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水そそぎ〈上〉

『青い熱帯』、ほか(第4話)

腥田をにゆり

いよいよ夏休みに入った。うい川と二人で東北へ行くことになったが、彼女が泳げないことを知ったのは、あのときだった。泳げない理由については、彼女からさりげなく話してくれた。

タグ: #純文学

小説

2,775文字

水そそぎ〈上〉

腥田をにゆり

 1

ヒタ。ヒタ。ヒタ。と酷い暗やみから青色が滲み出た。私は怖くなってきた。ひたすら階段を登ろうとしたが、しかし屋上と繋がる唯一のドアがどんなに力を込めても開かなかった。——ヒタ。ヒタ。ヒタ。と段々と空色がいつもと違うような乱暴な青色に変わっていくと……。

もう、屋上に行くのを諦めて再び縁側のほうへ降りた。その時まだ風が強くて引き戸がガタガタガタと震えている。彼女は襖ひとつで通路と隔たれる田舎間の上にすやすや寝ていた。あの頬から何かが落ちていないかを確認したくて近づいたが、——ヒタ。ヒタ。ヒタ。と、全身にこわばった筋が、僅かな響きを立てて、掌・足の裏に到るまでひきつれを起しかけている。

鬼司禰両……。ただそれだけの深い凝結した記憶。それが次第に蔓ひろがって、この風雨の様々な姿を、短い連想の紐に貫いて行く。

2
「おはよう。夜行バスは初めて?」
「うん。ちょっとワクワクしてきた」

夏休みが始まった。私は結局うい川と二人で東北に行くことになった。単純に都市伝説のYouTubeチャンネルについて話し始めたら、急に彼女のお婆さんが実は恐山でイタコをやっているのを知って、それで、帰省のついでに口寄せをするつもりであると彼女がそう話すと、私もちょっと興味が湧いたのでついていくことにした。ちなみに、交通費は往復三万円くらいもするが、母に強請ったら案外うまくいくもので、「母さんも、祖父と挨拶したいけれど、もしイタコに会ったら祖父を口寄せしてくれる?」と頼まれた。ところが、私はスピリチュアルを全く信じない人間だから本当にやりたかったのはイタコはどういう風に喋るのかを確かめたくて——嘘であるかどうかをこの眼で検証したくてしょうがなかった。でも、うい川のお婆さんを疑うという訳でもなく、私はお婆さんを信用したいからこそ敢えて厳しい眼で見ようとしたのだ。

で、うい川は子供の頃から都内に住んでいるから訛りは全然ないものの、津軽弁は少しだけ話せると彼女がいった。「なんか喋ってみてよ」と聞いたら、「いやだ、恥ずかしいもん」と返ってきたが、そういえばイタコも津軽弁で喋るのか? 私がもし、外国人を口寄せしたら英語になるのだろうか——?
「中学まで『うるかす』が標準語かと思った」
「うるかすって何?」
「お椀を水につける時に使うよ」
「へー。そうなのか」

そういえば方言というのって案外使ってる人も気づかないもんだな。祖母は今高田馬場に住んでいるし、会いたい時はすぐ会えるから周りの人は誰も標準語で話していた。にしても、彼女の親が何故一緒に来ないのかが気になる。

出発まであと三十分ある。青森に着くのは翌朝十時前後になるので一旦トイレを済ませて、ターミナルのところのコンビニでお菓子を選ぶのに悩む。うい川はドライマンゴーを買うのが意外だった。マンゴー好きなの? と聞いたら、「普段は買わないけど、旅するといつもと違ったものを買いたくなるよねー」と話して、確かにそうかも! とは思った。ところで私はわざわざ普段買わないものを買うのを決めた途端に、延々と迷い続けるのであってやはり昔からずっと好きな昆布梅にした。じゃがりこと昆布梅のどちらかで迷ったが、流石に狭い所で音を立てながら食べるのマナー悪い気がして昆布梅のほうが無難かなと思った。

そしてやっと乗車のアナウンスが流されて、乗車口の列に並びながら、うい川の頬を見た。
「ん? なんか付いた?」
「何でもないよ」
「あんたって少し変わってるね」
「それは自覚ある」
「ははははは、可笑しいよ。本当に」
「ははは、頭を『うるかし』ておいたほうがいいぞ。笑いすぎ」
「全然違うよ、うるかすはそういう使い方じゃない!」

と彼女の笑いが止まらなかった。ちなみに、前回演劇を観に行ってなかったことについて何一つも責めてこなかった。ラッキーだと思いながらも、やはり約束を破る自分が悪かったから謝罪したが、それで、「雛はどうなったの?」と彼女に聞かれた。

雛は傷が治ったものの、そのまま野放しすると行き先がないし、一人で生きていけるかが不安でそういう保護してくれる組織を探さなければ、と色々考えている。
「ずっとこのまま家で飼えば?」
「いや、法的にダメらしいよ」
「大丈夫大丈夫。わたしは通報しないから、共犯者になってあげるから」

と二人になる途端に急に饒舌になるもんだなと思いつつ、うい川の謎がより深まってきた。

その後、二回ほどパーキングエリアに寄った。その道中でも、彼女は自分の昔のことを話し始めた。

実は彼女、昔タイに一回行ったことがある。当時まだ小学四年の彼女は親の離婚で親権は母親が取れたので今も一緒に暮らしているが、——あの時は母親のお客さんと三人で一緒にタオ島の五つ星ホテルで一週間も滞在したらしい。

ホテルのプールは当時の彼女にとってとても深かった。水が余りにも透明で、つい自分が泳げないのを忘れ、親が周りにいない隙にその一杯の透明が湛えた深さへ飛び降りたが、三十秒、四十秒と、彼女はまだ酸素が残っていてさほど怯えなかった。そして、秒数を数えつつ、眼の前にすぐプールラダーが見えるからあと一分も耐えられれば手を届かせる勇気を彼女は持っていた。一分も耐えられるならこの透明を怖がらない勇気を持って、彼女は着実に、プールラダーに向けて、少しずつ進んだ。

一分三十秒。一分五十秒。

しかし、プールラダーが全く動かなかった。二分。二分二十秒。二分三十秒。四十五秒。四十六秒。

時間の流れが遅くなってきた。

時間が進まなかった。彼女が怯え始めた。足が何かに引っ張られるような気がした。

どうにかこの透明から離れたくて精一杯小さな手を動かし、ある筈のない波が寄せてくるせいでどんどんすぐ眼の前にあるプールラダーから体が離れていき、肺が萎縮するにつれて小さな手が震えようとしても水の重さで固まって、やがて誰も見えない所で一人で静かに沈んでいく。

まだ光っている水面まで登りたい。と彼女の脳内はこの一文だけをちらつかせた。まだ光っている水面まで登りたい、と。まだ光っている水面まで登りたい。まだ光っている水面まで登りたい。まだ光っている水面まで登りたい。まだ光っている水面まで登りたい。まだ光っている水面まで登りたい。水面まで登りたい。水面まで登りたい。水面まで登りたい。水面まで登りたい。水面まで登りたい。登りたい。登りたい。登りたい。登りたい。

そして、うるかされた途端に————
「おい、危なかっただろうが! ガキ!」

とお客さんが彼女を水の底から引っ張り出し、サングラスをかけたどんよりとした顔で呼吸の乱れた彼女を叱った。

ふと、泣きもせず横のサンラウンジャーに座る母親の表情を一瞥すると、

当時の母親はいだわしねぇ顔をしているようだった。

うい川がただ笑いながら淡々と述べた。

© 2026 腥田をにゆり ( 2026年9月9日公開 )

作品集『『青い熱帯』、ほか』第4話 (全5話)

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