ぼんやりしていた。我に返って自分の周囲を見渡す。
何処かの介護施設だかグループホームだか、何か人々が集まって暮らしているようなところだろう。老若男女、色々な人がいるが、圧倒的に高齢者の比率が高い。そして、みすぼらしいなりをした人が多い。ほぼ全員が椅子に座って大画面のテレビに顔を向けている。みんな無表情だ。何かのバラエティ番組が流れているようだが、ボリュームが絞られていて音声がほとんど聞こえない。
俺は上下、くたびれた作業服のような灰色のユニフォームを着ている。人々はほとんどが私服だが、その中に俺と同じユニフォームを着ている者がちらほらいる。
どうやら俺はここの職員のようだ。事情がよくわからないままうろうろしている。自分が何をやるべきなのか分からない。おつむは大丈夫か? 職員として長年ここで働いてきたというのに、とうとう自分も惚けてしまって、ここの入居者と同じように、色んなことが分からなくなってきているのか。同僚や入居者にそのことがばれたらどうしよう。
広い部屋の真ん中に、大型の冷蔵庫くらいの大きさの謎の機械がある。それのどこかに誤って触れたためか、機械の正面に据え付けられている柄のない小さなカップがカコンと音をたてて傾き、溜まった水が少し溢れそうになる。俺はそのカップを慌てて元に戻そうとするが、カップの据え付けが悪く、なかなか安定しない。
顔は皺だらけなのに髪の毛が不自然なほど黒々としたおばあさんが、ああ、それガタついているから仕方ないよ、と言う。同じユニフォーム姿であるところをみると彼女は同僚なのだろう。それ、どうせしょっちゅう零れてんだからさ。そんときゃ雑巾で拭けばいいよ。
そう言われて少しほっとしたものの、カップを何とか安定させて、そろそろと手を離す。それにしても一体何の機械なのだろう。
別室から移動してきた一団が通り過ぎようとする。その中にいた小柄な初老の男が機械の方に近づいてきた。猿みたいに赤らんだ顔のその男も職員のユニフォームを着ている。男は、俺が戻したカップに手を伸ばし、無造作に掴んで再び傾ける。
水は表面張力で踏ん張り、辛うじて溢れなかった。
男が隣の部屋に消えてから、さっきの黒髪のおばあさんが近寄ってきて言う。
ナカタさんはああいうことをする人だから。わざとね。しょうがないよ。ああいう人はね、ほっときなさいよ。
何がしょうがないのか、おばあさんが何を言いたかったのかよくわからないまま、俺は隣の広い部屋に行く。小さなテーブルが島のようにいくつかあり、人々が椅子に座っている。男同士、女同士、男と女、老人同士、若者、老いた者と若い者、職員同士。組み合わせは様々。ほとんどの人が黙ってぼんやりとしているが、ぼそぼそと喋っている人も中にはいる。
その中にナカタを見つける。四人がけのテーブルに一人で足を組んで座り、虚空を眺めている。
ナカタの方へ一直線に向かい、ナカタの顔を真っ直ぐに見下ろす。
今度,何か余計なことをしたら、俺は手が出るよ。
そう言って、ナカタを見据える。
ナカタは微かに笑みを浮かべているような微妙な表情でこちらを見返している。それが俺の怒りを更にかき立てる。
何か言えよ、と俺は言う。
はじめにあんたが機械にぶつかったでしょう。あれ、あんたが傾けたんでしょう。ナカタは少しかん高い声で、早口でそう言う。
俺はいったん手が出たら止まらないからね。お前を殺すまで殴るよ。格闘技やってたから、お前絶対死ぬよ。
ナカタの目に怯えの色が浮かぶ。俺は満足する。俺はテコンドーやっていた。空手だったか。いや、それとも何もやっていなかったか。まあどうでもいい。とにかく誰かを殴ったことはある。そいつが死ぬまでやったかどうかは憶えていないが。
別の空いているテーブルに座る。
何となく広げた自分の両手を見て、俺は仰天する。右手の小指と、左手の人差し指、中指が第二関節から無い。
小さく呻いて、思わずまじまじと見つめてしまう。
欠損した箇所は、少し膨らんで丸く、つるりとした硬そうな皮膚に覆われている。
左手の小指はある。俺はヤクザではなかったらしい。ならばこれは何かの事故で失ったのだろうか。
どうしても指を失った経緯を思い出せない。
何度か手を見返したが、やはり指が欠損していることに変わりはない。俺はいったいどういう生き方をしてきたんだろう。
指が三本失われているということに対する驚きはあっても、葛藤みたいなものはない。現実なのだから受け入れるしかない。そういえばずっと以前、ピアノ弾きだった。何処かのホテルのラウンジで、ラウンド・ミッドナイトをソロで弾いたことが確かにある。でも、こんな手ではもうピアノは二度と弾けない。
未練がましくまた手を広げる。大きくて薄い。手のひらを見て、裏返して,手の甲を見る。血管がくねくねと浮き上がっている見慣れた自分の手だが、指はやはり欠けたままだ。右手の小指の欠損部の先端を左手で触ってみると、鈍い痛みがある。
覚醒した後、久しぶりに見たこの今朝の夢の、あまりの生々しさに少々気分が悪くなった。手を確かめると、指は全部ちゃんとあった。夢から覚めてこんなにも安堵したのは、動物園から逃げ出した白熊に追い詰められて食い殺される寸前までいったとき以来だ。いつの夢だったかよく覚えていないが、たぶん小学生くらいの頃だ。
ナカタが誰だったか、夢が消え去る前にかろうじて思い出した。昨日ジムの隣のマシンで走っていた男だ。黒髪のおばあさんも会ったことがある気がするが思い出せない。
怖気を感じるほどリアルな夢だった。
いや違う。
夢ではない。
ボタンを掛け違えたもう1人の俺の姿だ。
何処かにもう一人の俺がいる。孤独で、生活に追われながら職場を転々としながら老いて、認知症の進行におびえ、そして怒り任せに他人を恫喝して生きている。指が三本欠損した手を抱えて。
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