- 私は靴紐を結ばない。運命に身を任せるためだ。包囲されている。スーパーのお菓子コーナーで買う予定ではないカカオ75%のチョコレートを手に持ったまま、私はじっと敵の動きに全神経を傾けていた。
「おい!」と敵のひとりが言った。お菓子の通路右側からじりじりと距離を詰めてくる。男の敵。それに応えるように反対側からも敵が「かかってこい!」と言った。こっちは女の敵だ。私はカカオ75%のチョコレートを持ったまま、左右をチラと見た。男の敵は最近流行っているバトル漫画の主人公が持っていそうな日本刀を模した武器を持っている。女の敵は着ているフリル付きのワンピースに似つかわしくない銃で私に狙いを定めている。その他、五人、いや六人はいるかもしれない。お菓子の棚の向こう側にも気配を感じる。
だが、私は負けるわけにはいかない。靴紐の解けた魔王なのだから。
私が魔王になるまでの経緯はこうだ。
目覚ましがなくても決まった時間にいつも目を覚ますからと、油断した日に限って寝坊するものだ。クローゼットにかかっている服を適当に選んで、二十分でメイクを済まして、私以外いないワンルームに向かって行ってきます!と声をかけて家を出た。
大丈夫、このペースなら遅刻は免れる。スニーカーの靴紐はしっかりと解けている。
やれやれ、手際の良い自分に満足。しかし、寝坊した分、朝食を食べる時間がなかった。
今日は新しい職場の記念すべき初出勤。最寄り駅から二駅行って、そこからは送迎バスが出ている。バスに乗って、かつてニュータウンとして賑わっていたであろう山を切り開き、斜面に沿って建つマンションの群れを超えた先に職場はあった。自然豊かで落ち着いた、というより鬱蒼とした疲れ果てた街だ。
大手の物流会社の事務員として、まさか私のようなへっぽこニートが採用されるとは思ってもない僥倖だった。給料といい福利厚生といい何もかもが充実している。私の能力には荷が重いのではないかと、思わなくもない。
だからこそ、空腹でいるのは良くないだろう。と、いうことで都合よく職場の向かいに大きめなスーパーがあるので、そこで何か腹の足しになるものを買おうと思った。
お腹がなるのを気にしながら、お惣菜を眺める。いやいや、今からガッツリ食べる時間はない。お菓子でいいやとお菓子コーナーに入った途端、背後から私は刺された。
臀部を。カンチョウというやつだ。
「ひゃうん!」と人生で一度も出たことのない妙ちきりんな声が出た。振り返ると、今まさに尻を刺しましたという手の組み方をした男児が私を睨んでいた。
「お前、今から魔王な!」と男児は宣言した。
「え、なに?」と私が困惑していると、理解の鈍いヤツめと言わんばかりに男児は大きな声で「だから!お前は魔王なの!」と言った。
「なんで?」
「靴紐結んでないやつは魔王」
それ以上質問は受け付けないと言わんばかりに男児はどこかへかけて行った。なんだったんだと男児を見送っていた矢先に今度は腹を刺された。
「ふぐぅ」
今度は女児が、人差し指で私の腹を刺したらしかった。さっきの男児より一回り小さくどことなく顔が似ていた。妹かもしれない。
「よわい!」と女児が笑った。その途端、複数人の子供の笑いが起こった。私はいつの間にか四人の子供に囲まれていた。男三女一。中にはさっきの男児もいた。どうやらこいつがガキ共を集めてきたらしい。
スマホで時間を確認すると始業まであと二十分。早くこの場を切り抜けなければ。
わかったよ、なってやろうじゃん。靴紐の解けた魔王様によ!
「お前ら、魔王を怒らせたなぁ」と私は渾身の低音を効かせた作り声で唸ると、敵は蜘蛛の子を散らすように逃げていった。
そして、今に至るわけだ。敵はいつの間にか各々得物を持って私が動くのを待ち構えている。魔王たるものステゴロに限る。ガキが束になったところで、結局はガキ。しかし、多勢に無勢なのもまた事実。始業まで残り十分。決着は一瞬で決める。
刀を持った右の敵が近づいてくる。構えが隙だらけだ。だが、左の飛び道具を持った敵が厄介。そして、こいつらを蹴散らした後何人敵がいるのかもわからない。
私がカカオ75%のチョコレートを棚に戻したのが開戦の合図だった。私は振り下ろしてくる刀を交わして、狙いが狂い、撃ちまくってくる女児に向かって突進を試みた。咄嗟に目を瞑った女児を交わして、レジの向こう側に見えるスーパーの自動ドアを目指して走った。ガキ共の声の叫ぶ声が後ろで聞こえている。勝った!運命は私に味方した。そう確信した時には既に私の天地は反転していた。レジ横を潜り抜けた勢いで私は盛大に転けた。敗因、靴紐を踏んだ。敵が一斉に私に駆け寄る。悪は滅びる運命にあったのだ。
「おねえさん、大丈夫?」とカンチョウをかましてきた男児が心配そうに覗き込んでいた。
「敵に情けをかけるなよ、少年」
いつの間にか人だかりが出来ていた。東南アジア系の顔をした店員の女性が私に手を差し伸べてきた。私は魔王らしくその手を拒み、自力で立ち上がる。
「靴紐、結んだ方がいいよ」と妹に言われた。「そうだね」と言って私は靴紐を結ぶ。子供らに見送られながら店を出る。もう始業には間に合わない。職場に向かう途中、私は靴紐を解いた。
私は靴紐を結ばない。運命に身を任せるためだ。包囲されている。スーパーのお菓子コーナーで買う予定ではないカカオ75%のチョコレートを手に持ったまま、私はじっと敵の動きに全神経を傾けていた。
「おい!」と敵のひとりが言った。お菓子の通路右側からじりじりと距離を詰めてくる。男の敵。それに応えるように反対側からも敵が「かかってこい!」と言った。こっちは女の敵だ。私はカカオ75%のチョコレートを持ったまま、左右をチラと見た。男の敵は最近流行っているバトル漫画の主人公が持っていそうな日本刀を模した武器を持っている。女の敵は着ているフリル付きのワンピースに似つかわしくない銃で私に狙いを定めている。その他、五人、いや六人はいるかもしれない。お菓子の棚の向こう側にも気配を感じる。
だが、私は負けるわけにはいかない。靴紐の解けた魔王なのだから。
私が魔王になるまでの経緯はこうだ。
目覚ましがなくても決まった時間にいつも目を覚ますからと、油断した日に限って寝坊するものだ。クローゼットにかかっている服を適当に選んで、二十分でメイクを済まして、私以外いないワンルームに向かって行ってきます!と声をかけて家を出た。
大丈夫、このペースなら遅刻は免れる。スニーカーの靴紐はしっかりと解けている。
やれやれ、手際の良い自分に満足。しかし、寝坊した分、朝食を食べる時間がなかった。
今日は新しい職場の記念すべき初出勤。最寄り駅から二駅行って、そこからは送迎バスが出ている。バスに乗って、かつてニュータウンとして賑わっていたであろう山を切り開き、斜面に沿って建つマンションの群れを超えた先に職場はあった。自然豊かで落ち着いた、というより鬱蒼とした疲れ果てた街だ。
大手の物流会社の事務員として、まさか私のようなへっぽこニートが採用されるとは思ってもない僥倖だった。給料といい福利厚生といい何もかもが充実している。私の能力には荷が重いのではないかと、思わなくもない。
だからこそ、空腹でいるのは良くないだろう。と、いうことで都合よく職場の向かいに大きめなスーパーがあるので、そこで何か腹の足しになるものを買おうと思った。
お腹がなるのを気にしながら、お惣菜を眺める。いやいや、今からガッツリ食べる時間はない。お菓子でいいやとお菓子コーナーに入った途端、背後から私は刺された。
臀部を。カンチョウというやつだ。
「ひゃうん!」と人生で一度も出たことのない妙ちきりんな声が出た。振り返ると、今まさに尻を刺しましたという手の組み方をした男児が私を睨んでいた。
「お前、今から魔王な!」と男児は宣言した。
「え、なに?」と私が困惑していると、理解の鈍いヤツめと言わんばかりに男児は大きな声で「だから!お前は魔王なの!」と言った。
「なんで?」
「靴紐結んでないやつは魔王」
それ以上質問は受け付けないと言わんばかりに男児はどこかへかけて行った。なんだったんだと男児を見送っていた矢先に今度は腹を刺された。
「ふぐぅ」
今度は女児が、人差し指で私の腹を刺したらしかった。さっきの男児より一回り小さくどことなく顔が似ていた。妹かもしれない。
「よわい!」と女児が笑った。その途端、複数人の子供の笑いが起こった。私はいつの間にか四人の子供に囲まれていた。男三女一。中にはさっきの男児もいた。どうやらこいつがガキ共を集めてきたらしい。
スマホで時間を確認すると始業まであと二十分。早くこの場を切り抜けなければ。
わかったよ、なってやろうじゃん。靴紐の解けた魔王様によ!
「お前ら、魔王を怒らせたなぁ」と私は渾身の低音を効かせた作り声で唸ると、敵は蜘蛛の子を散らすように逃げていった。
そして、今に至るわけだ。敵はいつの間にか各々得物を持って私が動くのを待ち構えている。魔王たるものステゴロに限る。ガキが束になったところで、結局はガキ。しかし、多勢に無勢なのもまた事実。始業まで残り十分。決着は一瞬で決める。
刀を持った右の敵が近づいてくる。構えが隙だらけだ。だが、左の飛び道具を持った敵が厄介。そして、こいつらを蹴散らした後何人敵がいるのかもわからない。
私がカカオ75%のチョコレートを棚に戻したのが開戦の合図だった。私は振り下ろしてくる刀を交わして、狙いが狂い、撃ちまくってくる女児に向かって突進を試みた。咄嗟に目を瞑った女児を交わして、レジの向こう側に見えるスーパーの自動ドアを目指して走った。ガキ共の声の叫ぶ声が後ろで聞こえている。勝った!運命は私に味方した。そう確信した時には既に私の天地は反転していた。レジ横を潜り抜けた勢いで私は盛大に転けた。敗因、靴紐を踏んだ。敵が一斉に私に駆け寄る。悪は滅びる運命にあったのだ。
「おねえさん、大丈夫?」とカンチョウをかましてきた男児が心配そうに覗き込んでいた。
「敵に情けをかけるなよ、少年」
いつの間にか人だかりが出来ていた。東南アジア系の顔をした店員の女性が私に手を差し伸べてきた。私は魔王らしくその手を拒み、自力で立ち上がる。
「靴紐、結んだ方がいいよ」と妹に言われた。「そうだね」と言って私は靴紐を結ぶ。子供らに見送られながら店を出る。もう始業には間に合わない。職場に向かう途中、私は靴紐を解いた。
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