。同感です。
    「綺麗な服を着せる」ことがレイアウトへのこだわりだとすれば、「恥ずかしくない体型に育てる」こととは何か。いくつかの意見に分かれるのかもしれません。
    いずれにせよテキストに対するフェティッシュな欲望を捨てた世界では、レトリックや内容を追求するものと、ぱっと目を引く言いまわしや言葉使いに傾くもの、二手に別れるのかなと読後に感じました。

    • 編集長 | 2012-02-27 04:22

      そこら辺の続きは近日アップしますので、お楽しみに!

      著者
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