千鶴が小屋に棲みつきしより、染物小屋の空気には、奇異なる凪が訪れた。
朝、引き潮の瀬戸より吹き込む風は、岩肌を削るやうに冷たく湿つてゐたが、千鶴はその風の中を物音も立てずに歩み、浜に打ち上げられたる流木を拾ひ集めては、小屋の軒下に几帳面に積み上げた。色の見えぬその眼にとりて、濡れたる木切れも、乾きたる海松も、同じ灰色の濃淡にすぎぬはずであつたが、指先の冷たさ、木肌の重みのみを頼りとして、薪とすべきものを過ちなく選び取つた。
千鶴の炊く粥は、塩気すら薄く、ただ米の粉を井戸水にて伸ばしたる淡泊な味であつたが、青玄はその椀を受け取るたび、己の五臓六腑が息を吹き返すのを感じた。
食ふことは、色を呑み込むことに似てゐる。
かつて都にゐた折、青玄は供される吸ひ物の中に、煮殺された魚の最期の苦悶がどす黒き油の輪となつて浮き漂ふのを見、青菜の浸し物の緑の奥に、土の虫が這ひ回りたる腐敗の毒を嗅ぎ取つては、胃腑をひつくり返して吐き戻した。千鶴の作る食物には、感情の濁りが微塵もなかつた。色を持たぬ者が、涙を流せぬ指先でもつて拵へたる粥は、何も混ざらぬ空白の味をしてゐた。その空白を胃の腑に流し込むとき、青玄の眼の奥で燻り続けてゐた色彩の残滓は、灰に水を打つたやうに鎮まつてゆく。
千鶴は語らなかつた。青玄もまた、己の過去を口にはしなかつた。
ただ、夕暮れ時、千鶴が小屋の隅に座して、破れたる網を繕ふ針を動かすとき、その横顔を照らす夕日の残光が、青玄にとりて唯一の救ひであつた。千鶴の肌に落ちる影は、赤でも紫でもなく、ただ透明なる薄墨の色をしてゐた。その薄墨の静寂を見つめてゐる間だけ、青玄は己が「色を視る獣」であることを忘れ、ただの人に戻ることができたのである。
されど——その静寂の裏側で、土間に沈められたる五つの藍甕は、飢ゑに身悶えしてゐた。
藍を建てるとは、死せる草木に再び命を宿らせる儀式に他ならぬ。
都の染殿において、青玄が師より叩き込まれたる正統の技法は、厳格なる秩序の上に成り立つてゐた。
初夏に刈り取りたる藍の葉を寝床に積み、水を打ち、筵を掛けて発酵を促す。熱を発し、湯気を立て、天地の呼吸と相和して生まれ落ちたる黒き土——蒅。これを大甕に入れ、楢や樫の木灰を濾したる灰汁を注ぎ、消石灰を加へて液の調子を整へ、酒を注ぎ、麩を撒きて、甕の中に棲まふ見えざる小さき命どもに飯を食はせるのだ。
甕を菰で包み、炭火を囲ひて人肌の温もりを保つこと十日余り。液は茶褐色より緑褐色へと変じ、やがて濃紺の泡が盛り上がる。藍の華である。華が咲けば、藍は建つ。
布を浸し、風に晒す。ひとたび浸せば甕覗、重ぬるごとに浅葱、縹、藍、紺。褐に至るには、幾度も浸け、幾度も晒さねばならぬ。色は、重ねし時の数だけ深まる。
それが、幾百年の昔より染殿の染師たちが守り伝へてきた「正道」であつた。
青玄もまた、その正道を歩まんと欲した。宮廷の染殿において、師の教へを忠実に守り、誰よりも澄みたる縹色を、誰よりも深き露草色を染め出してみせた。
されど、青玄の眼は、その正道の奥に張り子の如き欺瞞を見抜いてしまつたのである。
公卿たちが愛でる雅やかなる青。それは、都の富が生み出したる、清潔にして無害なる幻影にすぎなかつた。帝の御衣を染むる禁色——黄櫨染や深紫の綾絹を染め上げる染殿の片隅で、下級の雑色や仕丁らが、指の皮を灰汁に溶かされ、肺を石灰の粉に焼かれ、血反吐を吐きながら甕を掻き回してゐた。宮廷の栄華を飾る壮麗なる色彩は、名もなき賤民の肉体をすり潰した血と脂の犠牲の上にのみ咲き誇る、毒の花であつたのだ。
大納言の衣に潜む密通と破滅の色を青玄が暴き立てたるは、驕りゆゑではなかつた。嘘を吐くことが出来なかつたのだ。美しき錦の表面の下で、腐れゆく内臓の濁紫が脈打つてゐるのを見せつけられ、それを「美事なる色」と讃へることは、己の眼球を引き抜いて踏み躙るよりも耐へ難き屈辱であつたからである。
追はれて長門の赤間関に至り、阿波の蒅を手に入れたとき、青玄は誓つたのだ。
二度と、宮廷の虚飾の青は染めぬと。
この世の底辺に打ち捨てられ、波間に消えゆく者の、真実の叫び。それだけを吸ひ上げた、混じり気なき「真の青」を建ててみせると。
されど、赤間関の冷たき土の下で、五つの甕は頑なに沈黙を守り続けた。木灰の灰汁も、酒も、麩も、甕の底に眠る藍の命を呼び覚ますことは叶はなかつた。青玄の求めるものが「死の真実」であるならば、それに応ふる糧もまた、生の甘やかな養分であらうはずがなかつたのだ。
四月に入り、関の瀬戸を渡る風に、生温かき泥の臭気が混じり始めた頃のことである。
浦の空気が、俄かに殺気立ち始めた。西の海——異国蒙古の軍船が再び押し寄するとの風聞が、博多の津より伝はり来て、警固の番役に人を徴発せんとする武者どもの馬が、砂浜を砂塵を巻き上げて疾駆する。重税に米を奪はれ、男手を戦に取られ、浦の貧しき漁村は、声なき絶望の底へと沈みつつあつた。
その日の正午、海鳴りの音を突いて、女の裂けむばかりの絶叫が染物小屋の羽目板を揺るがした。
青玄が戸を開けると、百歩ほど離れたる波打ち際に、浦の衆が十数人、黒い塊のやうに群がり集まつてゐた。
砂浜の上に、筵に包まれたる細長きものが横たへられてゐる。
溺死人であつた。今朝、瀬戸の早瀬に小舟を呑まれ、岩礁に叩きつけられて水死した、浦の若者の遺骸であつた。
筵の傍らに、老いたる女が這ひ蹲り、砂を掻き抱いて狂乱してゐた。若者の母であつた。白髪を振り乱し、引き裂かれたる着物の胸を露はにして、我が子の青白き足を抱きしめ、天を仰いでは獣の如き咆哮を上げてゐた。
「戻せ、返せ! たつた一人の息子ぢや、わしの命のすべてぢや! 海神よ、平家の亡者どもよ、なぜこの子を連れて行つた! わしを代わりに沈めよ、わしの血を啜れ!」
青玄の眼が、痛烈なる刺激に貫かれた。
見えたのだ。
その老いたる母親の全身から、噴き上がり立ち昇る色の奔流が。
怒りの赤ではない。それは、胸の奥底が引き裂かれ、血が逆流し、内臓が灰燼と化す刹那にのみ放たれる、濃密なる暗青色の気泡であつた。女の眼窩より溢れ出る涙は、清き水にあらず、眼を灼くばかりの鮮烈なる光彩を放ち、砂の上に滴り落ちるたび、その一粒一粒が、針のやうな冷気をもつて青玄の皮膚を突き刺した。
涙。
これだ、と青玄の脳裏で声が叫んだ。
藍が求めてゐたものは、酒でも麩でもない。これであつたのだ。
青玄は無意識のうちに懐より素焼きの小壺を取り出し、砂浜へと駆け出してゐた。
浦の衆が忌まはしげに後退る中、青玄は狂乱する老女の前に跪いた。
「……母よ」
青玄は女の痩せこけた肩を抱き寄せ、その顔を己の胸へと引き寄せた。老女は青玄を見ることすら叶はず、ただ目の前に現れた人間の肉に爪を立て、血の滲むほどに青玄の衣を握り締め、胸板に顔を押し当てて号泣した。
熱い滴が、青玄の胸を濡らした。
青玄は素焼きの壺の口を老女の頬に当て、その眼から滝となつて溢れ落ちる涙を、一滴も零さぬやうに受け止めた。
熱く、塩辛く、そして恐ろしく重い液体であつた。壺の中に涙が溜まるにつれ、陶器の肌が氷の如く冷え返り、青玄の指先を痺れさせた。老女の喉の奥から絞り出される慟哭が、壺の口で反響し、唸り音となつて指に伝はる。
やがて、老女は喉を嗄らし、白目を剥いて砂の上に倒れ伏した。魂のすべてを泣き尽くし、仮死の眠りへと落ちたのだ。
浦の衆が駆け寄り、老女を抱き起こして去つてゆく間、青玄はただ独り、涙で満たされた素焼きの壺を抱へて立ち尽くしてゐた。
壺の中の液体は、無色透明ではなかつた。
青玄の眼には、それが底知れぬ冥府の青を湛へ、渦を巻いて燐光を放つてゐるのが、はつきりと見えてゐた。
染物小屋へ戻ると、千鶴が土間の真ん中に立ち、じつと青玄を待つてゐた。
千鶴の眼には、壺の放つ青き光は見えぬはずであつた。千鶴は青玄の抱へる壺を見つめ、微かに鼻腔を動かした。
「……塩の匂ひがいたします」
千鶴は言つた。
「海の塩ではございませぬ。もつと……痛い塩の匂ひでございます」
「さうだ」
青玄は荒い息を吐きながら、土間の三番目の大甕の前に膝をついた。
千鶴が小屋に入りし日に、たつた一度だけ気泡を吹いた、あの甕である。
青玄は甕の蓋を外した。
濁りたる黄緑色の液が、冷たく淀んでゐる。
「見てをれ、千鶴」
青玄は素焼きの壺を傾け、老女の涙を、甕の縁から注ぎ入れた。
一滴。二滴。
涙が液面に落ちた瞬間——小屋の空気が、凍りついた。
じゆつ、と。
焼けた鉄を水に突つ込んだやうな、鋭き異音が甕の底より響いた。
液が、波紋を描いて震へ始めた。底に沈んでゐた阿波の蒅が、まるで眠れる巨獣が身を捩るやうに、もこもこと盛り上がり、液を押し分けながら浮上してくる。
泡が立つた。
一つ、二つ、十、百。
甕の底から、夥しい気泡が湧き上がり、液面を覆ひ尽くしてゆく。
その泡の色は——。
青玄の手から離れた蓋が、土間に転がつた。
青紫にあらず。それは、光を呑み込み、闇を吐き出すが如き、濡れたる烏の濡れ羽色——否、海底の泥の奥底に沈殿したる、どす黒き血の混じりたる紺青であつた。
泡は盛り上がり、甕の縁を越えんばかりに盛り上がりて、一つの巨大な「藍の華」を形作つた。
匂ひが立ち昇る。
酒の芳醇にあらず、麩の甘さにあらず。
塩と、涙と、引き裂かれたる母の胎内の肉の匂ひ。死者が海に沈むときに吐き出す、最期の生気の匂ひ。
甕が、唸り声を上げてゐた。
ぼこ、ぼこ、と、地底の泥を掻き回すやうな重き呼吸音。
建つたのだ。
半年間、死んだやうに沈黙してゐた青玄の藍甕が、一人の母の流したる魂の涙を喰らひて、つひに狂気の覚醒を遂げたのだ。
「……あたたかい」
不意に、千鶴の声がした。
見れば、千鶴が甕の傍らに膝をつき、盛り上がる黒青色の泡のすぐ上に、両の手のひらを翳してゐた。
千鶴の眼には、その泡の禍々しき色は映つてゐない。
千鶴の皮膚は、甕の放つ常ならぬ熱気を感じ取つてゐた。
「冷たい液のはずなのに……火を熾したやうに、熱い息が昇つてまゐります。そして……」
千鶴は己の胸元を押さへた。
「胸の奥が、痛うございます。わたくしが海で失くしたはずの……あの水底の冷たさが、この泡の中から、手招きをしてゐるやうでございます」
千鶴の白い頬を、青玄は見つめた。
そのとき、青玄は戦慄した。
千鶴の右の眼球——光を宿さぬはずの、その灰色の瞳の奥に、変化が起きてゐた。
瞳の縁に、針の先ほどの小さな青い斑点が、ぽつりと浮き出てゐたのだ。
甕の放つ藍の気が、千鶴の空つぽの器の奥へと、染み込み始めてゐる。
青玄は己の手を見た。
甕の縁を掴む青玄の指先——その人差し指の爪が、縹より藍へ、一段染まり上がつてゐた。
痛みはなかつた。
代はりに、冷たきものが背骨を駆け上がり、青玄は知らず、口の端を吊り上げてゐた。
この甕は、染まる。
かつて都の誰もが目にしたことのない、人の魂そのものを写し取る、真実の青が染まるのだ。
青玄は立ち上がり、棚の奥より、生成りの粗末なる麻布を一反、引き出した。
「千鶴」
青玄の声は、掠れ、喜悦に濡れてゐた。
「布を持て。……最初の哭染を、執り行ふ」
千鶴は何も言はず、ただ立ち上がり、麻布の端をその手で握りしめた。
甕の底で、藍の華が、再び重い息を吐いた。
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