メニュー

蛭田がいた(5)

蛭田がいた(第5話)

今野和人

五回目となると、もうこの欄で書くことないですね。

小説

9,125文字

今晩のミッドナイトケアは駅前で酒をしこたま飲んでからするボウリングだった。先日亮平がボーリングをやりたいと提案すると、蛭田が酒を飲んだ状態でまともに投げられないほうが面白いと主張した。じゃあせっかくなら親睦を深める意味でも店に入って飲もうという話を悠斗はするも、金は使いたくないといって夕飯は各自食べてきて外で飲むことに蛭田はこだわった。悠斗は飲酒ボウリングというひまな大学生のような内容に一抹の不安を覚えていた。
駅前の広場で飲みながら悠斗は健康面について確認した。先週のダンスのあと、興奮して寝つけないのは蛭田だけで、皆は帰宅したら疲れてすぐ寝たらしい。勇造は全身筋肉痛になったと笑い、亮平は知らない音楽をたくさん聞けたと無表情で話す。一樹は少し痩せたと言い、紀子は疲れましたと笑った。事前に亜美から連絡がきて、今回の参加は見送るが健康状態は幸い変わりないと報告を得ていた。
続いて悠斗はデイケアを参照に五項目のルールを考えて書いてきた紙を渡した。ライングループでルール作成を提案したら誰も発案しなかったので自分で考えるほかなかった。一、休みの連絡は当日一九時までに木嶋に連絡しましょう。二、調子の悪い時やグループで不満があったら、一人で悩まず木嶋に相談しましょう。三、プログラム中に暴力・暴言・セクハラなどがあった時、当事者はいったんその場を離れ、木嶋と起こった問題について話をします。四、宗教の勧誘や政治活動はしません。五、SNSに当人の了承なく投稿するのはやめましょう。これに同意できるか、付け加えるものがあるか聞いた。自分でやりながら、どうしても管理的だと思ってしまう。案の定、誰からもなにも言われなかった。蛭田はニヤニヤしながら何も言わない。悠斗は気まずくて酒が進んでしまう。しょうがない。締め付けることは書いてない。このままノールールでやったらリスクがありすぎる。現に亜美は来てない。紀子はアルコールが苦手なのでジュースを飲んでいた。

ボーリング場では悠斗・紀子・勇造のレーンと蛭田・亮平・一樹のレーンにわかれる。紀子はボーリングをやったことがないので悠斗が手取り足取り教える。蛭田のグループは各自フラフラに歩いたり左手で投げたりと、うっとおしい酔っ払いそのものなのだが三人でやたらめったら笑っている。勇造は若いなあと羨みながら、ノロノロとしたボールを投げる。悠斗は蛭田から健常者はハンデをつけろと言われ、毎回十回ぐるぐる回ってから投げさせられガーターを連発し皆を喜ばせた。今回は今回で参加者は楽しそうにしてるように見えた。やる内容はあまり重要じゃないのかもしれないと学んだ。
さらに二週間後、蛭田ファクトリーの地下室で今後のミッドナイトケアの企画会議を行った。ファクトリーの外観はかつての蛭田の家と同様曇天のような外壁にヒビが多数入っており、こんなところでツアーは成り立つのか疑問に思う。蛭田に聞くと、かつて作業所でお世話になった中山さんというおしゃべりが上手なおばさんをパートで雇っているらしい。
地下室は小さなボクシングジムくらいの広さでーー蛭田は九六平方メートルだと説明したーーもう冬だ、コンクリ打ちっぱなしでエアコンもないから寒い。ストーブはあるが、みなアウターを脱げなかった。ほこりっぽい。中央にサンドバッグが吊り下がり、脇に梅酒が大量においてあった。上から持ってきたと思しき座布団は三枚しかなく、勇造と一樹と蛭田が座った。
今日、紀子と亜美は不参加だった。蛭田に今回も亜美が来ないと伝えるとようやくこないだの振る舞いがまずいときづいたのか、切り落としたように元気がなくなった。単に彼女をつくりたくてミッドナイトケアをはじめたのかもしれないと悠斗は思う。

悠斗は今後の企画を募った。沈黙が流れたあと、蛭田は小さい声で利き酒ならぬ利き精神安定剤はどうだろうと言った。危険すぎる。勇造が皇居の周りを夜ゆっくり散歩してみたいと言ったので賛成するも、亮平は新選組の格好をして歩くのはどうでしょうとアイデアを足した。恥ずかしいなと思ったが、幸い賛同するものもいなかったので何も言わずにすんだ。一樹は鍋がしたいという。鍋を囲んで色々話せば、日頃出ない鬱屈や恥ずかしい希望なんかも口に出す機会になるかもしれないと悠斗は思う。蛭田はラブホテルに張り込み、誰がいちばん年齢差がありそうなカップルを撮影できるか競うゲームを提案した。性に対する鬱屈を感じる。プライバシーがと悠斗はいうと、蛭田はため息をつき沈んだ。
悠斗が提案する。
「皆さんの得意なことをシェアするのはどうでしょう」
後藤田さんならクラシックの知識がある、砂川さんは特撮ものに詳しい。若井さんはパソコンのスキルがある。蛭田はアーティストである。そうした各々の興味関心から企画を立てられないか。デイケアはみんなでできることを考える傾向にあるが、もっと個を立てられないかと考えたのだ。得意なことを語ること、教えることは自信にもなる。自尊心を高める。
「語れるほど詳しくないなあ」と勇造は笑う。
「詳しくなくても好きであればいいと思うんです」
「でも、興味ない人に話しても面白いかな」
「いや、趣味をそのまま発表するのではなくても、なにかそれをもとに企画できないですかね……」
沈黙が支配する。蛭田も沈んだままだ。たしかに全然クラシックに興味ない人は参加すらしないかもしれない。というか勇造の人生にとってクラシック好きの人とつながることが大切なのではないかと思えてくる。空気が重い。自分の理想を押しつけてしまったかと反省する。
そのときーー。
「また」と亮平が口を開いた。
「また、踊るのもいいですね」
「ああ、あれ、たしかに良かったよね、疲れたけど」

空気が和む。どうやら、やはり、幸いなことだが、こないだは楽しかったらしい。あの日から、いっしょに踊ったあとから仲間になれたという感覚もあった。
帰り道、悠斗は考えすぎたと思う。なにか自分がケアの新しい潮流でも見出したみたいではないか。ただ、少し踊るだけで十分なのだ。

 

「今日もありがとうございました」
「なにがですか」
「祐介に絵を教えてもらって」
「ああ……」
「今日はちょっと元気ないですね」
「来週休むかもしれません…奥さんはあれですね、顔がスッキリしてますね」
「え、ほんとですか」
「さては歌を始めたのでは?」
「そうなんです。ジャズボーカルのレッスンを受けはじめて」
「旦那さん喜んだでしょ」
「え? 全然ですよ」
「顔が生き返って」
「いや〜、なんも言わないですよ」
「もったいない」
「夫はミッドナイトケアに夢中で夜も勉強してますよ」
「ふーん」
「わたしはわたしで楽しいんでいいです」
「ええ、現実を複数もちましょう」
「というと」
「……近所に大きな木がある家があって」
「はい」
「その家の前に伏せた猿がいたんですよ」
「え、猿?」
「そう、猿がこう、小さくなっている」
「怖いですね」
「近づいて見たら、丸太? 切り株だったんですよ」
「え?」
「がっかりしました」
「ああ、猿じゃなくて」
「猿のほうがワクワクしたでしょ」

「うーん。猿か〜、見間違えって」
「取り込まれたらそうです。その前、猿だった時間があったんです」
「何秒間か」
「歌だってそんな長くないでしょ。長い歌が難しいのはもとの現実が戻ってきちゃうからでどうやったら女の人に好かれるんですか」
「え? 急ですね」
「全然好かれないんですけど」
「魅力的ですけどね〜、蛭田さん」
「お金あっても、才能あっても」
「そうですか。困りましたね」
「結局顔?」
「そんなことないと思いますよ」
「ほんとですか?」
「あ、ちょっと、近いです」
「好きな人がいたんですけど、会えなくなったんですよ」
「それは辛いですね」
「結局顔かよ!」
「そんなこと。どんな人が好きなんですか?」
「毛深い人です」
「へー、毛深い……」
「奥さんはかわいいからなあ」
「あ、ちょっと、近いです」
「さっきから、えらそうなの気づいてます?」
「そんなことないですよ、全然」
「余裕があるんですよ! 愛された経験が、余裕が」
「……」
「おれはかわいくないからな、捨てられたし」
「蛭田さんのせいじゃないですよ。お母さんの問題で」
「……母は……とは苦しかったですね〜」
「苦労されたんですね」
「おればっかりあれで、急に怒るし」
「うん、蛭田さんは悪くないですよ」
「……彼女も版画のようにたくさんつくれたらなあ」
「蛭田さんの版画はすごいです」

「そんなことはわかってますよ」
「そうですよね」
「弟がいましてね、道夫っていう」
「ああ、双子なんですよね」
「トランポリンやってたら身長伸びて2メートル近くなったんですよ」
「え? そんなことあるんですか?」
「信じないんですか」
「信じますよ、信じますけど驚きました」
「道夫はおれ以外誰とも話さないんです」
「それは心配ですね」
「奥さんは優しいから話してほしいな。おれは今つらいので、道夫の心を開いてほしい、ね」

 

真吾はジェンダーのプログラムに感銘を受けたらしく、自分を縛っていた考えがわかりましたと熱っぽく語った。今まではフェミニストに対してよく知らず反感を抱いていたが、むしろ家父長制は共通の敵だとよくわかったという。
それならとあらためてパートナーが出ていくきっかけとなった件について考えてもらう。暴力をふるってしまったのは、パートナーの方がこれまでのトラブルを親御さんに連絡したことが許せなかったんですよね。そうです、二人のことを見てない人に、一方的に、裏切りです。斎藤さん夫妻のルールでは何か人に相談をするのに斎藤さんの確認をとらないといけないんですか。斎藤さんに権力が集中しているように見えるんですが。もちろん手を出したのは悪いです、ありえないです、でも、夫婦のことなので。
学んだからといってすぐ活かせるものではない。
では、パートナーの方と斎藤さんではどちらのほうが力が強いですか。それは私ですよ。そうですよね。今まで手を挙げなかった人が髪をつかんでなげた。頭を怪我した。パートナーの方は単なるケンカだと思ったでしょうか。もちろんやりすぎだったとは思います。父親を見て学んでしまったんでしょうね。そうかもしれません。で、斎藤さんにとってパートナーの方の行為は裏切りでも、彼女の立場に立つとどうでしょう。裏切る気持ち、傷つけたい気持ちから親御さんに相談したんでしょうか。また、表情を失うがかろうじて浮かび上がった。その……いっしょに笑ってる、親と馬鹿にしてる絵がパッと浮かぶんで。それはつらいですね。でもそういう思考のくせに気づくのは大切だと思います。プログラムでも話あったと思いますが、何かあったとき、それをどう考えるか、捉えるかは変えられます。別の見方が出ると、怒りの感情をおさえる必要もなく、別の感情がでてくるので。そうですよね、その話を聞いて、本当にそうだなって思って。では、もう少し長いスパンで考えてみましょう。斎藤さんがお互いを尊重し大事にできる関係性を目指してきたことはこれまでのカウンセリングでわかりました。ただ、一方で斎藤さんがパートナーの方の意見を聞くことができなかったり、長い時間説教をしてしまったことも話してくれましたね。ええ、そうです、その点は認めます。それを認めることができない男性も多いので、率直に認められる斎藤さんを尊敬します。いや、そんな。勇気とか強さって、自分に不利なことも認められることだと思うんですが、どう思いますか。たしかになかなかできないですもんね。ええ、わたしも見習いたいです。で、その例えば説教の時間なんですが、結婚当初と比べて時間が長くなっていきましたか、それとも変わらないですか。あー……正直、なかなかわかってくれなくて、そうすると長くなっていったかも、いや長くなりましたね。そうですか。ところで、斎藤さんは説教されるのは好きですか。え、いや、それはもちろん嫌いですよ。そうですよね、わたしも嫌です。そういう時間が増えて、パートナーの方は斎藤さんと一緒にいることにホッとしていたと思いますか、それとも緊張感が増してビクビクしていたと思いますか。それは、後者でしょうね。わたしもそう思います。パートナーの方は時間が経つにつれても自信をキープできたでしょうか、怒られて自信をなくしていたでしょうか。わたしだったら、負けないでやってやるという気持ちですけど。ええ、斎藤さんはそうなんですね。相手の気持ちにならなくていいので、別の見方や考えは思いつきますか。……そりゃ怒られ続けたら、まあ苦しいとは思います。どういう苦しさでしょう、もっと具体的に言うと。だから、ストレスですし、なんでそんな言われなきゃと思うし、気分悪いです。そうですね。斎藤さんは自分によく怒る上司がいたとして、誰にも相談しませんか。え、まあ怒る内容にもよりますけど。そうですね。でも、怒る内容や言い方よりもよく怒る人をイメージしてください。その上司とのことで悩んでいると本人に言えますか。いや、本人には難しいです。仮にパートナーの方は怒られて悩んでいたとします。そうすると斎藤さん当人には相談しづらい状態だったと思うんですが、どうでしょう。……今、新人のころに会った上司の顔が浮かんで。はい。自分を狙っていたように、ほかの新人には言わないんですよ。理不尽なこと。でも先輩だし、まだうまく仕事できないからなにも言い返せなくて。でも言われて、だんだん話しかけるのも怖くなって。ええ。妻も怖かったんでしょうか、私のこと。そうかもしれないですね。
斎藤が部屋をあとにしたあと濃いコーヒーを飲みながら思う。
怖いに決まってるだろ。

 

最近、ミッドナイトケアに女性参加がないことをわが国の政治家よりも大変遺憾に思った蛭田は各SNSで詳細を発信した。蛭田は参加条件を障害者に限定せず、「障害を超えて新しい出会いを求めている方」「新しいケアの形に興味がある方」など歯の浮くような文面を並べて広く募った。参加者を増やす文章を書いてとチャットGPTにお願いしたという。さすがAI、無味乾燥である。大概はなんだそれという反応だったが、結局は当事者たち数名から反応があり次があれば参加してみたいと申請があったので参加ルールを了承できるか確認し、当日来てもらうことにした。
新しい参加者が三人集まったので、人気のあったイヤホンダンスをふたたび行うことにした。はじめてみると、はじめて会う人を前にする羞恥心があり、どこかこないだの盛り上がりをなぞろうとしているところもあり、基本日本人って踊らないですよね、特に振り付けがないと無理でしょという空気が瀰漫し、というかもう冬だし、全くといっていいほど弾けなかった。あの日はそこまで寒くない気候もよかったのかもしれないし、なんだかわからないこのイベントを交通費自腹で来た以上やっちまえというメンバーの自己放棄がうまく溶け合い奇跡なりなんなりを起こしたのかもしれない。亮平だけは気にせず踊っていた。蛭田は初参加の女性一人を食い入るように見つめ、休憩のとき生魚をと盛んに話しかけると女性は驚くほどの速さで走って逃げた。まったくもってして健康になったように。あらためて言わなくていいが、完全な失敗だった。
その痛手を引きずり、次のミッドナイトケアは蛭田の地下室に戻り、鍋を囲むことになった。撤退鍋である。
ガスコンロに火をつけ、焚き火のように囲む。暖房はなく換気も悪く扉は開け放しているため、一同はアウターを着たままだ。

鍋の中身は悠斗の予想に反して豚肉や豆腐や白菜やしいたけやネギなど極めて普通であった。平凡だが出汁と肉と野菜が溶け合う温かい匂いが地下を満たしていく。
蛭田は今日も女性陣が来ないからか、あまり元気がない。悠斗が皆に話を振る。勇造は最近古本屋でジョン・ダワーの『敗北を抱きしめて』を買って読んでいるという。一樹はテレビが壊れたのでラジオで天気予報を聞いており、毎日六時半に起きてラジオ体操第一をしてから散歩に出かけているという。亮平は作業所でエクセルを身につけ、今はパワーポイントを学んでいるという。もう少し、内面にふれるものがあるかと思ったが、操作的になってもいけないし、それぞれの個性は見えた。
もっと親しくなればより胸の内を聞けるかもしれない。将来の不安や日々の小さな喜びならデイケアでも話せるかもしれないが、切実な欲求や胸の叫びや地の底の恨みはどうだろう。あるいは、健常者が酒の席で語るようなアウトな話は。それを地域に暮らしながら語れることが豊かさだと思う。
「就活って大変ですよね」
「パソコンができるようになったので大丈夫かなと思ってるんですけどね」
「がんばってますもんね」
「作業所と違い、時間も長いのが心配です」
「そうですね。就職する会社に相談できる人がいればいいですけどね。困ったら、先生だったり」
ここでも話したらと思ったがこの中で働いてるものはいないので、話したら変な感じになるかもしれない。特権的な悩み、嫌味になりかねない。砂川はあまり目を合わせてくれない。まだまだ信用を得るのに時間がかかるのか、あまり他者に関心をもたないのだとは思うが。
ふいに勇造が喋りだした。

「わたしだけなのかな」
「え、何がですか」
「いや、時々ね、声が聞こえるのよ。声。周りに誰もいないんだけど、頭の中で声が聞こえて」
悠斗はそれ幻聴ですよとそれこそ脳内で言ったが声に出さなかった。以前働いていたメンタルクリニックでは人数こそかなり少ないが統合失調症の患者と向かい合ったことがある。一般的に幻聴は孤立、不安などが高まったときに起こる。放っておくと悪循環が生まれる。だから、まれなことではないという病識をもち、薬などを併用しながら治療にあたることが望ましいわけだが、この年までずっと一人で自分だけの病だと思っているのか……もちろん、説明はいつかされただろう。それでも、病識をもてないケースは多々ある。
「どれくらいの頻度ですか」
「え、時々、時々よ」
慢性化しているのだろうと思う。認知の問題か脳の状態ゆえかはそれこそ診ていないとわからないが。自分だけなのか疑問に思っているから、治療動機は持てるかもしれないが、さして深刻な様子でもないからどうなのだろう。
でもジョン・ダワーを読めるのだ。先の大戦で敗れた日本の人たちが心から願っていたのは「自由」と「民主主義」だった、軍事政権がいかに人々の心を傷つけたかわかるなどと感想を述べていたのだ。自分でどうするか決めたいのではないか。
「おれも聞こえますよ」と蛭田が静かに答える。
「聞こえる?」
「はい」
じっとする。沈黙と鍋が煮える音が大きく聞こえる。
「病院入ってたときとか、よく……」
「昔、小説を書いててね」と話を勇造が変える。

「そうなんですね」
「けっこういいとこまでいったことがあるんだけどね」
「すごいじゃないですか」と悠斗がほめるが勇造は反応しない。「そうか、わたしだけじゃないのか」
安心と残念がないまぜになった顔を勇造はした。また、話を聞いてみたいと思う。どんな幻聴なのか。それを安々と幻聴と言って言うのも抵抗がある。ずっと一緒に生きてきたとしたらイマジナリーフレンドのようなものになっているかもしれない。昔はどういう入院生活だったのだろうか。どう年末を過ごすのだろう。
新しい企画の話もしようとしたが何も出なかった。亮平だけイヤホンダンスをまたやろうかという話を出したが、皆無言で反対した。

 

真吾は最近プログラムでiメッセージーーわたしを主語にしてメッセージを伝えることーーを教わったらしく、蒙を啓かれたようだった。感情は混じり合っている。怒りの下に悲しみやさびしさ、見捨てられ感などある。DV加害者はそれを怒りという網で雑駁にすくい上げてそれだけ表現してしまうから、怒りの下を見つめるようにする。「なんでお前はこんなに帰るのが遅いんだ」という他者を主語にして叱責するYOUメッセージから「帰りが遅くてすごく心配した」というわたしの気持ちを伝える方法に変えるよう促すのだ。
もちろん、その話法を使うことで支配的な伝達をし、穏やかに感情を伝え合うフェアな関係を築きやすいという効果はあるだろう。聞く方のストレスも恐怖も軽減される。
でも、心配したという発言で他者を追い込むをこともできる。言外に早く帰るべきというメッセージが内包されている。相手を抑え込まない語りも重要だが、その発言を受けて相手が意に沿わぬ返事をしたとき力で抑え込まないかが再発防止には重要だと思う。夫婦間の交渉力とでもいうのか。というか、プログラムで「本当はそういう思いもあったんじゃないですか」と誘導されるセリフなわけで本当に心配しているかは怪しい。問題の根幹は自分のさびしさを有無を言わせず相手が当然埋め合わせるべきという考えではないか。強権的な支配からやんわりとした支配に変わるだけだとしたら。
もし、もう一度過去に戻って、パートナーがご夫婦のことを家族に相談したとしたら、斎藤さんはどうやって対応しますか。そうですね、言葉で、自分の気持ちを伝えます。具体的になんと言いますか。自分はその……笑われている気持ちがしてしまうから、つらいと。ああ、前回その感情について言ってくれましたね。率直につらいと伝えるのはお互いにとって良いと思います。
依然として相談は容認しないが、言いづらい感情を伝えようとしているところに変化を感じられた。
真吾ははじめプログラム参加に積極的ではなく、そんな暴力的な人間たちと一緒になんてと言っていたが、だんだんもう少し参加して様子を見てもいい気がしますけどなどと言い、現在は先輩に教わってますと舎弟の態度を見せる。
多分、さびしいのだ。

暴力で依存関係をつくっていた人間が妻との関係を切断されて、孤立にあえいでいる。つながりをつくれば、環境に染まっていく。父親に影響されてDVした、ジェンダー観の偏りがありDVをした、そういうことにした。そう納得できるストーリーに乗っかった。
こちらとしてはそこでストーリーを終わらせられない。原因よりも今後繰り返さないこと、やってしまったことを認め、自分がどう誤っていたか説明でき、被害者からの要望に応答ができてストーリーはひとまず完結する。責任という領域においては自分がしかとあると引き受けないと被害者が報われないし、それができないと高い確率で不利に終わる裁判結果を受け止められないだろう。

© 2026 今野和人 ( 2026年11月4日公開 )

作品集『蛭田がいた』最新話 (全5話)

読み終えたらレビューしてください

みんなの評価

0.0点(0件の評価)

ログインすると、星の数によって冷酷な評価を突きつけることができます。

  0
  0
  0
  0
  0
ログインするとレビュー感想をつけられるようになります。 ログインする

著者

「蛭田がいた(5)」をリストに追加

リスト機能とは、気になる作品をまとめておける機能です。公開と非公開が選べますので、 あなたのアンソロジーとして共有したり、お気に入りのリストとしてこっそり楽しむこともできます。


リスト機能を利用するにはログインする必要があります。

"蛭田がいた(5)"へのコメント 0件

コメントがありません。 寂しいので、ぜひコメントを残してください。

コメントを残してください

コメントをするにはユーザー登録をした上で ログインする必要があります。

作品に戻る