かつてロスジェネ論壇と呼ばれたもの

破滅派20号「ロスジェネの答え合わせ」応募作品

高橋文樹

エセー

6,155文字

破滅派20号「ロスジェネの答え合わせ」についてロスジェネ論壇を構成する書き手を、手元にある文献をもとに紹介する。網羅性・完全性はないが、登場人物とその立場・論点を整理することで、2020年代におけるロスジェネの本質がわかるだろう。

実態としてどうであったかは別にして、日本社会が「ロスジェネとかいう非正規労働で金のない若者が大量にいる」と明確に意識し出したのは、2007年の朝日新聞である。当時、私は北千住に住んでいて朝日新聞を取っていたのでよく覚えている。一面に連載された特集で、当時のカリスマモデル押切もえ(1979年生)が友人と笑って写っていた。彼女は私と同い年で、『egg』『東京ストリートニュース』といった雑誌から生まれた高校生モデルだった。かつてのカリスマ・コギャルであり、なおかつ蛯原友里(1979年生)とともにカリスマ・モデルとして活躍していた彼女を特集の第一回に持ってきたのは、上手いやり方だったと思う。この年、押切は彼女が長く看板モデルとして務めた『CanCam』を卒業した。

その特集の少し前、城繁幸(1973年生)が富士通の「成果主義」がいかに形骸化しているかについて警鐘を鳴らし、雨宮処凛(1975年生)がプレカリアート——無産階級プロレタリアート不安定なプレカリオの合成語——についての本を出していた。赤木智弘(1975年生)が「『丸山眞男』をひっぱたきたい——31歳、フリーター。希望は、戦争。」で話題を呼んだのもこの時期である。

構造改革の小泉旋風が吹き荒れた2001年頃からそれなりの時間が経ち、なおかつ就職氷河期世代がそれなりに発言権を持つようになったのが2007年ということなのだろう。

 ゼロ年代後半のロスジェネ論壇

実際、その頃に『フリーターズフリー』『ロスジェネ!』といった雑誌が創刊され、かなりの話題を集めた。まず、それなりの部数が出たこと。そして、それらの雑誌を作ったのが他でもないロスジェネ当事者たちだったことである。

まずは私の手元には『フリーターズフリー』の1〜3号がある。中心メンバーは以下の4名である。

  • 生田武志(1964年生) 野宿者のサポートなどを行なう社会運動家。
  • 栗田隆子(1973年生) 作家。フェミニズムと労働運動が専門。
  • 杉田俊介(1975年生) 文芸批評家。介護の仕事をしながら批評活動を行った。
  • 大澤信亮(1976年生) 文芸批評家。

中心的なメンバーは半分が労働の専門家であり、もう半分は文芸批評の専門家である。結論から先に述べると、『フリーターズフリー』は2007年に1号、2008年に2号を出してから、3号が出るまでに7年(2015年)がかかっており、その間に有限責任事業組合(LLP)としては解散している。2号を出した後に組織が分裂したというわけだ。

これは誌面を見ているとよくわかる。1号は明確に「非正規労働」についての本である。登場するメンツも冒頭に紹介した雨宮、赤城、城といった「スター」たちが登場しており、若者たちによる告発の書である。

そして、2号になると内容がガラッと変わり、「フェミニズムの本」となっている。女性は長らく非正規労働に従事させられており、その仕事はサポートやケア的な側面が多かった。だからこそ、非正規労働という観点からフェミニズムを捉え直そうという誌面になっている。その出発点自体はよくわかるが、いざ誌面を見ると「性暴力」の特集に緊張感が漂っている。ここで寄稿している森岡正博(1958年)小松原織香(1982年生)については後述するが、私も率直な感想として「ロスジェネとあんまり関係ないかなぁ」と感じた。*1実際、この特集では杉田と大澤がそれぞれ「女性の暴力性/性暴力」をテーマにした論考を寄せており、やや反論めいた、抗っているような印象がある。

そして解散と長い沈黙を経た3号では、ロスジェネというテーマは後景に退き、栗田による「解散によって負ったダメージからの回復」というテーマが前面に出ている。寄稿者も少なく、1号のような華々しさはない。栗田と生田による文章の割合も多い。

大澤によるブログ記事栗田のインタビューなどから私が邪推するに、栗田主導のフェミニズム特集に対し、大澤&杉田が反発し、生田はいい人(会ったことないが)なので残った、ということなのではないだろうか。

 

『フリーターズフリー』の歴史を振り返ってみると、これが単なる一サークルの崩壊とは言い切れないシンボルを読み取ってしまう。非正規労働者が声を上げる。その中から「女性はもともと非正規労働に甘んじてきた」と声が上がる。フェミニズムの話題になり、ついでに性的な話と男性の暴力性が話題にあがる。非正規労働者の男性が「セックスのことを話してるんじゃなくて、社会の話をしてるんだ」と憤る。喧嘩になる。崩壊する。

そして15年後

さて、『フリーターズフリー』の創刊から15年後の2022年、『現代思想』で「就職氷河期/ロスジェネの現在」というそのものズバリの特集が組まれた。ここで登場するのは誌面の名前が大きい順に雨宮処凛、生田武志、杉田俊介、赤木智弘、貴戸理恵(1978年生)、栗田隆子などである。つまり、『フリーターズフリー』の頃と同じイツメン集合である。では、これらの人々が語る「問題」はどう変わったのだろう。

統計的なデータに関しては、すでに紹介した藤田孝典『棄民世代』が詳しく、とくに新しい発見はなかったのだが、赤木の次の言葉は象徴的である。

震災でも事故でもいいのだが、「不幸があって妻と子供を失った父親の悲しみ」というのは、誰もが共感できる悲しみである。

一方で、「中年になっても結婚できず、妻も子供もいない男の悲しみ」はなんとなくボヤッとした悲しみであり、あまり共感を得られない。

赤木智弘「排除され続けた就職氷河期世代 そして至った必然」『現代思想』2022年12月号所収、青土社、P.128

以下、私が読んでみてハイライトと感じた部分をピックアップ。

  • 杉田は介護の仕事を「情熱を失って」辞めていた! バーンアウトなのか、杉田の社会的地位が向上したからか。
  • 生田は派遣村(2008年)のときの熱量がピークで、その後社会はロスジェネへの興味を失ったと考えている。それはそう。
  • 「ロスジェネが結婚できず、子供を持たなかったことで日本の人口減少社会は確定的になった」という指摘。いわゆる、「第三次ベビーブームは来なかった」現象。以下、これに対する私見。
    • ラジカルなフェミニズム的観点からは、「女は子を産む機械」ではないので、子供を産むこと即ちよしと社会が前提しているのはおかしく、現状の出生率の低下も肯定しうるのではという意見があるかと思ったが、なかった。
    • 反出生主義は「結果的に子供を持つことができなかった人生」を肯定しうるので流行している気もする。
  • 赤木智弘は加齢という予測可能な事態を防ごうともしなかった社会を批判している。
  • 「無敵の人」が以前よりもロスジェネと絡めて言及されるようになった? 中年になり、失うものが減ってより無敵になってしまうので、復習型犯罪が爆増というディストピア。
  • 枡野浩一(1968年生)を系譜の出発点としながら、ロスジェネ歌壇を紹介する山田航(1983年生)「現代短歌にとってロスト・ジェネレーションとは何か」が面白い。非正規雇用をバックグラウンドにした作家が多いというのも頷ける。
  • 小説についての言及、つまり文芸批評的な観点からの論考は少なかった。なぜなのか?
  • 水無田気流(1970年生)「ロスジェネ・アラフォー・ギグワーカー女子が転生したらバブル世代悪役令嬢(?)だった件」はパロディとして面白い。

中でも興味深い指摘は、藤田直哉(1983年生)が「ゼロ年代 未完のプロジェクト」において紹介する「ゼロ年代批評(逃避)vsロスジェネ批評の分裂(闘争)」という対立項だ。藤田はゼロ年代の論壇分裂について語ったのち、特に2011年東日本大震災から始まる2010年代という革命と動員の時代はロスジェネ的なものを置き去りにしてきたと指摘する。10年代とは民主党政権から第二次安倍内閣へと移り変わる時代でもあり、それは2020年代に安倍晋三暗殺事件で幕を閉じる。だが、見捨てられたロスジェネの問題は解決しておらず、時間というあがなうことのできない大切なものを失ったロスジェネがタタリ神のように残る。

 

このように、登場人物は同じなのだが、現在の日本にロスジェネ論壇は存在しない。たとえ存在していたとしても、ゼロ年代後期のようではない。「問題の発散」とでも呼びたいような事象を私はここに認める。「非正規労働の若者たちの怒り」は、別の問題に分解されてしまったのだ。

時よとどまれ、汝は美しい

ゼロ年代後期のロスジェネ論壇が世間の注目を集めたのは、当事者が声を上げたからであった。論者の多くは、20代から30代前半の若者で、赤木・雨宮のように自他共に「持たざる者」を自称できそうな者のほか、人文系の研究者の卵、いわゆる大学院生が多かった。

当時20代後半だった私の周りでも、大学院生たちの人生は就職した者たちとはかなり違っていた。将来が不安で、金がなく、惨めで、ヒリヒリしていた。文学フリマなどでもそうした論客はたくさんいたし、飲みに行くと「あんたはエリートで恵まれてる」と絡まれた。

しかし、15年近く経ってみるとどうだろう。そのまま人知れずアカデミズムを去った者も多いだろうが、アカデミズムの世界に残って40歳ぐらいになると、准教授になっていたりする。日本のアカデミアの給料は高くない(特に文系)だろうが、いわば自身の夢をキャリアで叶えた成功者である。もしかしたら子供もいるかもしれない。そういった状況でロスジェネについて声を上げることは可能だろうか? 実際のところ、彼ら/彼女らも就職氷河期世代としてなんらかの割を食っているはずなのだが、子供がいて大学に所属する准教授というのは、生まれた年があとから変わるわけでもないのに、「元ロスジェネ」っぽく見えてしまう。実際、『現代思想』では『フリーターズフリー』にも寄稿していた貴戸が「ロスジェネの子育て」について論考を寄せているのだが、子供という贅沢品を持つ「勝ち組」の側からロスジェネについて語ることの難しさがその文面からは滲み出ている。子供を育てながら大学に所属する貴戸の人生が楽だったと私は断じないが、もうロスジェネらしく見えないのもたしかだ。

長い時間がたって、一部のロスジェネはロスジェネ的ではなくなってしまった。貴戸のような書き手でさえ「支援する側」に見えてしまう。若い頃に声を上げることのできた者たちは、長い時間を経て別の者に変わってしまった。ちょうど、『ドラゴンクエストⅢ』においてレベル20の「あそびにん」が「けんじゃ」に転職するように。*2

つまり、「加齢による非ロスジェネ化」というのが「時間による変化」の一つである。これは何も書き手に限った話ではなく、読み手の側も事情は同じである。非正規という雇用形態も他世代との比較では重要ではあるが、それよりも「けんじゃ」になりえる職業で過ごした20年と、非熟練労働で過ごした20年にとてつもない差が出ること、そして、後者の問題が解決されていないことがいま世に問われているはずなのだが……。

つづいて、時代を経たことによってロスジェネ感を失った論点というのもある。代表的なものは「弱者男性」vs「フェミニズム」だ。『フリーターズフリー』の分裂はまさにこの対立を先取りしたと言える。

杉田俊介は2010年代後半から「弱者男性論」の論客として参照されることが多い。「弱者男性」は赤木智弘がさかんに論じた言葉だが、2020年代のいまもホット・トピックである。KKO(キモくて金のないオッサン)、陰キャ、非モテなどといった語彙上の変遷を経つつ、同じ事象につけられた別の名前である。重要なのは「モテなさ」単独、つまり「非モテ」であることそれだけが不幸の源泉だったという単純な言説ではない、ということだ。「非モテが金のないまま歳をとり弱者男性になる」という致命的な移行期間に、いろいろ名前がついていたのである。イナダ・ワラサ・ブリならぬ、非モテ・KKO・弱者男性である。

統計的に明らかになった「非婚化」は、自由恋愛を謳歌する独身貴族が増加したからという心理的なトレンドより、貧乏で結婚できなかったから、という経済的要因が深く関係していそうだ。つまり、ゼロ年代には「モテる/モテない」にすぎなかったスクールカースト問題が、20年代には「金があって結婚できる者/金がない独身」というソーシャルカーストの問題に発展してしまった、と言えるだろう。では、ロスジェネたちが声をあげて階級闘争を行い、本来得られるはずだった家庭を取り戻そうとなったか? どうもそうはなっていない。

「弱者男性論」はフェミニズムと食い合わせが悪い。先に引用した赤木のように「社会のせいで独身子無しになってしまった」と不平を言えば、「女をあてがえということか!」という反論が想定できるだろう。実際、そのように主張する「弱者男性」も存在するし、「女性をあてがえ論」という言葉も存在する。フェミニズムが #MeToo 以降に重要な問題として社会認知を獲得したほどに、弱者男性論が重要な社会認知を得ているとはいえない。弱者男性論は「非婚化による社会の衰退」を論じるとしてより、反フェミニズム・女嫌いミソジニーとしてのみ耳目を集めているようなきらいがある。実際のところ、年収などにあたえるインパクトとしては、男女差、親の学歴差、地域差などがとても大きい。これらの問題を差し置いて「弱者男性」だけを問題にし続けることは難しい。「フェミニズム」の方がずっと高次元な問題なのだというのが、いまの社会的な合意だろう。とはいえ、それで弱者男性が救われるわけではないのだが。

社会の関心はロスジェネ問題の中にあった要素がより高次元な議論(例・フェミニズム)に移ってしまったのである。「ロスジェネ問題の分散と相対的な矮小化」が「時間による変化」のもう一つだ。

『フリーターズフリー』2号に寄稿していた森岡正博は当時「非モテ」について語り、いまは反出生主義の批判的紹介者である。同じく「やおいのレイプ・ファンタジー」について寄稿した小松原は修復的司法の研究者である。時間とともに議論は発展し、ロスジェネは置き去りにされた。

 

まとめると、時間が経ったことにより、ロスジェネについて語ることのできる人たちが非ロスジェネ化し、社会の関心もより高次な問題へ移ってしまった。それが私の考える「ロスジェネ文壇消滅の理由」である。

 

 

以上、ロスジェネ論壇の15年を手元にある書籍から振り返ってみた。類型的なキャラクターを描くだけでなく、この「時間が経ってしまったことによる変化」という現代的な出来事をうまく切り取ると新しいものになるかもしれない。

この作品は2050 年 3 月 5 日まで破滅派で読むことができます。

2023年9月16日公開

© 2023 高橋文樹

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