駅近くにありながら豊かな木々が生い茂る谷中霊園は、広大な敷地を有しているためランニングにも適していたが、今朝は酷暑ゆえか人の影という影が消え去り、ただ無数の墓石とわずかに歩く者の背中を焼く場と化している。
直人は真新しい花を花瓶に挿し、墓石に水をかけ、線香に火をつけ手を合わせる。その一連の所作は思春期の青年のようにぶっきらぼうだ。何を祈ればいいのだろうと彼はいつも思う。霊というものの存在を信じているかと問われれば、否定的だ。結果、早妃が亡くなる前のことがいつも脳裏をよぎる。
直人がまだ十三歳であったある日の夕飯のあと、話があると早妃から呼び止められた。離婚かもしれないとなんとなしに思った。特に夫婦仲が悪いようには見えなかったが。
食卓が片づきお茶が出され夫婦と直人が席につく。早妃から切り出されたのは、自分のお腹の中には赤ちゃんがいるという話であった。静かに驚いたがあまり現実感はなかった。
「いいかな、産んでも」早妃は聞いてきた。
「……いいんじゃない?」早妃と義男はほっとしたような顔になる。
「あんまね、年が離れてるといろいろ」
「俺がいいとかじゃないでしょ」
「そうね。しばらくは、お母さん赤ちゃんにかかりっきりになるから、何なのって思うかもしれないけど」
「思わないよ」
「そうね。お父さんも今回がんばってくれて」
義男を見ると気まずそうな顔をしている。あとから考えると早妃は産めるという喜びから饒舌になっていたのではと直人は思う。
「もういい?」
「うん、ありがとう」
直人は自室に帰る。特に兄になることなど考えなかった。もう少し小さいときならともかく、すぐテレビでも見たのではないかと思う。出産についての知識も関心もなさすぎた。
突如、見ていた番組が有無を言わせず変えられたように場面が病室に変わり紗英の泣き声が聞こえてくる。続いて、義男が抱えている赤ん坊をそっと受け取る画、ベッドに横たわる早妃の顔に白い布がかけられている画が点滅する。あっけなかった。生と死がこんなにも入れ替わるように起こり、それを遅れて受け止めることしかできない。直人は母と最後にした会話を覚えていない。数日前まで家にいて、いつもと同じように過ごしていた。特に気を使うでもなく。いつものように母の料理を食べ、いや、義男はそこそこ協力していたが、自分は義男の料理を嫌っていたので結局早妃がつくることが多かった。手伝うことなく、産まれてくる子を楽しみにする言葉も伝えられぬまま逝かせてしまった。
砂利を踏む音がして目を開けると、墓の裏から紗英が現れた。家で見るよりじとっとして、それこそ何か憑いてるようにどこか陰惨な気配をまとっている。直人は驚き桶を倒し、墓前に水が広がっていく。
「ごめんごめん」
「なんなんだよ」直人は桶を戻そうとしゃがむ。紗英もしゃがんでひしゃくを拾い聞いてくる。
「お母さんに見えた?」紗英は目を直人から逸らさぬまま悠然とひしゃくを桶に入れる。直人は立ち上がり、いらいらして言った。
「気持ち悪い、なんで真似するの」
「お母さんの方のおじいちゃんとおばあちゃん、全然会ってないでしょ」
早妃が亡くなってから、次第にそちらの家族とは疎遠になっていた。
「私、時々会ってる。そのときね、早妃って呼ばれてる」
「なにやってんだよ」
「でも、間違いを直したら幸せかな?」
直人は母方の祖父母の顔さえ浮かばなかった。紗英はゆっくりと立ち上がる。
「あとね、夢を見るようになったの、お母さんの」
「夢?」
「毎月、排卵日が近づくと夢を見る。お父さんと直人と暮らしていたころのお母さんになった夢」
「何それ」
「その日々を忘れないように日記に書いてる」
「何言ってんの」
「夢でお母さんとつながってる」
「もういいよ」直人は叫びだしたい気分だった。これ以上トラブルは抱えたくない。いったい妹をどこにつれていけばいい。
「そんなの誰も望んでないから」
「ほんとに?」
「変えよう、いまの暮らし」
ふいに紗英がひしゃくを手に取り、早妃の墓に頭から水を飲ませる。
「直人が産まれた日ね、雪が降りそうなほど寒い日で、こたつに入ってみかんの皮をむいていたの」
突然の冬に直人は目がくらみ、水が滅法冷たそうに感じる。紗英は線香をあげながら一息で語る。
「夕方、みかんを二つに割って、一房食べたとき、お腹が割れるように痛んだ。いままでのどれとも違う痛さで、思わずみかんの汁がぴゅっと口から出ちゃった。でも、陣痛がどうかわからないから、我慢してみかんの皮をむきながら痛みがおさまるのを待ったの。おさまったら一房ぱくっと食べる。でも三つ食べたら我慢できなくて病院に電話したの」
「だからお父さんに聞いたんでしょ」
「昔この話したら、直人は痛くしてごめんねって言ってくれたよね。お母さんはなおは優しいねと言ったでしょ」
「……紗英はお母さんのこと知らない」
「知ってるよ」
「知らないよ」
ひるまず、紗英は振り返って言う。
「お母さん生きてるよ」
直人は顔をそむけ、歩き出す。話を聞いていたら危険だと察知した。まずは自分の安心だ、健康だ。そのために帰ってきたのに。なぜ自分の周りはまともな人がいないのだろう。彼が振り返らずに眉間を抑えながら足早に霊園を抜ける様子を猫が木陰から見ていた。
直人はどこへ行くでもなく急ぎ足で坂をくだる。自分も夢を見る。熟睡できるタイプではない。二度寝する朝方に見る。そのときの夢は最近の事柄や高校時代まで多岐にわたるが、誰かの経験をそのまま見るなんてことはない。無秩序で断片的で意味不明なものが多い。今朝もそうだ。かつての心残りが反映されてと思うものが多いが、特に分析せずその場をやり過ごす。妹の話は母と接点がなかったがゆえの願望の投影だし、父親と長きに渡り暮らしてきて聞いたエピソードが夢に現れるのだろう。
坂を下りきると、全生庵の前にいた。見ると、屋内で毎年開催されている幽霊画の展示をしているらしい。直人は実家にいたとき、幾度か見に入った。ふらふらと、涼みに入ることにした。
入り口で線香の強い香りを嗅ぐと、直人は記憶のひだをまさぐられる心地がした。入館料を払い中に入ると、壁面に数々の幽霊画が並んでいるのが見渡せる。
数人の女性客がいた。すぐにショートカットの女性が直人は気になる。昔からショートカットの子を好きになったが、好かれたことはない。大学のときに、ああいう子――背は160はあるだろう。ブランドものではなさそうなモノトーンの服装。色白で腕と足もすらっとして、顔の各パーツのバランスは素晴らしいが表情は乏しく、どこか上質な塩を思わせる存在感。素足で人の顔面を踏むことを躊躇しなそうな――を好きになったがまったく相手にされず、一時期学内で尾けてしまったことがある。
直人はその女性が気になりつつ、展示に目を移していく。描かれた幽霊の色味の薄さと存在感の強さにギャップを感じる。妄執、喪失、奇怪、静寂、長い黒髪と雪色の白装束、血の気のない顔色と噴出する血。幽霊だからこそ淡い筆致で、足元などは描かれていないものもあるが、人間よりも確かに存在している気がしてしまう。人間は数が多い。SNSもあり、似た人間が可視化されすぎている。人間はインフレを起こしている。今時、一人一人の実在感なんてない。幽霊画の幽霊は主張があるものも、そうでもなさそうにたゆたっているものもあるが、希少な存在として確かにそこにいる。
直人は一枚の絵の前で立ちどまる。『枕元の幽霊』と題された作品で、右下に描かれた白い枕の反対側に幽霊がいる。夜の荒れた海のような髪をして、卵形の輪郭の顔には両目の上に染みがいくつもついたコブがあり、口元は黒く点描されている。お歯黒なのかそれともただ歯が汚いのかはわからない。その幽霊は枕元をじっと見つめている。おそらく、先ほどの紗英の話を聞いたからこそ、この絵が気になるのだろうと彼は自己分析する。整っていない髪が自分を思わせた。自分もこの幽霊も陰険で気持ち悪い。
ゆっくり三十分ほどだらだらと幽霊画を見ながら、ショートカットの女性が立ち去るのを見送った。こういうとき話したい気持ちはあれど、なんと声をかけたらいいかわからない。永遠にこの距離は埋まらないのだと思う。
直人は行く場所を失い、無意味に寺の裏に回る。階段の上に何やら有名人の墓があると表示されているが、登る気はしない。突き刺すような暑さだ。
次に古本屋をいくつか巡り、なんとなしに映画のパンフをたぐる。明らかに現実逃避をしていると直人は意識する。映画をしばらく見ていない。大学時代は映画サークルに一時期所属して脚本を書いていたが、制作過程で監督ともめてほとほと嫌になってしまった。現場で自分が書いた脚本を勝手に改変されるのを見て陰鬱になり、学内ストーカー癖にも悩みパニック障害になり、三年になる前にサークルを辞め、病状が落ち着き始めると図書館司書の資格を得るために動き出したものの、社会人になってから良い映画を見るとどこかに置き忘れた思いが発火するのを感じなかなか家に帰れなくなり、つまらない映画を見るとなぜこんな脚本が通っているのだと怒りを鎮めるために長く歩いた。
直人は空腹を感じ、商店街に向かう。よく通っていたラーメン屋に行列ができていたので、あまり観光客が歩かない通りにある中華屋に行く。
店に入るとおかみさんが座ってタバコを吸っており、直人はそのやる気のなさにほっとする。カウンターの奥に座り、レバニラ炒めのセットを注文する。セットには小鉢がついており、おかみさんが次々と目の前の台に乗せてくる。じゃがいもが大きい肉じゃが。かつおぶしがたっぷり乗った青菜。きゅうりとだいこんのお新香。甘く煮たカボチャととうがらしで炒めたレンコン。パイナップル四切れ。それに味噌汁とごはんもついてくる。この実家に帰ってきたような品目と味つけに、母ではなく、なぜか父の料理を思い出してしまう。早妃が亡くなった当初、義男は料理本を見て調理したのだが、食材に余計な一品を加えて味を落としたり、器と料理がちぐはぐで不味そうに見えたりと、致命的に料理のセンスがなかった。だから運動会とか遠足の日、紗英は父親の弁当を嫌がり、父方の祖母がかり出されていた。朝から揚げ物をする祖母の姿を覚えている。その祖父母も、紗英が高校の頃に相次いで亡くなった。でも、紗英が母の方の祖父母と密かに交流を続けていたとは。それはつまりぼけているのだろうか。それともそういうゲームとして、演劇として、早妃ということにして接しているのだろうか。どちらにせよ二人にとって孫が来るより娘が来ることのほうが幸福なのか。台の上にレバニラ炒めがのせられる。レバーは大きく肉厚で四角に切られており、赤ピーマンも入り鮮やかで食欲が湧いてくる。一口頬張ると甘みがあり酒がたっぷり入っていると感じる。
自宅に帰るのがいいのだろうか。紗英と義男をあの状態のままおいていいものか。高校のとき紗英は友達とよくカラオケへ行っていたし、アイスクリーム屋でアルバイトもしていた。それなりに人間関係があったが、今はどうなのだろう。
満足して食べ終わると、足が自然とかつて母から出産時の話を聞いた喫茶店に向かう。店内は甘いストリングスがバックの女性ヴォーカルがかかっていた。二階の座布団に座りコーヒーを注文する。考えなくては。帰るべきか。あるいはもっと遠くへ。スマホで検索すると、関西のほうにシェルターがある。まずは自分の安心だろう。いや、遠くに行ったとして来週からの仕事はどうする。休むためには何か言わなくてはいけない。しばらく休むとすると……それを考えると途方もなく気が重い。いつも現実に阻まれる。今は特に呼吸が浅い思考をして心には焦りが張りついている。奥の席に親子連れが座る。あのとき母もコーヒーを飲んでいたか。メニューをみる。もしくはルシアンだったかもしれない。自分はあんみつを食べたはずだ。痛くしてごめんねと言ったのか。言ったかもしれない。なおは優しいねと本当に言われたのか。小さいころはなおと呼ばれていた。そのあと、自分は児童書を読み、母は翻訳物の小説を開いていたかなどと記憶にまどろんでいると、窓の外を雨粒が通る。
洗濯物のことを思い出す。紗英が取り込んでいるだろうか。雨が降ると取り込まなければいけないという動きが身体に刻まれていた。
実家に着くと、洗濯物は一階のベランダに堂々と干されたままであった。衣服を触り、これはやり直しだなと直人は思う。ひさしはあっても斜めに降りしきる雨によってびっしょり濡れている。
急いで次々に洗濯物を取り込む。やることが決まっていると安定した。何も考えずそれに従事すればよい。が、突然ぬっと赤い傘が塀の向こう側に現れ、やっぱここかという声がする。視線を通りに向けると、妻の麻理子が直人を見ていた。直人は心臓がびくんとなり、まだぬれている靴下を残して窓を閉める。自分は何を考えていたのだろう。誰も知らないところにさっさと行っていたら。もう遅かった。ピンポーン、ピンポーンとチャイムの音が耳に粘りつく。続いてドアを痙攣的に短く叩く音。ドドドドドドドド。ドドドドドドドドド。雨なんだけど。なんで濡れてるのわたし。直人は急いでドアを開けようと思うが玄関前に立ち尽くす。開けないと余計ひどいとわかってる。が、体も頭も重かった。直人は玄関に腰掛けてしまう。ピンポーン、ドドドドドドドドド。早く、めんどくさいし。わざわざ来てるんだけど。なに、今なに待ち? 早く開けろって。お前ほんと家帰ったらわかってるよな。麻理子は自分の感情に没頭し、周囲の目も中に家族がいる可能性も遮断して、ドアノブを引き抜く勢いで回し続ける。ドドドドド。マジでお前さあ、死ねよ。
直人がしばし硬直していると、あ、お久しぶりです~というまろやかな声が雨と麻理子の声に被さる。
「家にいらしてくれたんですか」
「ああ、迎えにきて」
「あ~わざわざすみません」
「いえ」
「久しぶりなんでもう少しいてほしいなーなんて」
「あ、でも迎えにきたんで」
「雨ですし、あがりません?」
「いや、もう帰ります」
「それは残念」
「開けてもらえますか?」
「ごめんなさい、さっきからこっそり見てたんですけど、今ケンカしてるんですか?」
「いや、出てこないので」
「えー、なんででしょうね」
「こっちが聞きたいですよ」
「家族としては仲良くしてもらえたらうれしいなあなんて」
「ええ、だからね」麻理子はため息まじりでいらだつ。
「あ、こないだはじめて知ったんですけど」
「はい?」紗英はいかにも秘密だといった様子で告げる。
「女性が加害者のDVもあるらしいんですよ。怖いですよね~」
直人はこれ以上聞けないと思い、二階にあがる。動悸が激しい。自室に入り、ベッドに倒れる。言葉が頭にへばりついて離れない。大きな目をして童顔であることを誇る麻理子が顔を歪め叫ぶあの様も思い浮かぶ。落ち着かず、起き上がると、紗英の声が頭の中でこだまする。声が言葉をたぐりよせ、時間をさかのぼる。昼間に聞いた紗英の夢日記のことを思い出した。
見たかった、本当にそんな夢を見るのか。紗英の部屋に入ってしまう。自分はいま少し、錯乱していると直人は思う。そう思えているうちは大丈夫だと思う。机の上に黒くて厚いノートがある。直人は一瞬の抵抗のあと、ノートを開き、今を逃れるように早妃と自分や父の交流を読みふける。罪悪感を懐かしさが溶かしていく。時間は消え去り、雨音が聞こえなくなる。確かにあった思い出と、あったかもしれない思い出に胸が詰まり、半分ほど読むと自室に戻りベッドに倒れた。
直人、お風呂沸いたから入っちゃいなさいという声が下から聞こえ、直人はむくりと起き上がる。部屋は暗い。さっきまで何をしていたか……日記だ。あれは、早妃の日々を備忘録的に書きつけたものに読めた。しかし、自分が夢をみるときと同じように、時制も飛び飛びで通時的に納得するのは難しい。五歳の直人が自転車の練習をしたことが書いてあると思いきや、直後に十歳の直人からティッシュでつくった鳥の物語を聞かされた話が書いてある。無数の小さな日々の記録。もっとも驚いたのは直人が八歳のころに流産したと書かれていたことだった。知らなかった。あれは本当だろうか。ただそれが事実だとすると、紗英と年齢が離れている理由に納得ができた。
直人は言われるまま風呂に入ることに抵抗はなかった。入らなかったら自分を呼びに来るだろう。そのとき、どんな顔をすればいいのか。
鏡にシャワーをかけて見る。洗っても洗っても自分の顔に貼りついた恥の痕跡が落とせない。結果、長いこと湯船に浸かった。体中がふやけるほど、何も考えず、水だけ欲するようになるまで。どうせ自分には危機を脱する方法など考えられる力はない。こうなった以上、何もかも正直に話してしまうのがいいと思う。
浴室を出ると真新しい下着と量販店で買ったような薄手のパジャマとタオルが置いてあった。そういえば、自分では何も用意せず風呂場にきたのだった。洗面所の鏡に映る赤い体を見る。夏になると体中に湿疹が出る。汚いから見せるなと麻理子は言う。そういえば、今年はまだ皮膚科に行ってなかった。戸棚の下には持ち手が湾曲したままのドライヤーがまだある。早妃が生きていたころから使っていた。うるさいドライヤーと直人は呼んでいた。短い髪をうるさく乾かす。手で乱暴に髪をとかす。こんなもんだ。ひどい直毛で髪もうまくまとめられない。ダサい髪と麻理子は鼻で笑う。一緒に歩きたくないから先歩いてよ。うるさいドライヤーだと直人は思う。投げつけて鏡を割りたくなる。そんなことはしない。反抗期じゃないんだから。髪は一向に乱れたままだ。バスタオルを乱暴に首に巻き付け、風呂場から出た。
居間に入ると、紗英がテレビを見ながらビールを飲んでいた。それを通り越して、窓を開けてタオルを干す。直人もすっかり飲みたくなっていた。戻るなり、飲む? と紗英が聞いてくる。うん。グラスも冷やしてあるからと紗英は冷蔵庫に取りに行く。枝豆と冷奴があった。ドリア今焼いてると紗英はグラスを渡しながら言う。和洋折衷のメニューだが、この家ではよくある。ドリアは義男がいない夜、季節に関係なく母がよくつくった。あ、少し服買ってきたから、部屋に置いといたよ。ああ、ありがとう。
缶ビールを注ぐ紗英に直人は何といったらいいか迷った末お疲れさまと言った。本当にお疲れさまだよと紗英は笑った。
直人は一気にグラスを飲み干す。ビールの冷えた苦みがのどに心地よかった。再びグラスにビールが注がれる。それをまた直人はゴクゴクと勢いよく飲む。なにか言わなければいけないと直人は思う。紗英もそれを待っている気配がある。テレビが騒いでいた。枝豆に手が伸びる。
沈黙のあと、紗英が口火を切った。
「もっと早く、帰ってこられなかったの?」
「それはまあ、帰るなって」
「止められてたの?」
「でも従ったのは俺だから」
「……殺してやりたい」
直人はまた思わずビールを飲む。昔、いじめのニュースなどで被害者の少年が自殺したという報道を見たとき、母は決まって「もし直人が死んだら絶対犯人を殺しに行く」と物騒なことを言っていた。紗英は悔しそうに嘆く。
「運が悪かったんだよね」
「……最初はうまくいってたんだよ」
「だからって、つらかったでしょう」
直人は胸がわさわさして涙腺がどっとゆるんだ。泣いたらみっともないと思うが、涙はすでに目にたまり潤んでしまっている。
「健康であればさ、ほんと何でもいいと思うんだよね」と紗英も鼻を手の指でこすり、視線を上下させながら続ける。
「私もお母さんといっしょになったんだと思えば、自分のせいじゃないって思える。ずるいでしょ」
その言葉の終わり、二人の視線がぎゅっと絡み合う。直人の涙があふれる。どこか今の自分が母の目に映し出された気がした。紗英は嗚咽している直人の後ろにまわり、背中をさする。母からよくこうしてもらっていた。小さいころはつまらないことでよく泣く子どもだったのだ。それが段々と異性を気にしてそういうことはなくなったし、妹が生まれたあとは兄として妙に自覚が生まれて涙を見せることはなくなった。
オーブンが止まる音がした。お腹空いたでしょと紗英が背中をぽんぽんと叩く。少し落ち着いた直人の前に小さな取っ手がある薄茶色の皿に入ったドリアが差し出された。焦げたチーズがぼこぼこと動いている。そのパリパリにスプーンを落とすと、中からあつあつの乳白色のクリームソースがたっぷりと絡んだエビやイカ、小さなアサリが現れる。その下のごはんと混ぜ合わせてふーふーしながら食べる。母と二人のときの味だった。直人は食べて、時間をさかのぼる。紗英が、母が見つめていた。直人は見つめられるのを意識しながら一心不乱に食べる。舌をやけどする。ゆっくり食べなさいと彼女が言う。食べながらだんだんと、直人は口にし出す。いやー、しんどかった。家では座れなかったんだよね、あれこれ言われて。反省文とか書かされたし。あと、昨日変な服じゃなかった? 服とかもね勝手に捨てられるんだよね。言葉にすると情けなさが後ろから襲いかかってくる。こんなに恥ずかしい人間いるか? 必要か? なぜ死ななかったのだろう。自分にこんな兄がいたら嫌だと思う。ゆっくりでいいよ、ゆっくりと紗英はささやく。今じゃなくていい、甘えていい、今はおいしくて熱いものをゆっくり味わえばいい。直人はドリアを食べて過去を味わい、子どもの舌になった。
けれどもクリームソースがなくなるにつれ、直人は現在の時間が戻ってくるのを感じる。自分に冷めてくる。現在はどうしてこんなに味気ないんだろう。紗英も大人の直人に噛んで含めるようにこれだけはと言った様子で口にする。やっぱDVだったんじゃないかな。
直人は凍結させていたその言葉が解凍されるのを感じた。
"かのように(2)"へのコメント 0件