ロスジェネ議論用参考文献紹介その2『ゼロ年代の想像力』

破滅派20号「ロスジェネの答え合わせ」応募作品

高橋文樹

評論

5,108文字

ロスジェネ世代の思想的なバックボーンであるサブカルチャーを95年〜00年代にかけて論じた宇野常寛『ゼロ年代の想像力』に紹介された概念をもとに、2010年以降、そして2020年のロスジェネ世代の思想的なバックボーンはどうなっているのかについて考察する。

宇野常寛『ゼロ年代の想像力』は宇野を一線の若手評論家たらしめた書である。本書について私が見出したおもな特徴は次の通り。

  1. 95年の「セカイ系」と、その先祖である「昭和的レイプ・ファンタジー=渡辺淳一的なもの」を克服する力として、「ゼロ年代の想像力」を提示している。
  2. 「サバイブ系」「決断主義」「レイプ・ファンタジー」「母性のディストピア」などのユニークな概念が提示され、それは少なくともゼロ年代後期の論壇において共有される概念となった。
  3. 大塚英志・東浩紀といった年長世代の評論家への挑戦状である。その後、実際に宇野と東が袂をわかっているのも興味深い。
  4. 宇野が取り上げるサブカルチャーにはテレビドラマが多い。これは「文芸批評=評論」が成り立つ年長世代と比較したとき、社会における文化コンテンツの勢力図を素直に反映しているように見える。

宮台真司は次のような帯文を寄せている。

若い書き手による、単なる「好きなもの擁護」を超えた、時代を切り開くサブ・カルチャー批評を、僕らは長いあいだ待っていた。

私はこの宮台による評はなかなか正鵠を射た表現だと思う。実際、宇野が紹介するコンテンツは、東が自著で紹介したデ・ジ・キャラットやKey/Leaf(エロゲメーカー)といった「当時も知る人ぞ知るコンテンツ」と異なり、一般的な知名度が高いブロックバスターコンテンツ『野ぶた。をプローデュース』『コードギアス 反逆のルルーシュ』ばかりである。その意味で、著者の好きなものを紹介するだけにとどまらず、人々が受け入れられたコンテンツについての分析(=受容研究)が表に立っている。

宇野常寛が提示した2つの概念

さて、本書のすべてをここで紹介することはしないが、宇野が提示した重要な概念を2つ紹介しよう。

概念1. セカイ系からサバイブ系へ

セカイ系というのは、『新世紀エヴァンゲリオン』『最終兵器彼女』といった作品や、ファウスト系の作家の作品に見られた特徴で、とりわけ90年代後期からゼロ年代初期には批評用語の枠を超えて一般的な概念になるほどの知名度を獲得した言葉である。詳細はWikipedia「セカイ系」を当たってほしい。

特徴としては「世界の危機とその命運を握る君と僕」という構図があり、物語の帰結(=世界の命運)は主人公の内面とシンクロしている。SF作品では「主人公の内面と世界が溶け合い、なんかよくわからなくなる」というラストが描かれることが多く、『新世紀エヴァンゲリオン』における「人類補完計画」のような、「みんながわかりあって一つになる」という、子宮回忌願望や乖離症状からの回復を思わせる結末で、私のような定型発達は「そんなことでこんな大掛かりな計画を?」と首をかしげることも多かった。

なんにせよ、セカイ系の特徴は以下の通りだ。

  • 中間項がない(=社会が描かれず、君と僕が世界と直接つながる)
  • 抑うつ的、引きこもり的である
  • 戦闘美少女が出てくる(=世界の命運を担うキミとボクのうち、キミのほう)

これに対し、ゼロ年代のコンテンツについて語る宇野は、たとえばゼロ年代に文壇で評価されだした佐藤友也・舞城王太郎といった作家たちを古い作家と断じ、より新しい「サバイブ系」を提唱している。なぜセカイ系は新伝奇に敗れたのか、そして、佐藤・舞城・西尾のうち前者二名が文壇で評価され、あっさりと新伝奇(物語シリーズ)に移行した西尾維新が超売れっ子作家になったのかという分析は文芸批評として興味深い。

サバイブ系というのは、ある理不尽なルールの支配する世界において、特殊な能力を手に入れた主人公が世界のルールをハックしながらなんとか生き残るという物語である。スクールカーストや日本の植民地支配など、それぞれの設定は違えど、悪漢小説ピカレスク・ロマンとして描かれる。『野ぶた。をプロデュース』『DEATH NOTE』『コードギアス 反逆のルルーシュ』『バトル・ロワイアル』などの作品が宇野に紹介されているので、一つでも知っていればピンとくるだろう。

概念2. 決断主義

サバイブ系で必ず採用されるのが決断主義である。決断主義とは、「その世界の理不尽さを受け入れ、少々の悪を受け入れてでもなんとか生き残る」という態度である。たとえば『DEATH NOTE』で夜神月はノートの力を使って悪人を殺すという悪を引き受けるし、『コードギアス 反逆のルルーシュ』で主人公のルルーシュは人心を操る力ギアスを使って友人や初恋の人を犠牲にしながらも自身の命を犠牲にすることで争いを終わらせる。

これらの決断主義はセカイ系の神経症的・引きこもり的な物語構造から進歩していると宇野は評価する一方、その問題点も指摘している。決断主義は『ロスジェネの逆襲』についての拙論で述べた「すべては自分次第だと主張する瀬名」のように、一面で「理不尽な世界」を肯定する側面を持っている。また、宇野が指摘するように決断主義は容易に集団的暴力やセクショニズムに発展する可能性を秘めている。昨今の分断を見てもこの予想は正しく、また、同時に宇野が提示した克服可能性の限界も意味しているだろう。

決断主義のこどもたち

さて、本書が発刊されたのが2008年なので、当然ながらその後にもたくさんのコンテンツが生まれ、世に受け入れられた。その中で決断主義の系譜を受け継いでいると考えられる作品を私が恣意的に取り上げ、決断主義がどのように扱われているかを取り上げたい。

魔法少女まどか☆マギカ(2011年)

ひょんなことから魔法少女になったまどか。少女アニメのヒロインになれていたのも束の間、先輩魔女まみは魔女との戦いであっさりと命を落とし、親友のさやかは魔女になってしまう。「僕と契約して魔法少女になってよ!」と誘ったマスコットキャラ的存在キュウべえが黒幕で、キュウべえは魔法少女と魔女と戦わせ、その感情のエネルギーを回収することを目的としていた。タイムリープ能力を持つ暁美ほむらが何度も「ワルプルギスの夜」をやり直すことによって、まどかが魔女になることを回避しようとしていることが物語の終盤でわかる。まどかは自身が「円環の理」となることで、すべての魔女と魔法少女をなかったことにして、消滅する。

進撃の巨人(2009年-2021年)

巨人から身を守るために壁に囲まれた世界で生きる人類。壁の外の世界に行くことを夢見るエレン・イェーガーは、街を襲撃した巨人に母を殺されたことをきっかけに、幼なじみのミカサ・アッカーマン、エルミンとともに、巨人を調査する調査兵団に入団する。壁の外には別の人間たちが生きる世界があること、巨人が人間から人為的に作られたこと、自分たちはかつて巨人の力で世界を支配したエルディア人の末裔で世界から忌み嫌われていること。数々の秘密を知ったエレンは、自分が巨人たちを操る力を持つ「進撃の巨人」であることを知る。ナチスによって迫害されたユダヤ人を思わせるエルディア人のエレンは、復讐による連鎖を引き受けるために、巨人たちの行進(地ならし=世界を滅ぼす核兵器のメタファー)を発動させる。エレンをとめるために一丸となった調査兵団は、崩壊の危機を迎えた世界の全線に立ち、エレンに対峙する。ミカサはエレンを殺し、地ならしを止める。愛する幼馴染を手にかけたミカサの決意と、自らの命を犠牲にしたエレンによって、この世から巨人の力(=ユミルの呪い)は消え去る。

鬼滅の刃(2016年-2020年)

鬼に家族を殺された竈門炭治郎は、冨岡義勇の導きによって鬼殺隊に入隊する。鬼になった妹の禰󠄀豆子とともに鬼殺隊で戦う炭治郎は、鬼殺隊の幹部である柱たちとともに鬼の幹部である上弦の月と熾烈な戦いを繰り広げる。師匠である炎柱・煉獄杏寿郎の死を乗り越え、徐々に上限の月を倒していく。最終決戦で無限城に挑んだ炭治郎ら鬼殺隊は、煉獄の仇である猗窩座を倒し、鬼の頭領である鬼舞辻無惨を追い詰める。最後の戦いで、多大な犠牲(柱の大半と前当主の命)を出しながらも勝利する。

 

 

これらの作品に共通するのは、主人公たちをめぐる状況は相変わらず理不尽だということだ。『進撃の巨人』でミカサは「この世界は残酷だ」と言っている。本人たちの過失とは言い難い状況で苛烈な状況に巻き込まれた主人公たちは、そのルールの中で勝利を掴み取ろうとする。そして、その勝利は最終的に自身の破滅を代償として、世界のルール自体の変更をもたらす。まどかは自身の命と引き換えに魔女と魔法少女をなくし、エレンは自身の命と引き換えに巨人の力をなくし、炭治郎は仲間の死と視力を引き換えに鬼のいない世界を手にいれる。この中では『鬼滅の刃』が例外的に主人公炭治郎の生存を許しており、なおかつ死んでいった仲間たちの生まれ変わりを思わせる子孫たちの姿が描かれるエピソードが最終話になっている。私などは旧世代の書き手だからか、このエピソードをほとんど蛇足と受け止めたが、肯定的な意見も多かったようである。

主人公たちは必ずしもハッピーではなかったが、ともかく世界は変わった。決断主義的ハッピーエンドと呼んでよい世界がここにある。これらの物語は時代を代表するといってよいコンテンツであり、なおかつサバイブ系に似た構造を持っている。

では、これら「ゼロ年代の子どもたち」は宇野が指摘した「決断主義の問題点」を克服できているのだろうか? 私にはよくわからない。「世界をあるべき姿に戻す」という点で『まどか』『鬼滅』は保守的であり、「勝手に世界を作り変える」という意味で『進撃の巨人』はネオリベ的である。

ここで宇野に解釈を頼みたいところだが、私はその後の宇野の著作をあまり追っていないので、どのような思想的変遷があったのかはわからない。続く『リトル・ピープルの時代』では、大きな暴力とそれに立ち向かうリトル・ピープル(これは村上春樹の語である)についての論が展開されているのだが、宇野が『ゼロ年代』で開陳した見取り図ほどわかりやすい図式ではなかった。その後、宇野はテレビ出演やサロン的なコミュニティ(Newspickなど)に多く出演することで、いわゆる文芸批評家のようではなくなってしまった。

これは宇野が2010年代を総括するような批評行為を行わなかったからというだけではなく、「サブカルチャーをピックアップすることで世界を語る」という行為が無効になったのではないか、と私は考える。自分で構築したタイムラインを追うSNS全盛期に、カルチャーを共有することは稀になった。そして、YouTubeやSpotify、tiktokのストリーミング時代になると、カルチャー自体がスーパー・フラットになり、もはや特定の世代が追いかけている同時代的なコンテンツを創造することさえ難しい。

二十年代の(ロスジェネの)想像力?

いったんまとめよう。

宇野が提示した決断主義の克服が結局どうなったかはともかく、ゼロ年代に20代から30代であったロスジェネにとって、メジャーな作品のいくつかが備えていた「サバイブ系&決断主義」という世界観を熱狂をもって受け止めていたこと、そして、そこから抜け出すためのオルタナティブを希求していたことは、時代の雰囲気として納得のいくものであった。理不尽な世界で否応なしに戦わなければならず、そしてその世界を克服することをもって悲劇的なラストを受け入れる。これは『ロスジェネの逆襲』で半沢直樹が部下の森山に告げたアドバイス「不平不満を言っていないで世界を変えろ」を実践しているヒーローたちに見える。

いま40代から50代になったロスジェネたちがこれらの世界観をどう受け止めているのだろうか。そして、どう変わったのだろうか。

まず、念頭に置きたいのは、それぞれのロスジェネの人生がその後に大きく分岐したということである。家庭を持ち親になった者もいれば、非正規労働のまま独身を余儀なくされた者もいるだろう。ゼロ年代からずっと引きこもりを続け、いまにいたりいよいよ深刻な事態になった者(8050問題)もいるだろう。そうした人々がいま何を考えているのだろうか。もしかしたら、20年代のロスジェネんの創造力は枯渇してしまっているのかもしれない。

宇野が『20年代の想像力』を書いてくれていれば「いまのロスジェネが消費しているコンテンツ」が見つかるかと思っていたのだが……と、ここまで書いて調べたところ、なんと『2020年代の想像力』を宇野はつい先週に出版したばかりである。この新刊に果たして答えが書いてあるかどうか、興味のある方は一読してほしい。

 

この作品は2050 年 3 月 5 日まで破滅派で読むことができます。

2023年8月29日公開

© 2023 高橋文樹

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