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水そそぎ〈中〉

『青い熱帯』、ほか(第5話)

腥田をにゆり

青森も恐山も行ったことがないので、数年前に見た『田園に死す』の内容を思い出しながら書いている。記憶も曖昧なので、かなり適当だったかもしれない。

小説

3,596文字

水そそぎ〈中〉

腥田をにゆり

それは降車する前の話だった。移動中の風景は終始同じような単調さで、そのプールの話を聞いた後に脳がクラクラしてきて、たぶん、車酔いというよりも夜行バスのシートに付いている独特な芳香剤の匂いのせいで、暫くの間私は微かな吐き気を覚えながらも寝落ちした。

どのくらい寝たかも分からず、最後に立ち寄ったパーキングエリアでエンジンが止められた頃に彼女に起こされた。ぼーっとしていたせいで、あの時はうい川が何をしようとしているのかまったく認識できなかった。彼女は耳につけていたイヤホンを外すと、ふと私に渡してきて、
「これ持ってて」と言った。車内は静かだった。その静けさのせいか、彼女の声は軽く聞こえた。それで、窓側に座った彼女が肩を丸めて私の前を通り、
「もうついたの?」
「まだだよ。パーキングエリアだからトイレに行くつもり。まだ少し寝るよね?」

と話して、やがて朦朧とした意識が戻ってきた頃には、彼女の姿はもう見えなくなっていて、渡された桃色のポータブルオーディオの重さだけが掌に残った。小さく見えるが、重さはスマホとさほど変わらなかった。最近ではあまり見かけないものだと思って、勝手に中身にどんな音楽が入っているかをチェックしてみた。やはりうい川はその穏やかな外見に反して、どうも不思議な感性を持っている。——アイドルにまったく興味がないように見えて六割は洋楽で、あとはインストだった。

さっきは何を聴いたのだろう……。

と、そのリプレイ履歴をチェックしようとしたが、操作方法がよく分からず、また数分かかった。
〈Radioh…〉

やっとのことで操作方法を理解し、彼女が直前まで聴いたアルバムの名前を読み上げようとしたら、その時、彼女が既に横に立っていた。
「早いね」
「うん、意外と並んでなかった」
「そういえば暗い音楽ばっか聴くんだね」
「そうだよ」

へー。否定しないんだ、と思った。それで、うい川が腰を下ろした途端に、
「明るい音楽って、あんまり好きじゃないの?」

とポータブルオーディオを返すついでについつい疑問を抑えきれずにぽろりと漏らしたが、——「ああ、」

とうい川がやや戸惑った顔でしばらく答えられずにいた。
「なんかあった?」

と再び質問したら、
「暗い話ならかなり温存している。特級呪物だよ特級呪物……。保育園の頃、親戚の人に小綱呼ばわりされてたな」
「小綱って?」
「流石に分からないか。だろうねー」

のちに調べたら、たぶん『鬼の子小綱』という民話のことだそうで、しかしうい川は何も教えてくれなかったので、彼女の両親のことを知ったのは青森に着いたあとのことだった。この時、彼女の表情をちゃんと確認すれば良かったと思うけれど、私の記憶がとても曖昧で、おそらく嫌な事について話す時、彼女は常に顔を窓側へと向けている。彼女の表情をまったく覚えていない。ただ、声だけはいつもと比べて迷いが少ないように感じる。今思えば、彼女の言葉には常に迷いが入っていた。まるで誰かの許可を窺っているような——自分の言いたいことを当たり障りない言い方に「翻訳」する感じの喋り方をしていた。——たぶん、ここでやっと本当のうい川を見られた気がするんだ。
「それよりあんた変だよ。なぜそんなに他人に興味持ってるの?」
「いやいや、うい川に興味持ってる人いっぱいいるよ。毎日いろいろ聞こえるし」
「いろいろ?」
「全部いい話じゃないけどいい話もあるよ。男子にモテるとかさ」
「ああ、だから私は人間が大嫌いだ。他人の噂話ばかり。ほっといてくれよって感じ」
「けど、モテて羨ましいな。バスケ部の部長となんで別れた?」
「え? あいつ他の人にいい顔するけど、結局気持ち悪いことしか考えてないよ。猿みたいに性行為を強要してくるから流石にダメだなと思ったら……私も衝動的すぎたかな?——みんなは彼の外見だけ信じて、あと、友達もいっぱいいるし慕われているから、あれは悪手だった」
「男はそういう生物らしいね。してあげればいいとかそういう話わりと聞くけどな」
「いや、してあげてもいいが、しかし別れた後に、他人に吹聴するような真似を考えると、してあげなくて良かった。彼の優しさは全部条件付きなんでしょ?」
「へー。私恋愛したことないけど、なんか深い話した? そういえば、みんながうい川は性格が悪いと言っていて、もともと信じなかったけど、百聞は一見に如かずだね」
「あんたみたいなバカが、よくそんな言葉を知ってるね」
「うける。めちゃ口悪くなってるじゃん!」
「ねえ。君ってなんでついてきたの? 私たち友達ですらないのに」
「んー。深く考えていないけど、本当は今みたいに喋る前は素敵な人だなと思った。悩みが無さそうな感じとか、あとモテる所とか」
「こっちこそあんたが羨ましいよ。そういえば、どこ中だったの?」
「南中」
「え! 南なの? 一緒だ、一緒。なぜあなたを見たことなかったのだろう」
「ああ、実は病んでる時期あったから長い間家で一人で勉強してたんだ」
「そんなことあるんだ。だから勉強できてないんだ」
「ええ、本当にバカで、実は中学校でも一番得意な数学が急に点数が低くて、ショックで病んだよ。なぜ私はこんなにダメ人間なんだろう…?と当時思った」
「そんなことないよ。人に点数なんてつけられないしさ」
「そもそも、うい川って何が得意なの?」
「科目の話? えっと……。現代文、英語、あと古典。この辺かな」
「もっぱら文系脳だね」
「文系脳ですよ。だから?」
「——好きな熟語は?」
「んー。んー。色々あるが、強いて言えば『きしねんりょ』かな?」
「『きしねりょう』?聞いたことねえ……かっこいい響きだね」
「字面ももっとかっこいいよ」
「そうなの?書いてみてよ」
「書かないよ」
「書いてよ」
「嫌だ」
「じゃ私が書くから、あなたが言ってよ」
「仕方ないな」
「早く早く」
「鬼のき」
「鬼のきね」
「司書の司」
「鬼司。ふむふむ、それで?」
「残り二文字はあなたが想像して」
「えー? けど、たしかに変だよね。『ね』と『りょう』でしょー。じゃ、これで!」
「禰?なぜこんなに難しい漢字が書けるの、ふざけてるね」
「頞儞羅大将の禰だよ」
「知らねえよ」
「うちの爺さんは仏師でな、十二神将の名前と顔を全部覚えさせられた。で、残り一文字はどう書くの?」
「簡単にその手には乗らないよ。もう好きに書けば?」
「じゃ…両思いの両ね。ポジティブ要素として」
「ふふ、何これ。鬼司禰両……、古事記に出てきそうな名前だね」
「そういう妖怪はいそう」
「あなたって本当に変なやつだよ……。ただ——」

その後、到着するまでうい川とずっと南中のことを話していた。私は殆どの時間家で過ごしたので、正直、話を聞いてもついていけない所が多かった。とりあえず、彼女は中学時代のほうが良かったというのはよく伝わった。——ちなみに、教頭先生はうちの近所に住んでいるから、たまにその辺のコインランドリーや天ぷら専門店で見かける。不登校時代は鉢合わせするたびに色々言われるのが面倒くさくなったので、段々家からも出なくなったな。

ソシャゲの課金のためにギフトカードを買いに行こうとしたら、いつもストーカー並みにコンビニによく現れたし、それで、仕方なく平日の午後一時くらいにランチを調達しに行くついでにコンビニに寄るようにしている(本当はこの時間に出かけるのが嫌だった。同い年の人が街にいないから他人の視線が気に障る)。

会話がそのまま続くうちに、エンジン音に包まれた長い夜が少しずつ朝ぼらけの温もりに追いやられていき、窓際とシートの手すりが漸く青みがかった陽射しに浸された。

九時丁度に八戸駅に到着。真夏の暑さはさすがに侮れないが、都内と比べて建物が密集していない分、思ったより嫌な蒸し暑さはなかった。
「どう? 初めての青森は」
「腹減ったな、店少ないけど大丈夫かな」

と話しながら、建物の外壁一面に貼られた山車やねぶた祭りのポスターが最初に目に入った。
「水飲む?」

と彼女がそう言いながら、パーキングエリアの自販機で買ったミネラルウォーターを渡してきた。

一口飲んだら、ふと彼女がスマホの画面を見せてきて、
「台風か——。これは困るな」

どうやら明日の夜、台風は太平洋から北日本へと直撃する見込みだ。
「もし疲れなかったら、このまま恐山に向かうよ。明日以降は行けるかどうか分からないから」

せっかくの観光なのにせかせかしないといけないのかと思いつつも、私たちはそのまま鉄道に乗り換えてさらに北のほうへ向かった。

ところが、乗車する前に構内の小さなコンビニでおにぎりを買おうとしたら、店員のお婆さんに「温めますか?」と聞かれて、聞き間違えたのかなと思ったが、うい川の話によると青森では温めたおにぎりを食べるのは別に珍しいことではないらしい。

鬼の子……。

とおにぎりを齧りながら、プールの話はなんだったのかを色々と考え始めた。

© 2026 腥田をにゆり ( 2026年9月26日公開 )

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