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一種の解消しない困難

腥田をにゆり

初投稿を持ち、百年後も読まれる作品とは……と、同時進行の中編小説を推敲しながら、至って単純な日常の一節を、硬い筆でぼろぼろと。感想は何でもいいです。

小説

1,973文字

一種の解消しない困難

腥田をにゆり

結婚は決して結合ではなく他人を側に置くという、あまりに切実な齟齬そごである。全ての笑顔は、特に新宿御苑でた聖父聖母聖子というのは其其それぞれ、他人の三すくみだとか家に帰って明るい食卓にいたら、まるで最後の晩餐ばんさんのように疑心暗鬼ぎしんあんきになって各各おのおの自分の好き嫌いで、卵一つにも焼き加減を規定して、食卓から離れたら次に睡眠時間とか床に落ちたちりや髪の毛の数ですら不自由になってきた。度度たびたび、家庭内のルールというのは統合を取るための強いて枷か、独裁主義どくさいしゅぎを帯びた真っ当な生き方であるかのように感じた。誰しも強要されるかあるいは強要したくなかったが、しかしながら家庭というイコンが統合しなければ、人間はみなそのってはならないヒビが気になり、こうして弱さから来た支配慾しはいよく——実態よりも他人に対する不能が永遠に解消しない一種の困難になりる。

細君とはコロナ以来の長い付き合いで、アラートの音によって断絶した時期に二人は入谷のシェアハウスと大井町の陋室ろうしつのあいだを往復した。当時、細君は実家とは複雑な関係があり私からして彼女の野生児じみた性質が美しかった。恐らく女性への情慾じょうよくとも違い、彼女の生き様とは天と地でありつつもれている。何処どこか自分が持ち合わせていない社会の深部に生きた人間らしさがった。そんな時でもまだカップルらしく、何に対しても細かく考えないようにして、シェアハウスの階段はどう長くて激しくても苦じゃなかった。時折りシェアハウスの数十年もメンテナンスされないドアをけて、猫(シェアハウスは猫OKだった)がぐにも階段まで出てしまい、私達は猫を部屋に戻すのに自由な愉快さを覚えた。あのシェアハウスは安くて、虫が多くて、シャワー室は共用部だった。しかし徒歩で鶯谷の凌雲橋りょううんばしを渡ればラブホテルの群れがやがて消え去り一瞬にして広く、緑色の上野に包まれる。

国立西洋美術館は当時入らなかった。何故だか忘れたが、コロナによって長く閉館した建物が多かったので、然程さほど気にしてなかった。ロダンの死後鋳造しごちゅうぞうえる噴水のあいだ、私たちはベンチに座り、そんな時にもイコンが出廻でまわっていた。噴水のリズムは常に変化して、スケボーを練習する青年たちは似たリズムで其処そこで帽子を被りながら猥談をし、人の彼女の品評会をやり始めて、そんな時でも私達は断絶された社会の中ではもっとも分かり合える存在で、彼女はどう思ったかよく知らないが少なくとも私は公園の中で幸せにリズムをていた。

恋愛感情は純粋じゅんすいに、素朴な他人性たにんせいを求めて。付き合う時も常常つねづねそういうズレた生活方法がったが、どちらもとやかく言わなかった。むし何処どこかがズレて、自分と違って、恋愛のもっとも尊いのがこういった不一致を可愛かわいく思える所にある。性別や育ちに差異さいはあれど、横目を配り共に生きる人間模様にんげんもようこそが実相じっそうだ。だがそれはやがて家庭関係に着陸し、そこには到達とうたつないイコンを求め、逆走する時は道筋に掛けた青看板が背面はいめんだった。
このような困難はおそらく解消する正解は何処どこにもないだろう。それほど人類は常に人間関係の徒労とろうにとんし、真の理想はサロメが欲しがる頭顱とうろのようで、どちらかがまだ息が残れば不条理ふじょうりさはみだつつけ、だからこそ生活方法の妥協点だきょうてんを決めなくては小さな困難はやがて実って、巨大な痛苦になってしまうのだ。——勿論むろん、ここで結婚相手の首を取れという話ではなく、不条理ふじょうりさを理解した上でこうして安定した暮らしが手に入る。

最近はまた細君と議論をした。争点は相変あいかわらず食卓の上にる小さな黒胡椒くろこしょ一本。シチューに黒胡椒くろこしょを掛けるのは私にしては常に困難だった。「味が薄いの?」と細君が聞いて、「いや、そんなことない。習慣なんだ」「あたし、貴方あなたのために濃くしたのに」「味は丁度ちょうどいいんだ。あまり意味のない胡椒こしょなので、気分転換だと思ってくれ」と。話がくどくどになってきたが、私は説明しようとして、如何どうも自分が胡椒こしょを掛けるのを彼女が納得するように上手く弁解べんかいできなかった。

とても困難だった。掛ける前に必ず彼女に事前確認をしたが、それでもそう言われて、私は今後シチューに胡椒こしょを掛けるのが嫌になってきて、自分の行動一つがこうも奪われた気がした。というよりも、胡椒こしょを掛けるだけの話、自分からしてシチューに胡椒こしょ掛けなくても味がかったが、私はこのような喪失感そうしつかんを上手く説明できなかった。

その後は皿を洗い始め、彼女は私がずっと積んでいる未処理のダンボールを、あのにくいネイルで平らげて縛ろうとした。蛇口たいにドバーッとこうも些細ささいな困難はこの汚れと一緒にもっと容易たやすかったらと、ダンボールの茶色にネイルのきしみ音が立っていて、水音より音がんでいた。

その時は、困難が如何どうでもくなってきた。そうだ。解消しなくていんだ。イコンとか、胡椒こしょとか、————ごみ収集日はお互いの脳内に一つとなっている。

© 2026 腥田をにゆり ( 2026年5月15日公開

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