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竹馬

竹馬(第1話)

腥田をにゆり

タグ: #純文学

小説

13,570文字

一、カレー

 

キリコは悪で、ブラックジャックは善。果たしてそうだろうか?——朝になったら、私は相変わらずこの前のカレー屋で読んだ単行本に悩まされて、しかも、卒論を書くために文献が溜まっているのだが、私は何故かキリコを善だと直感して、——あるいは、私はただの安楽死肯定派なんだろうか? 時々、こういう正しいか否かが頭痛の種となって、そんな時はなるべく外に出て、朝の清潔な空気を体に取り込もうとする。

イマヌエル・カントの道徳の視点からして、かつての戦場での経験で、安楽死を一つの治療法として採用するキリコの理念は、あくまで仮言命法であり、——要は、彼は他人ではなく自分の経験から由来した整合のために自ら言葉を作り、それを他人に押し付けたにすぎないのだ。また、苦痛を無くすために自らの命を破壊するというのは、一種の論理的矛盾である。例えば、エアコンがカビだらけで、まずやるべきことは清掃か、買い換えることであり、破壊は最も意味のない行動であろう。——では、絶望に陥った人間は清掃される術も、そのまま交換する術もなく、もし絶望させないことが一つの善であれば、この状態をただ放置するのは果たして善なんだろうか?——それこそ、放置という行動自体が、「関わりたくない」という心理への解決案であり、仮言命法であり、また、その放置行為自体を善と是するのはただの自己欺瞞ではないか?——ブラックジャックは現実にいない。つまり、キリコは現実にいる人物であれば、彼の行為を否定するのは困難である。

彼は経験も技術もあり、クランケの意思も尊重して、最善な「関わり方」で接するだけであった。ただ、その関わり方は「死」という結果がついてくるのだ。では、例えば現実にブラックジャックがいるとしたら、彼は実際に救えることのない難病を自信満々に治せるという時点で、クランケ本人の絶望的な心情よりも自分の技術に対する自慢が先に来たので、私はどうしてもそれを道徳的だと判断できなかった。たとえ、クランケがその怪しい闇医者を信じて、手術を願って、治療が成功した場合、クランケは一度自分の命を彼に丸預けにしたのであって、その莫大な責任義務が発生した時点で、真の善とは言えるのか?——そうだったら、アセットマネジメントは皆善良であろう。


 

二、鹿肉

 

用事もなければ、渋谷のような忙しい性起Ereignisに赴く必要は全くないが、ここは時間が歪んでいる。ずっと四角のままで東京の若者↔︎観光客↔︎地下アイドル↔︎ビジネスマンを運んでいる。どうりで、成長するような場所じゃなかった。人は来なくなるが、それは成長するにつれて渋谷に相応しくなくなったのであって、「渋谷らしく」振る舞わなければ行ってはいけない場所になっているせいか、却って、渋谷は永遠に渋谷の再演ループとなっていて、新しさと若々しさはまた欺瞞である。町は常に新しい人を受け入れるだけであっても、決して数年前と比べて何かしら進歩することも、成長することもなく、ショーケースですらなく、人が想像した遊戯場をコピーしつづけるのである。一〇九も、あの小さな本屋も、犬もずっとあのままだった。親は若い頃も渋谷で遊んだ人間である筈だが、彼らが想像した渋谷はまさに今の渋谷と然程、変わらずにあって、彼らが渋谷は若者が行く場所だと言ったのは自分の懐古主義から来たのではないか?——まるで、家に上がる前に靴を脱いでくれと命令するのに似た口調で、この定言命法は渋谷の新しさを担保するというより、その場はいろんな家庭のコミュニケーションによって固着したと感じた。東京は駅ごとに箱となっていて、東京人の若々しさはそうやって分類され、渋谷という四角の箱に入れられたのではないか……。

フランス料理は食べる機会がないとはいえ、ロカンタンの嘔吐物に何が入っているかは以前から気になっていたので、丁度、奨学金の返済を早い段階で計画的にやっていくつもりで、鉢山町のとあるフレンチにバイトの応募をして、そして無事に採用されたのであった。鉢山町まで来たら、駅前とはまた別世界となっていて、朝っぱらから犬の散歩をする資産家のような男もいるので、フレンチはまさにこういう人生の課題をほぼクリアした優秀な人間の為にあるのではないか?——鹿肉はフレンチじゃなかったらグロテスクなジビエの筈だが、フレンチというラッピングがあれば、鹿肉も何かしらヨーロッパの優雅な馨りを帯びている。


 

三、玉ボケ

 

「capek」「lelah」「letih」「penat」「lesu」「payah」「kelelahan」「stres」「jenuh」「bosan」「lunglai」「loyo」「erak」……。インドネシア語の辞書を適当に巡ったら、疲れを表現する言葉は多様で、南国は常にバカンスの印象だったが、どうやらこれも一つの先入観なんだろう。——インドネシア人は常に疲れているのではないか?あるいは、定言命法に対する反論の言葉が多かったからこそ、自由に生きるのではないか?——バイトし始めたら、「お疲れ様です」の万能さから抜け出せなくなり、そういえば、「お疲れ様です」は定言命法でも仮言命法でもありえるのか?——普段はあまり意識してないが、疲れというネガティブな事象を尊敬語にすることで、まるで労働のコストが肯定されるような、そんな空気は人を歯車にしてしまうのではないか……。なるほどこのような挨拶は、ついつい使いたくなるくらい便利で、そして、労働する時にだけ発生するというのは、その都合の良さ、即効性によるものなんだろう……。あと、この手の尊敬語は大抵の場合、厄介なニュアンスが含まれる。お客様もお日様もお母様も大抵厄介だから。

去年の五月、まだ梅雨入りする直前で丁度花粉症がまあまあ酷かった頃の話だが、新宿御苑で読書しようとふいにそういう気持ちになり、当時は天気が良かったのとゴールデンウィークの最中だからとにかく苑内の人が多かった。レジャーシートを敷いていた人も多かったし、苑内唯一のスタバに行ったら明らかにキャパオーバーになって、——あの店だけはなぜか作りがパノプティコン的だったな……。コーヒーを待ってる人たちは延々と時間と共に監禁された気分になって、一刻も早く自由を欲しがっても、自分の番号がなかなか来ないので結局一時間以上は待っていた。東京に居れば、殆どのことは時間というコストが発生するが、しかし代わりに東京にしかない体験というのは確実にあるから、みんなそれを理解して、どこに行っても律儀に列を並んだ。東京のない人生は人生じゃないとすら思えるくらい、東京はそんな忙しい性起Ereignisと陶酔を提供してくれて、労働の「お疲れ様」もまた、列を並ぶのと似た複雑な感情である。この巨大なパノプティコンに居たら、どの人も自分は囚人側か監視側か一瞬にして忘れる。——労働はコストが発生しても、それは東京という楽園への入場券なんだから……、それで、いよいよ自分の番号が回ってきたら、私は頼んだカプチーノを持って座れる場所を探しに行った。そして、陽射しがあまりにも強かったので、程よい木漏れ日を探した所、やっと古色のブナと池のあいだに空いてるベンチを見つけて、そこで読書し始めた。
「あの、ここは座っていいですか?」

と本を開いた数分後、紳士めいた柔らかい声が上から降りてきて、私は手を止めて、声の元を一回確認した。

身長は二百くらいありそうな、そんな大柄だが、まったく威圧感のない白人の男性だった。天パなのかパーマなのか判別のつかないクリンクリンとした髪の毛で、——昔、教科書で見たダビデ像そのまんまだった。眼窩が深いのと、額が隆起したから眼元に深い陰翳がかかっていて、その身長と相応しくない華奢な四肢とが相まって、神経質な学者風を作った。

それは彼との最初の出会いだった。どうぞ。と返事したら、彼は隣に座って、カメラのデータを確認し始めた。
「どこ出身ですか?」
「ぼくはイギリスから来て、仕事で滞在しています」

彼は一回手を止めて、よく見たら眼の色が青かった。外国人と話す経験はそんなにないので、あの青さが不思議に思えた。それで、彼も私が読んでいる本(今となったらどの本だったか忘れたが)が気になったので、話が弾んだ。

若手の映画監督の彼は日本の風景を撮影して、自分の自主映画に使うつもりだったが、私がなぜ日本でなければいけないかと彼に聞いた所、彼が「日本Japan無神論Atheism聞いたthey saidけど、しかしHowever,平和そうでいい場所people are so nice so peacefulだった」と話した。あまりにも皮相的な発想だが、しかし自分も海外に行ったことがないので、反論する言葉は咄嗟に見つからなかった。観光客の身と実際に住み始めるのと、また感想が変わるんだろうと、少なくとも日本は丸切り楽園であると肯定したくはなかった。私は平和について考えて、今ガザのことどう思うかと聞いたら、彼は「自分の母さんはユダヤ人だから、親戚も何人かイスラエルにいるよ」と急に日本語に戻って、そして彼が続けた。——「だから撮影して、いつか戦場にも行ってみて、世の中にいいことも悪いこともありのままに見せたい」と。

おそらく母語じゃないので、実際英語で会話すれば、こんなに皮相的にならないのだろう。語彙が不足したために、いちいちそんな深刻さが伝わらなかった。まるで玉ボケだった。私はその時、「日本はアンパンマンがありますから、アンパンマンはキリストですから、実は無神論Atheismじゃありませんよ。みんな隣人にパンを分けるのを善だと思っています」とだけ返して、
「Oh…それは善じゃない。自己犠牲なんだよ」と、彼が急にすごく微妙な表情になっていて、その返してきた「自己犠牲」はなぜかいやに正確なイントネーションだったので、余計に重く感じてしまった。


 

四、蛙

 

新宿御苑で出会った青い瞳の彼と仲良くなれて、丁度梅雨入りした頃、その日、私が卒論の六割程度を書き終えて、思うほど絶好調のど真ん中、ガス抜きするつもりで、ついつい彼を誘った。彼が坐禅の教室に参加して、教室が終わった後に私たちは渋谷で待ち合わせて、予約した漫画喫茶に向かった。

店に入ったら、彼が在留カードを店員に提示して、ふいに在留期間の数字が眼に入った。もし彼が帰ったら、当分は一緒に映画交流会できる仲間がいなくなるだろうと少し悲しい気持ちになっていて、それが気づいた彼が「大丈夫だよ、また観光しに来るから」と相変わらずその大柄と相応しくない愚直な平熱さで声掛けてきて、私は頭を上げて当時の彼はどういう表情なのか確認しようとした。しかし彼は狭い店の中にすぐにでも移動しないと、動線を邪魔してしまうような、そんな気持ちにもなったせいか表情は早い動きの中に消えて、読み取れなかった。

ドリンクバーも同じく狭い廊下に配置されて、明らかに消費者目線を逆手に取るように、使いにくさを前提に設計されたかのよう。私たちは決められた部屋番号に向かうついでにお互いはコールドドリンク一杯ずつを素早く作って、次の狭い廊下へ向かった。

ドアを開けたら、ドアの可動域と靴を置く土間の面積とピッタリ重なり、クッションを踏まないようにどうにかドアの裏側に回ったらやっと靴を脱げた。しかし、彼は本当に大柄で、ガンダルフがホビットの住居に入るシーンを思い出すほどどこか滑稽だった。実際、彼も日本の家は狭いと自分から話したことがあって、ただ、彼はそんなミニチュアな所にも日本らしい魅力を見出したという。

個室は土間以外、一面の黒いクッションが敷かれて、まさに昔の新聞記事に出てきた人身売買の巣窟と似たアングラさがあった。高校時代の同級生は付き合った彼女と、こういう個室で乳繰り合ったらしいが、——そう考えるとクッションはちゃんと消毒されたかと一瞬気になって、また、彼に東京の小汚い所を見せるのにも後から少し後悔を感じた。

私は鞄から、TSUTAYAのサブスクからレンタルした円盤を取り出した。ガス・ヴァン・サント監督の『エレファント』なのだが、梅雨の日には相応しい映画だと思った。コロンバイン高校銃乱射事件を最も美しく撮った映像なのだが、犯人は最後まで心境が読み取れないのにどこか不思議であって、それなのに深刻さがちっとも薄められていないので、映画監督の彼はこの作品をどう見るかと、前から気になった。

© 2026 腥田をにゆり ( 2026年6月13日公開

作品集『竹馬』最終話 (全1話)

竹馬の全文は電子書籍でご覧頂けます。 続きは現在販売準備中です。乞うご期待。

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