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最近のフィルターバブルに就て

腥田をにゆり

R15注意 ※後半に身体欠損および残酷な描写が含まれます。

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タグ: #グロテスク表現 #純文学

小説

6,708文字

最近のフィルターバブルに就て

腥田をにゆり

ネコの動畫を観るのが日課で、とっくの昔から私はネコの動きだけでオスかメスを一瞥で視分けるのが得意である。たとえば、漫畫のキュルガはああいう誘惑的なフォルムなのだが、飼い主への甘え方はまさにオスそのものだ。逆説的に、人間でも男の人のほうが独立心は女の人と比べて低いのである。だから、世界中に様々な通過儀礼があり、男の人に成人であることを意識させ、内なる変革をシステム化することによって要請するのは、誰しも男の子は親離れを強制しないと延々と実家にしがみつくとわかっているからだろう。それで、男の人は矢張り甘えたいなら甘える生き物なので、こうして、夜のサービスが衰えないのである。

話に戻るが、ユーチューブであまりにもネコの動畫を観すぎたせいか、池島の動畫が最近頻繁におすすめ欄に出てくるようになった。池島は日本列島の西南に位置して、長崎の港からでしかフェリーを出せないが、炭鉱として栄えたその島はかつての栄華を失い、今やどこにでもある過疎地域となってきている。また、その島に暮らしているネコの方が人間よりも多いのではないかと推察する。あとは個人的な話だが、コロナの前は一人旅をよくしていて、池島は丁度佐世保で暫く滞在した頃に、上陸する機会があった。長崎の何かが良かったかといえば、長崎電気軌道の路面電車が凄く良かった。あの時は長崎市内の眼鏡橋で有名なハート形の石を探したり、朝五時くらいに起きて何もやることがない時は適当に散歩して、駅から少し離れた所に真実の口のレプリカがあるので、一人でローマの休日でも演ってみたり、今となったら貴重な思い出となっている。それにしても、長崎市内に美形が多いことは、とりわけ印象的だった。本当に都内の表参道にでも歩くような気にもなって、かつての出島の歴史やらを考えると、頻繁に海外と交流することで顔立ちはっきりした人が沢山いても無理はない、と、あくまで自分の想像でしかないが。

今年の六月末は知り合いと一緒に桜木町に向かい、あの日は台風が過ぎたあとだから空気が澱んでいて、一日中ミー散乱で空には嫌な蒼白がかかった。向こうはいつものせっかちな性格で、ランドマークタワーで待ち合わせるとまだ上映の三十分前なのに細かくラインで催促して、待ち合わせた後も「早く〳〵」とまた言ってきて、向かった時はブルーボトルコーヒーの店舗があるのにコーヒー一杯を頼む余裕もなかった。「そういえば、ブルーボトルってレジに呼ばれる時、人のフルネームなんだよね」とそんな話になって、「まるで病院だな」と一度想像していたらふと笑ってしまった。

ここの映畫館は初めてなのだが、小さな複合施設となっていて、一階に蔦屋書店とスタバで二階は今回目的とした映畫館だった。

二階に登る途中に、ホラー映畫のポスターが一杯貼られてあって、いよ〳〵暑くなるだろうなと台風のあとはまだ涼しかったが、自分は酷暑が苦手なもんで、今年はできればささっと暑くなってささっと秋になればと階段を登りながら願うばかり。しかし、マイケル・ジャクソンという最近の若者たちには馴染みのないポップスターの映畫をやるんだなと少し気になり、時期的にホラーが多いが、『スリラー』だからホラー繋がりなのかと思っていたり、佐藤二朗のポスターと一緒に並ばれるのがどこかシュールさを感じて、けどどちらも存外面白そうではあるので、この夏こそ映畫を積極的に観ても悪くない気がした。今思えば、前回はどんな作品を観たのか全く思い出せず、確かに去年か一昨年は『ジークアクス』と『オッペンハイマー』を観る記憶があった。『ジークアクス』というのはいわばガンダムものなのだが、キャラクターが昔好きな『フリクリ』というカルトアニメに似ていたので、知人のキャメラマンと観に行った。作品の制作目的も丸切り若者にもっとガンプラを売りたいという下心がみえ〳〵で、それでもクリエイター側がやりたい放題で楽しそうに映畫を作る姿勢に感銘を受けた。「また米津玄師かよ」と同行のキャメラマンが話して、私は米津玄師の大のファンだから『プラズマ』は映畫観たあとに聴きすぎてしまって、一時期、ユーチューブのホーム畫面が米津一色になったり。

『オッペンハイマー』は確か当時の色々な事情で海外と比べると国内上映が一年も遅れたとのことで、クリストファー・ノーラン監督は相変わらず編集が上手いなと思いながら観ていて、政治のことは然程気にしてなかった。オッペンハイマーを一人の人間として描写される所が特によく、歴史的に視たら前例のない大虐殺なのだが、トリニティ実験をよくそこまで肉付けできて、如実に三位一体を思わせるくらい危うい神秘体験を構造主義の手順で作り上げたこと、感嘆せざるを得なかった。彼は衝動的で、もとから危険な人間であるのも、教授の林檎に毒を注射した行動を挟むことで対照的になっていて、ただ、後々のことは後悔しても、このような歴史事件は林檎みたいにゴミ箱に捨てられるようなことじゃなかった。それで、赤狩り時代に彼はスパイだと疑われ、作中ではそういう反復を無間地獄のように、いかに乾いたモノクロームで表現されているか。モノクロームの中に急に出てきたアインシュタインは教科書で視たアインシュタインとまさに同じ空気感があって、監督はそこで冥界を表現しようとするのではないかと、当時思った。

今回の映畫題名は『廃用身』で、出演するのは最近『爆弾』にでも活躍した染谷将太。序盤からあのくり〳〵とした眼がずっと劇中人物の眼線と合わせるよりも、露骨にキャメラ視点で観客席を睨んだような気がした。演技に説得力があるのも無論だが、キャメラのほうも演技したようで、そのせいか狭い映畫館で、いつも通っている東急シネマと比べては空調も旧くて風が弱かったが、何故か洞窟にでもいたみたいに観ているあいだ体が冷えて、ジンジャーエールを喉に流し込んだ時は、ストローが乳腺のように感じて暫く唇が離れなかった。それで、この映畫の異常さにやっと気づき、座った人たちは暗い観客席に固定されたまま通過儀礼をさせられてしまったのである。

映畫の内容を簡単に要約すると、とある老人ホームで、不要となった四肢を取り除くことで身の荷重が軽くなった者が現れ、それを他の入居者にも勧めたところ、先生役の染谷が四肢を取り除くのをケアの一環に取り入れ、それが次第に小さなコミュニティのなかでブームとなり、次々と切断手術を受ける人が増えたという。これはさすがに映畫的誇張はあると思われるが、マジックリアリズム的な方法論で恰も日本国内のどこかで起こり得るように実感させた。また、キャメラの運び方も巧妙にそのテーマに奉仕して、フィルムには全く台風のあとの湿気が残っておらず、乾いたドキュメンタリー調で延々と老人が切断手術をどういう経緯で同意したか、また、切断された後はどういう精神的なクライシス、人間関係の軋轢が起きるかをひたすら記録するのである。

作中は常に二項対立が張られていて、生と死、若と老、重と軽、静と動の関係性が相反しつづけて、おそらくこういう構造だからこそ作中はずっと同じことをやっているのに嫌な圧迫感はずっと弛まずに最後までも不快さが消えなかった。

一緒に来た人が映畫が終わったら、真先に「原作も読んで欲しい、心理描写が省略されたから」と言ってきて、個人的にこれくらいで丁度良かったというか、特に後半になると、積み重ねたマジックリアリズム的な構造が崩れ、記者やら社会批判が介入してきて、そこは『オッペンハイマー』と違って、まったく同じ社会を作中に召喚しようとするにあたり、しかしながら安直なメタ構造で物語を閉じようとするあまりに、もう少し余白が欲しかったのが正直なところだった。後半は全然削っていいと思う、切断手術みたいにズバッと。と、考えれば、映畫作る人なり、私みたいな小説書く人なり、そんな無駄を削るかどうかで延々と悩むのに、老人ホームで起きたかれこれを振り返れば、所詮フィクションであろうと気づく。なにしろ、小説も映畫も人間も多少余白があったほうがよいが、切るべきものを切ろうとしないのが常のこと。

それより、映畫館から一階までに降りたら、硝子窓の外はとっくに仄暗くなった。日曜日だったので八時過ぎると映畫館周辺はなか〳〵丁度いい店がないのである。この作品は事前にグロいのだと知り、それでポップコーンを頼んでおらず、にしても朝から何も食べてこなかったので、少し飢えたせいか映畫観ている時からはずっと神経が思う以上に緊張していた。とりあえずゆっくり座れて、軽食メニューがあって、ついでに空いた腹をどっしりと張らせる店であれば……、という感じで近くの喫茶店のチェーンに入った。名古屋発でサンドもバーガーもボリューミーな店。

レジ担当の方は声の抑揚からして、ベトナムかインドネシア当たりの出身な気がした。小柄でポニーテールを清潔に結んでいて、「注文はQRコードからでお願いします」とだけ伝えられた後、飲食店のDX化する流れでどん〳〵人間も馘首されて、なんか義肢が身体よりも求められる時代が来るという感覚がどうしても虫酸となって胃に走る。特にこの店は専用アプリをインストールしないとまともに注文もできず、胃が空っぽのまま専用アカウントを作り、そのあとはまたわかりづらいUIと長く格闘をし、注文が終わった時は胃に穴が開きそうなくらいに、鳩尾当たりが激痛だった。

やっと頼んだものが届いたら、「染谷くんって何故最後ああなったの?」と再び先程の映畫の話になって、切断手術を勧めてきた医者は作中、社会に批判されるのが耐え切れず、最後は軌道に乗るというよりも、本当にそのまんまげっそりした顔で頭を軌条に乗せたのである。そこで、私はぐんと新しい発見があって、「きっと、知性が過剰で、無駄な頭を切断したかったでしょ(ここで竹馬の着想を得た)」とバーガーを齧りながらそう答えた。それと、作中で気になった人物がいた。あの女性は元々医者の下で療法士として働いていたが、物語が進行していくうちに殆ど本筋と関わらなかった。それにもかかわらず、最終的に『オッペンハイマー』のルイス・ストローズみたいな立ち位置になっていて、医者を破滅させた役割を担った。多分実際とは違ったと思うが、作中に「年寄りはこれ以上に生きるのに多少申し訳なさを感じています」との台詞があって、自然にこの作品本当に言いたいのは手脚の話ではなく、弱者を切り捨てていいのか。というのを間接的に訴えようとするのが判る。療法士もまさにその隠しテーマに奉仕するためのパズルのピースとなっていて、同時に意地悪い罠として設計された。

この療法士は作中、医者の敵対者として配置され、医者の知性から来た圧倒的な権力に立ち向かった。徹底的に戦った彼女に対する反応によって、今作を観る時は理知主義の賛成派と反対派が観客席のあいだに自然に分断し始める。

療法士の彼女はどこか感情が過剰で、制御不能で、鼻の下に大きなイボがついて、徹底的な理性の敵または等身大な小市民として描かれた。同時に、それこそ大切にすべき平均の道徳心を持つ善良な人間である。まるで鏡のように、観客の心の汚れを映し出し、監督は恐らく計算を尽くして、この登場人物に作品の核心を託したと思われる。兎に角私は彼女の行動を否定しなかったし、それで妙に心理テストでもクリアしたような、カタルシスとも違った気持ちだが心が急に軽くなった。

喫茶店の席から、先ほどの映畫館が硝子窓越しに視えて、時間帯の問題なのか、一階にある蔦屋書店が一部の電気が落とされた。それで、遠くにあるその施設とのあいだに広場があって、何人かの子供が追いかけっこをしている。

横浜という芸術的な都会は様々なオブジェが散らばっていて、丁度眼の前にはギリシャ彫刻のトルソーみたいなオブジェがあった。頭部だけがかちこちと出っ張り、手脚はまる〳〵毟り取られたその胴は先ほどの映畫に出てきた奄々とした老人を想起した。病床にいる老人は元々四肢を持っていたが、最終的に医者の合理的な判断によって、あとに残るのは胴と頭部だけだ……。このオブジェはどういう設計思想なのかよくわからないが、映畫の中にいる老人たちの怨嗟、悔恨が鼓膜のなかに再生されて、たとえその胴の下で子供たちが遊んだり、四肢の欠けた断面を柔らかい幼い掌で触ったりしても、かつては関節と絡み合った筋腱の繊維が不要品として白い手術台の上に置かれ、時に外れるが痛くもなる骨と関節は重たい肉体ごと、大きな切削音の立った外科用チェーンソーに削られていく。眼が覚めた時、頭を上げて四肢のほうを視ると、子供の時から使い続けた手脚がただの肉芽の膿に残り、次は頭部も一緒に頼めば良かったと絶望する。

想像してご覧、病床にいるトルソーになった自分の姿、孫が近くに来ても持ち上げることができず、可愛がっていた孫は好奇心で取った虫をその口腔に入れたりして、あるいは悪戯心に駆られて、不自由な胴を裏返して、裏返せない顔面は布団に埋めたままやがて呼吸困難となり、足掻くことすらできず、絶対安静とした姿勢で窒息していくのであった。それで、再び硝子窓越しにあのトルソーを視たら、子供たちは相変わらずに無邪気で、親はその風景を視ながら笑っていた。気温が少し高いのでお父さんの方は半袖と短パンだったが、多分、桜木町都心の地元民なんでしょう。

あの日の夜、家に帰ったら映畫のせいなのか、ユーチューブもまた先程の療法士みたく、何かを映し出す鏡となっていた。普段なら勧められることのないリハビリの動畫だったり、医療器具の紹介動畫だったり、介護関連のサムネイルなどが細胞増殖のように端末の中から溢れ出た。

フィルターバブルが酷く荒れてしまった。その中に、義肢の紹介動畫を隣にして、またしも胴が現れたが、クリックしたら、内容は数年前にあった江東区の神隠し事件の解説だった。当時の容疑者H氏は、異常性癖な同人誌を書く趣味があった。彼の同人誌に活写される女性たちは常に四肢がなく、たまに焼豚のように吊るされ、串刺され、所謂5ちゃんねるの「達磨」界隈の人間なのだが、彼らは恐らくその異様な姿をする女性に性的な興奮を覚えるのではなく、完全に自由を奪われ、ただ自分に依存するだけの女性を求めていたのだろう、という趣旨の解説であった。

被害者の女性はバラバラにされた状態でH宅のクローゼット、冷蔵庫内で発見された。H氏の狙いはどうやら姉のほうだったらしいが、姉がなか〳〵帰ってこないので、ターゲットは妹のほうに変わり、その切断を行う場所はH宅の浴槽であり、噂によるとH氏はそこで被害者を達磨のようにしようと、同人誌の内容通りに四肢のない性奴隷にしようとしたという。

しかし大量出血を止めることができず、被害者はそのまま息を引き取った。姉は自分の妹が四肢取られた状態となったのを知ることができず、また、彼女も次のターゲットとして狙われていたが、しかし彼女が妹を捜索するために被害届を警察に出したお陰で事件がやっと発覚し、次の犠牲者が現れずに済んだのだ。

あまりにも不快な動畫だった。私は一旦池島のネコを考えたりして、それで脳が空になったせいかすぐに寝落ちして、不思議な夢を視た。

夢の中に、私はまだ喫茶店で同行する人と一緒に座り、バーガーを喰っている最中だった。そしていきなり店の外から何人かの手脚の欠けた老人たちが店に入ってきて、あの女性店員を囲み、一丸となって彼女の健康な手と脚をノコギリで切り取った。そして、彼女から奪った手と脚をそれぞれの患部につけて、義肢にしようとした。

彼女を心配する私はレジに近づいてその様子を確認しようとした。無惨に胴だけ残った彼女は、まるで別の生き物のように床で緩やかに這っていた。

眼も、義眼として抉られたせいで二つの穴ぼこになっていた。

手元のバーガーをよく視ると、得体の知れない肉が挟まれている。キッチンの人間に尋ねると、「国産のホームレスです」という答えが返ってきた。ふと硝子窓の外に眼をやると、そこは急に水槽のような空間と化しており、時折小さな泡が立ち上る中、人面魚があちこちを廻遊していた。

その時、やっと外の騒音に起こされ、そういえば今ユーチューブは何を薦めようとするのか……と思うと、フィルターバブルからまた色んなものが出てきそうなので、あの日から二週間くらいはユーチューブを視ることがなかった。

© 2026 腥田をにゆり ( 2026年6月17日公開

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