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蚯蚓と母についての話です。感想はご自由に。

タグ: #純文学

小説

3,660文字

蚯蚓

腥田をにゆり

「清水さんって自分のMBTI知ってます?」
「ああ、ぼくはたしかに建築家だね」
「それっぽいわ!でもびりあ知らないのにMBTI知ってるんですね」
「そうか?昔の血液型と変わらないなと思ったよ。あと星座とかさ」
「へー。ちなみにあたしって何タイプわかります?」
「え?」
「当ててみてくださいよ」

清水という男は、非常勤講師をやっている。何故今のバイト先はイタリアンを選んだか彼はこの三年で詮索もせず、ただただ漠然と今もコックシャツに着替えて、白くて簡単に汚れるコックシャツの個人管理——今となっては、彼はそのランドリー代が自費であるということくらいにしか、悩まされなかった。しかも、桜木町のイタリアンは山手町のイタリアンほど格式がなく、主に若いカップルの為に食べやすいもの、たとえばスパゲッティ・アル・ネーロ・ディ・セッピアは歯が汚すのと、本格的なマリナーラはガーリック臭が強かったのでこの店では、デートに合わせて嗜好の偏りというのを慎重に扱っている。ルッコラも、口コミで悪く書かれた後に、シェフは水菜みずなに変えた。

バイトの子はみな、横市か横国の大学生で、清水の今教鞭きょうべんる(と言っても体罰たいばつみたいな言い方は語弊ごへい)場所は関東学院大学だが、唯一、同じ学内の生徒はこの店にいなかった。あと、確かに明治学院の人も居たが。
「困るな……そもそも何タイプはどんな性格なのか細かく調べてなかった」
「えー。それは残念です。自分のタイプはどんなタイプなのかは知っていますか?」
「理屈っぽい、としか知らないけど。ぼくって生命科学の教師やってるからそれは合ってると思うけど」

休憩中、個人店だったためか店の作り上休憩スペースというのは回転率や調理場の二の次ということで、とても狭かった。横国の学生は、男の子の二人はいつも休憩室に持ち込んだ漫画を積んでいて、時には用事がなくても二脚の椅子を占用するので、人によっては困っていた。清水は別に、若者の活気に触れると少し元気になれる気がして全く気にしてなかったが、この子、論理学者ってタイプと称した礼儀正しい横市の三年生は毎回、清水が座る場所困っていると必ず席を譲ってくれた。今回は久々に一緒に休憩に入れて、こういう風に休憩室で、お互いが各々持ち込んだコンビニ食品を食べながら話すのが久々だった。

彼女の話によると、建築家と論理学者は気質が類似していて、「あたしたちは話しやすかったね」——と、そんな気はしなくもなかったが、そう言われた途端に彼女の言ってることに一理あると清水はふいに思った。
「就職活動はうまく行きそう?」
「んー。苦戦してますね……当時はどうしてました?」
「あはは……。そこまで考える人間だったらここに居なかったよ」

清水は十年前のことを考えて、自分はなぜ教師になろうとしたのか、今はイタリアンでバイトするのと同じで、彼は答えを持っていなかった。少なくとも、人生の岐路きろに立たされた時は、生き物としての本能よりもだいぶ前から自らの性格を支配してきた遺伝のしや、進化的安定戦略をどこまで意識的にやっているかという問題であり、大学三年目からタカかハトのどちらになろうとも、急に突然変異とつぜんへんいすることはないはずだ。

彼は常にハトだった。選択肢がいくつかの前に並んでいる時、競争しないことをしとしてきて、それこそが今だに非常勤のまま、同級生の人たちはああやって営業マンの最下層から始めて、今やとっくに出世して上場企業の中間管理職にき、去年に子供が生まれた。

生き物は戦わなければ淘汰とうたされる。

彼は三十代になってからやっと気づいて、それでもタカになるような胆力たんりょくを持ち合わせていなかった。自己分析は、MBTIではなく、植物のアレロケミカルみたいな分け方のほうがずっと分かりやすい。当時の自分はアロモンなのかカイロモンなのかシノモンなのかリコリンなのか——それが分かればここまで惨めな気持ちにならずに済んだかもしれない。

今手にした缶コーヒーも、常にイタリアンの近くにある定価が最も格安の自販機で買った。もう初出勤からずっと変わらず、コカコーラブランドで生豆の割合が五グラム以上のブラックしか買わなかった。五グラムを超えなければ、ただのコーヒー飲料であり、コーヒーではないと国家基準でキッチリと定めていた。

こうも、人生は元から定められたものが買えて、何一つ選択するコストが掛からずに済めば……と清水はコーヒーを飲みながら彼女との会話を吟味ぎんみした。
「それよりさ、清水さん虫に詳しいですね」
「一応生物学を学んだからね」
「それは高田くんから聞きました。兜虫かぶとむしを獲りたいなら新治市民の森がいいってアドバイスしたよね」

と彼女が「やっぱり」みたいな明るい顔になって、声も明るくなった。
兜虫かぶとむしを獲りたいの?」

彼女が「いや、違う違う」と手を振りながら続けた。
「最近、家に蜚蠊ごきぶりが出てくるから困った」
「元々、出てきそうな家だった?」
「いいえ、近くに料理店も森もないですよ」
「じゃ何故出てくると思うの?」
「それよ。何故なんだろう、しっかり掃除したのに」

彼女は困ったそうにえても、同時に不思議に兜虫かぶとむしを獲ろうとするような少年らしい明るさがあった。清水はその明るさの名を知っている。
「論理学者って好奇心が強いらしいね」
「厄介なことよ。蜚蠊ごきぶりを殺すよりも、蜚蠊ごきぶりなぜ嫌なのか知りたいです」
「さあ……。それについてはぼくも珍蚊蚶蚊ちんぷんかんぷんの領域だな——心理学者じゃないから」
「ってね、今少し考えたら公園に出てくる蜚蠊ごきぶりは何故か嫌じゃなかったんですよね。他の虫と変わらなくて」
「……確かに」

清水がコーヒーを飲みながら、森の蜚蠊ごきぶりを想像して舌がちっとも苦くなかった。
「あたしの持論だけど、」
蚊蚊ふんふん……」
蜚蠊ごきぶり自体が嫌ではなくて、自分の清潔感が否定された気持ちみたいで、それが嫌だよね」

彼女の話には、掃除をどう頑張っても出る時は出る。正しく蜚蠊ごきぶりの不快感を巧妙にとらえたと清水はかなり納得した。蜚蠊ごきぶりという実体に騙されて、人間は何を恐れ、何に不快感を覚えているかを認識し切れなかった。

少なくとも、蜚蠊ごきぶりが出てくる側面そこが問題の本質というのは、盲点もうてんだった。ある種の不能——人は生活領域を制御できなかった失敗に近い感情は一匹の虫によってだんじられる。しかも、此奴らはよりも質量しつりょうが蝉に近いので、殺す時の生命をつ罪悪感はに粘り、捨てる時はゴミ箱自体が棺桶かんおけのように重くなってくる。

殺虫剤さっちゅうざいの匂いもまた、アウシュビッツのシャワー室にも漂った死の匂いがして、蜚蠊ごきぶりの出現と排除は二つの課題提起となってきて、人間は同時に二つの課題の重さを処理し切れなかった。また、それを放置すると此奴らは知らないところで生殖せいしょくして、増え続けていく。最初の小さな課題がやがて、専門業者の手を借りないことには到底解決し切れない重大な難題なんだいへと変化する————

休憩室内、蜚蠊ごきぶりみたいな黒が眼瞼まぶた越しに過って、清水は直ちに昔からの飛蚊症ひぶんしょうだと気づき、気づいた後に少し安心した。

清水は一回自分のスマホ画面をチェックして、あと数分ほど、再びレジに戻らなきゃいけない。

レジは全てが制御されていて、何を活かすか殺すか一つ選択する必要がなく、正しく肌に合っている生活手段だと彼は思った。あと数年も、ここで働けると清水は思った。

それよりも——虫の話をずっと話していて、何故か母さんのことを思い出した。母さんは常に課題にを背ける人間だった。常に家庭の話をして、他人の噂話をして、息子の手取りの額をも知りたがっていた。このようなものは人生においてただの手段に過ぎなかったが、彼女はまるでが一方しかえず、あるいはを持っていない蚯蚓みみずのような……柔らかい地層ちそうを潜って、土竜もぐらからも太陽からも逃げて、そういった課題をまるで存在しないように、ただただ潜り続けた。

蚯蚓みみずはアレロケミカルの知識がなかった。彼岸花マンジュシャゲの球根に行けば助かる。土竜もぐらはリコリンの毒が入った球根を怯えるからだ。
「お疲れ様です」
「今日は話してて楽しかった。気をつけて」

レジを打ってる最中に外の雨が止んだ。

清水はタイムカードを切って、帰りに寄り道して大雨に濡れた公園のベンチに座り、しばらく実家のことを考えた。

それで、水分を含んだ公園の土は田舎の畦道あぜみちのように蚯蚓みみずがいっぱい寝そべった。此奴らはあたまも生存においては不要だったが、土の中の酸素が足りなかったら、土から出てくる。たとえこの静かな夜も猫か烏といった危険がたくさんあったとしても。

そして彼はスマホ画面をた。彼はとても嫌な気持ちになった。明日は酷暑日こくしょびである。予報を知っている自分が嫌で、また、明日の蚯蚓みみずたちはどうなるかを、ひとたび想像して、矢張やはりあの不快感が処理し切れなかった。蜚蠊ごきぶりは放置すれば増える、蚯蚓みみずたちはここで逃げられぬ運命を待っている。

彼はそのあと公園に来なくなった。

しかし、母さんの顔をるたび、酷暑日こくしょび惨状さんじょうを必ずイメージしてしまって、実家に残る課題を抱えた彼は、教員を続けるかどうかで、長々とそういう心象しんしょうに悩まされ続けた。

© 2026 腥田をにゆり ( 2026年5月16日公開

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