ロスジェネ議論用参考文献紹介その1『ロスジェネの逆襲』

破滅派20号「ロスジェネの答え合わせ」応募作品

高橋文樹

評論

6,288文字

本稿は破滅派20号のテーマ「ロスジェネの答え合わせ」の参考資料として、池井戸潤の人気シリーズ半沢直樹のシリーズ三作目となる『ロスジェネの逆襲』の解説と感想を記す。

「やられたらやり返す、倍返しだ!」のフレーズと堺雅人の不気味な笑顔、香川照之の土下座シーンなどで一世を風靡したドラマ「半沢直樹」。その第三作である『ロスジェネの逆襲』は2010年から翌年にかけて「週刊ダイヤモンド」で連載された。ドラマ化もされており、2020年版のドラマ「半沢直樹」の前半部に相当する。本書はドラマ化によって大ヒットとなり、累計部数は100万部を超えている。

本書を読むことで「ロスジェネについて当事者が説明するときに予想される反論」に対する理解が深まるので、まず最初に結論から述べる。

  • ある世代は他の世代と対立するものである(相対化)
  • 不満を言っても始まらない、すべては自分次第である(自己責任)
  • 自分で世界を変えたらいい(決断主義)

 

それでは、内容紹介に入ろう。

物語は2004年、半沢直樹が東京セントラル証券に出向しているところから始まる。東京中央銀行(モデルは三菱UFJ銀行?)での社内政治に巻き込まれる形で出世競争から一歩後退となったわけだ。あらすじは下記の通り。ネタバレを含むので未読の方はご注意されたい。

  1. 大手総合IT企業である電脳雑技集団から、新興IT企業である東京スパイラルを買収する計画が半沢のもとに持ち込まれる。
  2. 半沢の部下である諸田(半沢同様、銀行からの出向組)が離反し、買収案件を親会社である東京中央銀行に献上してしまう。担当者である森山(ロスジェネ世代)は怒り心頭。
  3. 東京スパイラルの社長である瀬名は森山の中高同級生で、同じくロスジェネ世代。その縁から東京セントラル証券の半沢・森山コンビは買収防衛を買って出る。
  4. 親会社(東京中央銀行)VS 子会社(東京セントラル証券)の様相を呈した買収案件は情報戦となり、ホワイトナイト(善意の第三者が株を保有して買収から守る)を買って出たフォックス社と、電脳雑技集団の裏切り、東京セントラル証券のフォックス買収案など、どんでん返しが続く。
  5. 結局、電脳雑技団の粉飾決算を暴いた半沢たちが勝利。東京中央銀行は追加融資を断念し、買収を諦める。半沢にしかけたられていた再出向の懲罰人事は撤回され、半沢は親会社に復帰、半沢と敵対した副頭取らは出向となる。

私は半沢直樹シリーズを初読だったのだが「はねっかえりサラリーマンによる逆転劇」という定番フォーマットが人気の秘訣だと感じた。著者の大企業サラリーマン経験も存分に生かされている。また、現在人気の異世界転生パーティー追放もの——冒険者パーティーの中で無能だと思われていた主人公がパーティーを追放されるが、実は彼の能力が無敵の能力を秘めていた——にも受け継がれていると感じた。どの世代も“俺TUEEEE!”をしたいということなのだろう。

少し違和感を覚えたのが、作中で森山が「ロスジェネ」という言葉を口にする点であり、そもそも朝日新聞の2007年元旦の特集が「ロスト・ジェネレーション」であり、そこから「ロスジェネ」という言葉が人口に膾炙したのでやや時代錯誤アナクロニズムであろうか。まあ、瑣末な点ではある。

さて、本作の文庫版には人物紹介図に「バ」「ロ」「出」という凡例がついている。それぞれ意味するのは次の通り。

  • バ=バブル世代。半沢直樹はバブル世代であり、同シリーズの中心人物たちも多くがバブル世代である。
  • ロ=ロスジェネ(氷河期世代)。半沢の部下である森山、東京スパイラルの瀬名が該当する。バブル世代を無能だと思っている。
  • 出=東京中央銀行からの出向組。多くの出向組は東京セントラル証券から銀行に戻りたがっているが、半沢は「与えられた場所で仕事をするのがサラリーマンだ」という考えを持っており、それが対立の種になっている。

この分類は本作におけるトピックが表されている。私は昔、あるテレビ番組を見た。日本の相撲取り(小錦)がアメリカのバーベキュー大会に参加するのだが、そこでアドバイザーになった前回優勝者がバーベキューの秘訣を三つ述べる。甘さ・辛さ・トマト味。私はこの分類に文化人類学的な美しい響きを感じたのだが、本書における「バブル・ロスジェネ・出向組」にも似た響きを覚えた。

さて、本作ではロスジェネに関する世代論が3回行われる。問いを向けたのはロスジェネ世代である森山。森山の人物像はWikiPediaによると以下の通りである。

プロパー社員。ロスジェネ世代。営業企画部調査役。30歳。理屈っぽく、組織に媚びず、会議などでも堂々と反対意見を言うため、煙たがる上司もいる。

就職氷河期の真っ只中に就職活動に励み、何十社と採用試験を受けて、東京セントラル証券の内定を勝ち得た。好景気というだけで大量採用され、三木のような能力が伴っていない者がのうのうとしているバブル世代に反感を持っている。企業の本質を見抜くセンスは半沢も認めるほど。

Wikipedia ロスジェネの逆襲

森山の人物造形はかなりリアリティがあり、同世代である私の同級生たちも就職時に「職場の上の世代にバカが多い」という感想を抱いた者は多かったようだ。前後10年と比べると、出身大学に比べてややランクが落ちる企業に勤めるケースは全国共通の同時代的な現象だったろう。

そんな森山は明確に「自分たちは不遇の世代である」という認識を持っており、以下の3つの対話を行う。少し長くなるが、引用を交えつつ私の感想を付記したい。

対話1・バブル世代である半沢に対して

「バブル世代は余裕じゃないですか」

森山の反論に、半沢はグラスを見つめたまま小さく笑った。

「そう見えるか」

「見えますよ。チョー楽な就職をして、なんの特技もないのに一流企業で余裕ぶっこいてるといか……」

「それで、下が苦労していると。君と同じだな」

森山は肯定の沈黙を返した。

「オレたちのときもあったぞ」

「あったって、なにがです?」

「世代論さ」

半沢はこたえた。「オレたちは新人類って呼ばれてた。そう呼んでたのは、たとえば団塊の世代といわれている連中でね。世代論でいえば、その団塊の世代がバブルを作って崩壊させた張本人かも知れない。いい学校を出ていい会社に入れば安泰だというのは、いわば団塊の世代までの価値観、尺度で、彼等がそれを形骸化させた。実際に、彼等は会社にいわれるまま持ち株会なんてのに入って自社株を買い続け、家を買うときには値上がりしたその株を売却して頭金にできたわけだ。バブル世代にとって、団塊の世代は、なっきりいって敵役でね。君たちがバブル世代を疎んじているように、オレたちは団塊の世代が鬱陶しくてたまらないわけだ。だけど、団塊世代の社員だからといって、全ての人間が信用できないかというと、そんなことはない。逆に就職氷河期の社員だからといって、全てが優秀かといえば、それも違う。結局、世代論なんてのは根拠がないってことさ。上が悪いからといって腹を立てたところで、惨めになるのは自分だけだ」

池井戸潤『ロスジェネの逆襲』文春文庫、2015年、P.171-172

ここで半沢は相対化という武器で森山に反論している。どの世代にも優秀な人間と悪い人間がいる。どの世代も年長世代は疎ましい。それはそうなのだろう。

しかし、こと就職ということに関して、この相対化はバブル世代である半沢にメリットがありすぎる。バブル期の就職活動は戦後史で稀に見る売り手市場であり、日本の高度経済成長期の恩恵を最大限に享受していた。この手の議論で相対化によって恩恵と苦難の両方が矮小化される場合、得をするのは半沢である。

ちなみに、一般的な団塊世代・ポスト団塊世代はロスジェネの親世代にあたる。ロスジェネの初期は団塊ジュニアであり、とにかく人数が多かった。この構造(団塊VSバブルVSロスジェネ)は筆者が『方舟謝肉祭』で作中に入れた「縞状力学」そのままである。興味のある方は参照されたい。

なんにせよ、こうした「相対化」はロスジェネが自身の不遇をかこつ際に必ず使われる防衛策であることは念頭においておいてよいだろう。

対話2・同世代である瀬名に対して

「オレたちって、いつも虐げられてきた世代だろ。オレの周りには、いまだにフリーター、やり続けてる大学の友達だっているんだ。理不尽なことばかり押し付けられてきたけど、どこかでそれをやり返したいって、そう思ってきたんだ」

瀬名は黙っている。

グラスを口に運び、再び目の前の酒瓶に視線を結びつけたまま、静かに思考を巡らせている。

「なるほどね。ただ、オレの考えはちょっと違うな」

瀬名の意見に、森山は静かに耳を傾けた。「どんな時代にも勝ち組はいるし、いまの自分の境遇を世界のせいにしたところで、結局虚しいだけなんだよ。ただし、オレがいう勝ち組は、大企業のサラリーマンのことじゃない。自分の仕事にプライドを持っている奴のことだけさ」

森山は黙したまま瀬名の言葉を頭の中で反芻した。

「どんな小さな会社でも、あるいは自営業みたいな仕事であっても、自分の仕事にプライドを持てるかどうが、一番重要なことだと思うんだ。結局のところ、好きな仕事に誇りを持ってやっていられれば、オレは幸せだと思う」

自分はどうだろうか、と森山は自問した。

ほんの少し前まで、森山の胸にあったのは、負け組の卑屈さだった。東京セントラル証券に就職してすでに八年近くが経っているというのに、学生のとき何十社と落ち続けた入社試験の経験を引きずっていた。

前掲書、P.350−351

自己責任論である。これもまた世代論につきものの論法だ。ただ、この議論ではどんなブラック企業でも「自分の仕事にプライドを持っていれば幸せ」となってしまうので、なんとかモーターでさえ正当化されてしまう。

また、この瀬名と森山の議論は「ロスジェネに一番厳しいのはロスジェネ」という典型をよく表してもいる。ロスジェネには「ナナロク世代」も含まれており、ひろゆき(2ちゃんねる創業者)、笠原健治(ミクシィ創業者)、田中良和(グリー創業者)、近藤淳也(はてな創業者)、猪子寿之(チームラボ創業者)、家入一馬(ペパボ創業者)など、「IT企業の若社長」という、それこそ瀬名のような人物が時代を代表する成功者として知られてきた。ロスジェネ世代の中にも成功を掴んだ者はおり、それも、それ以前の時代よりも若くして成功を掴んだ人が多いような印象さえある。新自由主義ネオリベの典型として「ロスジェネ世代の成功者」がたしかにあるだろう。

成功を掴んだ者にとっては自身の不遇を世代のせいにするのは負け犬の遠吠えと映る。失敗したのは努力が足りなかったからだ。とりわけ、その努力とは自己犠牲であるというのも、こうした「勝ち組」に共通の認識だろう。生存者バイアスという奴である。

こうしたロスジェネの勝ち組・負け組における倫理的な分断については別の文章で触れる予定だが、このように「幸福は自分次第」「幸福になれなかった奴は自分が悪い」というのはよくある反論だということは認識しておいて良いだろう。

対話3・クライマックスにおける半沢からの問いかけ

世の中はいつもフェアなわけじゃない、と瀬名はいった。

そうかも知れない。だからといって、それでいいわけじゃない。

「だったら、お前が変えろ」

半沢の言葉に、森山ははっと顔を上げた。

「どういうことですか」

「嘆くのは簡単だ」

半沢はいった。「世の中を儚み、文句をいったり腐してみたりする——。でもそんなことは誰にだってできる。お前は知らないかも知れないが、いつの世にも、世の中に文句ばっかりいってる奴は大勢いるんだ。だけど、果たしてそれになんの意味がある。たとえばお前たちが虐げられた世代なら、どうすればそういう世代が二度と出てこないようになるのか、その答えを探すべきなんじゃないか」

半沢は続ける。「あと十年もすれば、お前たちは社会の真の担い手になる。そのとき、世の中の在り方に気ものを抱いてきたお前たちだからこそ、できる改革があると思う。そのときこそ、お前たちロスジェネ世代が、社会や組織に自分たちの真の存在意義を認めさせるときだと思うね。

〔中略〕

批判はもう十分だ。お前たちのビジョンを示してほしい。なぜ、団塊の世代が間違っていたのか、なぜバブル世代がダメなのか。果たしてどんな世の中にすれば、みんなが納得して幸せになれるのか? 会社の組織も含め、お前たちはそういう枠組みが作れるはずだ」

「部長にはあるんですか」

森山はきいた。「こうすればいいという枠組みを、部長はお持ちなんですか」

「枠組みといえるほどのものはない。あるのは信念だけだ」

前掲書、P.392−394

この半沢の問いかけは、物語のクライマックスとしては「なんとなくいい話」に聞こえるのだが、2023年現在に読んでみると——それはつまり、44歳になったロスジェネの私が読むと、という意味だが——ある種残酷な宣言に聞こえてしまう。自己責任論と近いのだが、宇野常寛が言及した決断主義に近い。

なるほど、世界を変えられればそれに越したことはない。そうはいっても半沢は親会社に戻っていってしまうし、森山は子会社に残ったままだ。森山が半沢の年齢になる頃——それは本書の発刊からちょうど十年だった今頃かもしれない——、こうした大企業グループで親会社に逆出向して転籍するなどということがほとんどありえないという事実を思い知るだろう。当然、社会を変えることはできない。いや、そもそも、半沢らバブル世代は社会を変えたのか? 特定の世代が社会を変えるなどということがあるのか? 就職氷河期で影響力のある仕事につくことが難しかった世代が、よりによって「みんなが納得する」ように世界全体に働きかけなければいけないのか? 私たちだけが得られなかった幸せをほんの少しだけ取り戻したいと願うのは許されないのか?

そもそも、森山の「就職氷河期でさんざん苦労して入った会社でバブル期の無能が上司」という怒りは、「本来なら半沢のように東京中央銀行に入れたのに、就職氷河期でその子会社にしか入れなかった」という前提に端を発する。サラリーマン人生において、所属している会社は本人の実力よりも遥かに重要である。同じ実力を持つ人間でも、会社が違えば生涯賃金でとてつもない差が出る。それが正社員と派遣社員であれば、なおさらだ。身分差が一生ついてまわる。

この半沢の「世界を変えろ」という声援はいま、虚しく響く。世界は変わらなかった。いや、良くなったのかも知れないが、そこにもう私たちの居場所はない。正社員雇用が回復しても、採用されるのは若者たちだ。苦労して払った年金も、制度ごと破綻するだろう。私たちより若い世代は「そんなの自分たちだって同じだ!」というだろうが、違うのだ。君たちはましなのだ。私たちのような失敗を見て、世界が勝手に変わり、その果実を君たちは受け取るのだ。少なくとも、私たちより多く。

2023年のいま、東京中央銀行でキャリアを積んだ半沢直樹は40歳を過ぎた森山を見て何を思うだろう。「こいつは世界を変えられなかったな」と鼻白むのだろうか。それとも、子会社の人間とはもう会っていないだろうか。そもそも、森山は半沢に会いたいのだろうか。会って話をしたいと思うだろうか。

 

 

以上、池井戸潤『ロスジェネの逆襲』の感想である。本書の書かれた2010年代初頭、ロスジェネはまだギリギリ若者だった。しかし、いまや中年の危機まっただなかである。若者に向けられた年長者からの言葉として、当時ロスジェネ世代がどう思われていたかという貴重な証言になるだろう。

この作品は2050 年 3 月 5 日まで破滅派で読むことができます。

2023年8月26日公開

© 2023 高橋文樹

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