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The Myth of Black Coffee

腥田をにゆり

セイレーンと略奪者、そして自由をめぐる神話。

タグ: #小説 #純文学

小説

4,040文字

The Myth of Black Coffee

腥田をにゆり

谷崎潤一郎が何を書いたとしても読ませるのは、そもそも技術力以前の問題である。彼は大抵、想像以上の何かをコミットしてくれるため、序盤からこの読書体験は決して時間の無駄にならないと、やがて読者は皆安心して頁を捲るのである。やはり文学性というものは、決して表現の自由だけで成り立つものではなく、作者としての信用や権威主義といった前提がなければ成立し得ないのではないか……。私は時に、こういう捻くれた思考を脳内で泳がせるのであった。直近まで荒れ狂ったリベラル思想は正にそうしたコミットメントができない不誠実さがあるからこそ、この半世紀の知識人の成果は概ね失敗に終わったのではないか。そうでなければトランプが当選する筈もなく、ガザやウクライナの紛争も起こらず、インテリジェンスによる開かれた新世界のビジョンが空しく終焉に至ることもなかったはずだ。この悲惨な現状を見てもなお、リベラル思想について失望しない人がまだいるのであれば、蒙昧どころか自分の立場を守るだけで精一杯で、何一つ世界に対して親身になっていない協調主義者コーポラティストなのだ。そして、こういう実相から幽体離脱した人間のポジショントークほど無益なものはないだろう。一例を挙げると、黒可否ブラックコーヒーを飲んでいる時に「これはケニアの人々を低賃金で働かせて得られたものだ」と言われても、私は黒可否をやめることはできない。そもそも、黒可否によって動かされてきた国内のエンタメ業界や物流業界(主に自販機で買えるやつ)も、その殆どが現在の日本社会にとってなくてはならない存在となっている。すなわち、「人は生まれながらにして略奪者である」という認識は、現代社会のニヒリズムの完成にどれだけ寄与したか計り知れないのであって、また、いかなる事物の構造を解剖してみると、決まって何かしら苦いものが入っているのが現代社会であった。元来、人間は苦いものが体に合わないため、「苦汁を舐める」という諺もあるほどだが、私たちがその黒可否にここまで適応できたのは、もしかしたら既にあらゆる苦さに麻痺してしまったからか、それとも略奪したものは何でも甘美に感じるからかのどちらかだと私は考える。

自由という観念は、私にとっても極めて得体の知れないものである。仕事中の一番大変な時や、寝不足の時、あるいはラーメン屋の狭いカウンターにギチギチに詰め込まれた時には、必ず「自由とは何か」が脳内に浮かんでくる。細君が以前にも、「渋谷といえば、シノラーとアムラーがいた頃が一番自由だったな」と話していた。私はそれが間違っていないと思いつつも、よくよく考えればあの頃の彼女はまだ十歳以下の小児である。それは単に、彼女の幼年時代が今と比べて背負うべきタスクが少なかったからだろう。それでは、なぜ幼年時代は自由であったのか。今思えば、子供は皆、親という無条件で使える奴隷を二人持っている貴族階級だったからである。ということは、人間の自由はやはり略奪者にならずしては成し得ないのである。さらに、シノラーやアムラーだって、当時は『egg』や『装苑』を読み漁る手間があっただろうし、好きな男の趣味に合わせて結局自分の好きな服が着られなくなるといった、不自由なことだってあった筈だ。最も不自由に見える、アジアの北のとある国では、現代の略奪者性を潔癖なまでに社会から取り除こうとしたが、結局は国民一人一人が自ら労働性から脱却できず、国民の全員が国の奴隷となり、今も数十年前と変わらず日本のアニメ会社の下請けをやっている。彼らは確かに私たちと比べて罪は少ないのかもしれない。しかし人間の歴史は略奪の歴史であることも、進歩にもまた常々略奪の構造が含まれることこそ、自由を求めるゆえに背負わなければならない磔である。したがって、こうした略奪への抵抗は、未来の豊かさへコミットできず、結局の所、奴隷主一人がその磔を背負い、神として祀られることでやっと国家として成り立ったのが北の国の真の悲劇だと言えよう。略奪の構造がなければ利他精神や余裕も発達しないというのは、一種のパラドックスなのだろう。それに対して、最も精神性の高い社会といえば過去のアテナイが挙げられるが、彼らもまた奴隷制を肯定していた。

思うに、もし奴隷制の本質が労働性にあるとすれば、人間は胃袋を満たすために生涯働くのであり、また性欲や人間関係の維持のためにも働かなければならないので、資産家であろうともこの三者の支配から逃げられることはないのであろう。つまり、人間の誰しも元から奴隷であり、自由という言葉がいかに空しく響くかも、まさにそこに由縁がある。特に、考えることをやめられない私のような病的な神経を有する者は、常に脳に働かされているせいで大変な目に遭うことがよくあった。私は間違いなく一生この頭脳の奴隷であり、命令された途端に忽ち文章にしなければならないという強迫観念に駆られるのであった。近頃、寝不足が多いのもこうした頭脳様による不当搾取の結果で、そろそろストライキを起こしても良さそうだ。ちなみに頭脳様だけでなく、猫様二名にも仕えていて、頭脳様と合わせて三つの鞭が同時に降って来る。彼らがだらっと寝室のスツールに寝そべっている間にも、私は通勤による寒暖差で自律神経をじりじりとすり減らしている。よくよく考えれば、猫ほど略奪者としての素質を持った生き物もいないだろう。外見からして、実に立派な貴族たちである。

自由の印象について、もし色をつけるとするならば、私は赤が最も相応しいと感じている。コカコーラはまさに自由の飲料であり、買った時にはアメリカの自由な空気もついてくるように思える。それこそ、宮下公園でスケボーをやっている青年たちには、時代を超えて常にコカコーラを持っていてほしいものである。ペプシがなぜ青を採用したのか、その理由は知らないが、確実にコカコーラと比べてどこか陰気で自由らしくないからこそシェア争いに敗れたのだと力説したい。カーネルだって、コンタクトレンズにして髪の毛をドナルドのように赤く染めれば、売り上げが爆発的に高くなると予想する。歴史経験と照合すれば、全体主義や共産主義の旗が必ず赤を好むのも、まさにその心理的特徴の逆手を取っていることに気づく。旗を民衆の前に掲げて自由を幻視させることで、彼らに身体の不自由さを一時的に忘却させるのである。赤が度々生理的な感覚を喚起させる理由には諸説あるが、私は、パターン学習(哲学でいうところの悟性)によって進化競争を勝ち抜いたホモ・サピエンスが、希少色である赤に強く反応すること(自然界もまたそれを学習し、あえて赤色の特徴を獲得したこと)や、火の赤が「力の赤」「生きるための赤」として無意識に関連付けられているのがその喚起力の起因だと考察する。また、この両輪の認知構造によって視覚野が過剰反応を起こし、前頭前野の支配から自意識が一瞬逃れることで、私たちは純粋な視覚的主観性を奪還し、束の間の自由とともに世界と一体化し得る。そして、視覚的になることは生理的になることという訳で、おそらく谷崎潤一郎の描いたエロスも、触覚的というよりも殆ど視覚的要素で構成された如何にも臙脂色のような文学である。優れた文学は常に、赤色のような、自由をコミットしてくれる一種の視覚刺激でなければならない。そうやって、私たちが一時的に枷から解放され、もう略奪者であろうと奴隷であろうとどうでもよくなることができる。反対に、社会の暗部といった誰もが分かり切っているからこそあえて考えたくない道徳的な話ばかり執拗に書かれた書物、——説教的な文学、マイノリティ文学は本質的に文学性からかけ離れていると言わざるを得ない。世阿弥が「秘すれば花なり、秘せずば花なるべからず」と語ったのも、花の視覚性と芸能の類似点を鋭く察知していたからに違いない。

中国の旧正月を赤色で飾る風習や、神社の鳥居が大抵赤色であるのも、そうした境界(年や聖俗)を区切るにあたり、思考の強迫性を一時的に遮断することで精神の浮遊感を要請する側面があるように見える。ところが、日本はたびたび抑制的であるのに対し、中国はたびたび過剰的である。このような赤色に対するアプローチの違いも、両文化の諸相に直接的に作用している。中国といえば壮麗の美であり、日本といえば抑制の美である。日の丸も、赤を丸く配置することによって三次元空間的な距離感を作り出している。赤が遠くに見えることでどこか厳粛さが生まれ、あるいは自然の写生として調和された印象を人々に与えるのであった。

あと、どうでもいい話だが、なぜか新宿という二文字を見ると、私は決まって赤色を連想してしまうのであった。おそらくそこには、生理的で自由な街という印象を抱いていたのだろう。しかし現実の新宿は、最も肉体労働者が屯している街であり、水商売に従事する者も心身の癒しを求めて彷徨う独身男性も、殆ど誰もそのような自由の顔つきなどしていない。もし、スターバックスの席に座っている時間が、一時的に略奪者としての自由を体感させてくれるのだとすれば、真の意味でのサードスペースが存在せず、快楽も感情もすべてが金銭に還元されるこの街は、依存すればするほど人を奴隷に近づけていくはずだ。

一方で、黒可否しか飲まない人間がいかにして自由の風で白いセイルを靡かせようとも、セイレーンの歌声はそんな自由を求める船たちを難破させるのであった。やがて誰しも、自分自身は永遠に自由を所有できないまま死んでいくのだと考えさせられるのであって、——そうだ。もしかしたら、知的な遊戯に耽るよりも、新宿の人々のように獣として生きた方が逆説的に自由なのかもしれない。

なにしろ、黒可否を一杯頼んで、この小説を読んでいる君自身もまた、略奪者の一員であり、苦汁を快楽だと条件反射で学んだ立派な奴隷なのだから。

© 2026 腥田をにゆり ( 2026年7月31日公開

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