谷を出よう
腥田をにゆり
目が覚めて——あたしは愚直な手を叱りました、
宝石は失せていました——
それでいま、紫水晶の思い出が
あたしにあるすべてです——
——エミリー・ディキンソン『あたしは手に宝石をにぎりしめ』(亀井俊介訳)
一、
M太郎とK嬢は、この谷から出たくてたまらなかった。遠く離れた城は、うわさによれば紫水晶でできた窓をもち、泡立草を金色に織りこんだ壁をしているという。なにより、山に囲まれることなく海辺の風にさらされるその城では、かもめが青空に白い弧をえがいてたわむれるらしく、ふたりはいつかそんな景色をこの目でたしかめたかったのである。
だが、赤薮という闇の学者とともに錬金術の学舎で暮らす彼らには、どうするすべもなかった。実際のところ、錬金術にはうんざりしていたのだ。赤薮のとなえる数式も、あの古びた奥義書の内容も、彼らにとっては味気ないおじやのようなものにすぎない。骨を折ってあつめてきた河童の毛髪、赤鬼の角粉、土蜘蛛の涙をすべて坩堝のなかに放りこみ、あとは闇味のミルクとごちゃまぜにすればホムンクルスができあがると教えられてはいたものの、そうやすやすと事が運ぶわけもなかった。
ぐるりぐるり、と木のへらで坩堝の底をこする。くる日もくる日も赤薮の言いつけでひどい目にあい、それでも苦労の成果は、ただ坩堝のなかでぶくぶくと水泡に化すばかり。それが彼らにとって少しずつ、しかし確実にいやになり、いまでは投げ出したくて仕方がなかった。
(ああ、投げ出すことができたなら)
そう思いながらも、またしても赤薮の書きつけた製法どおりに、こまごまとした材料あつめをつづけてきた。にもかかわらず、坩堝はあたりまえのようにふたりを落胆させ、おまけに、大きな蝿をひきよせる腐ったバナナのようなにおいを放つのであった。
「あなたのせいだわ」
「いや、きみこそ材料の分量をまちがえたんだ……」
やがて、ふたりは失敗をかさねるたび、長く言い争うようになった。K嬢は、このような言い争いをしたかったわけではない。だが、M太郎に責められるがままでいると、まるで本当にすべて自分が悪いかのようであり、せめて責任を半分ずつに分かちあいたかったのだ。いつしか、城にかんするうわさも少しずつ忘れ去られ——冬がくるまで、ふたりはずっと毎日のように争いつづけた。銀色の雪がさんかくの屋根と静かなトンネルをおおうころになっても、それは変わらなかった。
凍りついた舗装路のうえを歩くと、ぱきり、ぱきりとひびが入る。K嬢は道が割れて下の古代湖に落ちるのを恐れ、一歩も学舎から出たがらなくなった。からすもつばめも、冬になればあたたかい南の島へと旅立ち、ここの空にはもう飛ぶ鳥の黒い影すらない。そこにあるのは、勢いを増した銀色の風と、まばゆい陽の反射だけであった。
「南へと連れていってくれたなら」
K嬢がそう願ってみたところで、赤薮の言葉どおり、一人前になるまでは好き勝手など許されない。いちど、赤薮になぜ錬金術を学ばねばならないのかとたずねてみたことがある。しかし彼はただ、凍った湖をくちばしでコツコツと叩きつづける愚かなあひるを指さし、「見てごらん。翼のふりかたを春におぼえなかったから、冬になったらくちばしひとつで戦うしかないのだよ」と語るだけであった。
M太郎はそれを聞き、たまらず反発したくなったが、どうすればあひるの身をうまく弁護できるのか思いつかなかった。それよりも、彼は学舎の裏をまわり、川を越えたところにある裏山のことを思いおこした。裏山には長い階段があり、のぼった先には紫色の鳥居がたたずんでいる。そして、本殿には大蛇魔さまがまつられているのだ。赤薮は聖なる夜になると赤服の審査員となるため、審判がくだされる前に、どうにかして学舎から逃げ出したかったのである。
M太郎は、材料をあつめるついでに大蛇魔さまに会いに行こうと、K嬢をさそった。K嬢は舗装路への不安をだきながらも、やむなく、やわらかくて滑らないゴム長靴にはきかえた。きゅっきゅっ、と雪を踏みしめ、ふたりは陽の反射がまだ弱い朝食直後にでかけ、川を越えてその階段をのぼりはじめた。
階段は一段いちだんに深い雪がつもり、足場のさかいめがふわりとしていて、ゆっくりとたしかめながら踏んでいくほかなかった。
「気をつけて」
M太郎が、まだ下を歩くK嬢に声をかける。
「少し待ってよ」
K嬢は追いつけず、ひたすらに緊張を帯びていた。
「うえで待つから、ゆっくりでいい」
「落ちそうよ、行かないで」
そう言いあっても、けっきょくのところ、せかせかしたたちのM太郎は待ってはくれない。ふとK嬢が顔をあげた瞬間に、M太郎の背中はすでに消えうせていた。
「大丈夫か」
M太郎が案じて、うえのほうから大声をだした。
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