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『銀板鏡』第一章「銀血の標本」

殯の器(第10話)

ゐで保名

 浅草の暗室から引き摺り出された時景の手首には、冷酷なる鉄の手錠が噛まされてゐた。  抜刀隊の警部補らは、時景が日光を嫌ふ体質であることを知るや、黒き厚布の頭巾を頭から乱暴に被せ、泥濘に濡れたる荷馬車の荷台へと投げ込んだ […]

タグ: #ホラー #幻想文学

小説

4,216文字

 浅草の暗室から引き摺り出された時景の手首には、冷酷なる鉄の手錠が噛まされてゐた。
 抜刀隊の警部補らは、時景が日光を嫌ふ体質であることを知るや、黒き厚布の頭巾を頭から乱暴に被せ、泥濘に濡れたる荷馬車の荷台へと投げ込んだ。馬車は警視庁の騎馬に護衛されながら、新橋の停車場へと疾駆し、未明の臨時軍用列車へと時景の身柄を押し込めた。鉄路を走る汽車の振動が、座席の下に固定されたるマホガニー材の写真機と、硝酸の薬瓶の詰まりたる木箱を、絶え間なく震はせてゐた。
 時景は頭巾の下の暗闇の中で、深く息を吸ひ込んだ。
 鼻腔を満たす石炭の煙と鉄錆の臭気——それは、江戸が死に絶え、明治といふ名の血生臭き近代が産声を上げたときの、胎盤の臭ひ。
 列車が着いたるは、異国の黒船が犇めく横浜の波止場であつた。
 潮風が吹くたび、時景の皮膚は、頭巾の布越しに刺すやうな疼きを覚へた。この横浜の居留地こそは、時景が人間たる温もりを剥ぎ取られ、生きたる感光板へと作り変へられた、呪はれし故郷であつたからである。
 
 文久の末、親をコレラで失ひ、居留地の裏通りで行き倒れてゐた十歳の時景を拾ひ上げたのは、英国海軍の軍医にして写真師であつた、アルフレッド・ブラックウッドといふ男であつた。
 男は、セポイの反乱やアヘン戦争の戦跡を巡り、数千の死体の写真を撮り集めてゐた狂気の解剖学者。石炭酸の臭気配る洋館の地下室で、男は時景に飯を食はせる代わりに、写真術の暗黒なる手引を授けた。
 だが、それは正当なる化学の徒の道ではなかつた。
「魂とは、肉体が放つ不可視の光線である」
 青白き眼をした英国人は、解剖台に縛り付けたる時景の腕を見下ろしながら、流暢なる日本語で囁いたものであつた。
「銀は、その光線を吸着する唯一の金属だ。ならば、その銀を血管に走らせた人間は、この世の誰よりも純粋なる死の受像体となるはずだ」
 男は、硝酸銀を蒸留水に溶かした極微量の希釈液を、ドイツ製のガラス注射器に吸ひ上げ、時景の左腕の静脈へと、毎日一本ずつ注入し続けた。
 血管を灼く激痛は、溶けた鉛を流し込まれたるが如くであつた。
 数ヶ月ののち、時景の皮膚は常人の血色を失ひ、月光に晒された死人の如き青銀色へと変じた。太陽光を浴びれば、真皮の奥に沈着した銀の微粒子が一斉に感光を始め、全身の毛穴が焼け爛れて黒い斑紋を吹き出す。体温は三十四度を割るまでに低下し、時景は昼の光を追はれ、暗室の赤色燈の下でしか息のできぬ、異形の怪物——アルギリアの標本として完成された。
 ブラックウッドは、やがて自らの眼球を硝酸で焼き潰し、発狂して海へ身を投げた。
 残された時景の手元には、男の遺した写真機と、死者の網膜から記憶を抽出する禁忌の処方箋だけが遺された。
 
 横浜の海軍桟橋に面した赤煉瓦の官舎の一室へと連行された時景は、そこで頭巾を剥ぎ取られた。
 部屋の中央、西洋絨毯の敷かれたる円卓の向かうに、肋骨服に身を包みたる小柄なる男が、軍刀の柄に手を置いて座してゐた。
 鋭き眼光、浅黒き肌、頬骨の張りたる薩摩武士の厳めしき骨相。
 内務省大警視・川路利良であつた。
 日本の近代警察の父にして、西郷隆盛の腹心でありながら、いまや西郷を討つべき政府軍の抜刀隊を率ゐる、冷徹なる権力の執行者。
 川路は、時景の青銀色に透き通る顔面を、眉一つ動かさずに検分した。
「……貴様が、浅草の土蔵で死人の眼を縫ひ刺し、魂の写真を撮つてゐたといふ時景か」
 川路の声は、鋼のやうに硬く、低かつた。
「写真師を名乗る化け物め。貴様のやうな妖異は、本来ならば即刻梟首に処すべきところぢや。……されど、貴様のその狂気に満ちた銀の腕を、国家のために使ふて貰ふ」
 川路は立ち上がり、軍靴を踏み鳴らして窓際へと歩み寄つた。
 窓の外の港には、黒煙を吹き上げる軍艦「春日」の巨体が、灰色の波間に浮かんでゐる。
「西郷吉之助が、鹿児島で兵を挙げた。一万余の士族を率ゐて熊本へと進撃してをる。……あれは、狂ひ咲きぢや。旧時代の武士どもが、滅びゆく前に放つ最後の一花ぢや。政府はこの機会に、西郷もろとも、日本中の士族の残滓を根こそぎ叩き潰し、平民の血をもつて真の近代国家を築く腹積もりでをる」
 川路は振り返り、その冷酷なる瞳で時景を射抜いた。
「軍医部付の従軍写真班として、直ちに春日に乗れ。……任務は、官軍の勝利の記録にあらず。戦場に転がる数万の骸の撮影でもない」
 川路は時景の胸元に顔を近づけた。
 その口から漏れ出づる煙草の煙が、時景の冷たき肌を撫でる。
「西郷の死顔ぢや。……西郷吉之助を討ち取りたるその瞬間、その切り落とされたる生首の網膜に焼き付いた『最後の光景』を、貴様のその銀の板に焼き付けよ。……西郷は神仏の如く崇められてをる。ただの死体写真を新聞に載せたとて、民衆は『西郷は死なぬ、ロシアへ逃れた、天から星となつて戻つてくる』と狂言を弄するであらう。……西郷が完全に絶望し、魂の底まで死に絶えた証拠を、貴様の硝子板の上に定着させねばならぬのだ」
 国家の命による、魂の暗殺。
 死者の記憶を奪ひ、永遠の沈黙へと縫ひ止めるための、写真機といふ名の処刑台。
 時景は、手錠を打たれた両の手を円卓の上に置き、口の端を微かに吊り上げた。
「……御下命、承知いたしました、大警視閣下。西郷吉之助の網膜に、いかなる地獄が焼き付いてゐるか……この銀の鏡に、余すところなく写し取つてごらんに入れませう」
 
 その日の夕刻、時景は軍艦「春日」の最下層、蒸気機関の熱気とビルジ水が澱む船倉の片隅へと押し込められた。
 舷窓一つなき暗黒の中、ボイラーの巨鯨のやうな唸りと、外板を叩く玄界灘の荒波の衝撃が、時景の骨を軋ませる。時景にとりて、この日の光の届かぬ船底こそは、帝都の暗室よりもなほ安らげる寝床であつた。
 時景は懐より、真鍮の細工箱を取り出した。
 蓋を開けば、黒天鵞絨の敷布の上に、一本のガラス注射器と、硝酸銀の飽和溶液を満たした琥珀色の小瓶が収まつてゐる。
 時景の、夜の日課であつた。
 長旅の間、暗室の作業を離れれば、体内の銀は代謝によつて徐々に沈殿し、光を吸着する感応性を鈍らせてしまふ。時景は自らの肉体を「常に濡れたる感光板」として保つため、定期的にその血管へ、銀の毒を注ぎ足さねばならなかつたのだ。
 時景は左腕の袖を捲り上げた。
 青銀色に透き通る前腕の皮膚には、幾千もの注射の痕が、黒き星の如き針穴となつて点々と列をなしてゐる。皮膚の下を走る尺側皮静脈は、血液の赤を失ひ、濁りたる青墨を流し込みたるが如く黒々と浮き上がつてゐた。
 時景は注射器の針を小瓶に差し入れ、銀液を、筒の半ばまで吸ひ上げた。
 針先を上に向けて気泡を抜く。
 そして、躊躇ふことなく、その太き鋼の針を、自らの静脈へと深々と突き刺した。
 ぷちり、と。
 皮膚が裂け、針が血管の内壁を貫く。
 時景はピストンをゆつくりと押し下げた。
 じゆうう、と。
 血管の内側で、肉が焼けるが如き強烈なる冷熱が爆発した。
 痛覚ではない。それは、骨の髄までが一瞬にして零下の氷に閉じ込められるやうな、苦悶であつた。注入された硝酸銀の液は、血流に乗りて心臓へと駆け上がり、肺を通り、全身の毛細血管へと拡散してゆく。
 時景の眼球が、見開かれた。
 暗黒の船倉の中にあつて、時景の視界は、眩いばかりの銀色の閃光によつて塗り潰された。
 体温が、急激に降下してゆく。
 三十三度、三十二度。
 脈拍は一分間に四十回を割り、時景の胸板の下で、心臓は肉の塊にあらざる、冷たき機械の振り子のやうに、重く、鈍い音を立てて打ち始めた。
「……満ちた」
 時景は注射器を引き抜き、血の滲む針穴を親指で強く押さへた。
 針穴から漏れ出でたる一滴の血液——それは、もはや人間の赤き血ではなかつた。金属粉を混濁させたるが如き、粘り気ある銀黒色の雫であり、床の鉄板の上に滴り落ちるや否や、ちりちりと音を立てて冷え固まつた。
 
 その夜半、春日の船底に、新たな死者が運び込まれた。
 九州への航海中、船倉の過密と不潔によつて発生した急性コレラにて絶命した、徴募兵の若者の遺骸。触穢と伝染を恐れた水兵らは、筵に包んだその死骸を時景のゐる船底の倉庫へと投げ込み、外から鉄の閂を差し込んで逃げ去つた。
 時景は、暗闇の中で立ち上がつた。
 死骸の傍らに膝をつき、筵を捲り上げる。
 まだ死後一時間と経つてゐない。
 激しい嘔吐と下痢によつて体中の水分を搾り取られた若者の顔面は、土気色に引き攣れ、口元には乾いた胃液の泡が白くこびりついてゐた。その両の眼球は、死の瞬間の恐怖に見開かれたまま、いまだ乾ききらずに暗黒を凝視してゐた。
 時景は腰の革帯より、細身の解剖刀を抜き放つた。
 刃先が、死者の右の目頭へと差し込まれる。
 ぐちゆり、と。
 眼窩の奥の脂肪組織を切り裂き、視神経の束を刃先で手探りしながら、一息に断ち切る。
 時景の指先が、眼窩の穴から、ぬらりと湿りたる眼球の球体を抉り出した。
 手のひらに載る、人間の眼。
 時景は解剖刀の先で角膜を十文字に切り裂き、中からゼラチン状の硝子体を押し出した。そして、眼球の内壁に張り付いてゐる、極薄の紫紅色の膜——網膜を、ピンセットの先で慎重に剥ぎ取つた。
 小瓶の中の樟脳アルコールへと、その剥ぎ取られたる網膜を沈める。
 網膜が液に触れた瞬間、瓶の底から、青白き燐の光が灯り、時景の青銀色の顔面を不気味に照らし出した。
 死者の網膜は、まだ生きてゐた。
 若者が死の直前、暗い船倉の天井を見上げながら思ひ描いたであらう、故郷の村の風景、老いたる母の呼び声が、細かなる生化学の染みとなつて、アルコールの中に溶け出してゆく。
「……上等だ」
 時景は小瓶を振り、光が溶け合ふのを見つめながら呟いた。
「戦場へ行けば、この何万倍もの網膜が手に入る。……西郷吉之助の眼球も、この瓶の中に収まるのだ」
 夜が明ける頃、春日のスクリューが回転を緩め、錨の落ちる轟音が船底に響いた。
 九州・長崎港外、小菅の入江。
 時景が暗函と写真機を抱へ、甲板へと這ひ上がつたとき、東の空は白み始めてゐた。
 厚き頭巾の隙間から見遣る有明海の彼方、肥後・熊本の山々の嶺から、重き地鳴りの如き音が、風に乗つて届いた。
 どおん、どおん、と。
 雷鳴にあらず。
 熊本城を取り囲む薩摩軍の放つ大砲の轟音。
 血と泥と硝煙の匂ひが、海風を切り裂いて時景の鼻腔を撃つた。
 時景の右腕の皮膚の下で、銀の結晶が、悲鳴を上げるが如くちりちりと軋み鳴つてゐた。

© 2026 ゐで保名 ( 2026年10月18日公開 )

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