土蔵の隙間より、白み始めたる朝の光が、埃の舞ふ闇を細長く射し貫いてゐた。
行燈の油はとくに尽き果て、芯の先が白煙を上げて燻る中、浄雲は膝の上に広げたる草紙の、最後の頁をそつと閉じた。
指先が、強張つて動かなかつた。
一晩をかけて読み終へたるその記録は、百年の時を越えて押し寄する、血と涙と潮の香に満ち満ちた、一人の染師と一人の娘の声であつた。
草紙の末尾には、千鶴の拙き筆跡にて、かう書き添へられてゐた。
——わたくしは、東の国々を巡り歩きぬ。青玄さまの布を身に纏ひ、浦々を巡り、山野を越え、行き倒れたる者、飢ゑたる者、戦に親を失ひたる幼子の手を握りて、その涙をこの布に吸はせつつ歩みぬ。布は決して乾かず、常に冷たく、されどわたくしの肌の上にあつては、母の腕の如く温かかりき。わたくしがこの世を去るとき、この布を袈裟の形に縫ひ合はせ、壇ノ浦の波の音の聞こゆる阿弥陀寺へと納めて下さるやう、旅の僧に頼み置くものなり。……色は、痛みに似たり。されど、痛みの奥底に、この世のいかなる光よりも深き青の眠ることを、わたくしは知る。
浄雲は、土蔵の床に両の手をつき、息を吐き出した。
床に突いた掌が、冷たく湿つてゐた。
経典を読み、戒律を守り、諸国を行脚してきた己の巡礼が、一反の布の重みの前に、にはかに軽くなるのを覚えた。
浄雲は顔を上げ、厨子の奥に横たはる桐箱へと視線を向けた。
老僧が、いつの間にか土蔵の戸口に立ち、朝の光を背にして浄雲の姿を見つめてゐた。
「……読まれましたか、旅の僧よ」
老僧の嗄れたる声が、蔵の中に響いた。
「読みました」
浄雲は立ち上がり、桐箱の前へと歩み寄つた。
油紙を解く。
現れ出でたる一領の袈裟は、昨夜、灯明の頼りなき光の下で目にしたときとは、全く異なる姿をもつて、朝の光の中に浮かび上がつてゐた。
不気味なる海底の泥の色にあらざりき。
光を呑み込む呪詛の青にあらざりき。
朝の澄み切つたる大気の光を浴びたるその袈裟は、天涯の彼方、水平線と蒼天が溶け合ふ極限の場所より掬ひ上げたるが如き、澄み切つたる青を放つてゐた。布の目を走る赤黒き斑紋は、もはや死者の血の染みではなく、夜明けの空を彩る瑞雲となり、繊維の隙間に白く光る塩の粒は、涙の星々となつて瞬いてゐた。
浄雲は、両の手のひらをもつて、その袈裟を恭しく持ち上げた。
重かつた。
されど、昨夜感じたる、あの死人の皮膚の如き忌まはしき冷たさは、何処にもなかつた。
布は、確かに冷たき湿りを帯びてゐたが、その冷たさの奥底から、遠い炉の火の温もり、母が子を抱き締むる胸の鼓動、そして、千鶴といふ娘の指先が青玄の肌を撫でたるときの、微かなる温もりが、浄雲の掌を伝ひ、静かに流れ込んできた。
ただ、袈裟の縁の一所だけ、糸のほつれたるが、朝の光の中に見えた。
「老僧どの」
浄雲は袈裟を胸に抱いたまま、振り返つた。
「御坊は昨夜、問はれました。この布が、仏の慈悲であつたのか、あるいは地獄の叫びであつたのかと」
「さやうに申した」
老僧は眼を伏せ、咳を一つした。
「如何であつた」
浄雲はしばらく答へなかつた。掌の下で、布が、微かに湿つてゐた。
「……仏とも、魔とも申せませぬ」
浄雲は言つた。
「ただ、これを蔵の奥に閉ぢておいてはなりますまい。壇ノ浦の波の音の聞こゆる本堂の御前に掲げ、朝夕の潮風を吸はせておやりなされ」
「……掲げれば、乾くかな」
「わかりませぬ」
老僧は袈裟の縁のほつれに眼をやり、それきり何も言はなかつた。やがて、合掌し、深く頭を垂れた。
浄雲が阿弥陀寺の山門を辞したるとき、陽は高く昇り、関の瀬戸は白銀の波飛沫を上げて輝いてゐた。
袈裟を再び桐箱へと収め、本堂の仏前に安置することを見届けて寺を下りたる浄雲の足取りは、昨日までの巡礼の重き疲れを忘れ果てて、軽やかであつた。
断崖の坂道を下り、壇ノ浦の波打ち際へと出たとき、秋の海風が、浄雲の墨染の衣の裾を激しく吹き煽つた。
浄雲は立ち止まり、沖を見遣つた。
早瀬は渦を巻き、急流の鳴動は地底の呻きを響かせてゐる。平家の一門が沈み、幾千の武者が散り、名もなき浦の民が呑み込まれていつた、死の海である。
されど、浄雲の眼に映るその海は、もはや陰欝なる怨嗟の泥水ではなかつた。
見上げたる秋の空の青と、眼下に広がる瀬戸の海の青が、水平線の彼方で溶け合ひ、天と地が、一つの巨大なる藍甕の如く澄み渡つてゐる。
ふと己の手を見ると、人差し指の爪の生え際に、落ちぬ甕覗の色の斑点が、一つ、ぽつりと残つてゐた。
擦れども落ちず、洗へども消えなかつた。
痛みはなかつた。ただ、指先の奥底に、微かなる塩の気配が脈打つてゐた。
浜辺の砂の上で、海女の子供らが、貝殻を拾ひ集めて戯れてゐた。
浄雲とすれ違ひし幼き童が、ふと足を止め、顔を上げた。
童は、浄雲の指先の染みを見つめ、次いで、広大なる海を見渡した。
「お坊さま、海が、とても青いね」
浄雲は微笑み、童の小さな頭を撫でた。
「ああ。青いな」
風が吹き抜けた。壇ノ浦の波頭が白く砕け、その飛沫は天へ舞ひ上がり、光を浴びて、数知れぬ青き露となつて海面へ降り注いだ。
浄雲は草鞋を踏み締め、歩み始めた。
東へ。
(了)
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