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「天国と地獄の結婚」――〈ワルプルギスの廻天〉について

腥田をにゆり

※注意:本稿には、2026年8月28日公開の『劇場版 魔法少女まどか☆マギカ〈ワルプルギスの廻天〉』の重大なネタバレが含まれます。未鑑賞の方はご注意ください。

タグ: #まどか☆マギカ #批評

エセー

2,038文字

「天国と地獄の結婚」――〈ワルプルギスの廻天〉について

腥田をにゆり

いろいろな読解があるが、『魔法少女まどか☆マギカ』のTVAは、とりあえず親鸞思想を下敷きにした作品であるという前提で話を進めたい。ちなみに虚淵玄(ニトロプラス)という作家は、執拗に同じテーマを思考し続ける、ある種の論理学者めいた気質を持っている。たとえば「正義」を提示するとき、彼は必ず複数の正義を衝突させ、その弁証法的運動のなかに正義のダイナミズムを求める。ほかにも「自由」だったり「愛」だったり、物語の核は必ず一種の問題提起であり、キャラクターはそれぞれ問題の検証に奉仕する。しかしながら、しばしば素材である核は、検証という砥石に研ぎ澄まされすぎていて、やがて絶望という刃物にまでなってしまう。ほとんどの問題を追求しつづけると、世界システムの脆弱性、その無防備さが露呈する。彼の作品には常に、このような解決不可能ヽヽヽヽヽの予感が漂っていた。

昔の日本は、この予感を「無常むじょう」と呼んだ。つまりTVAでは、願望と引き換えに人は魔法少女になり、ところが宇宙の法則によって巨大なエネルギーを打ち消すためにソウルジェムは枯れ、もともと魔女と戦ってきた魔法少女たちが、自ら魔女となり、倒される。実際、これは自然法則の見立てであり、虚淵玄もわざわざエントロピーで説明することによって、世界観の説得力を担保したのである。「誰かが救われる度にヽヽヽヽヽヽヽヽヽ、誰かが救われないヽヽヽヽヽヽヽヽ」。これは現代人がごく自然にしみじみと感じていることであって、時には、ガザの死があってはじめて私たちの生があるのではないかと、誰もが薄々気づいている。「無常」は世界システムの根源的な脆弱性を説明するだけでなく、そんな世界システムのなかに生きる私たちに、思考を中断させる安全弁を与えてくれたのだ。

しかし、鹿目まどかという中学生は、おそらく「救済」という問題提起のために見立てられた、阿弥陀の誓いの擬人化となっている。彼女はすべての魔法少女を救済すると誓う。誰一人残さずに、と。もう一歩踏み込んで大胆に言えば、この「魔法少女」は「衆生」、あるいは「現代の日本人」の見立てという読みも成り立つのである。

本題の〈ワルプルギスの廻天〉に戻るが、ポスターを見るに、天国と地獄の両相が描かれており、暁美ほむらは悪魔(はっきりとモチーフはルシファーで間違いないだろう)で、鹿目まどかは天使となっている。これは『神曲』や『失楽園』にも見られる、ダンテ以降の幻視的な宗教観が反映されていた。今回は意図的かどうかわからないが、鉱物的なデザインワークが増えたところに、私は何となくウィリアム・ブレイクを想起したのである。特に、『日の老いたる者』という絵が、何度も脳裏にちらついてならなかった。

この作品は、正直なところ構造はそこまで複雑ではないが、商業アニメの劇場版としてはやややりすぎたと思う。いかんせん観念的で、虚淵玄本来なら観念的な部分をしっかり水面下に伏せるはずが、今回はキャラクター全員が観念に牽引される面が多く見られるのである。未整理ではあるが、私のイメージとしては、「鹿目まどかA=善/自己犠牲性」「鹿目まどかB=絶対者/救済者」「暁美ほむら=功利主義/公平性」「美樹さやか=メタ的懐疑主義/主体性」「セルマ=自己中心性/インセル」「マルグリート=旧世界システムの救済者/間に合わなかったもの」「インキュベーター=唯物主義/決定論者」という感触だった。

それで、マルグリートの救済の結果は、止揚運動の果てに魔女へと統合された。そして魔女もまた一つの問題となり、最終的に円環の理によって鹿目まどかが絶対者となって、すべての魔法少女を救済するに至る。ところが、鹿目まどかという個人の真の幸せヽヽヽヽを願う暁美ほむらは、それで納得しないのである。鹿目まどかという個人が幸せになれる世界システムを作り、やがて絶対者の椅子を簒奪した。かくして、暁美ほむらが創出した世界システムは当然のように不完全なものであり、魔女がいなくなる代わりに、少女たちは魔獣と戦わざるを得なかったのである。

マルグリートの失敗と暁美ほむらの簒奪によって、救済の困難さが執拗なまでに描写され、また、救済対象であるセルマそのものこそが救済の困難さを説くという矛盾性が作中で指摘される。「救済」という問題提起は作中では複数の文脈で解体され、検証されたのである。そして最後は、絶対的救済者である鹿目まどかが衆生を救うために磔を担うのは、果たして倫理的なのか、という一点へと収束する。

しかしウィリアム・ブレイクが言ったように、「善は天国、悪は地獄」。また、「注意。この天使は、今は悪魔となり、私の親友となっている。私たちはよくいっしょに、地獄、あるいは悪魔の意味で聖書を読んでいる」との言葉も残していた。結局のところ、鹿目まどかの幸せ、あるいは衆生の幸せ、そのどちらも認めながら進まなければならないのである。

きっと、この作家の弁証法的に思考する癖が、そのまま作品へ移ったのだろうと私は考える。

© 2026 腥田をにゆり ( 2026年9月6日公開 )

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