夢見る力

北千住ソシアルクラブ(第8話)

高橋文樹

小説

4,944文字

元ジャーナリストのクリボーはなぜかひきこもりに懐く。しかし、出会いがあれば別れがあり、ついにあのタイ人は……

小春日和の陽が落ちるまでに原稿用紙とのにらめっこを演じるが、まだ一文字も進んでいなかった。その間にも万年筆のインクが乾いていく。オイオイ。架橋下の影は夕暮れの中に溶け込んで、暗闇が書かないことの言い分を作ってくれるまで、もう少しという時間だった。

「おじさん、おじさん、僕だよ」

顔を上げると、クリボーが立っていた。膝下まで伸びるアディダスのハーフパンツはロゴが古い楓型のままで、親近感を持たせた。

「なんだよ、いじめられっ子が俺を見下しに来たか」

クリボーはしきりに頷いた。が、フェンスにかけた指の幼さからいって、見下すという言葉の意味も解っていないらしい。

「調べ学習の続きだよ」

「他の奴等はどうしたんだよ。逃げたか」

「僕が調べたのを出すって」

「それじゃあ使いっ走りじゃねえか。プライドねえのか」

「だって、僕しからやらないから」

「だから、プライドは無えのかよ」

クリボーは下唇をぷうと突き出して、なんとか涙を堪えている。なんにせよ、母親が美容院なぞで髪を切らせるから悪いのだ。クリボーの髪型は女みたいだった。母親が息子に向ける捻じ曲がった理想の子供像に忠実過ぎて、弱さ、柔らかさばかりが目立っている。

「他人に使われんじゃねえよ。おまえの人生だろ」

クリボーは頷いた。しかし、プライドも他人も人生も、たかだか十歳かそこらの子供には言葉本来の意味を持たない。説き伏せたところでクリボーはあの子鬼どもに殴りかかったりはしないだろう。ひきこもりは寝転んだ。ラッパズボンのあちこちに開いた穴が、相変わらず冷気を吸い込んでいる。

「解ったよ。協力してやるから、勝手に調べろ」

堤防のコンクリート製小段の上で、東武伊勢崎線架橋の下。そこにでんと寝そべる三十男の迫力は、おお、とクリボーをおののかせる。子供には知るよしも無いが、ロックスターの怪しい迫力に通ずるものがあった。クリボーはジャポニカ学習帳を開いて前のめりになった。かつて田舎を出るときに夢想した、『ロッキンオン』の編集者にインタビューされる妄想も色鮮やかに、ひきこもりは、ファック、と呟いた。

「場所を変えようぜ。ここじゃロックできねえよ」

そう言われて虹の広場のベンチへ向かったが、開口一番に問われたのが、「将来の夢は何ですか」だったために、思わずぐむうと鳴いてしまった。三十を過ぎてこの状態では夢も語れない。それにそもそも、私小説を書くという決意は夢としてぽろぽろ漏らすものでもない、ある種の悪どさとして封じ込めておくものだ。その封印の隙間から漏れ出る瘴気が文学となる。

「まあ、夢はえな」

「無いの?」

「よく見るけどな。嫌になるほど寝てるから」

「その夢じゃないですよ。もっと……」

突き出した掌でクリボーの言葉を押し止めて、ひきこもりは目を瞑った。

「解ってるっつうの、そんぐらい」

「じゃあ、ほんとに夢が無いんですか? それじゃあに……」

2015年7月23日公開

作品集『北千住ソシアルクラブ』第8話 (全10話)

北千住ソシアルクラブ

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© 2015 高橋文樹

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