沈む刻は、静寂そのものであつた。
千鶴の細き両腕に抱き抱へられ、無垢の白麻の反物を幾重にも身に纏ひたる青玄は、三番目の大甕の縁に、ゆつくりとその身を預けた。
胸の裂け目より溢れ出づる黄金色の液は、白麻の繊維を芯まで浸し、布の目は青玄の皮膚と溶け合ひて、もはや何処までが人間の肉であり、何処からが無生の布であるか、その境目は失はれてゐた。青玄の肋骨は反物の縦糸となり、指の筋は横糸となり、全身の毛穴から吹き出す藍の粉が、麻の網目を一つ一つ、強固に結び固めてゆく。
「千鶴」
青玄が唇を動かすと、もはや声は空気の震へではなく、甕の液面を揺らす微かなる波紋となつて伝はつた。
「恐れるな。……櫂を入れよ。わたしを、底の底まで沈めよ」
千鶴は頷いた。その瞳は、青玄の命の青を呑み込みて、深海の色に澄み切つてゐた。
千鶴は青玄の体を両手で押し抱き、盛り上がる瑠璃色の泡を押し分けながら、大甕の深みへと押し沈めた。
どぶり、と。
重き水音が小屋の土間に響き、青玄の全身が、藍の液の中へと消え去つた。
液は温かかつた。
それは、死者の冷たき海にあらず、母の胎内の羊水の如き温もりであつた。液の中に沈みゆく青玄の意識の奥底に、これまで吸ひ集めてきた幾百の死者たちの記憶が、走馬灯となつて立ち現れては溶けてゆく。
溺死した若者の水底の喘ぎ。老母の掻き毟る爪の跡。赤子の泣き声。若武者の千々に引き裂かれたる忠義。逃げ惑ふ浦人たちの泥まみれの足。そして——千鶴が海底の暗闇に置き去りにしてきた、あの冷たき孤独。
千鶴の涙が落ちるたび、それらの断片は、一つ、また一つと、結び合はされてゆく。
争ひは消えた。呪詛は融けた。
青玄の肉体は、解体しつつあつた。
皮膚が解け、肉が散り、骨が砕け、そのすべてが細かき青き粉となつて、白麻の繊維の隅々にまで浸透してゆく。青玄は消えてゆく己の意識の端で、己が一本の巨大なる布となり、千鶴の涙を吸ひて呼吸してゐるのを感じてゐた。
甕の外では、千鶴が櫂を握り、液を攪拌してゐた。両腕は甕の縁を掴むたびに青く染まり、頬には飛沫が青き筋を描いた。涙はなほ、甕の液面へ吸ひ込まれてゆく。
千鶴は、沈みたる青玄の体を、子の髪を梳く手つきで揉み解した。
甕の底から、青玄の鼓動が伝はつてくる。
とく、とく、と。
その鼓動は、千鶴の胸の鼓動と、いつしか一つに重なつてゐた。
やがて、甕の底の鳴動が静まり、液の面に鏡の如き静寂が戻つた。
「引き上げるぞ」
甕の底より、青玄の声が響いたやうに、千鶴の脳裏に声が届いた。
千鶴は櫂を置き、両の腕を肘まで液へ突つ込み、底に横たはる布を掴んだ。
重かつた。
それは、一反の麻布の重さにあらず、一人の男の重さであつた。
千鶴は足を踏ん張り、布を液中より引き揚げた。
ざざあ、と。
濡れたる布が姿を現した。
引き上げられたる布は、いまだ濁りたる黄緑色であつた。
自らが青であることを知らぬ胎児の如く、黄緑の帳の内に、その真の姿を潜めてゐた。
千鶴はその濡れたる布を両腕に抱き抱へ、よろめく足取りで小屋の戸口へと歩み出た。
戸外では、嵐が去り、東の空が白み始めてゐた。
関の瀬戸の上空を覆つてゐた暗雲は裂け、その隙間より、黎明の冷たく澄み渡る光が、一筋、海面へと射し込んでゐた。壇ノ浦の早瀬は白銀に輝き、雨上がりの朝風が、岩肌を渡つて千鶴の全身を吹き抜けた。
風晒しの刻であつた。
空気に触れ、朝の風を吸ひ込みたる瞬間、腕の中で布が身震ひした。黄緑が消え、端から端へ、青が走つた。
それは、夜明けの空の青にあらず、深海の青にもあらず。甕覗に始まり褐に終はる、染師の知るいかなる名にも収まらぬ青——「冥藍」であつた。
布の中央には、青玄の背骨の形を模したる、力強き褐の筋が走り、その周囲を、幾百の死者たちの魂の呼吸が、細かなる白き波紋となつて取り囲んでゐた。そして、千鶴の涙が落ちたる場所には、朝露のやうな、透き通つた瑠璃色の星々が、数知れず散り敷いてゐた。
光を吸ひ、光を放つ布。
冷たきはずの麻布は、千鶴の胸の中で、生き生きとした体温を放ち、まるで青玄がその腕で千鶴を抱き締めてゐるかの如き、確かなる重みをもつて沈んだ。
「……ああ……」
千鶴の双眸から、熱き涙が再びこぼれ落ちた。
千鶴の視界は、開かれてゐた。
朝日に照らされたる関の瀬戸の波は、生き生きとした白銀に輝き、浜の松の緑は濡れて光り、遠くの山肌を染むる朝靄は薄紫に煙つてゐた。世界は、色に満ちてゐた。
そして、そのどの色よりも深く、千鶴の腕の中の青があつた。
千鶴は布に顔を埋めた。
布の繊維の奥底から、微かな潮の香と、懐かしき土の香、そして、青玄の最期の微笑みの匂ひが、千鶴の鼻腔を満たした。
「……ありがたう、青玄さま」
千鶴の囁きは、朝の潮風に乗りて、関の瀬戸の海面へと静かに溶けていつた。
その日の朝、浦の衆と阿弥陀寺の住持・宗信が染物小屋に駆けつけたとき、小屋の扉は吹き飛び、土間には静寂だけが横たはつてゐた。
五つの大甕のうち、四つは死んだ泥水となつて冷え返り、中央の三番目の甕のみが、澄み切つたる瑠璃色の水を湛へて、波一つ立てずに静まり返つてゐた。
小屋の中に、青玄の姿はなかつた。
ただ、土間の真ん中に、千鶴がただ独り、静かに佇んでゐた。
千鶴は、染め上がりたる一領の青き布を、我が子を抱くが如く両の腕に抱き締めてゐた。その瞳は、もはや盲ひたる灰色の瞳ではなく、深海の色を湛へ、訪れた村人たちの姿を、一人一人、穏やかに見つめ返した。
「千鶴……」
宗信が錫杖を落とし、震へる足取りで千鶴の前へと進み出た。
「青玄は……青玄は、何処へ行つたのぢや」
千鶴は答へなかつた。
ただ、抱き抱へたる青き布の端を、そつと持ち上げ、宗信の前に差し出した。
布を目にした瞬間、宗信は息を呑み、その場に膝をついた。
布の青の奥に、壇ノ浦の波間に消えた平家の公達の面影があつた。水死した浦の若者があつた。飢ゑに散つた幼子があつた。いづれも、眼を閉ぢてゐた。
宗信の皺だらけの頬を、涙が伝ひ落ちた。
「……これは」
老僧は何か言ひかけて、言葉を失ひ、額を土間に擦り付けた。
村人たちもまた、誰からともなく砂の上に平伏し、布に向かつて手を合はせた。
かつて小屋を押し破つた者たちも、声もなく、その列に加はつてゐた。
千鶴は、その合掌の群れの中を、物音も立てずに歩み去つた。
腕の中の布は、千鶴の体温を吸ひて、温かく息づいてゐた。
千鶴は浜へと下り、関の瀬戸を臨む断崖の上に立つた。
風が吹いた。
千鶴が布を広げると、青き反物は大空へと翻り、壇ノ浦の海をそのまま空へと映し出し、青の天蓋を形作つた。
布は、決して乾くことはなかつた。
雨の日には色を濃くし、晴れたる日には潮の香を放ち、千鶴の歩む道に、青き影を落とし続けた。
千鶴は歩き始めた。
東へ。
青玄がかつて逃れ落ちてきた、あの都のあつた方角へ。
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