或る日のゲームセンター
腥田をにゆり
川崎駅の砂子辺りの、家賃七万円前後、築四十年の部屋を借りる開高昇留という男は最近、ガス給湯器が故障したせいで、駅の東口を越えた反対側にある個人経営の銭湯に通わざるを得なくなった。本当はすぐにも管理会社に連絡しなければならないことなのだが、丁度転職の最中でもあり、もし給湯器の修理代が使用者負担だったら困るので、彼は延々と先延ばしにして――いつの間にか銭湯代が固定費となり、実際には給湯器を一台買うよりも遥かに出費の総額が上回ってしまった。
勿論、彼はわかっている。わかっていても、銭湯が既に一つの楽しみになっているのだと自分に言い聞かせながら、通い続けるのであった。給湯器を放置することは、最初こそ彼にとって生活上の苦悩であったが、銭湯のお湯に包まれているうちに、段々と家はこのままでいいのだ、と思うようになってしまった。
開高は昔から、ここまでズボラな人間ではなかった。少なくとも地元の高校では絵を描くのが上手かったので、誰もが彼を、いずれプロの漫画家になるだろうと褒めてくれた。一度、当時の先生に美大に進学してみないかと言われたこともある。ところが、開高の父親は普通の会社員で、母親は専業主婦だった。美大の学費は家計の貯金を取り崩せばどうにかなるのだが、卒業したあと果たして芸術家としてやっていけるのか、それが未知数だった。それで、開高は高校三年生の頃、しばらく進学について逡巡し、そんな中、とある日の深夜に放送されたロボットアニメのワンシーンに心を打たれ、彼は進学をやめ、以降は上京してアニメーターになることを夢見た。
ご存知の通り、アニメーターは歩合制のところが殆どで、一枚単位で給料が決められ、そして腕のいい一部のベテランを除けば大抵は社員になれず、フリーか、良くても契約社員であった。最初に上京した時は、アニメ会社のほとんどが練馬区や西武線沿線に位置することを考えれば、本来なら川崎に住むべきではなかった。しかし東京の家賃があまりに高く、また、彼は街の随所に貼られた脱毛広告や美容整形広告をどこか不気味に思えたので、いろいろとリサーチした結果、川崎という相対的に居心地のいい街を選んだ。
開高は速筆だった。この十年、最初はベテランが描いた絵と絵の間の動きを補完するための動画マンから始めた。他の人から聞いた話では、動画マンは一日頑張っても二十枚しか描けないのが普通らしかったが、しかし、彼はコツを掴んでから、一日の最高記録は四十枚になったこともある。速筆なのが重宝され、二十歳の頃はそれで色んなアニメ会社からオファーが来るようになった。また、専門学校を出た人と比べると、アニメの動かし方は不得手であるのを自覚していた開高は、そのまま絵を動かすことよりも、第二原画という、主に癖の強いアニメーターの絵を修正し、なるべく絵柄が均一であるようにする仕事を選ぶようになった。それで無事に契約社員となり、在宅でアニメ会社から送られてくる原画を修正し、あっという間に中堅となって、この数年間は日々忙しい生活を送っている。自分より年下の若手アニメーターは動きが魅力的であっても、基本的なデッサン力がない人が余りにも多かったので、近頃、彼は修正をいくら早くても納期に間に合わないことにイライラが止まらないのであった。
このイライラが軈て生活にも及び、道路で小学生数人が追いかけっこするのを見たら、「道で遊ぶなあ」と言いたくなった。ズボラもまさに、こんな余裕の無さとイライラしやすい性質とが相まった上に、時々掃除しようと決めたらすぐさま「俺は普段仕事頑張ってきたのに、休日は掃除するのに時間を割きたくないなあ」という気にもなって、そういった積み重ねで、汚れなどはまるで放置しても勝手に消えるとでも思っているかのように、いつからか一切手を加えなくなってきた。また、彼女ができたら彼女にやってもらえばいいので、これは暫くの辛抱だ、とも彼は考えた。
で、最小限の身嗜みには一応こだわっている。家が汚くても、少なくとも体は汚くなってはいけない。いつか女と寝る機会がもしやってきたら、その時に汚かったら台無しになるのであって、彼はそのために出かけるたびに必ず鞄にボディシートとコンドームを常備している。が、コンドームは五年以上前にコンビニで買ったものである。
彼は今日も自分のボディーソープ、シャンプーを持参していつも通りに銭湯に着き、その木製で、踏み台を使わないと届かない高さにある番台から声をかけられた。六十代の女主人のリツコだった。
「開高くん、開高くん。あのアニメはなんだっけ? 孫が見に行ったよ」
「え、本当ですか? 自分の絵が出るのは数秒しかないですが。けど、嬉しいです」
「いやいや、凄いよ! いつになったら監督になるの? 頑張ってね」
「はは……どうも」
「今日はお金要らないからね。この紙に挿絵を描いてくれる?」
「普通はしないけど、リツコさんだったら」
とリツコからペンと紙を貰い、流石に何年も絵を生業にしてきた彼は、迷わずに最小限の線で、メリハリがはっきりとしたイラストを仕上げた。リツコはどうも歳のせいか、最近の絵柄というものを理解しかねるような表情を一瞬見せたが、しかしすぐに「店で飾らせていただきますね」と喜んでくれた。
開高はその後、ホッとして湯船に身を沈めた。やがて適当な時間で湯から上がり、手早く体を乾かして、番台でスマホを弄るリツコにキーバンドを返した後、軽く会釈して店を後にした。夕焼けに染まる電柱のあいだを歩くと、火照った体温が急に奪われるせいか、風が思いのほか冷たく感じられた。
折角、銭湯代の六百円が浮いたのだから、真っ直ぐ帰る気にもなれず、別の所で使うつもりでぶらぶらと歩いた。たちばな通りのアーケードを抜け、十字路を曲がった先にゲームセンターがあった。中からゲームの音や人の声が聞こえてくる。そして、自動ドアを抜けてゲームセンターに入ると、開高はまず財布の小銭を確かめた。百円玉が六枚。一回二百円だったら、三回遊べる。
彼はクレーンゲームにさほど自信がなく、この程度の予算では、景品に触れることすらなく水の泡になるところがすぐに想像できた。高校時代に地元の川でやっていた石の水切りが頭に浮かんだ。六百円を機械にただでくれてやるくらいなら、ここに川があれば小銭で水切りをやった方が、遥かに高揚感を得られるはずだ。そう考えながらも、彼はしばらくゲームセンターの中を歩き回り、なかなか煮え切らず、どう有効にこの六百円を使うか考え続けた。ところが、ゲーム機の列のあいだを歩いているうちに、一台のクレーンゲームが彼の眼を惹きつけた。そのアクリル板の向こうに、ずっしりとしたクマのぬいぐるみが、既に取り出し口のシールドに引っかかって、今にも落ちそうになっていた。あと一息で仕留められそうだった。なぜ前の客が最後までやらずに諦めたのか理解に苦しむが、開高にとっては予想外の幸運だった。
彼はすぐに機械に百円玉を二枚食わせ、アームが下りる位置を見ながら、なるべくクマの重心が崩れるように慎重にボタンを操作する。アームがクマの片足を引っ張り上げると、引っかかっていた下半身がふわりと浮いた。傾いた上半身の重さに引っ張られ、ふとアームの掴みが緩んだ瞬間、クマは穴へ一直線に堕ち、どん! と重量を込めた落下音が立った。受け取り口に手を入れて引き出そうとすると、思った以上にクマの体が大きく、枠に引っかかるほどだった。大きなビニール袋をそこから一枚取って、広げた袋にクマを押し込んでいく。が、すぐ後ろ、景品カウンター横のトイレの前で若いカップルが急に喧嘩を始めた。
女性の方が、開高が今しがた遊んだばかりのゲーム機を指差して声を荒らげている。
「だーかーらー、ゲーム機の前で待っててって言ったのに!」
「ただのぬいぐるみじゃないか、ガキかよ」
「ああああア、もういい! なんで話聞かないの」
開高はその話を聞いて、どういうことなのかだいたいわかった。パンパンに膨らんだビニール袋を抱えたまま、何事もないふりをして、そそくさと店を出て家へ向かった。
やがて家の玄関に入り、まだ畳んでいない通販サイトの段ボールの山の上に、その大きなぬいぐるみを置いた。
「よし。あのカップルはこれで終わりだな、へへへ」
と彼はクマに感謝するように振る舞い、ダンスを誘うようにクマの短い手と握手した。しかし、その化繊の毛並みを握った途端、冷えた部屋の空気の中で、なぜ自分はいまだにこんな狭くて薄暗いアパートに住んでいるのか、と何気に気になってきた。やはり川に向かって小銭で水切りをした方がよかったのではないか……とセンチメンタルな気持ちに包まれた開高は作業に戻ろうとした。回転椅子を引いて、作業机についたら、眼の前に散らばっているスケッチブック、硬さの違う数種類の鉛筆、複雑な形をした製図用の定規をしばらく眺めた。振り向くと、視界の端にある段ボールの上に座ったクマをじっと凝視しているうちに、何となく無から膨張し始めたもやもやが止まらなくなった。そのモゾモゾした図体がいつまでも頭に残り、明日になってもうまく絵を描ける自信がないような気がした。どうにかしてこのクマを家から出したかったが、捨てるのも、売るのも、この妙な気持ちが消えるようには到底思えなかった。
リツコの孫だったら! と彼はふと閃き、早いうちにリツコの所へクマを持っていきたくて、袋に入れずそのまま胸に抱えて家から出て行った。走る途中にもう一回、先ほどのゲームセンターを横切り、無意識に店のほうを見たら、一人の女子高校生が同じゲーム機の前でクマを取ろうとしていた。あんな不器用な取り方だと、いくら粘っても水の泡にしかならないのだろう。下心は無いとはいえなくもないが、彼は歩を緩めて、再び店に入った。苦戦している彼女に声をかけた。
「これ」
「はい?」
「良かったら、さっき取ったから」
「あ……いいんですか?」
「偶然に取れたけど、今思えば家に置く場所がない気がして」
「そういうことですね! ありがとうございます!」
その声が余りに朗らかだったので、急に恥ずかしくなった開高は、さっさと出口の方へ向かった。
それで、再び家の玄関に踏み込んだ時、彼はまず眼に入る段ボールの山を畳んで、久々の家事を一気に片付けた後には、汗だくになっていた。
「あの笑顔は、うまく描けるかなあ……」
と再び作業机に戻ったと同時に、明日はどこから管理会社に相談するかを思い描き始めた。
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