第二編 聖なる名前について
『語りえぬものについては、沈黙せねばならない』――そう締めくくられた本がある。たしか、その著者は実際に沈黙し、小学校の教師として黙々と働いたらしい。その後どうしたのかまでは知らないけれど、一つの正しい態度だとは思う。
沈黙によって、語りえないものを示す。私もまた、そうすべきなのかもしれない。書かないことが、私の想いを一番よく示しうるのかもしれない。
しかし、そうするわけにはいかない。私にはどうしても気にかかる一つの言葉があるのだ。
マサキはその人生の最後、カフカの『訴訟』に出てくる寓話『掟の前で』について話していた。そしてほとんど唐突に「信仰」という言葉を口にした。なぜ彼はあんなことを言ったのだろう? なぜ彼は私と「城」に行きたがったのだろう? なぜ彼はホームレスを襲ったのだろう? なぜ私は彼を撃ったのだろう? なぜそれをいつまでも自覚できずにいたのだろう? なぜ元史を殺したのだろう? なぜいつまでも罪を悟れずにいるのだろう? なぜ人の命を奪ったことにこんなに無関心でいられるのだろう?
幾つもの問いは答えを与えられずに宙ぶらりんのままだった。解けないのは問題の設定が悪いのだと、もう一度はじめからやり直すことになる。それでも、ほとんど謎でしかなかったマサキという存在は、不可解な世界にぽろりと零れ落ちてきた鍵のように思えてならなかった。
信仰とは少し違うけれど、「祈り」は心の技術だと読んだことがある。それは何かが顕現したり、達成されることを願う欲望ではなく、心を洗練させるための準備体操のようなものだと。私はそれをもっともだと思いながら、信じなかった。胡散臭い。心は技術化できないから心なのであり、技術化できたらそれは身体だ、祈りはあくまで願望に過ぎない、と。
しかし、誰かのために祈ることは、そんなに悪いことじゃないと昔から思っていた。亡くなった私の母は、姉のためによく祈っていたから。
私には『掟の前で』という掌編の絶望的な終わり方をどうすることもできない。それはもう書かれてしまったのだから。しかし、ある意味で、田舎者が掟の前で中に入ることを祈りながら死んだことも仕方のないことなのかもしれない。本当に絶望した人、他に何もできることがなくなってしまった人しか、もっとも強く祈ることはない。信仰とはそもそもそういうものなのだろう。
私はMについて書くことを選んだ。田舎者の私にとって、信仰の対象になりそうなものはそれぐらいだったから。これまで書いたものは、言うなれば、信仰告白だったし、もう書き終えてしまっている。あとは田舎者のように野垂れ死ねばいい。
でも、それだけじゃ駄目な気がする……駄目なのだ。
誰かの信仰をその想いの強さのまま受け止めることはできないだろうか、誰かの祈りを祈ることはできないだろうか。他者を踏みにじりつづけてきた私には、もうそれしか道が残っていない。
『掟の前で』の田舎者が門に入っていたら、『城』の測量士が城に辿り着いていたら――つまり、カフカの主人公たちが「そこ」に辿り着いていたら――きっと、ろくなことにならなかっただろう。それでも、私はそんな流儀で書かなくてはならない。そして、たぶん失敗するだろう。私はやはり、田舎者で、あつかましい測量士なのだ。
『わたしが究極的な問いに攻撃を仕掛けられて背後の武器を掴むとき、いろんな武器から選ぶことはできない、選ぶことができたとしても、「無縁な」武器を選んでしまうだろう』――たしか、カフカの言葉だ。私はMについて語ることを選んだ。そして、それはこれから書くにあたって、正真正銘の「無縁な」武器となる。「無縁な」武器を選んだ末に、戦い続けるべきなのか、諦めてしまうほうがいいのか――カフカの答を私は知らない。もしかしたら、カフカはその答を出していなかったかもしれない。
この期に及んで、私は何を書くべきだろうか? まだ書くつもりか? 書き続けて徒労に終わるのが怖いのか? 人生がもったいないというのか? もう犬みたいに死ぬのが決まっているというのに?
カフカは友人のマックス・ブロートに、書かれることのなかった『城』の結末を語っている。主人公Kは結局城まで辿り着けずに疲れきって死んでしまう――たしか、そんな感じの終わり方だ。そこまでわかっていながら、どうして書けなかったんだろう? それとも、どうせそんな結末なら、書かれなくてもよかったということだろうか? なんにせよ、犬死にはそれなりの終わらせ方があるのだろう。
使い古され、役立たずになった同じ武器をぶん回すのも一つの手だ。それはしばらくの間、信仰告白であり続けるだろう。そして、その私小説めいた告白録が現在に追いついたとき、違った姿を見せるかもしれない。
『使いすぎた金槌が壊れると、使い道のない、得体の知れない道具に変わる。そして、それこそが金槌の真の姿である』――これはたしか、存在に関する重要な命題だ。よく実存主義哲学で取り上げられたものだったと思う。
ひどい結果に終わるような気がしないでもない。自然数を一から数えていくような、退屈な羅列。私は自分の書いたものがそうなることを欲しない。
それでも、私には他の方法がない。『城』の法律的所有者である双子の老人の手から、警察に引き渡されるまでのことから再開し、信仰告白を続けていくしかない。他の方法はさんざん試した。詩や、写経や、短歌や、点字翻訳や……そして、どれも駄目だった。
『神は細部に宿る』とは言うが、具体的なことを書いても本当に大事なことはわからない。何より、私がMに惹かれたのは、そういう具体性を飛び越えるような「何か」だったから。
私の前に開けているのは、細い道だ。迂遠で、煩雑な遠回りの道。誰もがそこで野垂れ死んだ、どこまで続くかわからない道。途中では死神がひょっこり顔を出すだろう。それまでに私はどれだけのノートを残せるだろうか。
私は唯一の道を行く。他にやりようなんてなかったのだ。
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