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レゾナンス

合評会2026年5月応募作品

浅谷童夏

世界のあちこちで理不尽な暴力に晒されている人たちが多くいる。その人のために無力な自分が出来ることといえば、なにがしかの寄付とか、でなければ彼らの痛みを想像することくらいしかありません。

タグ: #純文学 #合評会2026年5月

小説

4,915文字

レゾナンス

 

 

「30分後に急患来ます」

受付兼助手の中本さんがそう言いながら、ユニットの背後の壁に掛けられた午前の予約表を手に取る。印刷された15分刻みの枠は、マーカーで書き込まれた予約患者の名前でぎっしり埋まっている。その枠外に中本さんは急患患者の名前を書き込む。

「げげっ、枠取りしてる埋伏抜歯の横じゃん」と衛生士の澄ちゃんが、倒されたチェアの上で顔にタオルをかけられている患者さんに聞こえないように小声でつぶやく。埋伏抜歯というのは、下顎の骨の中に横向きに埋まっている親知らずを抜く治療だ。麻酔をして歯茎を切開して歯肉を剥離し、ドリルで骨を削る。露出した親知らずを削って分割し、抜いて、縫合する。手間がかかって大変だし技術も要求されるし、それなりに時間がかかる。

「マジか」と私もつぶやいてしまう。

「埋伏抜歯の横には、なるべく急患入れないでほしいな」思わず愚痴がこぼれる。

「すごく待ちますよ、って私も言ったんですけど」と中本さん。

「でもすごく痛いからすぐ行きたい、って」

「急患って誰?」

「アサディ・ガセミ」と書き込まれた名前を澄ちゃんが読み上げる。

「ああ」私は頷く。アサディさんは診療所近くの商店街でイラン料理店を経営している。店は診療所のスタッフにも人気だ。私も時々食べに行く。私たちが行くと、キャバーブとかザクロのジュースなんかを、サービス、といって無料で一品つけてくれる。

 

きっちり30分後、診療所玄関のドアがあいて、ひげ面の巨漢が入ってくる。右手で頬を押さえている。中本さんが受付をしている間にも、うーと呻いている。笑顔を絶やさないいつもの陽気な彼とは別人のようだ。

その受付の隣の診療室の中で、私は患者さんの上にかがみこんで、親知らずと格闘している。

「バキューム」

「はい」

「ミラーちょうだい」

「はい」

「ライトもうちょっと」

「はい」

私の早口の注文に澄ちゃんが忙しく動く。

キーン、シュ―、キーン、メキメキ、バキ。

エアーでブシュッと術野を洗浄する。澄ちゃんのバキュームが間に合わなくて、私の白衣に血が飛び散る。うげっと思うが、黙っている。

「アサディさん来てます」中本さんが近くまで来て、私の耳元で大きな声を出す。

「了解、ちょっと待つって伝えといて」

「それはもう伝えてます。痛くて我慢できないって言ってます」

「悪いけど、すぐは診れないって伝えて」

「はい」中本さんは待合室の長椅子で大きな体を前かがみにしている巨漢に、私から言われたことを伝える。うんうんと彼は頷く。

 

2枠、すなわち30分の予定時間を10分残して、親知らずを抜かれた前田さんが疲労困憊した表情で診療室を出て行く。麻酔4分、処置12分、術後の説明4分。首尾よくいった。抜歯の合間に、隣のユニットでもう一人、別の患者さんの虫歯の治療をこなした私は、カルテパソコンの入力を終え「アサディさん入れようか」と澄ちゃんに言う。

 

澄ちゃんに名前を呼ばれて、巨漢のイラン人が診療室に入ってきてユニットのチェアに腰を下ろす。100キロは優に超えているであろう彼の体重で、ぎしっとチェアがきしむ。これ、値引きでも320万したけど大丈夫か、と私はひそかに気をもむ。

「どうしたの?」私は訊く。

「右上の歯とあごが今朝、急に痛くなって。それで目が覚めました」

「なるほど」

「しばらく我慢してたけど、耐えられなくて電話しちゃった」

「わかりました。じゃ、はい、お口あけてみて」

アサディさんの大きな口を私はのぞき込む。虫歯で穴が開いている歯があるわけでもないし、歯周病の急性症状とおぼしき所見もない。歯茎も全然腫れていない。少なくとも見た目は全くの正常だ。

「どの歯が痛いの? 自分の指で触ってみて」

そう言われたアサディさんは、自分の右上の犬歯から第2大臼歯までの歯を全部触る。

「5本全部、痛いの?」

「そう」

「どんな痛み? しみるの? 噛むと痛い? それとも何もしなくても痛い?」

「何もしなくても痛いよ。歯から頬にかけて。目の下まで痛い」

「ちくちく痛い? ずーんと痛い? どくどく波打つ感じに痛い?」

「わからない。とにかくすごく痛い。これまでこんな痛かったことないね。生まれて初めて」

右側上顎洞炎かもしれない。

「パノラマ、撮ってみよう」

澄ちゃんがてきぱきと準備をし、アサディさんはレントゲン室に案内される。撮影用の椅子に身をかがめて座る彼に、はい動かないでね、と声をかけてから私がスイッチを押すと、椅子に座った彼の周りをぐるりと装置が回転する。1分後、彼の上下顎全体のレントゲン画像がモニターに映し出される。一本の虫歯もない。クラックの入っている歯もない。上顎洞にもまったく異常なし。

3カ月に1回の定期健診にもきちんとやって来る彼は、歯磨きもいつもよくできている。下あごの前歯の裏にちょっとだけ歯石がつく傾向にあるが、強靭な歯はぴかぴかで、歯肉はピンクで引き締まっていて、検診で目にするたびに私は内心惚れ惚れするし、澄ちゃんからもいつもほめられている。ほめられると心からうれしそうにするので、澄ちゃんや中本さんは、そんなアサディさんのことを、かわいい、と言う。何でもかんでもそう言うのってどうなのと思いもするけど口には出さない。私も彼女たちからたまに、かわいい、と言ってもらえることがあるし、その時はうれしいし。でも40男が若い女の子にかわいいって言われてよろこんでるのを表に出すのは駄目。それはたぶん陰でキモいって言われる。

「見た目はどこも悪くなさそうだけどね」

「でもすごく痛い。我慢できない」

アサディさんは脂汗を流している。言葉に誇張はなさそうだ。

「何か変な感じしたら左手を挙げてね」

電気歯髄診断を行う。これは歯に電極を当てて電気を流して、歯の神経の状態を調べるものだ。神経が正常だと一定の電圧でびりっとくる反応があるし、神経が死んでいると反応がない。神経が炎症を起こしているときも閾値に変動がある。

アサディさんの左手があがる。どの歯もまったくの正常という結果が出る。

 

結局原因がわからず、私は多めの鎮痛薬を出すしかない。アサディさんの体格を考慮して、日本人に処方する倍の容量を出すことにする。家まで我慢できないからと言い、アサディさんは会計を済ませたあと、受付で出された薬をその場で飲んで帰っていく。

16人目の診療はおばあちゃんの入れ歯の調整。それで午前中の診療が終わる。埋伏抜歯はあったし、アサディさんの他にも3人の急患が来た。午前の診療が押したせいで、朝からくたくただ。中本さんと澄ちゃんに、「もう上がっていいよ」と声をかけて、私はいつもは彼女たちがやってくれるユニットの消毒やら器材の消毒やら、石膏模型の制作やらの雑用仕事を自分でする。

昼休みはいつもの半分しかとれなかった。アサディさんのことが気になって仕方がない。

 

午後は電話キャンセル3、無断キャンセル2と、キャンセルが5人出た。ユニット3台、スタッフ3人のこじんまりした診療所は、午前中とはうってかわって暇になる。私は診療の合間に、昼休みに半分しか食べられなかった弁当の残りを食べ、時間をかけて歯を磨く。アサディさんのことがどうしても気がかりで、スマホで検索したり、デンタル・ダイヤモンドのページをめくって原因不明の歯痛に関する記事をあれこれ探してみたりするが、これというものは見当たらない。

 

午後はそのままゆったりと過ぎて、午後6時の診療終了時刻になる。午前16、午後7、合計23人の来院患者数はほぼいつも通り。女の子たちは器材のチェックと掃除を終えると、それぞれの車に乗り込んで、さっさと帰っていく。私はカルテの整理をし、ユニットの点検をし、出入金の記録を確認し、施錠して診療所を出る。途中スーパーに寄って稲荷寿司と総菜とビールを買う。帰り着いたマンションで1人の夕食を済ませ、ビールを飲んで、スマホで麻雀ゲームをやって床につく。

 

翌日は休診日。朝からからりと晴れる。

午前中掃除と洗濯をし、昼過ぎ、エスファハンに向かう。

エスファハンはアサディさんの経営しているイラン料理店だ。

ドアを開けて店に入ると、いらしゃいませ、と最近新しく入った若い店員がテーブルに案内してくれる。

「こんにちは。先生、昨日はどうもありがとうございました」厨房の中からアサディさんの巨体が現れる。

「どう? 痛いの、少しは落ち着いた?」私がそう訊くと、巨漢のイラン人は頷いた。黒い豊かなひげの中の大きな口の両端が挙がる。いつもの笑顔だ。

「もう痛くないです。ご心配おかけしました。ありがとうございます」

「いや、良かった。アサディさん身体大きいから、痛み止めが効いてなかったら追加で渡そうと思って、今日少し持ってきたんだけど、いらなさそうだね」

「大丈夫。もう治りました」

私はほっとしながらも首をかしげる。あれだけ激烈そうだった痛みが、一日であっさり消えるとは解せない。器質的なものではないとすると精神的なものか。歯科心身症には不可解な症状を呈する症例も多い。考え込んでいるところに店員が注文をとりにくる。Aランチを注文する。ゼレシュク・ポロウとサラダとザクロジュースのセット。若い店員が運んできたプレートにはそれに加えて一皿追加されている。

「これはサービスです。フェセンジューンといいます。鶏肉を、細かくしたクルミとザクロのペーストで煮込んでます」イラン人の若い店員が、店主より流暢な日本語で説明してくれる。

 

料理はいつものように美味い。食べ終わってザクロのジュースを飲んでいると、アサディさんが私のテーブルの傍らに来て椅子にかける。木製の椅子がぎしっと悲鳴を上げる。

「先生、ちょっといいですか」

「ええ、もちろん。どうしましたか?」

「昨日、私の歯がどうして痛くなったか、わかりました」

「ほう」

「先生には知らせておかなくては。いい話ではありません」アサディさんの表情はいつもより硬い

いい話ではない? 痛みが取れたのに? 不穏なひとことが胸をざわつかせる。アサディさんは診療所での処置について、何かクレームをつけるつもりなのだろうか。この人、そういうタイプではないはずだが。

私は心の中で身構える。

「あちらはインターネットが遮断されているからすぐには知らせてもらえなかった。でも現場を取材したジャーナリストと親しい親戚がいて、そこから今朝、くわしい情報、もらえました」

インターネット? ジャーナリスト? 何の話だろう。

「イランで起こった事件についての昨日のニュース、先生は知ってますか?」

首を横に振る。家では基本テレビは見ないし、昨夜はゲームにはまってしまい、ネットのニュースもチェックしていない。

アサディ・ガセミさんはゆっくりと話し出す。それは次のような話だ。

イラン南部の都市の女子小学校で教師をしている従姉がいる。美しく賢くて優しい彼女のことを、自分も親族のみんなも大好きで、自慢に思っている。その彼女の職場を、アメリカとイスラエルの打ち込んだミサイルが直撃し、児童や教師、職員など170人以上が亡くなる大惨事を引き起こした。それが昨日のこと。

学校はイラン革命防衛隊の施設に隣接していたらしい。

「私の、あの突然の痛みは、まさに昨日、同時に従姉の身の上に起きていたことです。先生」

アサディさんは私の目を真っすぐに見つめてそう言い、テーブルの上に置いた毛むくじゃらの両手を組み合わせてうなだれる。やがてその手の輪の中に顔をうずめてしまう。そして絞り出すように言う。

「破片は彼女の顔の右側に当たりました。右上の犬歯から後ろの歯を全部吹き飛ばしました。上あごの骨ごと」

突然のその話に、かける言葉を見つけられない。

「従姉は今朝、病院で死にました。そして同時に私の痛みも消えました」

巨漢の肩が震えているのを、私は呆然と見つめる。

彼は顔を上げる。その頬を涙が伝っている。

「コーヒー、どうぞ」

若い店員がコーヒーを2杯運んできて、我々の傍らに静かにカップを置く。その彼の頬にも涙が流れていることに私は気がつく。

© 2026 浅谷童夏 ( 2026年5月7日公開

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