六月初旬の長い雨が朝から降り続けた日、席替えが行われた。
廊下側最後尾になった蛭田の隣には優理が座った。彼女は小さなたわしのような眉毛をしている。覚悟を決めた様子で前を見ていた。反対側の窓側になった悠斗は呆けたような表情の蛭田を見た。
席替えが終わると、早速習字が始まった。今日は「伝統」という文字を書く。いつものように倫子がお手本を書き、黒板にマグネットで貼りつけた。生徒たちは毛を刈り取られる羊よりも従順に字を真似ていく。悠斗も余裕綽々と筆を滑らせていると、だめ、曲がってると鋭い声が教室の端から聞こえた。視線を向けると、ごめんごめんと蛭田がでれでれしている。何笑ってるの、と優理はなおも追い込む。いや~と蛭田は再び筆をとるも、蛭田くん、集中してと優理は蛭田を導く。蛭田は真剣な面もちで黒板をじっと見ると、一画目に慎重に筆を這わせた。
その日、教室の後ろに掲示された蛭田の「伝統」は以前の彼の字よりも周囲に同調していた。翌日はさらに足並みを揃え、今の環境があってこそ私があるのです、特に意見はございません、これまでのやり方に従います、よろしくお願いいたしますと不必要に頭を下げたがる日本人が大好きな程度をわきまえた「自己」が掲げられた。翌週の「勝利」は墨で消された世界観を想起させ竹槍がホログラムとして立ち上がるようだった。蛭田の勝利はもはや倫子の勝利よりもお手本だった。
「すごいじゃない蛭田くん! みんなと同じ字だね」と倫子は歓喜の声をあげた。
「いや~」と蛭田は身をよじらせて喜ぶ。
「武田さんのおかげね」
「いえ、蛭田くんががんばったんだと思います」
「二人ともすごいすごい! みんな拍手」
生徒たちが二人に拍手を送った。誇らしげな優理と恥ずかしげな蛭田がいま、教室の中心であった。あんなにも手を焼かせ、あきらめられ、教育にゲロを吐いていた蛭田がいま、ナイフとフォークをもち文明国の仲間入りでもしたような有り様だ。
一人、複雑な顔をして拍手する悠斗。拍手に怒りがこもる。なぜあんな眉毛の女に言いくるめられるんだ。変な字で、合わせられないのが蛭田でしょ。ゲロ吐けよ、あの眉毛に向かって。ゲロぶっかけろ。悠斗、はじめての嫉妬、はじめての女性嫌悪だった。
蛭田が悠斗の家に来るのは初めてだった。誰かに見られたら、困る。仲が良いとばれてしまう。だが、彼は今日、悠斗の家に行くことにこだわったのだ。道夫に聞かれたくない相談があるといって。
悠斗はベッドに座り、蛭田を勉強するイスに座らせた。麦茶を出すと、ぐいぐい飲む。家のコップを蛭田が使っているのが不思議な気がしたし、少し嫌だった。
「習字、そっくりになったね」
「いや~」
「合わせられないって言ってたのに、できるじゃん」
「まあね~、ははは」蛭田はもじもじしている。悠斗はその様子にいらついた。
「なに、武田さんのこと好きなの?」
「え、いや、どうだろ、ははは」
「どうだろって。なんで家来たの」
「まあその~、相談?」
「なんの」
蛭田は目を逸らし、天井の隅を見ながら両手を組んで二本の右指を回す。糸を紡ぐように。
「ほら、おれってあれだから、みんな話さないでしょ。でも、曲がってるよ、とかよく見てくれて、やればできるんだからって、その、目も合って」
「ふーん」
「……あんな人いなかったんだよね」蛭田の両指がチュッと口づけするようにくっついた。
「僕は?」
「いや、女子で」
「ふーん」
「プ、プレゼントとか、どうだろ」
「え、まあ、いいんじゃない?」悠斗はつまらなそうに答える。こいつ、普通じゃないか。
「なに送ったらいいかな」
「知らないよ」
「自分が好きなのでいいの? 武田さんが好きなのがいいの?」
「なんで僕に聞くの」
「や、木嶋君、女子ともうまくやってるし」
「うーん」悠斗はどちらが面白いか考えた。答えは一つだ。
「自分が好きなもの、渡せば」
「え、経験上、経験上?」
「うん、自分が好きなものとか大切なもの、プレゼントするよ」
「そうなんだ! ありがとう木嶋くん」蛭田は熱い握手を悠斗とした。
そのあと二人でテレビゲームをした。夕方、蛭田が帰ろうとドアを開けようとすると、鍵が開く音に続いて真里が入ってきた。すると蛭田は忍びの者のように身を低くし、お邪魔しましたと言葉を置き去りにして走り去った。
「え、ちょっと、今の友達? だよね」
「まあ、一応」
「珍しいじゃない、悠斗が呼ぶなんて」と真里はうれしそうに言う。
「ああ」
「よかった~、そういう子がいて。言ってくれればおやつ置いといたのに」
悠斗は真里と蛭田の目が合ったかどうか考えた。なにかこの先、自分が蛭田とつながってると誰かに言わないかどうかと。真里は鼻歌を歌って冷蔵庫に野菜を詰めている。
夜ーー湯船の中で悠斗は蛭田が自分はここにいてはいけないように走り去った姿を反芻した。
翌日朝、蛭田は家をルンルンと出ると素早く目の前に今度は悠斗が忍びの者のように現れて面食らった。
「昨日言ったこと、全部忘れて」
「へ?」
「だから自分が好きなものプレゼントするとか」蛭田はランドセルからかつて悠斗に見せたアイロン老婆とピーマン人詰めの版画を出した。
「どっちがいいかな」
「だめ絶対。好きなの送らないで」
「え、昨日……幻?」
「幻幻。とりあえず待機。まずは相手を知らなくちゃ」
「はあ」
「じゃ、一緒だとあれだから、先行くね」
蛭田が唖然とする中、使命を一つ終えた悠斗は颯爽とその場をあとにした。
学校までの道中、何をしているのだ自分はという思いもよぎる。どうでもいいじゃないか、蛭田のことなんか。どうせまた転校したら一生会わないし、なら面白い結末をたくさん見ておいたほうが。が、そんなことをして教室で蛭田が笑い者になったり、今よりも気持ち悪い存在として扱われると考えると心が痛んだ。痛むんだ自分は、とも思った。自分はもっと、他人のことなんか考えない人だと思っていた。人を知ると、深くかかわるとあとが苦しい。低学年のときを思い出す。でも、蛭田のために何かする無理と蛭田を笑い物にする無理を比べると、こうするほうがまだ無理がない気がした。
そこで悠斗は理科の実験の時間、優理といつも一緒にいる美帆に話しかけ、優理をほめたたえながらいつも休み時間や二人で遊ぶとき何をしているのか聞きだすのであった。
放課後、悠斗は蛭田と地元の図書館に集合する。
「かるただって、武田さんが好きなもの」
「かるた? お正月の?」
蛭田は自宅の住所を知らなかったので悠斗が図書館カードをつくり、かるたの本を蛭田に又貸しした。
二日後ーー悠斗が蛭田の家に行くと、一片の風情も情緒も雅やかさもない段ボールかるたができあがっていた。蛭田は下の句の束をにぎり、上の句を思い出しては読み上げる。別の日は熱心に素振りをし、また別の日は道夫が耳元で上の句をささやいたあと、素早く蛭田は札をとっていった。
一週間後ーー悠斗が上の句を読み始めるやいなや、蛭田は獰猛なボクサーの一突きのごときスピードで札をとるようになる。悠斗は気づく。蛭田の集中力はすごいと。勉強や普通のスポーツこそ終わっているが、版画だけでなく特定のなにか興味が沸いたものに関しては一種の天才なのではないかと、その才に驚いた。だから、そのあと起きることをどこかで予期していたように後になって思う。
六月の終わり、蛭田は優理にかるたの対決を申し込んだ。優理は蛭田が二週間前からはじめたと聞き、またしても教えてやろうという心持ちでその申し出を受けた。
が、蛭田は初手から読み手の美帆が上の句を読みはじめると手を鞭にして、札を場外にとばした。この時点で優理はたまたまわかる札があったのだと自分を納得させるも、次は彼女の左手のすぐ前にある札が大きな波にさらわれた貝殻のように消えた。蛭田の手つきはとても初心者のものとは言えず、優理はこれから起きる惨劇におののき始めた。三枚目も四枚目も五枚目も六枚目も蛭田は停止ボタンが壊れた機械のような正確無比さで次々に札を手中におさめていく。そのひゅっと空気を切る所作がバンと床を鳴らす音が続々とギャラリーを増やしていく。優理は面前で自分が信じていたものがガラガラと崩れていく心持ちになる。美帆は優理の顔がこわばっていくのを見て、次の札を読むたびに憂鬱が深まっていく。蛭田は強ければ好きになってもらえるという古式ゆかしい恋愛観なのか、優理の胸中にも表情にも思いやることはなく、暴風雨を彼女の前で巻き起こし続ける。蛭田くんすげー、圧勝じゃないとギャラリーがもらすたび、優理の心は張り裂けそうになる。そして半分ほど読み終わったとき、優理は耐えかねたように涙を流して立ち上がり、教室を走ってあとにした。蛭田はトイレに立ったのだと思いこんでおり、試合が終了したと美帆が知らせたとき「へ?」という声をあげた。
次の日から優理は学校に来なくなった。いや、来られなくなった。学校で視線を浴びたくなかった。飼い犬に手を噛まれた女として笑われる。そう思った。美帆が毎日呼びかけにきても、優理は顔を出す力が湧かなくて不登校になった。
あの日のあと、悠斗は蛭田になにもあんな圧勝しなくてもよかった、かわいそうじゃないかと言ったが、どこか口にする違和感が拭えなかった。こうやってあの生意気な、教育でなんでもできると思っていた女のプライドをズタズタにするのを求めていた気もする。いずれにせよ、優理のことは一顧だにせず、蛭田を思いやった。蛭田は悠斗からああいうときはうまく負けるもんだよと聞くと、それは相手に失礼だよと口をとがらせるのだった。蛭田は優理が来ないことを残念がり、自分がかるたを教えられるのにと言っていた。
優理がいなくなると、蛭田の習字は再びだらしなくなり、同調を乱した。その変形と優理の不在により、クラスの空気もぐにゃりと変わり始めた。
はじめは体育の時間だった。いつも通り休んでいる蛭田の顔面にサッカーボールが当たった。不思議なことに当てた者が蛭田に謝罪することがなかった。悠斗は周到に当てた者たちが陰で喜ぶ様を見て、はじまったと思った。数日後、蛭田の給食の野菜スープにがびょうが入れられていた。蛭田はそれを気づかず口に入れてしまい、舌を刺すことになり出血した。倫子に報告すると、彼女は帰りの回で犯人に名乗り出るようお触れを出したが、もちろん現れることはなかった。
翌日の給食の時間、蛭田は黒板の前に立って、がびょう犯は名乗りでないと残念なことになるので出てきてくれと頼むも案の定誰も出てこなかった。蛭田はため息をつき、カレー鍋にがびょうの束をぶちまけた。ガラムマサラでも振りかけるように。阿鼻叫喚が起きると蛭田は恍惚に震え、今日はがびょうカレーだよ~といいながら鍋をもちカレーをお玉ですくっては生徒の机の上に直接よそった。止めようとする者にはカレーを投げつけた。教師数名でおさえられたのち、蛭田はもったいないからカレーは自分が全部食べたいと叫んだ。
悠斗は優理を復活させるしか問題解決はないと思った。美帆にそれとなく優理の様子を聞いても回復の兆しはなかった。
悠斗は優理の家に行き、インターホン越しにみんな待ってるとかありきたりな文句を並べたあと、試しに挑発的な文句を投げかけてみた。
「武田さん、教える側じゃないとイヤなんでしょ」
十秒近い沈黙の間、優理の怒りと迷いを濃密に感じた。
「……何でもがんばりすぎって言われてきたんだけど」
「うん」悠斗は鍵があく音を聞く。
「かるたは、はじめて本当にがんばりたくなるものだったから」ほとんど泣きそうな声だった。
「それはすごいことだよ。蛭田くんは耳とか反射神経がいいだけで、なにもわかってないと思う」
「耳がいいのはね、かるたには一番大切なんだよ」
「でも、好きなことがあっていいじゃない」
「でも負けたから」
「好きなことは勝ち負けじゃないでしょ」インターホン越しに鼻をすする音がする。もう少しだ。
「……そうなのかな」
「そうだよ」
「木島くんも、絵、上手でいいよね」
「上手でも、好きじゃないから」
「そうなの?」
「だからうらやましい。勝ち負けも人がどう思うかも関係ないよ」
悠斗はもう少しで優理は学校に出てくるなという感触を得た。遅くとも夏休み明けにはくるんじゃないか。ようやく傷が癒えましたという顔で。自分は人を操縦するのがうまいと得意になる。寄り添って自分の少し弱いところを見せるのがポイントだ。優理が戻れば、あっという間に元の均衡が回復するだろう。もとはといえば、この子のプライドが高すぎるのがいけないのだ。それで蛭田がいじめられるなんておかしい。
ところが残念、事件は悠斗と蛭田が並んで学校のトイレで小便をしているときに起きた。悠斗が武田さん、もう少しで学校来るかもよと伝えると、蛭田は本当に! と驚く。よかったー、小便気持ちいいーと蛭田がうっとりしていると、蛭田にサッカーボールをぶつけた男子二人が入ってきて、蛭田に故意にぶつかった。蛭田の鼻がどすっと壁に当たり、鼻血がだらっと出てしまう。怒った蛭田は小便器を離れ、男子たちに近寄って小便をかけ始めた。うわ、汚ねえと男子たちは怯むが、蛭田も小便後半だったのですぐに放尿が終わってしまう。すると男子の一人が蛭田の腕と髪の毛をつかんで床に仰向けに倒し、謝れよと繰り返し叫んだ。蛭田は謝らず、陰茎をぽろんと出したまま、口の中気持ちわる〜と言ってぺっと血が混ざったつばを飛ばすと、うまいこと男子の顔にびちゃっと当たった。激情した男子たちはトイレの個室に蛭田を引っ張り、頭を便器の中に入れようとした。これには蛭田も激しく抵抗し、足は狭い個室で四方八方暴れまわり、天を無理やり駆け上がろうとするように見える。固まっていた悠斗は我に返り、先生を呼ぼうと出ていこうとすると男子の一人が彼に荒い声で呼びかけた。手伝えよ。早く、何してんだよ。悠斗は一瞬怯むもほとんど考えることなく蛭田の暴れる両足を抱きかかえて捕まえた。骨ばった細い足だった。途端、蛭田はコンセントを抜かれたように抵抗をピタッと止めた。トンネルの中に入ったよう。明かりも音も消えて影が濃くなる。それでも一向に考えることはなく蛭田の両足をそれぞれの手で床に押さえつけ、男子は顔をトイレの水にぶちこんだ。謝れよ、謝れよ、汚ねーな、あ、ぶくぶく言ってる、うわ、ずっとちんこ出てる。あれだからな、武田さん来ないのお前のせいだからな、そうだよ謝れよ。すっかり抵抗をやめた蛭田を見て、俺小便我慢できないと一人が言うと、蛭田の首をつかみ頭に性器を近づけ放尿をはじめた。うわ、きたね〜。だってこいつ汚いから、一緒に流せばいいっしょ。そうした声が悠斗には校庭から聞く音楽室の音ほど遠く聞こえる。ぼやったした曖昧な環境音楽。
芳香剤とアンモニアの臭いで近くに戻される。蛭田はぶくぶくも言わなくなった。
幸運にも蛭田は病院に運ばれ急死に一生を得た。その一報は悠斗を心から安堵させる。
保護者会は狂乱の態をなした蛭田母が乗り込み紛糾したが、加害者の親からの示談金によって彼女は注射を打たれたように大人しくなった。悠斗の親も支払った。その間、蛭田は普通学級でいいのかという問いが数人の親からなされ、加害者の責任は霧散し学校の責任が勃興した。
七月半ば、蛭田は学校に来ないが優理は復活し、倫子は邪教が排除され地上はかくも美しく清められたという聖職者の相貌をなした。悠斗は道夫が代わりに来るのではと思ったが、その予想ははずれた。道夫から蛭田の様子が聞きたかった。学校では明るく振る舞わねばならないのも憂鬱だった。いなくなってよかったよなという声に合わせなければならない。
悠斗は蛭田の家にどうしても行けなかった。最初、優理さえいなければという思いに逃げようとしたが、それでも罪悪感はTシャツにべっとりついた赤い手形のように残った。
孝一がいない日、真里は悠斗が沈み続けているのを見て言った。
「蛭田くんに謝りに行かなければいけないよ。どんなに苦しくても会いにいかなければいけないと思う。許されなくても、できるだけ正直になぜしてしまったか伝えるの。心を差し出すの。謝るの。何よりも蛭田くんのために。それに、ここで逃げたら悠斗は友だちがつくれなくなるよ」
重い足取りだった。長いこと川を見た。川の流れは悠斗になんの安らぎも与えなかった。流されてしまった。何かが起きて、二者択一になり、楽な方を選んだ。原因はどうあれそっちを取ったという結論があるだけだった。自分は卑怯者だった。友だちを裏切る最低なやつだった。
いつも通り、がらんとした廃墟のようにくすんだ蛭田の家。三階にあがり、扉の前で逡巡する。すると勢いよく扉が開き、蛭田が、いや道夫が出てきて悠斗の耳元に吹き込んだ。
「人殺し」
悠斗は転がり落ちるように階段をくだった。扉があいた途端だ、道夫とも認識できなかった。いや、耳元でささやくのは道夫なのだが、悠斗はなんだか蛭田その人自身によってささやかれた気がして、心臓がぎゅっと絞られ、脳内をその声が反響した。人殺しだった、自分は。一目散にあとにする。歩いても歩いても、蛭田の視線が後頭部に刺さっている気がして、やがて走り出した。
蛭田は夏休みが明けたあとも学校に現れず、やがて特別学級に通い始めたという噂が流れた。
悠斗は卒業までは共立小学校で過ごしたが、中学校に入るころにはまた父親の都合でその土地を離れ、やがて蛭田の記憶に蓋をして恋をしたり部活動に励み青春を謳歌した。持ち前の自己プロデュース能力というやつで。高校生のころ、「人は忘れることによって幸せになるんだなあ」とあいだみつお風の字で書かれた色紙が渋谷の駅前で売ってるのを見たが何も思わなかった。人は自分の姿を見続けたら死にたくなるもんなあ。
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