いい名前

ハムスターに水を(第6話)

高橋文樹

小説

3,913文字

寛美へ。

君がこの手紙を読んでいる頃、ぼくは姫岡さんを殺していると思う。起きてすぐにこんな手紙を読むのは嫌かもしれないけれど、大事なことが書いてあるから、とりあえず読んでくれ。

クローゼットの上、ミハラヤスヒロと書いた靴箱があるんだけれど、その中に足利銀行の袋と大きい封筒、そして小さい封筒が二通入っていると思う。

小さい封筒のうち、一通は東京の虎ノ門にある日野記念病院の岡本先生宛ての紹介状だ。ぼくは姫岡さんを殺したあとに自首するから、一緒に行ってあげられないけれど、この先生には話を通してあるから、渡せばわかる。顔面再建手術の権威だよ。頬のひっつりも、目の横のひっつりも治してくれるし、新しい耳も作ってくれる。なんでも、今はそういう技術があるんだって。軟骨を移植すると、勝手に耳が再生するんだってよ。耳だけは保険が利くから、全部で五〇〇万円ぐらいのはずだ。足利銀行の袋には九〇〇万円が入ってる。少し余分に残しておいたから、足りないということはないと思う。

小さい方のもう一通は、高崎という男の連絡先だ。彼は柏でセレクトショップを経営してる。最近は中目黒にも店を出したらしいから、かなり繁盛してるんだってさ。ゲイだけどいい奴だから、困ったことがあればこいつに言うといい。もし仕事をしたくなったら、雇ってくれるように頼んであるから、遠慮なく言ってくれ。まじめに働きたくない場合はそう言えば、店の隅っこで本を読んでるだけでもいいそうだよ。中目黒は閑静な町で、客層もいいから、楽なんじゃないかな。

大きい封筒は、まあ、小説みたいなものだよ。ぼくが書いたんだよ。すごいだろ。君以外の人が読むために書いたものなんだ。高崎でも誰でもいいから、渡してくれ。恥ずかしいから、読まないでくれよ。

さて、ちょっとバタバタしてしまうけど、ぼくはずっと姫岡さんを殺そうと決めていたんだ。君の手術費用が貯ったら決行することになっていた。君は気を使う必要なんてないよ。ぼくを待つ必要もないし、綺麗になったら楽しく過ごしてくれ。尼さんになったりするのはいいんじゃないかな。きっと綺麗な尼さんだったら、檀家もたくさん増えて商売繁盛だと思う。

そうだ、ここで一つ、いい話を。

塾で英語を教えていたときのことなんだけど、英語で〈able〉ってあるだろう? これがついている形容詞は「~できる」という意味だって教えたんだ。〈portable〉、〈believable〉、〈agreeable〉、〈enable〉……。中三の難関校を受ける子は、それぐらい知っていないといけないからね。

ところが、ある生徒が〈stable〉っていう単語を出して、じゃあこれは、と訪ねてきた。よくよく調べるとね、これは別に〈able〉から派生したわけじゃないんだよ。「じっとした」という意味の〈sta〉と「場所」と言う意味の〈ble〉の合成語なんだ。意味は「確固たる」とか、「安定した」とか、「びくともしない」とか、そんな感じだよ。塾講師をやっていると、いつも思うんだけど、生徒に教えられることってほんとうに多いね。

結局なにが言いたいかというと、身体というのはとても〈stable〉なものなんだよ。それはどうしようもなくそこにあるし、身体なしの寛美なんて考えられない。ぼくはこの四年間、君の身体を取り戻すためだけに必死にお金を貯めてきた。君の身体は君自身だよ。抜け出ることも、捨てることもできない。君はそこにいていいんだ。その綺麗な身体に収まって、でんとしてればいいんだよ。君には世界の一部分を占拠する権利があるんだ。ぼくが姫岡さんのことを殺すのは君の尊厳を守るためだし、ぼくの権利を守るためでもある。哲学用語で言えば、存在論的掃除だ。形而上学的に場所を空けないといけない。

寛美、ぼくは君の身体が大好きだよ。もちろん、それは人間性とか性格がどうでもいいというわけじゃないんだ。君は身体なしにはこの世に存在できない。君を抱き締めるときはいつも、君の全存在を抱き締めるようなつもりでいたよ。

ようするにね、ぼくは君のことが大好きなんだ。ぼくはずっと君に夢中だったし、ほんとうに幸せだった。別に疲れもしなかったし、毎日が楽しかった。君が寝たとき、ぼくはそっと起きて、君の顔を見たりしたんだ。まるで夢を見てるみたいだったよ。ほんとうに、なんでこんなに綺麗な生き物が生まれたんだろうって、いつも感心していたんだ。

なんだか、もう書くことが思い浮かばないよ。好きだ好きだと繰り返すのも芸がないしね。そうだ、もしも手術が終わったら、一度ぐらい顔を見せにきてくれないか。それだけでぼくは、人生がどんなに孤独だって耐えられるから。

それじゃあ、さようなら。ぼくの人生で一番大切な存在である寛美へ。

 

 

ぼくはそう書いている。この物語を書き終える頃、二〇〇六年の夏ぐらいに。無精子症の快気祝いで貰ったモンブランの万年筆は、使いすぎてペン軸がゆるみ、インクの出が多くなってしまった。濃淡の跡でどの文字を丁寧に書いたかがわかってしまうかもしれない。ぼくは「身体」という字を熱心に書く気がする。まるで、その文字に寛美の完璧な身体を象徴させるみたいに。

寛美が怪我をした二〇〇二年からほんとうにたくさんのことが変わった。

今年、ミニ・クーパーはラインナップを一新し、チェックメイトという恐ろしくオシャレなシリーズを出した。新車価格で三〇〇万、最後の思い出にと試乗した限りでは、エンジンの性能が桁違いだ。サックスブルーを選ぶこともできるから、ぼくが大金をかけてカスタムした1.3iなど足元にも及ばない。

2015年7月21日公開

作品集『ハムスターに水を』最終話 (全6話)

ハムスターに水を

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© 2015 高橋文樹

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