出さない手紙
末広がりのいい数字でもあるし、二〇二五年八月八日、つまり今日という日を可能ならば、これを書き始めた日として記憶しておこうと思います。僕がまだ適当に引っ張り出せる記憶の断片のなかで、なるべく順を追って、印象的なものをつらつら並べてみます。
これは君へ向けて書いています。でも肝心の君に読んでもらうことができないので、実のところ何のために書いているのかよくわかりません。それでも、とにかく書けるうちに書いておきます。
先日帰国して、予約していた銀座のクリニックで遺伝子検査を受け、自分のアポイー遺伝子というものを調べてもらいました。検査方法は簡単で、試験管に唾液をとって提出するだけ。アポイーという特定の遺伝子に、イプシロンⅠからⅣまで四種類の因子があります。誰もがこの因子を二つ組み合わせで持っています。ⅡⅡとかⅡⅢとかⅡⅣとかいう具合に。イプシロンⅠがアルツハイマーになりにくく、イプシロンⅣがアルツハイマーになりやすい因子です。つまりIIだとアルツハイマーを怖がる必要は殆どなく、IⅡやIⅢもほぼ安全、ⅡⅡやⅡⅢ、ⅢⅢとかはまあ普通。なる人はなるし、ならない人はならない。IⅣ、ⅡⅣ、ⅢⅣは一応の覚悟はしておくべきで、ⅣⅣはご愁傷様。
そもそも何故この検査を受けようなどと思ったのか。それは父と母が若くして認知症を発症したからです。父は六十代前半、母は五十代半ばでの発症でした。ちなみに母方の祖母も六十歳で家の裏山に迷いこんで亡くなりました。だから還暦がそう遠くもない僕もそろそろやばい訳です。先日、ちょっとした会員登録で書き込もうとして自分のスマホの電話番号を思い出せませんでした。これは単なるオトボケなのか、それとも、もう既に認知症のワンダーランドに片足突っ込んでいるのだろうか。病院に行くのは怖い。だからまずはきちんと、遺伝的に自分がそうなるリスクを調べてみようと思いました。
結果はビンゴ。ⅣⅣでした。覚悟していた最悪の外れ籤だったという訳です。ショックはまあ、無いとはいえません。
その後、脳の状態を調べる精密検査も受けてみました。まだごく初期ではありますが、診断はやはり若年性アルツハイマーとのこと。昨日何を食べたか、なんてこともパッと出てこないのはまあそのせいなのでしょう。
医者は淡々と僕に結果を説明してくれました。医学は日々進歩しているし、いい薬も出てきているし、悲観することはない。けれども準備をしておくに越したこともありませんと。ここで彼が言った、悲観することはない、というのはつまり、悲観してもしょうがない、という意味だろうと思います。
では準備しておく、とは何でしょう。施設への入所の段取りとか、そのための資金の確保とかでしょうか。僕はジャワで一人暮らしだし、確かにそういうことを考え始めると多少不安になりますが、あまり気にしていません。つまるところ、いつどこで死んでも構わないのです。ただし、苦しむのは嫌ですので、できるだけ一瞬で済んでほしいとは願っていますが。
僕はこれから色んなことを忘れていきます。あまりきちんと記憶を整理している余裕もないので、まだ鮮明に覚えているうちに、浮かんだままに書くことにします。自分の紆余曲折の人生、大切な君のこと、書きたいことはいくらでもあります。ただ、病気の進行とともに多少の記憶の改竄や混乱も生じるかもしれません。母がそうだったのですが、認知症の進行とともに、お喋り好きな彼女が話す過去の記憶は、虚実入り乱れたものになっていきました。鹿児島弁でいうところの「チンガラ」です。救いだったのは、母が、最期まで被害妄想や猜疑心などには無縁の、明るい惚け方をしていたこと。願わくば僕もそうありたいものです。どうせ惚けるが勝ちです。僕の書いているものもチンガラになってゆき、一体何を書いているのかさえも分からなくなる日が来るかもしれません。そして途中で尻切れトンボのように終わるかもしれません。それはそれで仕方ないと思っています。前置きはこのくらいにしましょう。ではスタート。
まず浮かんでくるのは、食卓のテーブルの上に本を拡げて勉強をしている君の姿です。拡大鏡をかけて活字を追う君の表情は引き締まっている。少し吊り気味の目。その目尻の皴。尖って少し上向きの小さな鼻。その脇のほうれい線。君の顔のパーツのどれもが素敵です。君は新しいカニューレの操作方法を学んでいるらしい。それ、今度やるの?と僕が訊くと、そう、今度の訪問の患者さんで必要なの、という答えが返ってきます。カニューレは看護師さんが交換してくれるんじゃないの?と僕が訊くと、いや、それはドクターの仕事なのよ、と教えてくれる。
たかがカニューレ交換と侮ってはならないの。抜去したはいいけど、交換する新しいカニューレが入らなくて患者さんが亡くなった事例もあるのよ。
それはさぞかし、そのドクターはパニックになっただろうね。
そうよ。自分の目の前で、人が窒息して苦しみもだえて死ぬの。一番悲惨な死に方よ。しかも自分のせいでそうなるの。自分の不注意、不勉強のせいで。いくら後悔しても取り返しがつかないの。
僕は思わず身震いします。
僕のこれまでの人生の中で最も誇らしいこと、それは、君と結婚できたことです。だから僕は運命の女神に感謝しながら、愛してる、と君に言うことを、君と一緒に過ごした毎日、実践してきました。君の方から自発的にそう言ってくれることは、とうとう一度もなかったけれど。サトシはラテン人よね、私は大和撫子だから、なんて言い訳して。でもそれでも構いません。
ともあれ僕の人生は君と出会うためにあって、君と一緒に過ごした日々が僕の全てです。だけどその確信に、何か正体のはっきりしない鵺のような一抹の不安がつきまとっているのは何故でしょう。僕の君への想いは雲一つなく晴れ渡った空のように明快です。何といっても僕は単純な人間だし。でも君はどうだっただろうか。君が僕のことを愛してくれていたのは分かっています。だけど君の方は果たしてそれでよかったのだろうか。君は僕に愛されていて本当に幸せだったのだろうか。どこかでそう思ってしまうのは、きっと僕の中にある根源的な何かが、僕自身を自分への信用から遠ざけているからでしょう。できるものなら僕は今からでもそれをなんとかしたい。行き当たりばったり書いているうちに、何かヒントが掴めたらいいのですが。
六歳の僕は父と母と一緒にフェリーに乗っています。デッキのところに母が立っている。ほら、ほら、とデッキの柵から母が身を乗り出す。母は笑いながら言います。
ほらほら、ママ落ちちゃうよ、ほら。
僕は泣きわめきます。ママ落ちないで、と懇願しながら。
それからしばらくの間、僕は、母が自分を見捨ててこの世からいなくなる、という深甚な恐怖に憑りつかれます。母はどうしてあんな悪戯をしたのでしょう。子供のいない僕にも、それは分かる気がします。自分の存在が、子供にとって世界の全てであることを実感したかったのではないでしょうか。逆に言えば子供の存在が、自分にとって全てであることの裏返しとして。そんなことは自明の理だと済まさずに、母はそれをきちんと検証せずにはいられなかったのでしょう。彼女は時々不意に、一人息子に対して試練を課すような悪戯をしました。いくつかは、今でもはっきりと思い出すことができるほどに記憶に焼き付いています。フェリーの一件の少し後だったでしょうか、デパートの中で一緒に買い物をしていて、ふと気が付くと母の姿が消えている。僕は必死で周囲を見渡します。そして、母が僕を置き去りにしていなくなったという事実に気がついて打ちのめされた僕は、たちまち大声で泣き出します。するとすぐ近くの柱の陰から不意に母が姿をあらわし、僕を抱きしめるのです。ごめんね、と母は言いました。母はわざと隠れながら僕の様子を観察していたのではないかと思います。泣き出した僕を抱きしめる母の手はひたすら暖かく力強かった。よいしょっ、といって僕を抱き上げた母の肩に、涙と鼻水でぐしゃぐしゃになった顔を擦りつけながら、僕は、かくれんぼ、だめ、かくれんぼ、いや、と言いました。かくれんぼじゃないよ、サトシいなくなったからこっちがびっくりしたじゃないの、と、母はちょっと周囲の目を気にするような言い方をして笑いました。失いかけてから戻ってきた母が余計に愛情深く頼もしいものに感じられて、その安堵と感激が僕を余計に泣き止ませてくれませんでした。ただ、今にして思うと、その頃の母の悪戯が、なんだか存在の根源に関わる不安の種子のようなものになって、僕の心の中で小さな芽を出しては枯れることを繰り返しているような気がします。
楽天的で明るかった母に比べると、母よりも十歳年上の、高校の国語教師をしていた父はマイペース型で、子供に媚びを売るようなことは一切しない昭和の頑固親父でした。それでも、島にいた頃、父にはよく海に連れて行ってもらったことを憶えています。
小学校の三年生のときから中学校の一年までの四年間、島で過ごしました。記憶のなかで、今でも最も純粋な濃度を保っている部分でもあります。島の思い出について引っ張りだし始めると、きりがないほどです。もう四十以上も経ったというのに。
我が家は海から近く、家からは一キロちょっと歩いたら、もう海岸でした。
記憶に最も鮮明に残っているのは、島の北端の灯台の下の海での光景です。夏で、僕は十一歳でした。僕は父と二人でそこに来ていました。付近には僕と父の他は誰もいなくて、頭上から照り付ける日差しは強く、海面から見える世界は何もかも色のコントラストがくっきりとしていました。波の音と、僕と父が水中眼鏡をずらして溜まった海水を捨てながら、ぷふうっ、と息を吐く音だけが聞こえていました。
足元の岩はごつごつと荒々しいくせに、張り付いた黒い海藻のせいでぬるぬる滑ります。牡蠣やイシダタミ、ヒザラガイが岩の小さな窪みにくっつき、ハナビラダカラが裏返した外套膜で自分を包み隠しています。岩の割れ目にはイソギンチャク、蟹、ガンガゼ。海底の砂地のところには黒いヘチマみたいなナマコ。足が立つか立たないかの海底には灰色のテーブルサンゴがいくつもありました。父にサンゴを絶対に踏むなと言われていたから気をつけながら、青が目にしみるくらい鮮やかなコバルトスズメを追って泳ぎ、浅瀬を素足で歩きました。
サンゴ以外にもガンガゼは特に注意しなくてはなりません。ガンガゼを踏むと最悪で、刺さった棘は折れて足裏の皮膚の中に残ります。それを取り出すにはメスで皮膚を切らなきゃいけない。あと、白い毛のようなもので覆われているウミウシ。これに素手で触ったときは、僕の指の腹に、その毛だとばかり思っていた棘がびっしり刺さって、それはもう酷い目に遭いました。
このような体験を積み重ねて、自分の身体で学べる範囲の危険に、僕は精通していました。もちろん、父から買ってもらった図鑑なんかでも勉強していました。
僕の周りの子供たちはというと、例えばイモガイの仲間はえらく危険で、すごく綺麗な模様のタガヤサンミナシなんかを素手で触って刺されると死ぬこともありうる、とかの危険に対して、びっくりするくらいに無知でした。それどころか、全然泳げない奴も少なくなかったように思います。島で生まれ育った地元の子供たちはそんなに海に行かないのです。一方、教員の父の転勤のために二年前に島に来たばかりの僕は、季節を問わず海に文字通り入り浸っていました。磯は危険が多いので、まだその頃は一人で行くことは禁止されていました。それでしょっちゅう父にせがんでは連れて行ってもらっていました。
不意に女の人の声がしました。風に乗ってきた声の切れ端が耳をかすめたのです。その声はあっという間に近づいてきました。僕たちの姿は岩に隠れて向こうからは見えていないようでした。近くにいた父が動きを止め、しっ、と口に指をあてました。それから、声を潜めて、あっちに行くよ、と言いました。
僕が岩陰から声の方を覗くと、少し離れたところの浅瀬に若い女の人が三人いました。全員素っ裸で、元気よく手足をばたばたと動かしていました。彼女たちの身体の白さと、両足の間に見える逆三角形の黒い陰と、水しぶきの泡の白さに目を弾かれて、僕は視線を逸らしました。母以外の女性の裸身を目にしたのは初めてでした。視線を逸らした先に岩があって、その岩の上に女の人たちの服が置いてありました。父と僕は黙って海に潜って、できるだけ音を立てないように気をつけながら、海岸沿いに移動しました。それまで遊んでいたポイントは、浅いところに大きいサンゴがいくつもあって、よく行くところでした。乱入してきた女の人たちに、そのお気に入りの場所を取られてしまったことには少し腹が立ちました。でもどうしようもありませんでした。
女の人たちの声が聞こえてこないところまで離れると、僕と父はそこでしばらく遊びました。サンゴはちゃんとそこにもあったし、コバルトスズメもツノダシもチョウチョウウオもたくさん泳いでいたけれど、ハナビラダカラが全然いなくて、僕はそれが不満でした。ハナビラダカラは白くて丸っこい殻に、鮮やかな黄色い線が丸く入っています。生きているハナビラダカラを初めて見たときの記憶は今でも実に鮮明です。父の手のひらの上に、小ぶりの梅干しくらいの大きさのぶよぶよした灰色の塊が載っていました。父がそのグロテスクな灰色の肉を指で剥くようにすると、中からつるんと美しいハナビラダカラの姿が現れて、僕は心底驚きました。
外套膜って言うんだよ。普段はこれに身を包んで、岩にくっついているんだ。
何で、こんな気持ち悪い膜に包んでいるの?
さあねえ。その方が目立たないからじゃないかな。
そんな会話を交わしたことを憶えています。
僕は少し退屈して、体を海面に仰向けに浮かせて目を閉じました。あの女の人たちはどこか福岡とか東京とか、そういう遠いところから遊びに来たんだろうな、と何となく思いました。ここには地元の人も滅多に来ない穴場だし、そもそも海水浴場じゃないからシャワーもないし、着替える所もない。海に出るのだって、崖の上の方から藪の中を、けもの道みたいな細い道を降りないといけない。だから女の人たちもはじめは泳ぐつもりではなかったんだろう。偶然ここに来て、誰もいない(僕たちはいたけど気が付かなかったんだろう)ここの海を見て、水着も持っていないのに泳がずにはいられなくなったんじゃないだろうか。
女の人たちのことをぼんやり考えていると、すっと背中が冷たくなりました。反転して海中を見たら、そこにサンゴの海底はなくて、どこまでも黒々とした、吸い込まれそうな闇があるだけでした。慌てて海上に顔を出したら、今度は、すぐそこにあったはずの岸が無い。首を振ってざっと見渡しても緩くカーブする水平線しかありませんでした。父の姿も見えない。一瞬何が何だか分からなくなりました。それから、すごく遠い沖まで流された、と思いました。離岸流という言葉は知らなかったけれど、どういうものかは知っていました。砂浜と磯が混在した小さな湾の中で、一度これに捉えられて湾の出口に近いところまで運ばれたことがあったからです。どんなにクロールで泳いでも、どんどん岸が遠ざかっていくあの恐怖はなかなか言葉にできません。四、五メートルを必死で斜め横に泳いだのはほとんど悪あがきみたいなもので、でも結果的にはそれが正解でした。まぐれ当たり。それで離岸流から脱出できて、岸に戻れたのですから。あのまま流れに逆らってクロールで抵抗していたら死んでいた、とぞっとしました。そうやって逃げおおせた離岸流に再び、気がつかないうちに捕まってしまった。僕は泣きそうになりました。たった数分間ぼんやりしていただけなのに。母の顔が目に浮かびました。
もう一度顔を海中に入れました。やはり海底は見えない。水中眼鏡に海水が入り、パニックで叫びそうになりました。でも、水中眼鏡に溜まった海水を出したところで、ふと一瞬冷静になりました。左右は何度も見渡した。でもまだ後ろをちゃんと振り返っていないじゃないか、と。
岸は真後ろに、拍子抜けするくらい近くにありました。三十メートルも離れていませんでした。父もそこにいました。僕はたまたまサンゴ礁の切れ目の、狭くて深淵になっている、その丁度真上に流されていたのです。
そろそろいいか、と父が言って、僕らは移動して元の場所に戻りました。裸の女の人たちはもういなくなって、岩の上の服も無くなっていました。さっき行ったところの海は、ほんのちょっと沖にいくだけで底が見えないくらい深くなってて怖かった、ということを僕は父に話しました。けれども僕も父も、その日、目にした女の人たちのことについては、家に帰る途中もお互い何も話さなかったし、帰りついてからも母には言いませんでした。
ずいぶん後になって、白と青の単純なデザインの消しゴムを何となく見ていて、ふと、あの日の裸の女の人たち、深淵、そして水平線を思い出したことがあります。
そういえば君とはあまり一緒に海には行きませんでたね。君は泳ぎがあまり得意ではないし、海を怖がっていたし。でも一度だけ一緒に沖縄に行ったときに、君はずいぶん感動していたましたね。僕の地元は沖縄ではないけれど、それでも島育ちだから、穴場がどういうところにあるのかということはなんとなく本能的にわかります。観光地ガイドマップに載っているようなところはまず行かない。そのことが君を不安にさせたのも事実でしょう。誰もが行くところはそれなりだけど、確かに安全でもあるから。でも僕が勘で君を連れて行きたいのはそんな所ではないのです。どこまでも青い空と、白い砂地の地面が真っすぐの一本の線で繋がっている方へ、ゆるやかに上る一本道を歩いて上り切る。すると眼前に、空と地面の間に、突然空よりも眩しく光る海が見える。目指すのはそれ。人がいなくて、見渡す限りはるか沖合まで遠浅の天国ビーチ。君と行った一度きりの海はまさにそういう所でした。
島は美味しいもので溢れていました。味覚の記憶は、それ自体は輪郭が曖昧で、常に視覚の記憶と組み合わされて残っています。
三月を過ぎると、島のあちこちの竹やぶから生えてくるハチクという細いタケノコ。
ダクマと呼ばれている手長エビ。これは常に後ろに逃げるので、網を背後から近づけると面白いように捕れました。
道端の至る所に群生しているツワブキ。歯が小さくて茎が太いのを選んで採ってね、という母のリクエストを常に意識して採っていました。
海岸で波をかぶっている岩の、丸い穴にストローで塩を吹き入れると、長い足を絡めるようにして蠢き出てくる小さなイイダコ。
庭に自生していて、夏が過ぎると甘い実がなるバンジロウ。
収穫時にこぼれおちたまま通学路の横の畑に捨てられているサトウキビ。学校帰りに拾ってはおやつ代わりに齧ったものです。
短い実をつける島バナナ。オオスズメバチが実を守護するかの如く常に周囲を飛び回っていて、実をもいで食べるのはなかなかの冒険でした。
そして近所のおばさんが時々くれるマンゴー。むっとする甘さが喉から全身に染み込むようでした。
学校への道は、その両脇にブーゲンビリアやハイビスカス、ダチュラが咲き誇る真っすぐの一本道でしたが、途中で沢に降りて密林の中を通る別ルートがあり、こちらは少しだけ近道でもありました。この昼間でも薄暗い、沢に沿ったぬかるんだ道には、蛇やムカデやザトウムシがたくさんいて不気味でした。木の葉の上で身体を揺らしているザトウムシを捕まえて、その糸のような細い足を全部もいで、直径五ミリくらいの黒くて丸い胴体だけにするなんて残酷なこともしたものです。密林の道の脇にはシンシャと呼ばれている蘭のような植物が生えていて、その茎を折って引っ張ると、ハッカに似ている涼やかな香りが立ち上り、無数の白い繊細な繊維が二センチくらい途中で切れることなく伸びて出てくる。その光輝く美しさといったら息をのむほどで、僕はこのシンシャの繊維を観察するためにこの密林にしばしば寄り道しました。また、白地の隅に目に染みる鮮やかなオレンジの三角が目立つツマベニチョウが、この密林のいたるところを舞っていたのもよく憶えています。大型の割にはえらく敏捷で警戒心が強く、何度も帽子を振り回しながら追いかけたのですが、とうとう自力では一匹も捕まえることができませんでした。
かけられていた呪いの封印が解かれたかのように、突然それは起こりました。裸の女の人と、深淵と、水平線の記憶を心に刻み込んだその年の夏休みの終わりに、僕の皮膚の下で、肥満細胞という滑稽な名前の無数のクラスター爆弾が一斉に炸裂し、ヒスタミンという痒み物質をまき散らしたのです。
僕は元々アレルギー体質で、軽い喘息の持病を待っていました。ちなみに父も母も、アトピーや喘息持ちではない。そういう素因はあったのかもしれませんが。
日焼けの皮が剥けるのと前後して、皮膚のあちこちがうずうずしてきて、手足の関節の内側、首の周辺、腹部、陰部、そして顔一面にまで、赤っぽい湿疹ができました。痒くてたまらないから掻きむしる。すると崩れてじくじくと汁が出てシャツが皮膚に貼り付く。しばらくすると今度は鱗のような瘡蓋になる。僕の爪の先はいつも掻きむしった皮膚の滓で真っ黒、そしてシャツは黄色いしみだらけ。
このアトピーの発症について、島の医者は、夏の海で日焼けし過ぎたのが原因だろうと言いました。
アトピーと喘息とは互いに張り合うペアのようなもののようで、アトピーが悪化すると喘息も悪くなりました。喘息の発作が起こると、狭窄した気道の内部に粘っこい痰が充満して、吸った息を吐くことができなくなります。息を外に出すために、僕は両肩をできる限り前方に突き出して猫背になり、一晩中眠れないまま一呼吸ごとに腹筋と背筋の力を振り絞ったものでした。時々は、そのまま息ができなくなって死ぬのだと思ったほどです。発作が続くのは大体いつも一週間くらいだったでしょうか。
喘息は基本的に発作時の対症療法だけでしたが、アトピーに関しては色んな治療を受けさせられました。
一番嫌だったのは週に一回、ぶっとい注射器で腕の静脈にカルシウムの注射をされること。そんな注射に何の医学的効果も無いということを知ったのは、ずっと後、もう大人になってからです。もちろん子供の僕はそんなこと分からないから、週一回のその無意味な苦行を我慢して、島にいる間ずっと続けていました。いつも同じところに注射されるから、そこの皮膚が黒ずんで、何かの印みたいになっていました。また看護師さんによって当たりはずれがあるのも嫌でした。やや年配の、ちょっと受け口で痩せた看護師さんは注射が抜群に上手くて、いつも一発で決めてくれて絶対に血管を外さなかったけど、ショートヘアの、色白で小太りな看護師さんは、三回に一回くらいは血管を外して、その後、何回か刺しなおすのが常でした。そのたびに僕は唇を噛みながら、針を刺される側のてのひらを握ったり開いたりしました。そういうとき必ず、あれれ、あれれ、と彼女が言うので、僕はその看護師さんを、あれれさんと心の中で呼んでいました。病院に行く度に、今日の担当があれれさんでありませんように、と祈ったものですが、三回に一回くらいの割合で、あれれさんに当たりました。
軟膏も色んな種類のものをあれこれ変えながら毎日全身あちこちに塗っていました。印象に残っているのは、何かのミネラル石をすり潰して粉にしたものに油を混ぜたような灰色のやつ。大きめの丸いカップ容器にたっぷり入っていて、塗るとべたつく中にじゃりじゃりした感触があって気持ちが悪かった。それをだいぶ長いこと毎日塗り続けたけれど症状は全然良くなりませんでした。あと、黒くて妙に石油臭い軟膏もありました。これはもっと酷くて、腹部に塗ったらひりひりした後、猛烈に痒くなって、掻いたらいつも以上に汁がたくさん流れ出ました。しまいには木の皮の上にびっしり産みつけられた虫の卵みたいな赤黒い丘疹が腹部全体に広がってしまい、あまりの気持ち悪さに、逆に、いくら見つめても飽きなかったほどです。人差し指と親指で丸を作って腹に押し当て、その面積の中にぶつぶつが何個あるか数えたりしました。世界中広しといえど、そんなことに憑りつかれていた子供は僕だけだったと思います。
ある日、僕が子供部屋でいつものようにシャツをまくり上げて、皮膚を右手でつまんだり広げたりしていると、窓辺に人の気配がしました。はっと顔を上げると、近所の小学生の男子が数人、そんな僕を窓の外側の塀の上からじっと観察していました。クラスも、たぶん学年も違う、知らない子たちでした。彼らはわざわざやってきて、そこに上って息を潜めていた。その時の唖然として口を開けた、怖気混じりの歓喜に輝いた彼らの表情は何ともいえなかった。僕と目が合うと、彼らは飛び降りて、ものすごい勢いで逃げて行きました。
二学期の始業式の日、再会したクラスメートたちは僕の姿を見てざわついていました。夏休み前までごく普通だった僕が、夏休みが終わると化け物のようになっていたのだから、それも無理もないことです。隣の席の女子が、黙って自分の机を動かして、僕の机から少し離しました。それまで僕はその子のことがちょっと好きだったので、余計にショックでした。
痒みが邪魔して授業にも全く集中できませんでした。授業中も気がつけばあちこち掻いていました。周囲の連中、特に女子からは露骨に嫌な顔をされましたが、こればかりはどうしようもありませんでした。痛みは我慢できるだろうけれど、痒みを我慢するのは無理でした。
僕の両親は、どちらも迷信など信じるタイプの人間では全然なかったけれど、僕のアトピーを治すために藁にもすがりたい思いだったのでしょう。ウガンサーと呼ばれる島の祈祷師のところに連れていかれた時のことをよく覚えています。その人を紹介してくれた、父の知り合いのおじさんの話によると、そのウガンサーは、治療もするし、神様の力も使うという、とにかく凄い人のようでした。父の車が停まったところにあったのは古ぼけた平屋建ての屋敷でした。部屋数はいくつあるのか分からないくらい大きく、真っ赤なハイビスカスの花が咲いている玄関脇に、威圧するような太い文字で石神不動尊と書かれた木の看板がかかっていました。通された奥座敷はしんとして薄暗く、床の間の、全然読めない文字が連なった掛け軸の前の厚い座布団の上に、スイカくらいの大きさの白くて丸い石がごろりと置かれていました。そして反対側の柱には笑ったようなお爺さんのお面がかけられていました。両親と僕の三人が待っていると、白装束姿のじいさんとばあさんが厳かな顔をして部屋に入ってきて、僕たちに相対して正座して一礼しました。父と母が深々と腰を曲げてお辞儀をし、横で突っ立っていた僕の頭を、父がぐいと下げさせました。二人のうちのどちらがウガンサーなのだろう。あるいは二人ともがウガンサーなのか、二人一組でウガンサーなのだろうか、などと僕は頭を父に頭を押さえつけられながら想像しました。
僕らが頭を上げると、じいさんが、苦虫を嚙みつぶしたような表情で僕たちの方をじっと睨んでから、治るも治らないもあんたたちの心次第、みたいなことを言いました。そして、目の前にある石には決して触ったりしてはならないこと、治療を受ける前には、まず必ず部屋の中央で正座してその石に向かって柏手を打って三拝しなさいと言って、僕にやり方を教えました。僕が習った通りにやると、二人は部屋を出て行きました。
それからしばらくすると、ガラガラと言う音が遠くから近づいてきました。僕たちがいる座敷の外でその音が止まり、ふすまが開いて、さっきの白装束のばあさんが一人で、折り曲げた足のついた底の深い黒いバケツのような装置を重たそうに抱えて持ってきました。それを畳の上に置き、ガチャガチャと音を立てて組み立ててから僕の腹に向けて固定し、僕にそのままじっと動かないようにという風に手で合図をしました。装置の右側にはオレンジ色の丸い小窓と、木製の握りがついたハンドルがあり、ばあさんがそのハンドルをくるくると回すと、オレンジ色の窓から、鉛筆の芯を太くしたような黒い棒に、同じようなもう一本の棒が近づいていくのが見えました。それからジジッという音とともに僕の腹に白い光が当たりました。光は暖かく、そのまま一分くらい僕はじっとしていました。これが治療なのだとすれば、ひょっとしたら効くのかも、と思いました。それまでは治療といえば注射か、薬を塗るかだったし、そのどちらをいくら続けても全く症状は良くならなかったから。その一方で、正直なところ、神様の治療がこれってインチキ臭くない?神様がこんなへんてこな機械に頼るものなの?と思わずにもいられませんでした。
実際効いたのかどうかは分かりません。痒みがちょっとだけ薄らいだような、しかしあまりそうでもない気もしました。
一週間後の日曜日、再び家族三人でそのウガンサーのところに行った。父と母は車の中で待っていました。前回の治療後、次回からは二人は座敷に上がらず車で待機するようにと、じいさんから言われていたからです。約束の時間がきていたので僕一人、玄関で呼び鈴を鳴らすと、白装束のばあさんが奥から出てきて、無言で座敷の方を指さしました。僕は靴を脱いで上がり、誰もいない座敷に入りました。指示された通りに正座して石に向かって柏手を打ち、お辞儀を三回しました。それから石をじっと観察した。丸くて大きいだけの、とりたてて何の特徴もない石です。薄暗い部屋に一人で待っている間は心細かった。背後の柱にかかっているお面のお爺さんに凝視されている気がして落ちつきませんでした。五分くらい待っていると、ばあさんがよたよたと黒いバケツ装置を抱えて部屋に入ってきて、前回と同じように装置を畳の上に据えました。それからハンドルを回して僕の腹に光を当てた。治療が終わると、ばあさんは装置を持ち上げて廊下まで運び、台車に載せて、ガラガラと音をたててまたどこかへ運んで行きました。この部屋で治療を行うのなら、あんな重そうな装置はこの部屋か、せめて隣の部屋にずっと置いておけばいいのに、と思いました。
症状は期待したほど良くもなりませんでした。どうせ駄目だろうという気持ちもどこかにあったから、そうがっかりもしませんでした。やっぱりインチキだった、と思っただけです。
さらに一週間後の三回目、それは夏休みの最後の日だったけど、僕はまた一人で履物を脱いで、縁側から上がり、その部屋に入りました。いつものように部屋には誰もいなかったし、周囲にも人の気配はありませんでした。僕は石の前に立ったまま柏手を打ち、一回だけ顎を突き出すように小さくお辞儀をしました。それから石を撫でてみました。ただの石でした。振り返って、右手の中指を立て、柱のお面に向かってあっかんべーをしました。
五分ほどして白装束のばあさんがいつものように装置を運んできました。
いつもの治療のあと、ばあさんは装置を片付けようとせず、そこに座りなさい、と僕に言い、自分もそのまま無言で、僕と向き合って、少し腰を曲げて正座しました。僕が腰を浮かせて手を伸ばせば、ばあさんに触れられる距離でした。しわだらけの瞼が小さな目の上に垂れ下がっていてばあさんの目線がどこに向いているかよく分かりません。ばあさんと無言で向かい合って座っていると、白装束のじいさんが僕の両親と一緒に座敷に入ってきました。じいさんはばあさんの隣に胡坐をかいて座り、あなたたちそこに座りなさい、と言って、両親を僕の隣に座らせました。
あなたの息子さんの治療、今日で終わり。
じいさんはびしゃりと言いました。
何で終わりになっとかは、息子さんが自分でよくわかっちょっと。な、おぜ、わかっちょっどね。
白装束のじいさんは僕の顔をじっと見ました。ウガンサーの屋敷の黴臭い空気が喉にまとわりつくようで不快でした。僕は黙っていました。僕が横を向くと、父はじいさんの胸のあたりを、つまらなさそうな顔つきでぼんやりと見ていたけれど、母はじいさんの目を睨みつけているようでした。そのときの母の横顔がきれいだったのをよく憶えています。ばあさんは相変わらず一言も口をきかず、目も半開きで、どこを見ているかもやっぱり分かりませんでした。
誰も見ちょらんくても、神様にはわかっちょっど。約束を守らん子は神様でん助けられん。
帰りの車の中で、しばらくみんな黙っていました。しばらくしてぽつりと、むつかしいもんだな、と父が言いました。するとまたしばらくして、今度は母が、何が神様よ、この子はちっとも良くなっていないじゃない、と吐き捨てるように言いました。僕は、別にどうでもいいやという気持ちでした。どうせ神様にも、もう見放されたってことですから。
その日の夜、寝いりばなのまどろみの中で、僕は神様のことをぼんやりと考えていました。スイカのような白くて丸い石の神様が宙に浮いたかと思うと、だんだん遠ざかるように小さくなり、どこかへ消えていきます。そのあと少しして、額の上に大きな蠅がとまったのを感じました。ああ、神様が蠅になって戻ってきたのか、と思いました。むずむずする触感がどうにも気持ち悪くて僕は神様を振り落そうと顔を振りました。蠅は飛び立たずに、ざわざわと顔を横切りました。僕は本能的な怖気を感じて飛び起き、部屋の灯りを点けた。布団の上にいたのは青黒い大きなトビズムカデでした。全身の毛が逆立った。僕がこれまでの人生であげた最大の叫び声は、この時のものだと思います。というか、絶叫したこと自体、物心ついてからこの時くらいしかないです。
何事かと起きてきた両親が、僕の部屋に入ってきたので、僕は布団の上を指さした。ムカデはまだそこにいてとぐろを巻いていました。父が丸めた雑誌を持ってきて、それでムカデを叩き殺しました。
冷汗をかいた僕は、両親が寝室へ戻ってからも、茫然と布団の上に座っていました。ムカデの体液の染みがシーツについていました。眠れそうにもなくぼんやりしていると、何故か、あのムカデはウガンサーの婆さんだったのではという気がしました。深夜になって、何だか喉が痛い気がして僕は軽く咳をしました。すると咳が止まらなくなりました。そのうち咳の音がざらついてきて痰が絡みはじめたかと思うと、喉の奥から気管支の方へと、嫌な感覚が砂にしみ込む水のように下がって行き、三十分もしないうちに喘息の発作が出ました。僕が再び助けを呼ぶと、母がまた起きてきました。そして布団の下に座布団を入れてくれました。僕は上半身を起こした姿勢で布団にもたれ、両肩を丸めて必死で呼吸しました。母が持ってきてくれたメジヘラーを一回吸引して、それで少し呼吸が楽にはなりましたが、熟睡など到底できないまま一晩をうつらうつらしながら過ごしました。
痰は吐いても吐いても喉の奥に溜まって、粘っこく喉に貼り付くので、全力を振り絞って咳をして吐き出しました。
ちゃんとお辞儀しなかったから、ウガンサーが罰としてこんな目に合わせているのだ。一晩中、痰と格闘しながらそう思いました。
眠れないまま迎えた翌朝、いつもよりずっと早く家を出て、舗装されていない山道を学校に向かいました。喘息を理由にして学校を休むことは許されません。当時、学校に行くことは子供に課された絶対の義務でした。
それは危険。喘息の発作で死ぬこともあるのよ。
喘息の発作をおして登校していたことを話したとき、君はそう言いましたね。今では喘息の発作が出ているときは学校を休ませるのが当たり前なのだと。
上りの坂道では五メートル歩いては立ち止まって息を継ぎ、下りでは十メートル歩いては上半身を折り曲げ、膝の皿を両手で握りながら呼吸困難に耐えました。痰はとめどなく気管支の奥に溜まって気道を塞ぎ、息を吸ったり吐いたりするたびに振動して喘鳴を引き起こしました。痰の製造マシンと化した僕の身体が休みなく作りだす痰を吐き出すために、僕は数分おきに身を屈めては咳き込みました。それだけでもう汗まみれです。
道の両脇に積まれた平たい石でできた石垣の塀の、どの石と石の間にも、黒くて平たくて翅のない島ゴキブリがびっしりと群れて挟まっています。ぜいぜいと気道の中に吹き荒れる嵐を立ち止まって宥めてから、僕は一番手前の、平たくて軽そうな石をどけてみました。いつものように棒でつつく代わりに、僕は痰をそのゴキブリたちに向かって吐きました。痰は一番大きなゴキブリに命中し、僕の黄色い痰を背中に貼り付けたそいつは、そのまま塀の裏に消えました。漏れ出る喘鳴とともに唾が糸を引いて僕の口から地面に垂れ、僕は膝に両手をつけて前かがみになり、その糸が切れるまでその場に数分間じっとしていました。シンシャの匂いが香っていました。
元々、学校は好きでした。あまり勤勉な生徒ではなかったとは思うけれど、運動も勉強もそこそこ当たり障りなく出来たし、それに島の男子には珍しくピアノを習っていました。ピアノのことは男子たちからは、女みたいだとよく茶化されもしたけれど、合唱祭の時に伴奏を任されたりするのは晴れがましい気分でもありました。
それがアトピーの発症以来、クラスメートの多くから距離を置かれました。おずおずと、あるいは無遠慮に。僕の方も、ごくわずかな親しい友達以外、話したり、遊んだりすることもほとんどなくなりました。
学校はもはや僕にとって楽しい場所ではありませんでしたが、剣道場は別でした。僕は剣道スポーツ少年団に所属していたのですが、剣道というスポーツは、剣道着と防具で身体を覆い、皮膚の露出がほとんど無いので、練習や試合中、人の目を気にしなくてよいのです。汗をかいて蒸れると普通は痒くなるのですが、剣道をしている時はそうでもありませんでした。非常に激しく身体を動かすので、痒みから意識が逸れるのです。
わずかな友達の中でも、最も親しくしていたのが亀くんでした。亀池という彼の苗字から、僕は彼のことをいつも亀くん、と呼んでいま彼はいつもお兄さんのお下がりのくたびれた服を着ていました。中でも、一頭のヘラジカの首から上の絵がプリントされているTシャツを気に入っている様子でよく着ていました。ヘラジカの片目の上に醤油がこぼれたような大きなしみがあって、首元はだらしなく伸び、袖のところはちょっと破れてもいました。えらが張った四角い顔に受け口で、ドカベンの岩鬼に似ていて、大体いつも機嫌良くへらへらしていました。体格もよくて、小学六年生の時にはもう担任の先生よりも身体が大きかったように記憶しています。もちろん力も強かったけれど喧嘩は嫌いなようで、友達に対してたとえ冗談でも、自分の方からパンチしたりヘッドロックをかませたり、その他、その年代の男子にありがちな粗暴な振る舞いをするということが全然ありませんでした。もちろん、やられたときは笑いながらやりかえしもしていたけど、相手を傷つけないように注意して手加減しているのがよくわかるのです。剣道の団体戦ではいつも先鋒でした。大柄なくせに敏捷で、僕には試合ではめったに決められない豪快な飛び込みメンを鮮やかに決める。普段着の姿と、剣道着姿とに大きな落差があって、剣道をしているときの亀くんは本当にかっこよかった。
亀くんの他に親しかったのは、やはり剣道仲間の池山です。ただ、親しいとは言っても、亀くんほどではなかったかな。池山は、顧問の尾崎先生から天才と言われていたくらいの剣道の達人でした。彼には年齢不相応な威厳のようなものがあって、そこに僕は気後れを感じてしまいます。才能だけではなく、自宅で毎日、素振りを千回以上やっていた彼の努力も、到底真似できませんでした。けれども剣道を離れた池山は年齢相応のただの小学生で、彼と僕とは、よく悪漢探偵ごっこやドッジボールをして遊んだし、たまにはたわいもない喧嘩もしました。池山は団体戦で常に大将でした。彼は小さい頃の大けがで左腕がゆるく曲がったままで伸びなかったのだけれど、とにかくむちゃくちゃ強くて、小六のとき、中学校との交流戦で、三年生の優段者に当たったときでさえ負けませんでした。とにかく僕が知る限り、公式戦で負けたことは一回も無かったんじゃないかと思います。団体戦メンバーの中で一番小柄で痩せていて、それなのに竹刀捌きがものすごく速い。だから相当軽い竹刀を使っているんだろうと思っていたら、ある日池山の竹刀を持たせてもらったら僕の竹刀よりずっしりと重かったのでびっくりしたことがあります。長さはサブシチ、つまり三尺七寸で僕と同じだったけれど、優に百グラムくらいは違っていたと思います。池山も僕のアトピーに関しては何も言いませんでした。見て見ぬふりをしてくれている感じがする亀くんと比べて、池山は僕の皮膚の問題に関して、そもそも何の興味も関心も持っていないふうでした。彼の心の大部分は剣道に向いていて、僕のアトピーなどどうでもよかったのでしょう。でも彼のその無関心さは、亀くんの優しさよりも僕にとってはむしろ、より好ましかったようにも思えます。
その池山に、練習試合で一度だけ、僕は勝ったことがあります。池山が僕の面に飛びこんできたのを、抑えゴテで一本取ったのです。僕よりずっと小柄なのに面を打たせる隙を全く作らない池山から一本取るなら、もうそれしかないと思って最初から狙っていました。一本取った後は残り時間を守りに徹して、それで勝ちました。はっきり言ってカッコいい勝ち方じゃない。卑怯とまでは言えないだろうけれど、かなりセコい勝ち方です。負けず嫌いの池山は、僕に敗れたことが相当ショックだったようで、その後何度も、あのコテは一生忘れんじぇ、と言って、本当に悔しそうにしていました。
池山は絶対に剣道で有名になると誰もが思っていたけれど、残念なことに、中一の夏休みに海で溺れ死にました。岩場で釣りをしていて波にさらわれたのでした。お通夜に行って、棺の中の池山を見ると、彼は白い剣道着を着ていて、あのサブシチの重い竹刀が彼の身体の横に入れられていました。いつも稽古が始まる前、キャプテンの彼は皆の前に正座して、もくそーうっ、と鋭く引き締まった声で号令をかけて、それで全員目を閉じて一分間くらいの黙想をするのだけれど、そのとき僕はたまに目を開けて彼の顔を見ていました。その、黙想しているときの池山と、棺の中に寝ている池山は全く同じ顔をしていて、だから死んでいるようにはまったく見えない。でも、かといって、いつもの池山にも見えませんでした。身体の脇に置かれた竹刀を握らない池山は、もはや池山ではないと思いました。敢えて言うなら、すごく良く出来た池山の人形のようでした。池山が一生忘れないと言っていた、僕にコテで負けた記憶はどうなったんだろうか。消え失せてしまったのだろうか。僕は、それをずっと考えていました。池山の中にあった僕の記憶は、まだひょっとしたら、どこかに漂っているのではないか、と。
夏が過ぎて涼しくなると、僕のアトピーは最悪の状態を脱して少し落ち着いてきました。じくじくした汁が出なくなって、その代わり皮膚がかさかさに乾いて白く浮き上がってきて、そして軽く擦ると剥がれて下から少し赤っぽいけれどぶつぶつのない、きれいな皮膚が出てきます。少しずつ痒みも薄らいできました。いつも注射をされていた病院とは違う病院で出された塗り薬が、今までより効いたのもよかったのでしょう。でもほっとしたのもつかの間、秋から冬になると肌が再び乾燥して鮫肌になってきて、白い瘡蓋が身体のあちこちを覆ってきました。擦って取っても、その下のきれいな皮膚は三日と持たずにまた乾いて瘡蓋になります。顔面、特におでこと目の下が酷かったのには閉口しました。服の肩も枕も布団も粉だらけ。お風呂では、僕の死んで乾燥した白い皮膚の破片が、お湯の表面をびっしりと覆い尽くしました。僕が風呂から上がったあと、父がそれを黙々と洗面器で掬っては捨てていたのを覚えています。
学校の机の上にも僕の顔から剥がれた皮膚がどんどん落ちます。僕がそれを手で払って机から落とすと、白い落屑は机の周りの床に、雪のように積もりました。クラスメートの(そいつとは、僕のアトピーが悪化する以前は、一緒にクラスの前で漫才の真似事をしてみんなを笑わせたりもしたこともあったんだけど)日高って奴が、定規とセルロイドの下敷きを使って机の下の落屑を集めて、プラスチックのコップに入れ、笑いながらクラスの女子に振りかけて回りました。みんな悲鳴を上げて逃げまどいました。誰かに呼ばれて駆け付けた、担任の女の先生は、日高をこっぴどく叱った後で、僕の方を向いて、なるべくフケは落とさないようにしましょうね、と言いました。そんなの絶対無理だろ、と思ったけど言い返せませんでした。日高を殴ってやろうかとも一瞬思いましたが、そうしませんでした。あいつは悪気があってそういうことをするタイプじゃない。単に馬鹿なだけだ。何か面白いことをやって周りにウケることしか考えていない。そんな奴に手を出したって余計にこちらが悪者になるだけだ、ということ位は分かっていました。
それからは落屑が机の上に溜まってくると、僕はそれをティッシュで包んで持ち帰るようになりました。ゴミ箱とかに捨てて、それを拾って周りの誰かに振りかけようとする日高みたいな奴が現れるといけないからです。家に持ち帰った落屑はジャムの空き瓶に溜めました。その年の秋と冬の分だけで瓶の半分くらい溜まりました。
そんな具合で、毎年夏と冬にアトピーが悪化して春と秋には落ち着く、というのを繰り返すようになりました。
いじめに関しては、アトピーが重症化した小学五年生の夏からの三年間の夏冬はかなり辛かったけれど、周囲も慣れたとみえ、さほどエスカレートはしませんでした。僕自身の腕力が抑止力になっていたのもあると思います。田舎の子供の世界はだいたい分かりやすく単純明快な弱肉強食です。当時の僕は腕相撲ではクラスで敵なしでした。もちろん、喘息の発作が出ているときはからっきしですが。これは特に意識して身体を鍛えたからではなくて、単に遺伝の結果です。父は学生時代、相撲の選手で腕力は学校一だったそうですし、母も太っているわけでもないのに、学校でのお転婆女子どうしの腕相撲で、一度も負けた記憶がないそうですから。
中一の秋の終わりくらいのことでした。図書館で本を読んでいて後ろから肩を叩かれ、振り返ると亀くんがいました。ちょっと、と言われて、トイレに連れて行かれると、眉根にしわを寄せた亀くんは僕を正面からじっと睨んで低い声で言いました。
サトシ、おいの悪口を言ったじぇ?
え、何のこと。
おいの家のこと、ぼろぼろのお化け屋敷みたいって言ったじぇ?
あば、言っとらんじぇ。そんなこと。
着ている服も兄貴のおさがりばっかりだって言うたろが?
いや、そんなこと全然言ってない。
山口から聞いたど。
僕ははっとしました。山口というのは僕より一年遅れてやってきた転校生で、勉強がずば抜けてできる奴でした。僕も全然かなわなかった。ただ、遠慮なくものを言うのでクラスの一部からはちょっと煙たがられてもいました。お前、それアトピーだろ、と僕も面と向かって言われたことがありました。その山口が僕に、亀池んちってお前の家の近くなの?と何気なく訊いてきたから、僕はそうだよ、と答えた。ひょっとしてあの大きな…と山口が言うから、僕はそこに余計な言葉を付け加えてしまったのです。そうそう、大きくて古くてちょっとぼろい…と。お化け屋敷などと言った覚えは全く無かったけれど、ちょとぼろい、とは確かに言った気がします。その言葉が自分の口から出たときに、しまった、と思った記憶がありました。実際亀くんの住んでいる家は相当に傷んでいて、廃屋の一歩手前という風情だった。屋根には瓦の代わりに丸い石を載せていました。だけど僕にはもっと他の言い方だってできたはずです。
明らかに悪意のある伝え方をしたであろう山口を問い詰めて、ぶっ飛ばしてやろうかと思いました。でもやめました。山口を問い詰めたとしても、言い合いの主導権をあっさり向こうに取られる気がしたのです。僕は口げんかにからきし弱いのです。おいおい、それは違うだろう、だってあのときお前、ああ言っただろ?などと問い返されるともう駄目です。言い返せない。かといって口げんかで負かされたあげくに腕力喧嘩に持ち込んで逆転、というのはいかにも卑怯で格好悪い気がしました。
亀くんと仲直りすることは結局できませんでした。
K町は本土の二つある半島の東側中央あたりに位置する小さな町で、周囲をなだらかな山に囲まれた盆地です。町のあちこちに仏壇工場があり、それが町の基幹産業。町はずれにはやや大きな川が流れており、のどかな田舎、という形容がまさにぴったりな町です。人々は島とはまた全然違った癖の強い方言で喋り、お年寄りなどは純朴で穏やかそうな人たちばかりでした。けれども駅の近くの飲み屋周辺なんかにたむろしている人たちの中には、いかにもチンピラ風の服をだらしなく着崩した、陰険そうな雰囲気をまとった若い男が少なからず目につきました。今でいう田舎ヤンキーです。彼らは一様に荒んで疲弊しているように見えました。そして彼らは余所者の僕らを視界に入れると、黙って下目使いでじろりと睨んだものです。
父の転勤に伴って島を出て、初めてK町の借家に僕ら一家が到着したその日、ちょうどその家の塀が壊れたとのことで、業者が補修に来ていました。
働いている若い男が二人いました。一人はランニングシャツ、もう一人はTシャツに、下は二人ともニッカボッカという恰好。Tシャツの方はパンチパーマ、ランニングの方は坊主頭でした。そして二人とも汚れた手ぬぐいを鉢巻にしていて、がっしりしていて、体形も顔もよく似ていたから兄弟かもしれないと思いました。Tシャツの方がずっと年上に見えました。彼が袖を捲った縁から出た肩には、刺青の竜の鱗の一部が見えていたので僕は慌てて目を逸らしました。ランニングシャツの方は、もっと若くて高校生くらいに見えました。
母がカルピスを作ってコップに入れ、お盆に載せて、これ飲んでちょうだい、と言って二人に差し出すと、彼らはコップと母の顔を交互に凝視し、顎を突き出すようにして会釈をしました。そして、よく聞き取れない低い声でぼそぼそとお礼を言い、コップを受け取って一気に飲みました。
翌日の朝、十四歳の僕は転校生として教壇の前に立たされて、クラスメートたちに紹介されました。はい自己紹介、と担任の岡田先生にいきなり言われたので、イグチサトシです、よろしくお願いします、とだけ言いました。その何が面白かったのか全然わからなかったですが、クラスのあちこちからくすくすと笑いが漏れました。なんだか堪え切れなくて失笑している、といったふうの笑いでした。僕は落ち着かない気分になって、何とはなしに後ろを振り返りました。後ろには黒板に、先生によって大きく、変な角張りのある下手糞な字で、僕の名前が書かれているだけでした。僕が振り返ると笑い声はもっと大きくなった。それだけでもう、なんだかすごく嫌な予感がしました。
岡田先生は顔色が悪く、だらしなく腹が出た中年の男性教師で、社会科を担当していました。髪の毛には寝癖がついていて、ぼそぼそとしゃべる声は聞き取りにくく、授業中にどれだけ私語が飛び交っても全く注意しませんでした。授業中はひたすら黒板にチョークで、教科書に書いてあることをそのまま書いていました。釣りが趣味らしく、時々ふと、授業の流れと関係なく、この間はどこどこに行って何を釣った、という話を一方的にしました。生徒たちは誰一人としてその話に何の反応も示さないのに、先生はそれでも一向に構わないようでした。というより、そもそも生徒の反応というものに対して全然興味がない様子でした。向き合っているのが四十人の中学生だろうが、焼却炉だろうが、カウンター上のラーメンのどんぶりだろうが、彼は同じように話をしているだろうなと思えました。
その日の午前中の授業が終わって、僕が机の上の教科書を白い肩掛けカバンの中にしまったとき、まだ机の上に広げていたノートが、さっと取り上げられました。見ると、にやにやした笑みを浮かべながら、背の高い坊主頭の男子生徒が立っていました。彼は僕のノートを色々点検して、まっさらで何も書いていないと分かると、隣の机の上にそれを広げて、鉛筆で片方のページいっぱいに大きく、不格好なキュウリのような、細長い図形を描きました。僕が黙っていると、そいつは真顔になって、やあたい、やあたい、と二回繰り返して言いました。そしてまたにっと笑いました。僕は困惑しました。小学校三年で島に転校したばかりの頃、周りの子たちが使っている島の方言は全く耳慣れないものだったけど、それでも何となく意味はつかめました。でも今のこいつの言葉が何を意味するのか、全然分かりませんでした。こいつが僕と仲良くしたがっているのか、それとも喧嘩を売ろうとしているのかも分かりませんでした。でもいきなりノートに落書き、というのは、普通に考えたらやっぱりありえない。だとすると後者かな、と漠然と考えながらそいつを見ると、まだにやにやしながらこっちを見ています。そいつの目の中の瞳は妙に茶色がかっていて色が薄く、右目の眉の横には薄い傷跡がありました。僕は黙って筆箱から消しゴムを取り出し、そいつの目の前で細長い図形を何度も擦って消しました。そいつは僕がそれをしっかり消すのを見届けると、無言で、よっ、という感じで右手を挙げて、それから自分の席に戻って行きました。
僕の隣の席にはぼんやりした表情の女の子が座っていました。その子に僕は小声で、やあたいってなに?と訊いてみました。その子は困惑した表情で首を左右に振りました。女の子の後ろの席の、相撲取りみたいにごつい体格をした色黒の男が、やあたいは、蛇んこつよ、と教えてくれました。なるほど蛇の絵だったのか、と思いました。下手糞というより、絵の体をなしていない幼児の描き殴りでした。なら何でそれを僕のノートに?それは言わずもがな。挑発ってことでしょう。
午後の授業も終わったところで、またさっきの男が僕のところに来た。そしてまた僕のノートを手に取りました。僕は立ち上がって、そいつの手からノートをひったくりました。木村、やめや、と僕の斜め後ろの色黒のごつい奴がそいつに向かって言いました。木村と呼ばれた男は、へへ、と片側の口角を持ち上げた歪んだ笑みを作って僕の目を凝視しました。僕も睨み返しました。木村の色の薄い瞳の奥の感情を僕は読み取れませんでした。小学校の時、学校の中庭の檻で飼っていた猿そっくりの目でした。金網を叩くと飛びかかってきて牙を剥きだしにして金網を揺すっていた、あの猿の目。殴りかかってくるのだろうか?
そうはなりませんでした。木村を止めたごつい奴が、木村に笑いながら何か話しかけて、それで二人は親しげに教室を出て行ったからです。その日はそれで終わりました。
アトピーと喘息はかなり落ち着いてきていました。年に十回以上は出ていた喘息の発作が半分くらいに減ったし、アトピーの方もコぺ転直後の頃に比べると大分ましにはなっていました。皮膚科の病院の若い先生に、剣道はやめた方がいいかも、と言われて中学校で剣道を続けるのを断念しました。やはりどうしても汗まみれになるし、防具は蒸れるし、防具の裏にはカビが生えているから皮膚によくない、というのが理由でした。思えば、年に二回ある大会遠征の度に必ず喘息の発作が出ていたのも、泊まった旅館でやる枕投げが原因でした(発作が出なくなってから、あの時の枕投げが原因だった、と後で気がつきました)。剣道を諦めなければならなかったのは残念だったけれども、やめたことはやはり正しい選択だったのでしょう。
良くなってきたとはいえそれは痒みが減ったというだけで、瘡蓋は相変わらずでした。セロテープを乾燥した瘡蓋だらけの部分に貼って、ぺりっと引き剥がすと、痛みもなく乾ききった瘡蓋だけがテープに付いてきれいに取れて、すべすべの皮膚が出てきます。そこに軟膏を塗ると、一週間くらいきれいな皮膚の状態が維持でき、その後しばらくたつとまた皮膚の表面が乾いて瘡蓋が浮いてくるので同じことを繰り返します。このやり方はもちろん医者の先生に教わったわけではなくて自分で考えたものでした。
机の上に落ちた落屑をジャムの瓶に集めることは何となく続けていました。摺り胡麻みたいな色をした僕の皮が一杯詰まったジャムの瓶は四年間で三個。僕はそれを机の一番下の引き出しの一番奥に隠していました。僕はそれを時々取り出してはしげしげと眺めました。時にはそれを虫眼鏡や、父に買ってもらった子供用の顕微鏡で拡大して、心ゆくまで観察しもしました。瘡蓋には毛穴らしい穴が開いているものもありました。
K町に来て最初に困ったのは、町内唯一の中学校であるK中の制服を売っている店で制服を買おうとしたときです。僕のサイズに合う制服のズボンは、突っ張り(今でいうヤンキー)仕様、いわゆるボンタンという形態のズボンしかありませんでした。当時も今も、僕は特に太腿ががっちり太い体型です。いつだったか、飲み屋で隣合わせた知らない人から、あなた競輪選手でしょ、と言われたこともあるくらいです。で、ズボンがボンタンだし、合わせる上の学ランはこれにした方がよかですよ、と店の人が持ってきた学ランは、内側に派手な竜の刺繍がありました。もっと格好いいのもありますよ、K中の子には結構人気ですよ、などと言いながら店のご主人は他のも出してこようとしましたけれど、さすがに僕の両親がそれは断ってくれました。結局、学ランの上だけは普通のやつにしました。それでもボンタンのズボンは少々目立ちすぎる気がしました。自分は突っ張りです、と宣言するようなものです。
木村が初日からちょっかいを出してきたのは、転校生の僕が、いきなりボンタンのズボンを履いて登校してきたからかもしれない、と思い当たりました。ひょっとしたら口をきくきっかけを作って、僕を仲間にとりこむつもりだったのかもしれません。でももちろん、僕は突っ張り連中とつるむなんてことは一切考えなかった。粗暴で、何を考えているかわからなくて、尖った目つきで理由もなく人を威嚇してくるような連中に対しては、ひたすら嫌悪感しかありませんでした。
木村はちょっとした狂人で、クラスの後ろの壁に貼られたクラスメートの習字を気の向くままに破いたり、廊下にある掃除道具入れから箒を持ち出しては、意味もなく誰かに投げつけたりしていました。僕もやられそうになりましたが、やられませんでした。その頃の僕は木村より背は低かったけれど、剣道をやっていたおかげで腕や足の太さは相当なものだったし、五分刈りの坊主頭で、長年のアトピーで眉毛はすっかり抜けて、しかもアトピーで周囲の目を気にして、というか、ほとんど無意識に、向けられる視線を拒絶するようになっていたせいで、目つきが悪かったのです。そこにきてズボンはボンタン。つまり、一見むちゃくちゃガラの悪そうな外見になっていました。木村が正面切って僕に手を出してくることが無かったのは、たぶんそのためでしょう。僕自身、タイマンなら木村にまず負けることもないだろうとは思っていました。ナイフとか出されたら別ですが。
僕の斜め後ろのごつい奴は斉田という名前で、木村といつもつるんでいました。斉田は腕が丸太のように太く、いくら自信のある腕力でも、こいつには勝てそうもない、と一目で僕は悟りました。しかし、おっさんのように腹も出ていて、体重は僕よりずっとありそうで、俊敏さには欠けていそうでした。斉田は木村がキレても黙って見ていることが多かったけれど、あまりにエスカレートしそうなときは、笑いながら止めに入っていました。そういう時、木村はたまにいらいらして斉田に不満げな眼差しを向けるのですが、斉田はそれを全く気にしていないようでした。力関係では斉田の方が明らかに木村より上、すなわち、暴走したときの木村の腕力でも気合でも、斉田の腕力には到底敵わないということでしょう。斉田は木村を上手くコントロールしているようでした。
斉田と木村の他には、クラスでは仲吉という奴が彼らの仲間で、クラス内ではだいたいいつも三人でつるんでいました。仲吉はひょろりと痩せていて、威圧感というか、喧嘩が強そうな感じはしませんでした。しかし抜群に足が速くて、顔立ちも整っていて女子から人気があり、突っ張りの女子の代表格の三宅友子から、ねえ、なかよくしてよ、なかよし、などと軽口を叩かれては、くらっそ、と言いながら追いかけるなどしてじゃれ合っていました。仲吉は、斉田には絶対服従のようで、下から見上げるような態度で接していましたが、妙に木村を懐かせているところがあり、廊下でじゃれあって仲吉が木村の尻に蹴りを入れても、木村は笑っているのでした。
隣のクラスには今門という男がいて、時々、授業の合間の休み時間や昼休みに斉田たちのところに来ては、斉田の机に座ってぼそぼそと小声で話をしていました。逆に斉田や木村が仲吉が連れ立って教室を出ていくときは、大概は今門のところに行っていました。今門は斉田よりもさらに体格がよく、木村よりも背が高くて、百八十センチくらいに見えました。僕が驚いたのは、僕が家に引っ越ししてきた日、塀の補修に来ていたランニングシャツで頭にタオルの鉢巻をしていた男が、その今門だったことです。今門は僕をちらりと一瞥しても全く表情を変えませんでした。彼は斉田と話しているときなどに、たまにちょっと声を上げて笑いましたが、大体は無表情で、いつも気怠そうにしていました。
その頃には、僕もクラスの中の何人かとは喋るようになっていました。その中にキミちゃんという男子生徒がいて、クラスで最初に自分から話しかけてきてくれた彼と、僕はたちまち親しくなりました。キミちゃんは目がくりっとして、仲吉の次くらいに女子にも人気があり、おしゃべり好きでフレンドリーで、情報通でした。
今門はいわゆる番長で、斉田はその舎弟頭なのだとか、今門の勢力圏はK中のみならず、隣のM中にも及んでいて、M中の番長を任されている男が、毎週金曜日の放課後に、今門のところに上納金持参で挨拶に来るのだとか、K市内の暴走族の頭は斉田の五つ年上の兄なのだとか、キミちゃんは少し声を潜めながら詳しく教えてくれるのでした。それは、まるで漫画の中の世界のことのように思えました。木村や仲吉は、斉田の舎弟、つまり下っ端なのだけれど、木村は怒りのスイッチが入ると、時々周囲が手に負えなくなるキレ方をすることがあって、一度は斉田に歯向かって、半殺しにされたことがあるのだとか。他に、上級生にも下級生にも今門の舎弟がいて、大体二十人くらいのグループを作って学校を支配しているのだとか。今門の父親はK町で一番大きな土建屋の社長で、学校の補修工事とかも一手に請け負っている。今門の祖母は、県内で一番大きいヤクザ組織の組長の姉で、県警ともつながりがある。町長や町議会議員は今門一族の息がかかっている奴らばかり。今門一族のネットワークで収集した、県内で起こる揉め事や事件の情報をこまめに回して点数稼ぎさせることで地元警察とも、もちつもたれつなのだそう。その代わり、今門や彼の舎弟が時々無茶苦茶なことをしても簡単にもみ消してもらえるから問題にはならないとのこと。例えば木村は一年生の時、授業中、靴箱に放火して消防車が来る騒ぎになったらしいのですが、別に何かの処分を受けることもなく事件はうやむやになったそうです。また同じ昨年の冬、三年生の女子生徒が妊娠して学校を退学になるという騒ぎが起こりましたが、彼女を妊娠させたのは今門だという噂でした。これらは校内でひそひそと、しかし醜聞ではなくある種の武勇伝として話題にされていました。
先生たちは実際、今門のグループの誰かが、例えば校内で煙草を吸ったりしていても、全く注意しませんでした。岡田先生は、突っ張り連中が手を差し出せば黙って煙草を一本くれるとの噂だったし、他の先生も似たようなものでした。今門にしつこく注意する先生は校長や教育委員会から、何かあったらまずいから見てみないふりをするように、と諫められ、それでも止めない場合は、転勤させられるのだそうです。本人の安全のために、という理由で。
斉田が校庭の隅で煙草を吸っていて、そこに教頭先生がちょうど通りがかったのを、僕自身、たまたま少し離れたところから見たことがあります。教頭先生は足を止めて斉田に話しかけ、斉田もそれに答えていました。しかしその間、斉田は煙草を咥えたままだったし、教頭先生はにやにや笑っていました。二人は単なる世間話をしているようにしか見えませんでした。キミちゃんが言っていたことは本当だったんだな、と実感しました。
全く、当時のことを思い出すとため息がでます。ガラの悪い田舎の中学校だったけど、それなりに楽しかった、といつか君は言いましたね。それが君の健やかさを証明しています。どんな環境にあっても前向きに生きることができる強さが、君にはあります。
一学期の半ばくらいには、僕は、校内における自分の大体の安定した居場所を得ていました。斉田のグループに取り込まれなかったことで、キミちゃんをとっかかりとして、いわゆる普通の子たち(仲良くなってみると、屈託のない、純朴な連中ばかりでした)が、徐々に僕と言葉を交わしてくれるようになりました。しかも僕がいることで、彼らは、木村が不機嫌なときに唐突に仕掛けてくる意味不明の攻撃の被害に遭うことが減ったようでした。それは一見無差別攻撃のようにみえて、実は木村は絶対に反撃してこない相手を選んでいるのでした。そして奴は僕や、僕と一緒にいるときの友達に対しては暴力を仕掛けて来ませんでした。なるほど僕は防波堤の役割を期待されているんだ、と感じたものです。初対面の時、奪われたノートを僕が取り返さなかったら、そして、切られたメンチ、あの感情の読み取れない猿の目から僕が目を逸らしていたら、事態は全く違うものになっていたのでしょう。
K中の学力のレベルは県内で最低辺クラスでした。テストで零点とか五点とか取っている子もそんなに珍しくなかった島の中学校よりも、さらにもっと平均点が低かったのには驚きました。木村や斉田なんかテストの時間はいつも教室にいませんでした。キミちゃんも、授業中の態度は別にそんなに悪くなかったけれど、テストとなると、どの科目も、いつも平均して二十点くらいでした。その中にあって、僕は最初の定期テストの国語で学年でたった一人の満点を取ってしまい、それで否応なく目立ってしまいました。数は少ないもののクラスにも優等生たちはいて、僕は周囲からは、その優等生のグループの集合と、普通の子たちの集合の重なるポジションに位置づけられたようでした。おそらくは僕のいかつい見た目から、それまで僕と関わるのをあからさまに避けていたような優等生の子たちも、最初の定期テストの後からは僕に近づいてくれるようになりました。
優等生グループの中に福園瑞穂という女の子がいました。彼女は見るからに聡明そうな顔立ちをしていました。周囲の殺伐とした空気を吸収してたちまちに無害化してしまうような穏やかな表情をしていて、澄んでよく通る明るい声で喋りました。国語の時間、彼女が、横で木村が意味不明の独り言を喚いているのを全く気にしていない様子で、谷川俊太郎の詩を朗読するのを聞いたとき、その詩の内容も相まって、すごく格好いいと思ったものです。彼女はピアノも上手く、合唱祭の伴奏も彼女が担当していました。
僕の家の二件隣に胃腸科の医院があり、そこが瑞穂の家でした。向こうにはそのつもりは無かったのだろうけれど、僕の方は意識的に、帰りが彼女と一緒になるようにしていました。K中の女子の三分の一くらいは突っ張りで、引きずるような長いスカートを履いていたし、そうでない普通の女子は、なんだか息をひそめて目立たないようにしているようで存在感が薄かったのですが、そんな中で彼女はいつも全くの自然体で、ごくたまに木村や斉田なんかからちょっかいを出されても、柔らかな表情のままで軽くあしらって動じませんでした。僕はそんな凛とした彼女に素直な憧れを抱きました。休みの日に瑞穂の家の前を通ると、彼女がピアノを練習している音が聞こえました。モーツァルトのピアノソナタK三三三や三三四を彼女はよく練習していました。僕はピアノの音が聞こえてくる度に足を止めて聴き入ったものです。
ある雨の日、傘を差しながら並んで歩いた時に交わした、たわいない話の流れで、僕は瑞穂に、自分もK中に来る前にピアノを習っていた話をしました。島にいた五年間、ピアノを先生のところに週一回習いに行っていたこと。島の男子でピアノを習っているなんて僕一人で、それがどうにも恥ずかしくて堪らなかったこと、参観日に学校に来た母の不用心な一言から、ピアノを習っていることがクラスの連中にばれ、即座にお調子者の男子から、クラスの前で重大発表と声を張り上げられて指さされ、サトシはピアノを習ろちょっ、と告発されたこと、中一の時の発表会(会場は島に一つしかない市民文化ホールで、内輪の関係者しかこなくて、席はガラガラだった)ではシューベルトのイ短調ソナタⅮ七八四の一楽章を弾いたこと、バッハのインベンションとシンフォニアを半分くらいやったこと、転校してからはピアノはもうほとんど止めてしまっていること、などを話しました。
瑞穂はへぇー、へぇー、と言いながら僕の告白を聞いていました。でも、今話したことは内緒な、と僕が言うと、僕の目をじっと見て頷きました。そして、イグチくんがピアノ弾くのって、すごくいいね。と言いました。何で?と訊き返すと、似合ってないから、と瑞穂は答えました。僕がどう応えていいかわからず黙りこむと、似合わないってのはさ、別に悪い意味で言ったんじゃなかよ、何ていうか、意外性があって面白い、ってことよ、と瑞穂は言いました。そうか、と答えた僕の顔はアトピーのせいではなく、単純に赤くなっていたと思います。
でもやっぱりそのことはみんなには黙っといた方がよかね。猿みたいな奴とか変に絡んでくるだろうし。
そう瑞穂は言いました。おそらくは木村のことを、瑞穂も猿と表現したのが愉快でした。僕が、木村の目を見たときに、学校で飼っていた猿にそっくりだと思ったことを話したら、瑞穂は手を叩いて笑いました。
学校のピアノ、今度こっそり弾いてよ、私、聴きたいから。
どうかな、たぶん今は全然もう弾けない。練習さぼっているから。
なら、練習すればよかと。
そう言われてようやく、家にピアノがあるのに、引っ越ししてから一度もピアノの蓋を開けたことがないことを思い出しました。楽譜は段ボールに入れたままでした。
ぼんやりと記憶をたぐりながら、ふと、首の後ろに痒みを感じた僕は、手を伸ばしてそこを掻きました。
サトシくん、痒いの?
瑞穂に訊かれて、はっと我に返った僕は掻くのを止めた。顔が熱くなって汗が出ました。
なんか、ちょっと、無意識に。
血が出てる。
ああ。大丈夫。
塗り薬とか、ないの?
あるけど。
どれどれ、ちょっと見せて。
瑞穂は僕に向かって手を差し出しました。僕はポケットにいつも入れている軟膏のチューブを出して、彼女に渡しました。瑞穂の家は胃腸科だから、皮膚科の薬なんか知らないだろうと思いましたが、瑞穂はその小さなチューブを見て、ステロイドだね、と言いました。私の手、汚れてはいないから、と言いながら、彼女は軟膏を指先に出した。それから、じっとしててごらん、と言いながら、細い指で、僕の、首の後ろのがさがさした皮膚をそっと撫でるようにして薬を塗ってくれました。彼女の指の冷たい感触がくすぐったかったのをはっきり覚えています。僕は身じろぎしたくなるのを耐えました。居たたまれなさと恥ずかしさと、それに奥深いところで嬉しさが渦巻いていました。
靴箱が置かれた学校の正面玄関のホールの隅に,賞状やトロフィーが飾られた一角があり、そこに般若と、二種類の鬼の面が飾られていて、キミちゃんがそれをじっと見ていました。向こうからもこちらを凝視しているような、異様な迫力に満ちているその面の前には、持田義男謹製という文字が彫られたプレートが置かれていた。そういえばキミちゃんの名前は持田公男です。
学校にゆかりのあるプロの彫刻家の作品かと思いつつ、冗談のつもりで、これ、お前作ったとか、ってキミちゃんの背後から声をかけました。僕の方を振り返った彼は、おいが作ったわけなかがね、と眉を持ち上げてあきれた表情をつくりました。それから黙り込み、妙に寂しそうな顔をしました。
じゃ、持田って、お前ん父ちゃんか親戚か誰かや?と僕が訊くと、
これはおいの兄ちゃんが一年生の時に作ったと、とキミちゃんは言いました。
兄ちゃん、って、K中の?
キミちゃんには兄がいて、K中に在籍はしているが、ほとんど全くと言っていいほど学校には来ない、というのを誰かから聞いた覚えがありました。K中でドロップアウトする生徒は少なくないから、その時は、ああそうなのか、と思っただけでした。
お前の兄ちゃん、すごかとやね、と思わず僕は言いました。そのお面はどう見たって、中一の少年が作ったものとは信じられなかったのです。
うん、すごかと、小学生の頃からこげんと普通につくちょったし、とキミちゃんは言いました。
兄ちゃん、今どうしちょっと?学校あまり来んとって?
うん、兄ちゃんは学校はあまり好きじゃなかごとあって、まあしょんなかと。そいで、家で仏像とかお面とか彫っちょっと。そしてお店でそれ売っちょっとよ。そいが結構高かとにさ、でも買う人がずんばいおっとよ。わざわざ県外から来る人もおっとさ。じゃっでまあ、親父もね、兄ちゃんは一生この仕事でよか、じゃっで、お前は兄ちゃんの分も学校で頑張って勉強せえ、って言いよっとよ。おいなんだ勉強はいっちょん好かんのにそげん言われてもね。よか迷惑よ。
キミちゃんの話してくれたところによると、彼の年子の兄の義男は、小さいころから近所や親戚の間でも神童と言われていたのだとか。三歳か四歳くらいの頃にはもう、大人が描いたのかと間違われるような絵を描いていたらしい。ヨッちゃんは先生よりもずっとうまかね、と、幼稚園の先生からは褒められるというよりは呆れられ、時には気味悪がられさえしたとのこと。母親は、特段何かに秀でているということもないごく平凡な主婦でしたが、息子の能力がただ事ではないということははっきり理解できました。はじめのうち彼女は、息子が、職人として手先が器用だと言われていた父親の能力を早々と受け継いだのだろうと考えていました。しかしすぐにそうではないと分かりました。息子の能力は父親のそれとはまったく異質で、次元が違うものだったからです。
小学校の頃、キミちゃんの図画工作の宿題は、兄がいつも喜んでやってくれました。普通の子が一日がかりになるような水彩画の宿題など、十分もかからずに仕上げてしまう。しかもその絵は、これ、お父さんかお母さんが描いたんでしょ、一発でわかるわ、と先生に怒られるやら苦笑されるやらの見事な出来映えでした。まあ、そのおかげもあってか、キミちゃんの通知表はほとんどの科目が一か二だった中で、図画工作だけはいつも五だったそうです。
兄貴が手伝ってくれんかったら、まあ二か、良くて三やったやろね、とキミちゃんは自嘲的に笑いました。
ヨッちゃんが、学校を休みがちになってきたのは、小学校五年生の三学期くらいからだといいます。ヨッちゃんは図画工作に傑出した才能を持っているという点を除けば、普通の子供と変わった点は特にありませんでした。足はそんなに速くなく、成績も普通で、三がほとんど、四がちらほら、でも図画工作だけが常に五。何かをふと創りたくなると、瞬時にそれ以外のことを忘れてしまい寝食も忘れて没入する、というようなところは、確かにあったといいます。
例えば、公園で友達と缶蹴りをして遊んでいて、ふいっと途中で帰ってしまったりする。友達が家まで探しに来ると、ヨッちゃんは既に帰っていて、庭先で丸太に彫刻刀を走らせ、木彫りの鳥を作っている。何しちょっと?と問われると、さっき遊んでいたとき、近くの木に鳥がおってさ、と答える。そして友達が見ている目の前で見る見るうちに一羽の鳥が木の中から取り出されたみたいに、鮮やかに掘り出される。そんなことがヨッちゃんにはしばしばあったそうです。
友達は、ヨッちゃんは自分たちと変わらない子供だけれど、実は、生まれながらに果たすべき使命を与えられていて、それが木彫りでいろんなものを創り出すことなのだと、そのうち考えるようになりました。それは自発的にそう考えるようになったというよりもむしろ、周囲の大人たちがそういうようなことを言い、子供たちも何となくそれに納得した、というのが正確なところだったようですが。
そういう訳で、ヨッちゃんは別段、友達とのコミュニケーションがうまくいかない子供ではなかったけれども、友達たちから微妙に距離を置かれるようになりました。それは敬して遠ざける、というものではなくて、本当は一緒に遊びたいけれども、ヨッちゃんは天から任されている大事な仕事を優先しなければならない。だからみんなはそれを邪魔してはいけない、という配慮でした。ヨッちゃんの方では、そうやっていったん周りから距離を置かれてしまうと、寂しいというよりも、その方が自分にとって案外居心地がよいのだと気づいたようでした。
キミちゃんの家は仏壇工場と販売店とを経営していましたが、父親が、工場の隣の販売店の片隅に、ヨッちゃんの作品を展示し即売するスペースをつくったのは、ヨッちゃんが五年生になったばかりの頃でした。作品は当初、持田孝雄という、ヨッちゃんの父親の名前で販売されていましたが、すぐに持田義男の名前で売られるようになりました。ネットの存在しなかった時代にもかかわらず、まず近所で評判が立つと、次いで地元の商売人や趣味人が熱烈なファンとなって自分のコレクション用に、また贈答品としても購入し、そこから名士や資産家の顧客が増えるようになり、やがて県外からも注文が来るようになりました。そうして評判も値段もどんどん吊り上がったそうです。今まで売れたヨッちゃんの作品の中で、最も高値がついたのは一本の丸太から彫られた阿弥陀如来像で二百万円。如来のまとう衣のしわの一本一本までが精緻で、大人の彫り師の誰にも真似のできない完成度だったといいます。あれは五百万でも売れたどんね、しっけたよ、って後で悔しがってたけどね、とキミちゃんは言ってから、ちょっと声のトーンを落としました。
兄貴のおかげで突っ張りの連中にも絡まれんで済んどるしな。
何で?と僕が訊くと、今門の祖母に、ヨッちゃんがいたく気に入られて可愛がられているからだ、ということをキミちゃんは教えてくれました。今門の祖母は運転手付きのリムジンに乗って、キミちゃんの父親の経営する仏壇店のギャラリーを定期的に訪問するのだとか。ちなみに阿弥陀如来を二百万の現金で買ったのも彼女だといいます。一度、木村が遊び半分にキミちゃんの肩掛けカバンを校舎の窓から投げ捨てたとき、たまたまそれを通りかかった今門が目撃して激怒し、木村を校舎の窓から落としかけたのは有名な逸話です。両足首を掴まれて校舎の二階の窓の外に吊り下げられ、流石の木村も泣き喚いたといいます。
キミちゃんはそんな感じで、兄のことを淡々と語りました。その口調に嫉妬とか羨望は感じられません。ただ手の届かない高みにあるものへの遥かな憧れだけが、ひしひしと伝わってきました。今までキミちゃんが突っ張り連中のいじめの標的にされずに済んできたのは、一見強そうに見える僕と一緒にいるからだろう、と思っていたし、そのことを恩着せがましく聞こえないように注意しながらキミちゃんにほのめかしてみたこともありました。その時キミちゃんは、笑いながら黙って頷いた。しかし何のことはない、全く逆だったのだと分かって、僕はばつが悪い思いをしました。
今まで兄貴のことをこげん詳しく誰かに話したことはなかったどん、と言って、キミちゃんは河原に石を投げました。それは幅の広い川の真ん中よりちょっとあちらの岸に近い川面に落ち、トポンと音がしました。僕も石を一つ拾って投げました。石は川を越えて、葦の茂る向こう岸にまで飛んでいき、音はしませんでした。
入院のことは君には一度だけ話したんだっけ。何だかこの話題に触れたくない気がして、はっきりと話さなかった気がします。
中二の夏休みが始まるとすぐ東京の病院に入院しました。北品川にあったその病院は、いろんな難病、特にアレルギー体質が引き起こす病気を、絶食療法でことごとく完治させるのだという評判でした。病気を治すだけではなくて体質そのものを変えるのだという。祈祷師で懲りた僕の両親が、次に見つけてきた藁が、この絶食療法だったわけです。
この頃の僕のアトピーは、顔だけは幾分ましだったけれども(それは前に書いたように、表面の瘡蓋をセロテープで剥がして、その後に軟膏を塗るという姑息な方法を、こっそりずっと続けていたからだけど)、外から見えないところが酷かった。特に膝の裏とか、脇の下とか、陰部とかはかなり悲惨だった。落屑を収集しているジャムの瓶は五個目になっていました。
入院したのは四人の男部屋で、僕の他には、小学校五年生の洋太と、高校生二年生の浩一さん、そして骨董屋をしているという貞三さんでした。洋太は無口で、いつもつまらなさそうな顔で漫画を読んでいました。浩一さんは治療のために一年留年していて、整ったその顔立ちには、高校生に見えない知的で大人びた雰囲気がありました。貞三さんは七十くらいの白髪の老人で、柔和でいつも上機嫌でした。
僕の隣のベッドが貞三さんで、足元が洋太、その隣が浩一さんだった。貞三さんは肺の病気で三回目の入院だと言っていました。最初に話をしたのはその貞三さんで、どこから来たの、と向こうから話しかけてきてくれました。鹿児島です、と答えると、それはそれは、わざわざ遠くから大変でしたねぇ、私は浜松ですけど、鹿児島ほど遠くじゃありませんね、と言って、うんうんと自分の言葉に何度も頷きました。東京の年配の人は話し方がみんなこんな風に穏やかに紳士的というか、丁寧な喋り方をするものなのか、と思いました。貞三さんが僕に訊いたのは、最初の、この出身地のことだけで、その後は自分のことを問わず語りにずっと話し続けていました。曰く、自分は新潟出身で、子供の頃に神奈川に引っ越して、高校を卒業してからそろばんを作る会社に就職して、その時会社の事務員さんだった三つ下の女性と結婚して、その女性は会社の事務員になる前は議員さんの秘書をしていて、その議員さんというのが実は自分の父親の同級生だった、とか、子供が二人生まれて、長男は出来が良くて東大を出て今は電力会社に勤めていて、長女はというと、とんと勉強ができなくて若くでさっさと結婚して二年前に孫娘が生まれて、その孫娘は母親より父親によく似ていて、とかまあ、そんなこんなで色々あって、そのあとかくかくしかじかで、家族の反対を押し切って営業本部長にまでなっていた会社を辞めて、骨董屋を始めて、といったことを、淡々と、穏やかに。
貞三さんの話し方は何というか、耳に心地よいリズムがあって、延々としゃべられても、不思議と聞いていてあまり疲れることはありませんでした。他にすることもなかったし、僕は黙って、そして気が向いたときだけたまに、ふうん、へえ、と相槌を打ちながら聞いていました。実のところ大して集中する訳でもなく、大半を聞き流していたので、貞三さんの自分史の山場であろうところの、サラリーマンを辞めて天職と信じる骨董屋になったいきさつをうっかり聞きそびれてしまいました。もちろん貞三さんは克明に話してくれたはずだったろうけれど。
長い話の後で、だから人生なんて、先のことはわからないし予測もつかないけれど、とにかく何でもまじめにやってりゃそこそこ上手くいくんですよ、と貞三さんは言いました。それが貞三さんが骨董屋で成功した経験から導き出した教訓であり、僕に伝えたかったことなのでしょう。正直、なんだ、つまらない、と思いました。しかし、聞き逃した一番肝心なところだけは聞いてみたかった気がします。でももちろん、そこのところだけもう一回、話してくださいなどと頼もうとは思いませんでした。
貞三じいさんは僕が入院した三日後に退院しました。娘さん夫婦が孫娘を連れて迎えに来ていました。二歳の孫娘に向かって手を振ってバイバイをしてみたら、彼女は僕の方を一瞬じっと見てからバイバイを返してくれました。貞三じいさんが、おお、おお、えらいねえ、と嬉しそうに言いながら、僕の方を振り返り、孫娘と同じようにバイバイ、と手を振りました。つられて僕も貞三じいさんにもバイバイをしました。
貞三じいさんのベッドが空いても、そこに新しく入ってくる人はおらず、三人部屋となりました。
部屋一番のおしゃべりだった貞三じいさんがいなくなると、病室は途端に静かになりました。小児ネフローゼで入院している洋太は、基本的に一人でいるときは黙りこくっていたし、なにやら難しい名の、よくわからない免疫系の病気で入院している浩一さんは、看護師さんとはよく軽口をたたき合っていたけれど、洋太や僕にはあまり関心がないらしく、話しかけてくることもなく、いつもラジオにイヤホンを繋げて音楽を聴いていました。僕も母にラジオを差し入れてもらっていたので、浩一さんと同じようにイヤホンでラジオのFM放送を聴いてばかりいました。多く聴くのはクラシック番組で、たまに歌謡曲なども聴きました。ある日僕がストラビンスキーの春の祭典を聴いているときにイヤホンが抜けて、病室内に音が響いたことがありました。ちょうど曲の山場のところで、尖ったリズムに乗ってフル・オーケストラの不協和音が叩きつけられるように奏されているところでした。僕はすぐイヤホンを繋ぎなおし、すみません、と謝りました。洋太は顔をしかめて僕を睨み、浩一さんは、なにそれ、サトシ君変わった音楽聴いてるね、と呆れたように言いました。浩一さんはいつもどんなのを聴いてるんですか、と僕が訊くと、彼は洋太の方をちらっと見てボリュームのつまみを調整してから、自分のラジカセからイヤホンを抜きました。
犬か、何かもっと何か小さな動物の悲しげな遠吠えみたいな音が聴こえてきました。荒涼とした灰色の大地がどこまでも続いている、そんな光景が目に浮かんびます。ピンクフロイド。エコーズって曲だよ、と浩一さんは教えてくれました。僕に変わった音楽を聴いていると言う割には、浩一さんもずいぶんと不思議な音楽を聴いているな、と思いました。僕はその後浩一さんからピンクフロイドやレッドツェッペリンやキングクリムゾンなどを教えてもらい、ラジオの番組表をチェックして、それらのミュージシャンの曲がオンエアされるときは必ず聴くようになりました。
病院は、東洋医学に基づいた治療を掲げていました。食事も自然食です。肉類は摂らず、野菜類は完全無農薬の有機栽培のものだけ。メニューは主食が玄米か、真っ黒で酸っぱい百パーセントのライ麦パン、おかずは大豆のグルテンミートによるハンバーグや炒め物、たまに目刺しを焼いたもの。小松菜百パーセントのジュース。これがほぼ毎日のメニュー。小松菜ジュースは青臭く、吐き気を堪えながら少しづつ飲んだものです。洋太は小松菜ジュースはこっそり捨てているようでした。浩一さんは鼻をつまんで一気に飲んでいました。
貞三さんが退院した日の夜、消灯してからしばらくして、くそじじいが、と不意に呟く声がして、僕は一瞬ぎょっとしました。呟き声はさらに、さっさとくたばれっての、と続いた。それが僕が初めて耳にした洋太の声でした。そういうこと言うのは良くないねえ、と浩一さんがこちらも独り言のように呟くと、関係ねえんじゃくそったれ、と洋太が毒づくように、挑戦的に言い返しました。今、誰に向かって言ったの、それ?と浩一さんが落ち着いた声で言うと、独り言、と洋太は返しました。はははっ、と浩一さんが笑う声が聞こえました。僕が黙っていると、サトシ君、貞三さんの病気、本人から聞いた?という浩一さんの声が聞こえたので、いや、聞いてません、と答えると、あの人末期のガンで、あちこち転移してるから、たぶん今回が最後の入院だよ、と教えてくれました。ここの絶食療法はガンにもよく効くんだってさ。あの人、いつも絶食するのは三日間だけだけどね。
僕は貞三じいさんのことが嫌いではなかったので、末期ガンと聞いてショックでした。それを知って洋太の態度には余計に怒りを感じたけれど黙っていました。こんなにも人を嘲るような口の利き方をする小学生が東京にはいるのか、と呆れました。木村や今門たちとは、臭いも肌触りも全く違うけれど、同じく殺伐とした風がここにも吹いている。洋太と浩一さんの出身地がどこなのか僕は知らなかったけれど、喋り方からして二人とも東京なのだろう、と思いました。
僕の両親は、僕の入院の手続きを終え、仕事のためにいったん鹿児島に帰っていたし、浩一さんのところにも両親や知り合いがお見舞いに来ているところを僕は見たことがありませんでした。でも洋太のお母さんは割と頻繁に、息子のお見舞いに来ていました。たまには洋太のベッドに寝て一緒に泊まることもありました。洋太はお母さんが来ると、いつもの生意気さが少し影をひそめるようで、彼女の耳元に顔を寄せて、ひそひそと喋り、時には年齢相応の子どもらしい声で、くすくす笑ったりもしました。たまに我儘を言ってお母さんを困らせてもいるようで、洋太のベッドサイドで彼女が嘆息するのが聞こえてくることもありました。そんな時も洋太が何を言っているのかは聞こえなかったし、洋太がお母さんとの会話を他人に聞かれるのをすごく嫌がっているのは分かっていたから、浩一さんも僕も、洋太のお母さんが来ているときは、なるべくイヤホンを装着してラジオで音楽を聴くようにしていました。
洋太のお母さんはすらりとしていて、まだお姉さんと言ってもいいくらいに若く見えました。いつも濃い目の化粧をしていて、甘い香水の匂いがしていました。彼女が来た時、洋太が昼寝していることが時々あって、そういう時、彼女は洋太のベッドサイドに座ったまま、洋太が起きるまで、よく浩一さんとお喋りをしていました。僕はイヤホンでラジオを聴くこともあったし、特に聞きたい番組が無いときなどは黙って二人の会話を聞いていることもありました。この子難しいの、とか、お父さんいないし、とか、手に負えない、などと、お母さんが浩一さんに向かって言っているのが時々聞こえて、洋太のところは母子家庭らしいことを僕は知りました。浩一さんは、いやいや可愛いじゃないですか、とか、僕がちゃんと見とくから大丈夫ですよ、とか答えていました。そんな会話の中で、たまに、洋太のお母さんと浩一さん会話が聞き取りにくくなることがありました。ちらりと見ると、二人とも顔を近づけて声を潜めてしゃべっているのでした。何か際どいことを話しているような気がしました。そういう気配がしたときは、僕は訊きたい番組があるなしに関係なく、イヤホンをつけてなるべく二人の会話を聞かないようにしました。
少し寝苦しかったある夜のこと。僕はうとうととしながら、痒くなった陰嚢を、パンツに右手を突っ込んでぼりぼりと搔いていました。不意に、搔いている僕のその右手を、誰かのひんやりとした柔らかい手がそっと掴んで、パンツから引っ張り出し、僕の身体の脇に置きました。そして僕の右手の甲を軽く、しかししばらくじっと押してから手を離しました。ふっと香水のいい匂いがしました。僕は目を閉じたままで、ゆっくりとした呼吸のリズムも乱さなかったけれど、洋太のお母さんだと分かっていました。羞恥で顔が熱くなりました。陰嚢のじんじんとした痒みはまだ残っていましたが、僕はそっと手を伸ばして掻きたくなるのを我慢しながら寝ているふりを続けました。
彼女はいつも午後三時過ぎくらいに洋太のところに来て、一時間くらいしたら帰るのですが、その日は、午後いつもの時間に来て、もう一度、夜の消灯時間を過ぎてから来ていたのでした。今日は泊まりに来たか、何か忘れ物でも取りにきたのだろうと僕は思いました。
洋太はいびきをかいて熟睡していました。洋太のお母さんは洋太のベッドを素通りして浩一さんのベッドサイドに行きました。
ごめんなさい、と囁くような浩一さんの声が聞こえ、次いで、しーっという密やかな洋太のお母さんの声が聞こえたような気がしました。それからそっとティッシュペーパーを三枚取る音、それに続いて、微かに擦れるような、規則的な音がしました。数分後、浩一さんの声が小さく短く、何度か聞こえました。普段の浩一さんからは想像できない、すすり泣くような奇妙な声でした。二人が一体何をしているのかはっきりとは分かりませんでしたが、詮索してはいけないことだということだけは強く感じました。そういえば洋太のお母さんが前回泊まったときも、彼女と浩一さんの間で同じようなことがあったことを思い出しました。僕は寝返りを打ちました。洋太のお母さんが部屋を出ていってからも、僕はその日はうまく寝付くことができませんでした。ずいぶん時間が経って、部屋に薄明るさが満ちてきたなと感じ、それから僕は木の上に上りました。両手をいっぱいに拡げても幹がつかめないほど太い大きなガジュマルの木でした。蔓が垂れ下がっていたので、それを掴んでどこまでも上りました。てっぺんまで登り切ったところで、僕はその太い幹に密生していた蔓がいつの間にかすっかり落ちてしまって、幹がつるつるしていることに気がつきました。見えないくらい遠い地上に向かって、誰か助けて、降りられないから助けて、と僕は叫びました。
入院して一週間後から、食事の量が減らされていきました。絶食の準備のためです。三日かけて徐々に量を減らし、内容も主食が玄米やライ麦パンから重湯に変わり、おかずも無くなって梅干しだけになりました。小松菜ジュースは相変わらず飲まされていました。きつかったのは準備期四日と回復期四日、絶食二週間を入れての合計二十日間のうち、準備期の四日間と絶食を開始して六日間の、合計十日間にわたる毎日の浣腸でした。それも二リットルものぬるま湯をイルリガートルで肛門から注入されるのです。夕方になると看護師さんがガラガラと音を立てて、その浣腸用のタンクがぶら下がった点滴スタンドをベッドサイドに運んできて、ベッドとベッドの間のカーテンをシュッと閉めました。そして僕にパンツを下げさせ、横を向いて寝たまま足を曲げて、口を開けるように、と言いました。僕が言われた通りにすると、看護師さんは身をかがめて僕の尻を注意深く覗き込み、点滴スタンドのタンクから伸びた管の端っこの、ワセリンを塗った嘴を僕の肛門にすべりこませて、管を挟んでいたクリップを外します。
下腹部の内側に生暖かいぬるま湯が流れ込んでくるのがわかります。腹がだんだん張ってきて苦しくなり、うんこを我慢している感覚が強くなってきます。タンクを見上げると、中の液体はまだ半分近くも残っていて、看護師さんは僕の我慢を紛らわそうとしてか、さっきはラジオで何聴いてたの、とか話しかけてきます。僕は顔を歪めながら、ビリー・ジョエルのピアノマンです、と答えます。あら、私もピアノマン大好き、と看護師さんは嬉しそうに答え、もう限界というぎりぎりのところで、はい、全部入った、頑張った、という言葉とともに、僕の肛門から嘴を引き抜いて、ティッシュで押さえます。僕はのろのろと起き上がり、パンツを上げ、漏らさないように必死で肛門の括約筋を閉めながら病室の外に出ます。看護師さんがついて来ます。廊下を突っ切ってトイレに入り、個室のドアを閉めてパンツを下げて、座ったのと同時に、シャーッとぬるま湯が便器に排泄されていきます。十秒くらいはそんな感じが続き、その後はいきむ毎にシャッとシャッと音がして、お湯がお尻から噴き出し続けます。嫌なのは、全部出し切ったところで、一度、看護師さんのチェックをしてもらわないと流してはいけない決まりになっていることです。僕はお尻を拭き、立ち上がって、便器に溜まったものをチェックしてもらいます。
便器に溜まる初日のそれは真っ黒くて、固形物の便が浮いていて、腐ったようなひどい臭いがしたけれど、二日目、三日目、と日を追うにつれ、茶色、黄色、とだんだん色が薄くなり、臭いも薄れてきました。四日目にはきれいな透明なぬるま湯しか出なくなりました。そしてようやく絶食開始。とはいえ水はたくさん飲まされます。エビオスというビール酵母から出来ている整腸薬の錠剤も昼に十錠飲みました。そして二週間の絶食です。
絶食を開始したばかりの頃は比較的平気でした。だが三日目、四日目と続くにつれ、食べ物のことしか考えられなくなります。看護師さんが貸してくれる女性雑誌に掲載されている飲食店の紹介コーナーの写真付き記事や、料理のレシピを読み漁りました。絶食が終わって退院したらお祝いに食べたいものリスト、とかを作って、家から持ってきた落書きノートに書き込んでいきました。それはたちまち二ページ、三ページと増えていきました。
絶食の期間は患者の年齢や体力や、その他いろいろな事情によって決められているようで、洋太は一週間、浩一さんは二十日間も頑張っていました。絶食前半の連続浣腸という試練が待ち受けているのは僕も彼らも一緒。浩平さんのベッドの閉められたカーテンの向こうからは、田野倉さんっていくつ?という、看護師さんに話しかけている浩一さんの快活な声が聞こえました。田野倉さんは看護師さんの中で一番の美人で、高校時代に駅伝部で全国大会にも出たことがあるという、ちょっと目立っていた人でした。二十歳です、と答える田野倉さんのちょっとはにかんだような、それでいて喜んでいるような声が聞こえました。
え、そうなの?俺と二つしか変わらないじゃん、なのにこっちは浣腸されてばっかり、田野倉さんは浣腸してばっかり。これってひどいと思わない。たまには交代しようよ。
いやいや遠慮します。これは仕事ですから。
大人しく浣腸されるのが俺の仕事ってことね。
そうそう、諦めて。
お尻を丸出しにした無防備な姿勢のまま、よく平気で田野倉さんとそんな屈託のない会話を楽しんで、笑っていられるものだと、僕は感嘆せずにはいられません。田野倉さんと浩一さんとがあまり仲良くなってほしくはないけど、でも浩一さんなら仕方ないか、美男と美女だし釣り合っているかも、とも思いました。
浩一さんは、色白でメリハリのある顔立ちをしていて、欧米人とのハーフのように見えました。浩一さんは看護師さんたちの間で絶大な人気がありました。浣腸しに来た新顔の看護師さんから、え、君ひょっとしてハーフ?と訊かれていたこともありました。浩一さんはいやいや、純日本人です、と答えてから、浣腸ごちそうさまでした、お腹ぱんぱんです、と威勢よく言って相手を笑わせていました。
絶食の期間中でもベッドに寝てばかりいると筋力が落ちてしまうので、時々廊下を歩いていました。絶食十日目、ふらつく足で僕はナースステーションまで歩いて行きました。すっかり顔なじみになった若い看護師さんが白い粉を秤で軽量していた。何してるの?と僕が訊くと、石鹸の粉を量ってるのよ、という答えが返ってきた。そんなにたくさん石鹸を何に使うのだろうと思いながら作業を見ていると、これで浣腸液をつくるのよ、と彼女は教えてくれた。浣腸液って石鹸水なんだ、なんで石鹸水をお腹に入れるとうんこが出るんだろうか、と思ったところまでは憶えています。そこから記憶が途切れ、気がついたらベッドに戻っていました。君はさっき貧血でぶっ倒れたのよ、でもそのあと起き上がって、大丈夫です、って言って平気そうな顔をして歩いて戻っていったの、とあとで看護師さんが教えてくれました。
絶食が終わると、回復期に移行しました。最初は水みたいな重湯だけ。そこから徐々にお粥の米粒の量が増えていき、三日目からはグルテンミートのおかずが復活し、その翌日からは小松菜ジュースも再開されました。そしてその日の午後にはまた不意打ちのように浣腸。僕が浣腸されている最中に洋太のお母さんがお見舞いに来ていたらしく、看護師さんがカーテンが開いて出ていくときに、僕は丸出しのお尻を見られてしまい、急いでパンツを上げたけれど間に合わなくて、こちらを一瞥した洋太のお母さんがくすりと笑って目を逸らしたのが分かりました。僕はその日は彼女が帰るまで、彼女の方を見ることができず、カーテンを閉め忘れていった看護師さんを心底恨みました。
二週間の絶食で僕の体重は七十四キロから四十九キロまで、二十五キロ落ちました。久しぶりに見舞いに来た母と父は、僕の姿を見て絶句していました。手首なんか、反対の手の親指と中指で輪をつくって、全然指に触れないで握れるほど細くなっていました。ズボンもゆるゆるで、ボンタンじゃないストレートのズボンを余裕で履けるようになりました。
回復期を終えても、失った筋力は戻りませんでした。そして僕のアトピーと喘息はというと、喘息の発作の回数がわずかに減り、アトピーも気のせいかなと思う程度に寛解しただけで完治はしませんでした。縋ったものは結局また藁に過ぎなかったという、これまでの治療よりも一段と苦い失望が残りました。
夏休みが終わるぎりぎりのところで、僕は退院しました。洋太と浩一さんはまだ退院できないようでした。当日、僕の両親が迎えに来たときには、洋太のお母さんも来ていました。僕の両親が洋太のお母さんに挨拶すると、洋太の母親は、サトシ君に洋太が本当によくしていただいて、と礼を言って深々と頭を下げました。洋太は一瞬頬を歪め、嘲笑するような表情を浮かべて、ふん、と鼻を鳴らしました。洋太のお母さんは一瞬困ったような表情を浮かべてから、すぐに笑顔にりました。僕の両親も並んで洋太のお母さんに頭を下げ、こちらこそ、サトシがお世話になりありがとうございました、と型どおりの挨拶をしました。
浩一さんはイヤホンをしたまま頭の下に腕を組んで、ベッドの上の虚空を眺めながら横になっていましたが、僕の両親がそのベッドサイドに行って頭を下げると、上体を起こしてイヤホンを耳から抜いた。サトシ君とお別れするのは寂しいですけど、ありがとうございました、サトシ君、はやく完全に良くなるといいですね、と言って、浩一さんは神妙な表情で頭を下げました。それから僕の方を見て、にやりと微笑みながら、親指を立てた右手を、ぐいと突き出しました。余裕のある大人という感じがして、何だかすごく格好良かったのを憶えています。
退院後の学校生活に対して、僕は焦燥に似た不安を覚えていましたが、その不安は、退院し、二学期が始まった途端に現実のものになりました。
母は毎日自然食の弁当を持たせてくれました。擦りゴマをふりかけた玄米、昆布とシイタケと厚揚げと根菜類の煮しめ。小松菜のお浸し。これまで弁当にしょっちゅう入っていた揚げ物や肉類、添加物の多く入った加工食品は一切無しになりました。素材は毎日自然食品専門店で買ったもの。入院日も相当な高額だったし、その後の生活費も、ことに食費や、肌着などの衣類など、費用はどんどんかかり、僕の一家は生活に困窮するようになっていきました。父と母は親戚に頭を下げて、生活費を借金で賄っている様子でした。
二学期になって登校した僕の容貌が著しく変化していたことに、クラスメートたちは一様に驚いていました。瑞穂は、サトシ君スマートになって格好いい、前よりも足が長く見えるよ、と言ってくれたけれど、それが困惑を打ち消そうとしてのお世辞でしかないことは、彼女の目を見ていれば分かりました。マッチョ体型だった僕は、見る影もなく痩せさらばえていました。目は落ちくぼみ、肩幅も胸の厚みも大きく減り、足は膝の関節ばかりが目立つ箒のような無様な形になり、ズボンはベルトを締めると腹のあたりで巾着を絞ったような皴が寄り、簡単にずり下がるありさまでした。
体力もさっぱり戻りません。僕の上腕は力こぶも作れないほどに筋肉を失っていました。放課後、誰もいない校庭の隅の鉄棒で懸垂を試みて、僕は絶望しました。一年生のときに八回連続で出来ていた懸垂が一回も出来なくなっていました。
最もショックだったのは一番仲の良かったキミちゃんが転校したことを瑞穂から聞かされたことでした。仏壇屋を経営していた彼の父親が、取引先を通して知り合った詐欺師から大金を騙し取られた上に借金を負わされて失踪し、キミちゃんは母親と兄と一緒に母方の親戚を頼って引っ越して行ったのでした。引っ越し先は誰も知らされていませんでした。ヨッちゃんが彫った般若と鬼の面は変わらずロビーに飾られていました。
木村や今門は、変貌した僕の姿を見て最初ぎょっとした表情をし、それから次の瞬間には笑みを浮かべました。
それまで僕は彼らから直接的な暴力を加えられたことは一度もありませんでした。でも、その日、早速、僕は廊下で仲吉に後ろから足を引っかけられて転倒しました。それがスタートの合図だったようです。
斉田が休み時間に僕の所に来て、退院祝いやっどね、と言いました。放課後、焼却炉んとこにけえよ、と。僕は彼らの言葉を無視してその日は瑞穂と一緒に帰りました。
翌日の昼休み、僕が食べ終わった弁当箱を片付けてようとしていると、木村がやってきて手を伸ばし、机の上から空になった弁当箱を払い落としました。僕は木村を睨みつけました。木村は薄笑いを浮かべ、例の、猿の目でじっと僕を見ていました。僕はすぐに目を逸らし、黙って床に落ちた弁当箱を拾ってハンカチで包み、肩掛けカバンに入れました。
その日の放課後、今門が校門のところで僕を待ち構えていました。彼は、僕に向かって、よっ、久しぶり、と片手を上げた。僕は黙って通り過ぎます。背中で、わや、昨日呼ばれちょって何で来んかった、と今門の声がしました。僕は黙ったまま、歩調を変えずにそこを立ち去ろうとしました。右の肩甲骨の内側あたりにどんと殴られたような衝撃がありました。それまで僕は気がつかなかったのだけど、右後ろを振り返ると仲吉がそこに立っていて、さらにその後ろに今門がいました。今門が僕に向かって仲吉を突き飛ばしたのだとわかりました。僕が右手を背中に伸ばすと、背中に長い釘が刺さっていました。僕は釘を引き抜いて、靴箱の方に向かって投げ捨てました。その時になって初めて焼ける痛みが背中に生じ、シャツが濡れてくるのを感じました。何すっとか、と僕が言うと、ちょっとぶつかっただけでよ、と仲吉は言った。その声は少し狼狽していました。危なかどが、お前らちゃんと注意せんかこら、と後ろから今門の、笑い声交じりの声がしました。
帰宅すると家には誰もいませんでした。僕は鍵を開けて家に入り、シャツを脱ぎました。シャツは背中に貼りついていて、それを剥すと鋭い痛みが走りました。直径三センチくらいの赤茶色の丸い血の円ができていて、その円の中心にぽつんと穴が開いていました。僕はシャツを石鹸で洗いました。血の染みは薄くはなったが取れませんでした。
その後、そのシャツがどうなったのかを僕は憶えていません。母からそのシャツの染みについて何か訊かれた記憶もありません。ひょっとしたら、アトピーで痒くなって掻いていたら血が出て汚れた、とか何とか言ってごまかしたのかもしれませんが、そこは憶えていません。
そこからの二学期は、ひたすら時が過ぎてゆくのを待つだけの毎日でした。連中は僕を付け狙い、先生の目さえも気にとめなくなりました。休み時間の廊下で、今門を中心とした連中に僕が取り囲まれているところに担任の先生が通り過ぎたことがありました。その時、今門は僕の肩を抱いて、さも親し気な笑みを浮かべながら、なあ、と言いました。先生は、お、楽しくやっちょお、と白々しい台詞を吐いて通り過ぎました。先生の姿が廊下の曲がり角の向こうに消えると、今門は、笑いながらまた、なあ、と先生の口調を真似て言い、僕の脇腹に右フックを思い切り打ち込みましだ。息が吸えなくなり、僕はその場に倒れて悶絶しました。
担任の岡田先生は、休み時間のチャイムが鳴るなり今門がクラスに入ってきて僕に絡み始めているのを目の当たりにしても、生徒同士の揉め事には一切関知しない、とばかりに眠そうな目をして俯いたまま職員室に戻っていくばかりでした。他の先生たちも、僕がやられているところを少なからず目撃した筈でしたが、どの先生も判で押したように見て見ぬふりをしました。教頭先生でさえ、面倒事は見えないところでやってくれ、という風に眉をひそめて黙って通り過ぎるばかりでした。
今門にヘッドロックをかけられ、木村に教科書を破かれ、ノートにぐちゃぐちゃの落書きをされ、斉田にはおふざけを装って思い切り殴られました。仲吉には蹴りを側頭部に入れられて失神しかけました。顔面にパンチを受けると鼻の奥がツンとして、地べたを這うというよりむしろ一瞬空を飛ぶような感覚になるのだと知りました。もはや歩くサンドバックです。放課後もほぼ毎日、今門たちに待ち伏せされました。それはもう勤勉といってもいいほどに。彼らにとって、、それは純粋なレクリエーションだったのでしょう。金銭を要求されることが無かったのだけは救いでした。彼らはただひたすらに暴力で痛めつけることを楽しんでいました。それもとことんやるのではなく、一回の襲撃で一発か二発だけお見舞いしてくる。僕の気力の鎧を、少しずつ、外側から削いでいくように。
僕は一切やり返しませんでした。いや、やり返せなかったという方が正確でしょう。やり返しても無駄、それどころかさらに状況を悪化させるだけだと分かっていました。懸垂が一回も出来ない腕で、どうして暴力をはねのけられるでしょうか。ナイフでも使えば一矢報いることはできるでしょうが、そこでもう僕の人生は終わりです。僕にできることといえば、殴られるときに無駄な抵抗をしたり避けたりせず、なるべくパンチ一発目で素直に倒れることくらいです。そうすればたまに追加の蹴りが一発来ることはあっても、少なくともパンチの二発目、三発目は免れます。パンチや蹴りをどうしても避けたいならば、なるべく連中の視界に入らないよう常に気を配って比較的安全な場所か、目立たない場所のどちらかに移動して、そこで息を殺してやり過ごすしかありません。一番確実な避難場所は校長室の前で、そこに居る時は、さすがの突っ張りたちも、僕を殴りつけたり、力づくで拉致しようと試みることはしません。もちろん情けなくて悔しくてどうしようもありませんでしたが、生き延びるためには仕方がありません。昼休みや放課後すぐの時間帯は、校長室のドアの外に所在なく立つことが増えました。そんな時はいつも、突っ張り連中のスパイが数人、ちょっと離れたところから僕を見張っていました。時々、通りかかった先生から、お前なんでそこにぼーっと立っとるとや、はよ教室戻らんか、と追い立てられることもありました。そういう場合は、素早く校長室の隣か、その反対側のトイレに移動します。猫に狙われているネズミのように僕は逃げ場所を常に探していました。トイレに籠って鍵をかけると、上から雑巾を投げ込まれたりするリスクはあるものの、直接的な暴力は一応避けられるので外にいるよりは安全でした。トイレに逃げる途中で捕まったら、物陰に引きずっていかれて殴られ蹴られてボコボコにされます。あらかじめ行動を読まれてトイレのドアの前に数人がかりで待ち伏せされていることもありました。彼らは狩猟ゲームを心から楽しんでいる様子でした。
十一月に入った頃から、学校が終わると、瑞穂がさりげなく僕と一緒に帰宅してくれるようになりました。連中は靴箱のところでほぼ毎日、僕を待ち伏せしていましたが、瑞穂と一緒にいるときは、何故か手出しをしてこないのでした。別に待ち合わせをしている訳でもなく、自然にそうなる風を装って、彼女はどこからか現れ、さりげなく僕に付き添ってくれました。そんな時、斉田や今門は聞えよがしに忌々しげに舌打ちをしました。瑞穂と僕とはただ並んで歩くだけで、会話はほとんど交わしませんでした。彼女に守ってもらっていることは屈辱でしたが、無力な僕は、瑞穂の好意にすがる他どうしようもありません。ただ、瑞穂も毎日僕に付き添ってくれる訳ではなく、週に一日か二日は気まぐれに女の子仲間との帰宅を優先して、僕の保護者の役割を放棄しました。そういう時は 僕は自力でその場をしのぐことになりました。とはいえ、そういう時は大概、走って逃げる、という最も情けない方法しか選択肢がありませんでした。元々足の速さには自信があったのですが、絶食療法を受けてからは足の筋肉に全く力が入らず、以前の走力は完全に失われていました。
逃げ切りに失敗して、斉田にローキックの回し蹴りを思い切りやられて脛がパンパンに腫れあがった日の夜、僕はテレビで動物番組を観ました。
追い詰められた一頭のバッファローを三頭の雌ライオンが狩る残酷なシーンが映し出されていました。バッファローは一頭のライオンに鼻筋に食いつかれていました。その態勢のまま両者は動かず、ほとんど抱き合うようにしてじっとしていました。しかしよく見るとメスライオンはバッファローに体重を預けてぶら下がり、バッファローの方は足を踏ん張ってひたすら耐えているのです。ライオンたちは獲物を一気に仕留めようとはしませんでした。バッファローが鼻筋をずっと噛まれている間に、残りの二頭のライオンが、それぞれ首筋と尻に嚙みつきます。しかしその二頭はあまりやる気がないかのように、すぐに身体を離して攻撃を中断し、よそ見をしてあらぬ方向に視線を投げる。そのうち鼻筋担当のライオンも何だか興味を失ったかのように獲物から離れ、バッファローもそのチャンスに逃げようとするでもなく、ただじっと何か考えこんでいるかのように動かずにその場に立っています。少ししてからライオンたちは攻撃を再開します。背後から一頭のライオンがバッファローの尻を噛み、もう一頭が後ろ脚を噛み、そこでバッファローが振り返ると、さっき鼻に噛みついていたライオンが、再び鼻に噛みついてぶら下がる。鼻は血まみれでした。三頭のライオンはしばらくするとまた身体を離した。そして少し休んでから仕切りなおして、それぞれ担当部位の鼻筋、尻、後ろ脚にまた同じようにしてかじりつく。そんなことを繰り返し、バッファローが倒れたのは五回目に鼻に噛みつかれた時でした。バッファローは、もういいよ分かったよ、という風に、ゆっくりと地上に倒れました。すかさず、尻に噛みついていた雌ライオンが、今度は喉に食いつき、バッファローに添い寝をするように、その態勢のまま二頭はじっと動かなくなりました。
僕が心を締め付けられたのは、襲われているバッファローが角を振りかざそうとも逃げようともせず、ただひすらじっと耐え続け、完全に無抵抗だったにもかかわらず、五回もの攻撃の間、地面に倒れることを拒否していたことでした。あれなら最初から地面に倒れていればそれだけ早くとどめを刺してもらえた筈で、それだけ早く楽になれたでしょう。
それは自分の姿でした。
いずれ僕は動けなくなって倒される。それでも倒れるまで耐え続けなくてはならないのだろうか、と僕はぼんやり考えました。僕にまだ腕力があった時は、そしてキミちゃんがいた時は、突っ張りの連中はこんなことはしませんでした。必要なのは腕力か、権力。そのどちらかです。そのどちらも持たないものはどこまでも蹂躙されるのです。僕に権力は無い。ならば腕力を取り戻すしかありません。それまではひたすら耐えるか逃げる。どんなに情けなく卑屈であろうとも、倒れないでいるための方法はそれしかありませんでした。
父と母は僕が学校でそういう目に遭っていることを、当時、知ることはなかったはずです。絶対に知られてはならないと、僕の方でも思っていたし、知られないように隠していました。釘で刺された一件以来、凶器で直接怪我を負わされるということはありませんでしたが、木村に後頭部に石を投げつけられて出血したことと、今門に殴られて鼻血を出したことが一回ずつありました。後頭部の怪我は、鉄棒で遊んでいて落ちたことにし、鼻血のときは、鼻くそをほじりすぎたのだと母には言いました。
二学期の終わり近かったある日のことでした。その日、瑞穂はどこか不機嫌そうで、先に一人で帰ってしまっていました。
僕は校門を出たところで、いつものように待ち構えていた木村と斉田によって背中から突き倒され、路上に這いつくばりました。肘を擦りむいただけです。まだ大したことありません。僕は黙って立ち上がって、肘の傷に唾をつけて歩き出しました。瑞穂が僕の百メートルくらい先を歩いている姿が見えました。僕がやられたことに、彼女は気がついてはいないようでした。いやひょっとしたら気がついていたでしょうか。わかりません。再び背後から攻撃が加えられることを覚悟しながら、僕は奴らの方を振り返らずに歩いきました。瑞穂にも振り向かないでほしかったし、もちろん瑞穂に追いつくために歩調を速めることもしませんでした。彼女に話しかけたくなかったし、彼女から笑顔を向けてもらいたくなかったのです。しかし瑞穂の姿が見えていたせいだろうか、木村たちはその日はそれ以上仕掛けてきませんでした。
その日、家に帰りついた僕は、傷を台所で洗って、部屋の隅に積み重ねた段ボール箱の上に置いてあった赤い薬箱から取り出したオロナインを塗って絆創膏を貼りました。
薬箱の下にあった段ボール箱にはマジックで本、楽譜その他、と書いてありました。血が滲んだ絆創膏をぼんやり見つめていて、ふと、僕のピアノを聴いてみたいと言った瑞穂の言葉を思い出しました。
段ボール箱のガムテープを剥して開けてみました。中にはピアノの楽譜が入っていました。僕はその楽譜の中からハノンとツェルニー四十番の練習曲の楽譜を選んで取り出しました。ピアノの蓋を開け、譜面台に楽譜を置き、椅子に座って鍵盤に手を伸ばしました。
夜、消音ヘッドフォンを装着してピアノを弾きます。もし僕の人生にピアノが無かったら、たぶん僕はどこかで踏み外して、そこから戻らず糸の切れた凧みたいにどこかに消えて、今、こうしていることなどなかったんじゃないかと思います。そして、君の言葉が無ければ、僕はピアノを再開していなかった。そういう意味でも、君は僕の人生の恩人ですね。
段ボール箱から楽譜を引っ張り出したその日から、僕は独学でピアノの練習を再開しました。そして、以前の自分と比べると全く想像もつかないほどにピアノに熱中するようになりました。先生に新しくつけてもらうことはありませんでした。K町にはピアノ教室が無かったし、個人レッスンを引き受けてくれる先生もいなかったからです。両親は、僕がピアノを再開したことに対しては特に何も言いませんでした。
一年のブランクは大きく、最初は指がもつれたりすべったりして惨憺たる状態でしたが、勘はすぐに戻りました。身体には絶食二週間のダメージが依然として残っていましたが、僕の指は小学生の頃よりも強くなっていました。以前は弾けなかったパッセージが楽に弾けることに自分でも驚きました。ツェルニーの四十番練習曲、五十番練習曲、バッハのインベンションとシンフォニア。それらを僕はただひたすら繰り返し弾きました。最初はゆっくり片手ずつ、それからゆっくりと両手で。それからテンポを少しずつ上げ、タッチを変え、リズムに付点をつけて。そしてまたゆっくりと両手で。さらにひっかかるところだけを抜き出して、一小節ずつ徹底的に部分練習。バッハをやるときは、旋律と対旋律、和声の関係を細かく確認しながら練習しました。一つの曲を二回連続して通してノーミスで弾けて、それが自分で納得できる出来だったら先に進みました。
僕がピアノと出会ったのは、まだ島に引っ越す前、六歳の時です。その前年、自宅の近くにピアノ教室ができて、そこに隣に住んでいた郁子姉ちゃんが通い始めました。郁子姉ちゃんは僕の二つ上で、僕のことを実の弟のようにかわいがってくれました。郁子姉ちゃんは学校から帰ってから自宅のアップライトピアノで毎日練習をしていました。僕も姉ちゃんの家の縁側に腰かけ、彼女の練習を聴くのが日課になっていました。まじめで優等生な彼女は上達が速く、赤バイエルからあっという間に黄バイエルになり、二年でソナチネアルバムを弾くようになりました。郁子姉ちゃんの弾くクレメンティのソナチネに僕は魅了されました。綾取りのように旋律が変化しながら繰り返されて、リズムがあって、和声があります。音が響き合いながら空気をいろんな色に染めます。起承転結があって、徐々に盛り上がって、元気な和音で気持ちよく終わる物語を、さらさらと紡ぐ白い指。おっとりして泣き虫の普段の姿からはまるで別人のように、郁子姉ちゃんは大人っぽく見えました。
僕は母親に、郁子姉ちゃんが通っているピアノ教室に自分も通いたいと頼みました。家にはピアノがないから駄目、と母からは却下されましたが、なおも僕は頑強に頼みました。練習は郁子姉ちゃんの家のピアノを借りる、と主張しました。しかも、それを母に言う前に、僕は子供なりに一計を案じて、郁子姉ちゃんに先に頼んでいたのです。郁子姉ちゃんのお母さんが、サトシくんもうちで練習していいですよ、と母にわざわざ言いに来てくれました。さすがにそれは、と母も恐縮し、父に相談してとうとう一人息子のためにアップライトピアノを買ってくれました。ピアノは、最初から最後まで一人で何でもできる夢のような楽器でした。
郁子ねえちゃんと一緒に、僕は念願のピアノ教室に通うようになりました。とにかく郁子姉ちゃんに追いつきたかった僕は、子供らしい愚直さで、先生から教えられた通りに練習しました。目標通り、僕は郁子姉ちゃんを上回る速さで上達しました。翌年、小学校の三年生で島に引っ越したとにきには、ちょうどソナチネアルバムに入ったところでした。父の同僚でもある島の高校の音楽の先生が、僕のピアノのレッスンを引き継いで、週に一回、家に教えに来てくれることになりました。
島にやってきた転校生の男子の家にはピアノがあって、彼はそれを弾いている。噂は、たちまち同級生の間に広がりました。当時、島の小学生でピアノを習っているなんて子供はごく珍しかったし。それが男子とくればもう大ニュースです。クラスのガキ大将だった嶺村修一が早速、休み時間に教卓の前に立って、重大発表、と叫んでクラス中の注目を集めたうえで、おい、みんな知っちょっか、サトシはピアノを習っちょっちよ!と大々的に発表しました。担任の留山先生は、お前、男んくせにピアノどん習ちょっちか、と相撲取りみたいな身体をのけ反らせて呆れた顔をしました。この、男んくせに、という先生の口から出た言葉は、その後、クラスメートの男子の大半から僕に向かって繰り返し投げつけられました。僕はそのとき初めて、ピアノを習っていることは、男として恥ずかしいことなのだ、と思い知ったのです。男の子は野球とか、剣道とか、柔道をやるのが当たり前だし、そうするべきなのだと。ピアノには女性しか触れてはいけないのだと。毎週自宅までピアノを教えに来てくれる永田先生は若くて美人で話が面白かったし、その時に母がお茶と一緒にお菓子を出してくれるのもうれしかった。だから、胸の内に一気に膨れ上がった、ピアノはもうやめる、という一言を口に出すことは最後までしませんでしたが、ピアノへの情熱は確実に冷めていきました。小学校四年生でソナチネアルバムを終わり、五年生でツェルニーの四十番練習曲集に入ったけれど、その三番で躓き、全然先に進めなくなりました。ツェルニーは無味乾燥でとにかくつまらなかった。同じ頃、亀くんに誘われて、剣道スポーツ少年団に入り、僕の情熱のはけ口はたちまちそちらに振り向けられました。
ピアノの先生が、転勤によって内地へ引っ越してしまったのは、僕が中学校に入学する直前でした。僕は、それをきっかけに、六年間習っていたピアノをとうとうやめてしまいました。その後、島からK町に引っ越すとき、両親はピアノの処分を検討したようでしたが、色々と思うところがあったのでしょう。結局K町の職員住宅に運びました。しかしそれ以来、家のピアノは黒くて邪魔なだけの、単なる大きな箱になっていました。
再開してから、僕は毎日、最低二時間はピアノに向かいました。島での発表会で弾いたシューベルトのイ短調ソナタと、それに加えて、途中まで習っていたベートーヴェンのピアノソナタの第三番の一楽章を、僕はまた練習し始めました。木村や斉田たちはさすがに家まで押しかけてくることは無かったし、僕のピアノを聴きたい、と言ってくれた瑞穂の言葉は、常に僕の心の中にありました。
たとえ独学ではあっても、練習すればするほど、少しづつ確実に上達していることを実感できました。それに、ピアノに集中している時だけは、痒みの発作が起りませんでした。
二学期の半ばを過ぎた頃には、アトピーは完全に以前の状態に戻っていました。絶食療法が僕にもたらしたのはいじめだけだったということになります。
時と場所を選ばず、腕や足の関節の内側や首筋、背中、腹部などに、ちくちくした痛みにも似た痒みが、夏のにわか雨のように突然襲ってきます。体育の授業で鉄棒にぶら下がると、手のひらがうずうずし始めます。
痒みの発作に襲われたとき、僕はまず一旦は我慢します。その時可能なら水で冷やすし、軟膏を持っていたら塗る。もちろん、姑息な努力など無駄だと分かっています。そんなことで痒みは収まりはしません。やがて限界がきて耐えきれずに掻いてしまうと、その瞬間に意志の力など、もうきれいさっぱり吹き飛んでしまい、全てが暴走し始めるのです。痒みは狂ったように亢進し、掻いた部分にみるみるうちに赤いみみずばれと丘疹が生じます。その上から軟膏を塗っても、もう痒みは止まらない。押し寄せてくる暴力的な痒みをやみくもに払いのけるように掻き、とうとう崩れて血液とリンパ液の混ざった汁が出てくるころになって、猛烈な痒みもようやく少しづつ落ち着き、擦り傷のような痛みにとって代わります。痛みを我慢するのはまだ楽で、そこはやがて瘡蓋になります。瘡蓋が白く枯れて浮き上がってくるとセロテープを貼り付けて剥します。てらてら光る、滑らかな皮膚が現れます。そこにまた軟膏を塗りたくる。皮膚は赤っぽくなって落ち着き、次の痒みの発作が起こるまでの短い安息が訪れます。
不思議なことに、僕の身体に現れる症状は、左右が対称になっていました。例えば右手の親指の付け根が痒くなると、左手の同じ部位に同じ症状が出ます。そして、一か所に症状が強く出た時に、その部分の症状をステロイド軟膏で抑えると、別の部分に症状が出ます。もぐら叩きです。
顔以外の部分の瘡蓋を溜めたジャムの瓶は五年間で五個目が一杯になりました。新しい瓶が机の引き出しに入りきらなくなって、五個目以降の瘡蓋集めは、もうやめていました。
軟膏のステロイドは、その薬理効果によって、〈弱い〉〈普通〉〈強い〉〈とても強い〉〈最も強い〉と、五つのランクがある、ということを、皮膚科の親切な先生が僕に丁寧に教えてくれました。効果と副作用は正比例します。強ければ劇的に効く代わりに、それに見合った副作用がセットでついてきます。塗っている個所の皮膚に色素が沈着します。顔なら毛細血管が拡張して赤ら顔になるし、目に近い皮膚に塗れば緑内障になります。体幹に大量に塗ったり、内服を続ければ副腎委縮をきたす恐れもあります。しかも、効果がだんだん薄れてくると、より強い段階のステロイドを使わないと効かなくなってくるのです。そして何より怖いのは、一度使い始めるとやめられなくなることです。副腎皮質ホルモンを外部から供給された副腎は、自分でホルモンをつくるのを怠けるようになるのです。そのため急に供給がストップすると対応できずにリバウンドという現象が起こります。すなわち、爆発的に症状が悪化するのです。だから、いったんステロイドに依存するようになると、そこから急に離脱するのは極めて困難です。
僕は、顔には〈弱い〉から〈普通〉、体幹や手足には〈強い〉、あるいは〈とても強い〉のステロイドを処方され使い始めました。でも、あんまり酷いときは、僕は顔にもこっそり〈強い〉の段階のものを使っていました。
ステロイドは確かに、魔法のように効きました。しかししばらくすると副作用で、〈強い〉〈とても強い〉ステロイドを毎日塗っている首と、肘の内側に薄黒く色素が沈着してきました。皮膚も硬くなってきて、所々小皴ができ、そこだけなんだか老人の皮膚のように見えました。顔も酒焼けしたおじさんの皮膚のように、微妙に赤っぽくなりました。
ちなみに、還暦を過ぎた今でも、僕は一部の人たちからやれ酒飲みだのと揶揄われたり、スポーツマンでいつも日焼けしているだのと感心されたりします。これを長年使い続けたステロイドの副作用だといちいち説明するのは面倒くさいので、大体の場合、曖昧な笑みとともに頷いて誤魔化すことにしています。ステロイドから僕が解放されたのは、インドネシア大学付属病院で処方された分子標的薬の自己注射の特効薬が使えるようになってからのこと。しかしこれだってアトピーを治す訳ではありません。症状が出ないように抑えるだけ。アトピーは治らないのです。その薬は一生打ち続ける必要があるし、費用も高額です。いつまでも打てる薬ではありません。経済的に、あるいは状況的に、この注射を打つことが不可能になったら、その時はステロイドに戻らざるを得ないでしょう。だがそれももう必要ない気がします。注射を打てなくなるころには、僕はアルツハイマ―のおかげで、もう色んなことがどうでもよくなっているだろうから。
アトピーに振り回される生活は変わらなかったけれど、体力の方は徐々に回復してきました。二十四キロ落ちた体重も半分くらい戻りました。ゆるゆるになって買い替えたズボンもきつくなってきて、また新しいものに買い替えてもらいました。まだボンタンではなかったけれど、次の上のサイズはもうボンタンしかないとお店の人から言われました。退院してからすぐに始めた毎日の腕立て伏せは、はじめは十回がやっとだったけれど、やがて軽く五十回できるまでになり、懸垂はなんとか三回できるようになっていました。
ピアノも順調でした。筋力が戻ると、音とリズムが安定し、脱力しながら芯のある音を出すことも容易になりました。指は早いパッセージでも、滑ったりもつれたりしなくなりました。重音トリルがいつの間にか弾けるようになっていました。オクターブの連続を脱力して高速で弾けるようになりました。
自宅でバッハの平均律とショパンの木枯らしのエチュードを練習していたのを、外をたまたま通りかかった瑞穂が聴いていたらしく、翌日、瑞穂に話しかけられました。
昨日、サトシくんのピアノ聴いたの。もうびっくりして、じっと一時間くらい道端に立って聴いちゃってた。何で、木枯らしとかあんな風にちゃんと弾けるの?サトシくんはピアノ始めたの小二の終わりからって言ってたよね。ということは六年目くらいでしょ。私は四歳からピアノ習ってるから、もう十年目。なのに、まだ平均律もベートーヴェンも全然うまく弾けないよ。
瑞穂はそう言って、下唇を突き出して顔をしかめました。ベートーベンの顔真似のつもりだろうか。僕は思わず笑いました。
いや、平均律もベートーベンもめちゃくちゃ難しいよ。僕だって、ちゃんと弾けてる自信なんてこれっぽっちもない。大体、先生にもついてない。ショパンのエチュードだって、ただ自分勝手に弾いてるだけ。
自己流って、余計にすごいよ。
瑞穂はそう言って、今度は心底呆れた、という顔をしました。
早く帰ってピアノを弾こうと思いながら、その日も僕は教室を出ました。冬の空はどんより曇っていました。瑞穂はしばらく前から、女の子同士でつるんで先に帰るようになっていました。
校門の外に例によって今門と斉田と仲吉が立っていました。仲吉が僕の前に立ちふさがりました。
瑞穂はおらんとな。
仲吉が言いました。
うるせえが、と僕は精一杯の虚勢を張ります。声が震えているのが自分でもわかりました。
ねえ、お前のぶつぶつ、何それ?
お前に関係なかろうが。
お前はぶつぶつお化けやっが、と仲吉は言った。お化け、と面と向かって言われたのは初めてでした。僕は黙っていました。お化け、と仲吉はまた繰り返しました。それから今度は、化け物やっど、と言い換えました。斉田と今門がにやつきながら、後ろで腕組みをして立っていました。
僕は右手で仲吉の左腕を掴んで、黙れ、と言いました。仲吉はにやにや笑いを引っ込め、化け物が何すっとか、ぶつぶつがうつるから触んな、気色悪か、と言いました。
僕は左手で仲吉のシャツの右肩を鷲掴みにして引っ張りながら、右手を全力で捻りました。仲吉の身体は思ったよりずっと軽く、彼は簡単に崩れました。シャツが破れる音がしました。叩きつけられるようにして地面に倒れた仲吉は、何も言わずに黙って僕を見上げました。その目には驚きの色がありました。僕の中で未知の衝動が瞬間的に沸騰しました。僕は仲吉の左の脇腹を強く蹴りました。ぐおっ、と気持ち悪い声を上げて、仲吉は蹴られた方を下にして横向きになりエビのように身体を曲げました。今度はその横顔を思い切り踏みましだ。空気の抜けかけたサッカーボールを踏んだような、柔らかい嫌な感触がありました。仲吉は失神したのか、動かなくなり、声も出しません。
おい、と言ったまま絶句している斉田に背を向けて、僕は倒れている仲吉をそのままにして帰宅しました。もう何もかもどうなろうと知るものか、と思いました。
翌日、仲吉はちゃんと登校してきました。彼の顔の右半分には、僕の靴底の形そのままの赤黒い痣が、おぞましいほどくっきりと刻まれていて、一瞬ぞっとしました。仲吉の顔を見たクラスメートたちが僕を見る目には明らかに怯えがありました。その日の休み時間、僕は誰からも話しかけられませんでした。例によって担任の先生も何も言いませんでした。ただ一人、三宅友子が、あんた、ひどいよ、と僕に言ってきました。あの傷消えないかもよ、と抗議する口調で言いながら、彼女は泣いていました。
うるさい、と僕は出来るだけ冷たい声で言いました。それから、お前に言われる筋合いはない、と付け加えて、三宅友子の目を睨みました。三宅友子は目を逸らし、逃げるように離れていきました。
それから僕は立ち上がって仲吉の机の横に立ちました。形だけでも一言だけ謝罪の言葉を口に出してみようかと思ったのです。彼は黙って横を向き、僕の目を見ようとしませんでした。彼が完全に僕に屈服しているのがわかりました。それならば謝罪は必要ありません。僕は何も言わずに自分の机に戻りました。
斉田が休み時間に耳打ちしてきて、仲吉は失神して病院に運ばれたけれども、今門が親父に連絡してあちこち手をまわしてもらったから警察沙汰にはならなかった、と言いました。感謝せえよ、と言われましたが、知るか、と答えました。釘で背中を刺されたことと、僕が怪我をさせたことと、仲吉についてはこれであいこだ、と思いました。僕の方がいくらか酷いかもしれない。でも謝る必要などないと思いました。
それからふと、釘を刺したのも、昨日僕に化け物と言ったことも、ひょっとして斉田や今門に命令されて、仲吉は無理やりやらされていたのではないか、とも思いました。ならばこいつは加害者であると同時に被害者でもあるのだろう、と。しかしやはり、もしそうだとしても同情する気は全く起きませんでした。僕は高揚していました。自分に腕力が戻っていたことが単純に嬉しかったのです。僕はもう殺されるまで黙って立っているバッファローではありません。斉田や今門が直接僕にアトピーのことで何か言って絡んできたら、今度は仲吉みたいに中途半端に済ませずに、今までの借りを返すという意味で、もっと徹底的にやってやろうとさえ思いました。もしやられたとしても構わない。その時はまたやり返す。一対一ならば勝機はあるだろう、と。
放課後、いつも靴箱周辺でたむろしている斉田や木村や仲吉の姿はありませんでした。代わりに、瑞穂が待ってくれていました。僕と彼女は久しぶりに二人並んで帰り道を歩きました。瑞穂は黙っていました。
仲吉のことは、別に悪いことしたなんて思ってない、と僕は自分から瑞穂に言いました。
そう、でも仲吉君のあの顔、酷かったよ。
そう言って瑞穂は黙りました。
うん。と僕は答えました。ちょっとやりすぎたかも。殺さなくてよかった。
大勢で仕返しされるかも。
そうなったら逃げるよ。いや、反撃するかな。わからない。
でもまあ、手を出してきたのは仲吉たちなんだしね。分かってる。仕方ないか。
瑞穂はそう言って、それから、男の子ってやっぱり大変だよねえ、女子も色々あるけどさ、と付け加えて、笑いました。
仲吉の痣はそれから一週間以上も取れませんでした。木村も斉田も今門も、意外なことに何も仕掛けてきませんでした。数日後、僕の両親が学校に呼ばれ、両親と校長、教頭、担任の先生の前で、僕は問われるままに、仲吉の顔に靴跡を刻印したのが自分であることを認めました。
アトピーのことでしつこくからかわれたのでやりました、と僕は言いました。
アトピーって何?君の、その顔のぶつぶつのこと?と教頭先生が興味なさそうな声で訊いてきました。僕は教頭先生の目を睨み、質問には答えませんでした。
仲吉くんのところに謝りに行った?と岡田先生。
いいえ、と僕。
行かないの?
はい。
僕がそう答えると同時に、父が僕の頭をはたいて言いました。
謝りに行かせます。
教頭先生は意外なほどに、僕がやった行為について、あれこれ咎めるようなことを言いませんでした。ただ、一応、学校としては、形だけでも責任は取ってもらいます、と言いました。そして僕は転校することになりました。父も転勤願いを出し、翌年にはK町の高校を転出することになりました。自分が生まれて初めて他者に対して暴力を行使し、その代償を、転校という形で支払うことになったことに対して、僕は微塵の後悔も感じていませんでした。暴力をふるうことは間違っています。当然です。瑞穂の表情にも確かに非難の色がありました。でも僕は自分が取った行動に納得していました。もちろん、爽快な気分ではありませんでした。仲吉の顔を踏んだ時の感触を思い出すと、自分の内臓が誰かの見えない手によって圧迫されるような嫌な気分になりました。でもそれでいい、と。僕は倒れるまでライオンに弄ばれるバッファローの役割を拒否しただけなのですから。
転校できることは嬉しかった。ただ瑞穂に、道端に立ってでなく、家の中で、きちんとシューベルトのイ短調ピアノソナタを聴いてもらえなかったことだけが残念でした。瑞穂の凛とした顔に続いて、首の後ろに軟膏を塗ってくれたときの、あの柔らかな手の感触を思い出しました。
仲吉の家には、結局謝罪に行きませんでした。
今僕は、食卓のテーブルの上に置いたパソコンでこれを書いています。かつて僕がこんな風にパソコンをいじっているとき、傍らで君は、よく仕事の本を読んでいましたね。君はいつでも地に足をしっかりつけていました。そして君の足元の大地はどっしりと安定し揺るぎなかった。僕はどうでしょうか。僕の足元はいつもぬかるんでいたり吊り橋を渡っていたり、という気がします。ほら、恐怖の報酬、という映画があったでしょう。早稲田松竹で一緒に観たのを憶えていますか。ニトログリセリンの入った木箱をボロボロのトラックで運ぶ、あれです。いつ何時すべてが終わるんじゃないかという思いは心の底に常にあります。ただそれは僕にとってはさして恐怖ではありません。むしろ諦観に近いです。ニトロでも、アルツハイマ―でも、どのみち結果は同じですから。
三年生の春から、三番目の中学校に通い始めました。学校は、県庁所在都市の郊外にありました。島やK町とは違い、ずいぶんと拓けていて都会に感じられました。
新しいT中学校には思っていたよりもすぐに馴染むことができました。K町のように荒んだ暴力の空気を纏った生徒はほとんど見当たりませんでした。クラス全体の雰囲気も和気藹々としていました。ストレスが減ったせいか、アトピーも目に見えて寛解しました。ちょっと顔が赤い程度で、一見するとあまり普通の生徒と変わらなくなりました。肘や膝の裏側は、あまり酷くならないようにステロイド軟膏を塗っていましが、その量もだいぶ減らすことができました。
T中に通い始めてすぐに親しくなったのは久保山という眼鏡をかけた長身の生真面目な生徒でした。彼は、詰襟の学生服のホックを一番上まできちんとかけていて、髪もきちんと櫛を入れて七三に分けていました。優等生を絵に描いたようななりでしたが、成績は中の上で、僕の方が彼より上でした。彼は自分からたわいもないことを話しかけてきてくれては、何やかやと世話を焼いてくれました。Yは不良だから近づかない方がいいとか、M君の父親は県会議員だから彼には覚えをよくしておいた方がよいとか。彼のアドヴァイスは正直ピンとこないものが多かったように思います。彼は僕に趣味や特技をしつこく訊いてきましたが、自分のことはほとんど話しませんでした。あれこれ質問してくる割に、彼が僕に格別興味を持っている訳でもなさそうなのも腑に落ちませんでした。しばらくすると僕には、彼が、僕に対する不満を押し殺しながら、無理をして接してくれているような気がしてきました。例えば、僕が、愛読していたガロの漫画や筒井康隆の文庫本を彼に貸すと、翌日には、これ、気持ち悪いし中学生向きじゃないね。と言って最後まで読まずに返してくるのです。中学生向きじゃない、という言葉に僕は衝撃を受けました。中学生向きだから、と言って渡されたものなど一瞥もせずにゴミ箱に放り込むのが普通で、中学生向きでないものこそを選んで求めるのが中学生ではないか? アトピーコンプレックスのせいで自分はひねくれていて、久保山君が正しいのかもしれない。都会の中学生はそういう品行方正さを持っていて当然なのかもしれない、とも思いました。でも、僕はそういう久保山君が鬱陶しくなってきて、そのうち僕の方から少しずつ距離を取るようになりました。休み時間に彼が僕の方に近づいて来ようとする姿が目に入るなりトイレに行ったり、彼が振ってきた話題に、気乗りしない態度をあらわにして、ことさらに無気力そうな相槌を打ったりしました。
ある日、彼は僕に、もう君とは付き合えない、と突然宣言してきました。それから付け加えました。君の転校の経緯がK中学校から事細かに連絡がなされていて、同級生に暴力を振るって怪我を負わせた問題児と報告されているのだと。学級委員長だった彼は、担任の先生から、そういう訳ありの転校生がやってくるから、クラスに無事溶け込むように注意深くサポートしてあげなさい、と頼まれていたのだと教えてくれました。僕の態度は逐一担任に報告していたとも。なんだ、そういうことか、と僕は笑いました。君が仕方なく僕の友達という役割を引き受けてくれていたのは知ってたよ、と僕は返しました。でも大丈夫、僕はここで変な問題を起こしたりなんかしない、と付け加えました。
僕も君とは合わないって思いながら無理していたんだよ、先生から命令されてたからね、学級委員長としては逆らう訳にいかないしさ、と久保山君は言って笑いました。学級委員長というのは先生の忠実な部下なの? と訊くと久保山君は笑って答えませんでした。次の日から久保山君は見事なほどに態度を切り替えて、僕を完全に無視するようになりました。
その次に僕が親しくなったのは久保山君が、近づくべきではないと一番最初に名前を挙げて忠告してくれた不良のY君こと、安岡でした。安岡は眉が濃く精悍な顔立ちをしていました。引き締まった身体で身のこなしが軽く、髪はリーゼントで決めていて、お洒落でありながら肉食獣の野性味を漂わせていました。女子に人気があったのは当然でしょう。安岡が僕を気に入ってくれたのは、僕の転校の経緯を知って興味を持ったからかもしれません。僕が前の中学校でやったことは、どうやらクラスの同級生にも知れ渡っているようでした。久保山君は担任から口止めされていたはずなのに、やはり黙っていられなかったのでしょう。でもそのことについてどうこう言うつもりもありませんでした。僕が仲吉を酷い目にあわせたのは事実だし、その行為について恥じてもいませんでしたから。
安岡は無免許で乗り回していた改造バイクの後ろに僕をよく乗せてくれました。無論二人ともノーヘルです。安岡は僕に酒と煙草を教えてくれました。酒はビールとウィスキー(サントリーのホワイトかレッド)で、煙草はハイライト。ハイライトはすぐにやめました。直感的に、喘息によくないと感じたからです。
その日の放課後、僕は安岡の友人たち(僕以外の連中はばりばりの突っ張りでした。僕はズボンだけがK中の時から履いていたボンタンで、上は普通の学ランという、つまり下半分だけ突っ張りという何とも滑稽でちぐはぐな恰好でした)のたまり場になっていた安岡の祖母の家に向かいました。安岡から誘われていたからです。その日は誰も他には来ていませんでした。ちりちりのパーマをかけた安岡のばあちゃんは友達と旅行に行っていて不在でした。安岡は冷蔵庫から瓶ビールを持ってきて栓を抜いて、僕のコップに注いでくれました。僕も安岡から瓶を受け取り、彼のコップに注ぎました。乾杯すると、安岡が僕に言いました。
サトシは女、知ってるの?
僕は何のことかよくわからず訊き返した。女って誰のこと?
誰とかじゃなくて、やったことあるかってこと。
僕は安岡の言葉の意味が分かって驚いて言いました。ないない。あるわけない。僕はセックスについての表面的知識は人並には仕入れていましたが、実習が全く伴っていませんでした。すなわちセックスの予行演習である自慰行為さえやったことがありませんでした。僕がそのことを正直に告白すると、安岡はぽかんとした顔をしました。そして部屋の引き出しから一冊の本を出して、ほらよ、と医者が処方箋を渡すみたいに僕に差し出しました。それは洋モノのバリバリのハードコアポルノで、ページをめくるとそこにはさまざまな体位で絡み合う男女の写真や、ほとんど解剖学的と形容してもよい克明な性器のアップや、大小さまざまなディルドゥが、カタログのような即物的そっけなさで陳列されていました。僕は絶句して凝視しました。セックスとは、つまり男女の性器が具体的にどういう風に出会って結合するのか、生まれて初めて僕はその正確な事実を知りました。いや、頭では既に知っていたのだから、確認したというべきでしょう。そしてその単純明快さに打ちのめされました。
これ、持って帰っていいから。お前は大事な勉強が足りねえよ。
安岡にそう言われて持たされたポルノ雑誌を、僕は自宅に持ち帰って夜中にしげしげと眺めました。深夜ラジオのボリュームを絞ると、両親の寝室から父親の鼾が聞こえてきます。母親は父よりもぐっすり寝て夜中に起きてくることは滅多にないので大丈夫だろうと思いました。パンツを下げ椅子の背にもたれ、机の上に両足を投げ出し、元気になった性器を握ってみました。安岡が言っていたようにその手を上下に動かしてみます。最初はいったい自分は何をしているんだろう、と思いました。でもしばらくすると腰の深いところに、むずむずと地響きがするような落ち着かない感覚が生じました。さらに手を動かしていると、急に、猛烈な勢いでせり上がってくる何かを感じました。それはほとんど尿意と区別がつきませんでしたが、正体の分からない痺れる感覚を伴っていました。やばい、漏れそう、と僕は戦慄しました。制御不能なそれはまるで泥の中を泳ぐ泥鰌のように凄い勢いで尿道を一気に遡上してきたかと思うと、先端から凄い勢いで飛び出しました。そしてパチッと音を立てて天井に貼り付き、糸を引くように垂れ落ちてきました。自分の額にその雫を受けながら、僕は平衡感覚を失い宇宙に漂っている気がしました。数秒後、我に返り、慌てて風呂場に雑巾を取りに行き、水で濡らしてから顔、下半身、机の上、床、椅子と汚れたところを拭き、それから机の上に立って天井を拭きました。
なるほど、これならあんな変な呻き声が出てしまうのも無理はない、と、思いました。浩一さんが、洋太のお母さんにしてもらっていたことの意味が、ようやく理解できました。
幸いポルノ雑誌は汚れておらず無事でした。天井の染みを親に見られたら何と言おうかと思いましたが、自然に聞こえそうな言い訳は全く思い浮かびませんでした。もし訊かれたら知らない、で通すしかない、と思いました。
天井の染みに関しては、結局問いつめられることはありませんでした。気がつかれていないことはなかったはずです。でも、もっと重大なものを発見した両親は、染みのことなどどうでもよくなったのでしょう。
雑誌を持って帰ってから三日目、学校から帰宅した瞬間、異変を感じました。まず、母の、おかえりなさい、という声が聞こえませんでした。それから自分の部屋に入って凍り付きました。机の引き出しの中にしまったはずの例のブツが机の上に置かれていたのです。置かれたまま数センチ浮き上がっているかのように思えました。
その日の晩の夕食がどんな感じだったのかを僕は今でもはっきりと思い出せません。記憶それ自身が保存を拒否したかのように。まるで通夜のように沈み切った空気と、一切の会話が無かったことだけが朧に思い出されるだけですが、それも僕の思い込みかもしれません。安岡からポルノ雑誌を借りたことがどうして両親にばれたのか、両親はその雑誌についてどう思っているのか、そしてどうして彼らは僕がその雑誌を机の中に隠したのを知っていたのか。結論は考えなくとも出ました。彼ら(というかおそらく母親)は、日常的に僕の机の中をチェックしていたのだと。僕は全身が熱くなりました。ポルノ雑誌だけではない。親の目に触れさせたくない全てのものを僕は無造作に机の引き出しに入れていました。もちろん鍵なんてかけていません。それ以前に、鍵はついてさえもいない。その収納物の中にはクラスの女の子へのラブレターの下書き、中三男子の妄想を凝縮させた、落書きのような自作のエロ漫画、爆竹と花火の火薬を抜いて瓶にためたもの、島の海で拾ったナイフとスコープ(覗くと女性の裸が見える)、安岡がくれたコンドーム一袋、そして、剥がれた瘡蓋を詰めた五個の小瓶もありました。
両親もどうしてよいかわからなかったのでしょう。その雑誌は没収されることはありませんでした。まるで見せしめのように翌日の朝も僕の机の上にありました。四角くて薄くてカラフルなその表紙が放っている瘴気が部屋中に満ちていました。もちろんそのままにしてはおけません。僕はその雑誌をカバンに入れ、学校に持って行きました。安岡に事情を話すと、彼は大笑いして、俺もかあちゃんにこれ見つかったときはビンタされた、と言いました。彼は母親にこの雑誌を即座に没収されたが、数日後、父親の机の中から発見し、無事取り返したのだといいます。何も見なかったかのように無反応だった僕の母親よりも、息子をビンタして雑誌を没収した安岡のかあちゃんの方がずっといい、と僕は思いました。僕はその本を安岡に返そうとしましたが、やるよ、と言われたので再びカバンにしまいました。でも家に再び持って帰る訳にはいきません。そうしたところで置く場所は机の引き出しの中しかないですし、そこは隠し場所にはなりえないことが判明していました。
今振り返っても少々不思議なのは、息子の机の引き出しを勝手に開けてチェックするという、両親のこの重大なプライバシーの侵害行為について、当時の僕は抗議した覚えもないし、そもそも大して気にかけてさえいなかったということです。あの二人ならそんなことをするのは大して驚くに値しないことであって、そのことに対応してきちんと対策を講じていなかった自分が悪い、とそのときの僕は思いました。過去にも、両親の悪口をさんざん書き綴ったメモ紙がゴミ箱に捨てられていたり、不審なことは以前から時々あったのですから。泳がされているのは自分でも分かっていたはずなのです。ずっと以前、机の引き出しを開けないで、ということを両親に言ったことは確かに一度だけありました。しかし、そんなことはしていないと即座に否定されて話はあっさりと終わりました。
ポルノ雑誌の一件以来、プライバシー尊重の件に関して僕は両親を一切信じなくなりました。説得や話し合いによる解決は無駄なことに思えました。信じられない親ともそれなりにうまくやっていく方法、当時の僕にとって、それはなるべく会話をしない、関りを避ける、ということでした。会話をすればどこから必ずぼろを出して、隠し事のあれこれが、あちらのアンテナにキャッチされるからです。親から距離をおくこと。親を信じることをやめること。それが僕の自立の第一歩だったのだと思います。
僕は放課後、下村に声をかけました。下村とは三年生の一学期の終わりから通いだした塾で一緒になり親しくなった男です。僕とはクラスが別でしたが、妙にウマが合いました。色白の整った顔立ちで、小柄で痩せていて、頭の回転が速く、塾の嫌いな先生を揶揄するときなど、時に鋭く辛辣なジョークを口にしました。そして彼は、僕と同じく筒井康隆の大ファンでした。他にもたくさん本を読んでいました。僕が彼にレイ・ブラッドベリを薦めると、彼は僕に坂口安吾を薦めてきました。堕落論を読んでピンときました。下村はとんでもなく面白い奴だと。
いいものあるんだけど。
僕がそう言うと、下村は怪訝そうな目でこちらを見ました。
僕は黙ってカバンからポルノ雑誌を出し、下村に渡しました。下村はブツを一瞥し、ほう、と低い声を発すると、手早くそれを自分のカバンにしまいました。あらかじめ互いにすべてを了解していたかのように、ブツの授受は実にスムーズに行われました。
どこで手に入れた、これ?
安岡から。
なるほど。サンキュー。
筒井康隆も坂口安吾もレイ・ブラッドベリも、空想の翼を大いに成長させてくれます。しかし、それだけでは不足なのでした。空想を凌駕する圧倒的リアルに触れることでしか解決されないモヤモヤが、中学三年生男子という獣の脳内には充満しているのですから。秘密の扉を開け放ち、一歩その先へと足を踏み出すために、大人がひた隠しにしているエロという人生の真理から目を逸らしてはならない。安岡から僕へ、そしてそれは下村へと引き継がれました。
そして下村もやはり親にそのポルノ雑誌を発見されることになります。経緯はいたってシンプル。彼は雑誌をベッドのマットレスの下に隠しました。翌日、晴天だったため、彼の母親がマットレスを日干しにしようとして、どけてしまったという訳です。生真面目な母親は直ちに学校に連絡をし、下村は校長室に呼び出されました。雑誌の入手先を問い詰められた下村は、道に落ちていたのを拾った、と頑強に主張して譲りませんでした。おかげで僕と安岡は罪を免れました。下村自身も、一時は停学処分を科される可能性があったものの、下村の母親自らの連絡であったため自首とみなされ結局戒告処分で済みました。もし僕と安岡まで罪に問われていたら、確実に停学処分を受けていたはずだったし、僕は前の学校での前科持ちだから、あるいはそのような普通の処分では済まなかったかもしれません。
しかし、下村が校長に絞られながらもなんとか危機を乗り切った直後に、安岡は別件で停学を食らいました。いつものように改造バイクに乗っていて、自損事故を起こしたのです。しかも酒気帯びでした。警察に追われて路地に逃げ込もうとして、曲がり切れずに転倒したとき、安岡は例の洋物のポルノ雑誌を回してくれた友人のバーテンダーから、新たに入荷したこれまたえげつない雑誌をちょうど三冊入手したところで、それをズボンのベルトに挟んで革ジャンの下に隠していました。気を失った安岡が病院のベッドで目を覚ましたとき、彼の枕元にそのポルノ雑誌がきちんと重ねて置かれていたそうです。中学生のくせにこげなもん見てるの、と頬を赤らめた若い看護師さんに耳元で囁かれ、さすがの安岡も恥じ入りながら、小声で、すみません、と謝るしかなかったといいます。何故か病院も警察も酒気帯びは厳しく責め立てたが、ポルノ雑誌の方は見て見ぬふりをして没収もしませんでした。安岡の姉によって雑誌は速やかに処分され、僕や下村の元まで回ってくることはありませんでした。警察から学校に連絡が行き、一週間の停学処分が安岡に課せられました。安岡はそのまま学校に来なくなりました。バイクで事故ったのは別にどうでも良かったが、エロ本を持っていたことがバレた逸話が学校中に拡がっていることを(その話が漏れたのは、僕と下村でからはなく、姉が看護師としてその病院に勤務していた同じ中学生の同級生の女子の口からでした)、事前にガールフレンドから一発の平手打ち付きで教えられたからだと思われます。洒落男の安岡としてはバツが悪かったのでしょう。それから三週間くらいしてから、安岡は僕の家にスコッチウィスキーのボトルを持って夜中にやって来ました。寝ている両親を起こさないように、僕の部屋の窓越しにそっと僕に酒を渡すと、安岡は小声で言いました。
明日家を出て東京に行く。そのままあっちに住む。じゃっで、今日でお別れよ。
嘘やろ、学校とか生活とかどうすっと?
辞める。学校、面白くなかし。家も面白くなかし。親父はどこで何しちょっか分からんし、かあちゃんも家に帰ってこんし。お金ならバイトで溜めた分が少しはあるし。
東京で、あてはあっとか?
兄貴があっちで美容師をしちょっで、しばらく兄貴んとこで世話になりながら、仕事探す。水商売なら年齢ごまかして中学生くらいで働いてる奴もおるらしかし。まあ中学中退でん何とかなるから大丈夫やっち、兄貴も言いよるしよ。とりあえずはバーテンにでん、なるかね。
そうか。偉かね。凄かよ。
全然偉くもなんともなか。じゃっどんまあ、自分らしく生きようとは思っちょ。自由にな。おいは自由に生きる。
僕はその晩、餞別に、安岡にトヨタ二千GTのミニカーを渡しました。安岡が好きな車のナンバー一だと聞いていたし、当時、僕が持っていた宝物で、安岡が気に入ってくれそうなのはそれくらいしか無かったからです。電池でライトが点くのが自慢の逸品でした。
安岡に渡された連絡先のメモ紙を僕は数日後にはあっさり無くしてしまいました。ジャンバーの内ポケットに確かに入れたはずのそれは、どこをどう探しても見つかりませんでした。
自由に生きる、と安岡は言いました。十五歳でその覚悟の言葉を口に出した安岡は格好良かった。その覚悟の結果、どうなったかはここでは問題ではありません。彼はやらないことは口に出さない男だったから。
一九八九年の春、僕は、県内の公立高校では一応二番目とランク付けされているⅭ高に入学しました。僕としては君が進学した県内トップ進学校であるⅯ高に入りたかったけど、安岡たちとつるんでいた中三の無軌道がたたって、内申点が少々足りませんでした。下村は僕よりも成績が良く、Ⅿ高にも手が届いた筈ですが、自分の父親が、当時Ⅿ高に数学教師として勤務していて、親父がいる学校にはどうしても行きたくない、という理由で、僕と同じⅭ高に入学してきました。
Ⅽ高では下村に加えて、長沼、城田という新たな友人ができました。T中出身は僕と下村、長沼と城田はS中出身でした。母子家庭に育った長沼は自分のことを詩人だと言いました。実際、彼は寺山修司からブレイクまで、国内外の色んな作家の詩を諳んじていました。城田は県内有数の建設会社の社長の息子で、育ちの良さを感じさせるおっとりした男でした。
四人を結びつけたのは麻雀でした。城田が幼い頃から家庭麻雀を打っていたので、他の三人が彼から麻雀を教わり、卓を囲むようになり、そこからいつも四人でつるむようになったのです。城田の家にはたいがい誰もいなかったので、基本的には彼の家が雀荘となることが多かったけれど、時には学校帰りに堂々と制服のままで高校近くの雀荘に打ちに行ったりもしました。城田から教わるまで牌に触ったこともなかったにもかかわらず、下村は上達が早く、すぐに四人の中で一番強くなりました。彼はとにかく勘が鋭く、滅多に振り込みませんでした。メンバーの誰かが聴牌するといち早くその気配を察知し、当たり牌を確実に止め、巧みに回し打ちをして自分の上りを鮮やかに決める。下村の打ち方は、卓を囲む仲間に、ある種の畏敬の念を抱かせるものがありました。一方、負けが多かったのは詩人こと長沼でした。打ち方は堅実なのに、とにかくツキに恵まれないのです。リーチをかけると下村に追っかけリーチをかけられ、一発でその当たり牌を引いてくるというのが一つのパターンになっていました。下村もそれを狙っていて、聴牌していても長沼がリーチをかけるまで待っているのでした。長沼は自模ってもまず裏ドラは乗らないし、高目安目があるときには、ほぼ確実に安目を引きました。もうそれは見ていてこちらが気の毒になるほどで、僕らは長沼の麻雀を、パーフェクト接待麻雀と呼んでいました。
城田は基本的に冷静沈着、手堅く品の良い雀風で、九割がた両面待ちの典型的なタンピン系の手作り。リーチがかかったら確実に降り、大負けしない代わりに大勝ちもしない。ツキもそこそこ、引きの強さもそこそこ。一応、麻雀の師匠という立場ではあるのですが、残りの三人から公務員麻雀と揶揄されていました。
僕はというと、勝ち負けの差が激しく、ツイているときは大勝ち、駄目なときは何をやっても駄目、そして、トータルで言えばやや負け越し、という、出入りの激しい雀風でした。下村に言わせれば、僕は四人の中で一番カモになりやすく、博打に向いていないタイプだということでした。
それにな、お前の聴牌は一番分かりやすいんだよ。今聴牌したよ、って、顔で宣言してるし。
下村からそう言われたときは流石にむっとしたものです。
三学期になると、麻雀のメンバーに一人、女子が加わりました。下村の彼女の鷺島かおりです。彼女は中三のとき、同じクラスだった下村と付き合い始めました。気が強そうな濃い眉と長い睫毛が印象的で、すらりとしていて、小柄な下村よりもわずかに背が高かった。かおりもまた余裕でⅯ高に行ける成績だったけれど、下村に合わせてC高を選んだのだと彼女は自分から言いました。Ⅿ高でくすぶるよりC高でトップを取りたいから、と宣言して、彼女はC高へ進学させることを渋る母親をどうにか納得させたそうです。その宣言通り、一、定期テストで下村とかおりは常に学年トップを争っていたので、細かい規則が多く、男女交際にも何かとうるさかった学校でも、二人の交際は早々と黙認されていました。
かおりの麻雀はとにかく強気で、誰かがリーチをかけても降りることがほとんどありませんでした。好不調の波が比較的大きいところは僕と似ていましたが、圧倒的に彼女の方がツキが太く、大物手を作るという点でもずば抜けていました。二学期に、東一局の出親で大三元字一色のダブル役満を自摸上がりして、他のメンバー三人をハコテンに沈めて以来、僕らは麻雀中、彼女のことを時々、神様、と呼ぶようになりました。
僕は成績の上下動の大きさも麻雀と似ていました。一学期の中間テストは真ん中くらいで、期末はクラスで五番。二学期の中間は数学で大失敗してクラスでも最下位に近く、次の期末では逆に、かおりと下村に次いで、上から三番目でした。
僕の成績にムラがでることについてはアトピーの影響が少なからずあったと思います。それまでは何ともないのに、試験直前になるとストレスのせいか全身が痒くなってくるのです。そして試験中に一旦痒くなるともう駄目で、テストに集中できませんでした。ステロイドを塗りまくってなんとかしのいでも、テストが終わった直後の僕の顔はいつも赤くなっていました。下村とかおりは僕のアトピーのことを分かっていたようで何も言いませんでしたが、城田には、サトシはテストの時、酒飲んでたやろ、と疑われたりしました。
城田と長沼は似たような成績で、クラスでも大体真ん中あたりを安定してキープしていました。二人ともあまり感情を表に出さず、どちらかというと無口で、これといって目立たず、外見的にもどことなく似ていました。特に詩人の長沼は、僕ら麻雀組以外には友達も少なく部活もやらず、どことなく存在感が希薄でした。というより、自分の存在を消す術に長けていたというべきでしょうか。
一方、城田はというと、一年のときの体育祭の学年対抗リレーのアンカーで上級生をごぼう抜きして僕らを仰天させました。体格を見ても足の筋肉の付き方をみても、彼は特段足が速そうには見えませんでした。かつていたジョン・マッケンローというテニスの名選手が、その頃彼の好敵手だったイワン・レンドルなんかとくらべて、全然身体がマッチョじゃないし、かといって引き締まっているようにも見えないのに、凄いショットを繰り出して無類に強かったのと似ていました。人はつくづく見かけによらないということを僕らは異口同音のように口にし、その度に、城田自身は、いや、別に俺なんか大したことない、と謙遜していました。ちなみに中学時代は合唱部だったといいます。しかし陸上部にスカウトされた彼は、二年生のときにはインターハイで準決勝まで進みました。
ちなみに下村とかおりは物理部に入りました。僕は吹奏楽部に入って一年間はトロンボーンを吹いていましたが、人間関係の面倒くささに嫌気がさして二年生の一学期でやめてしまいました。城田が陸上部の部活で忙しくなるにつれ、雀荘城田は開店休業状態になり、卓を囲むのも月に一回あるかないかという感じになりました。
僕はいつの間にかクラスでオニイと呼ばれるようになっていました。テストの時期になると顔が赤くなることから、赤鬼、それが縮んでオニイ、というのがどうやら由来のようでした。図体のでかさも相まって、どことなく兄貴分という雰囲気もあったのでしょう。麻雀組の連中はサトシと呼んでいましたが、だんだん彼らもクラスの他の連中に従って僕のことをオニイと呼び始めました。
オニイ、ちょっと相談があるんだよね、とかおりから声をかけられたのは二年の夏休みの終わり頃でした。かおりの目の下に隈ができていました。夏休みといっても名ばかりで、みっちり補習があります。しかもかおりと下村は、二年生以降の学年に一組だけ設けられた特別進学クラスだったから、そうとう絞られているはずでした。凡人クラスにそれぞればらばらに散らばってしまった僕や城田や長沼とは、二人は例の月イチ麻雀以外、ほとんど顔を会わせなくなっていました。
学校近くの喫茶店で、テーブルの上のアイスコーヒーを見つめながら、かおりは沈んだ低い声で言いました。
あのさ。
どうしたの。
うん。
かおりはそう言って、長い睫毛を伏せて黙って俯いています。僕はふとその二日前、廊下で下村と会った時のことをふと思い出しました。そういえば下村はいつになく妙に暗い顔をしていました。僕が声をかけたら、片手をさっと挙げて、ごめん、ちょっと今急いでて、と口籠るように言い、そのまま行ってしまいました。今までにない反応でした。かおりとまた喧嘩でもしたのだろうか。実際彼らはよく衝突していました。かおりも下村もどちらも意志が強くて自分の主張を曲げないところがありました。例えば麻雀のときにも、ああなんでそこで一萬切るんだよ、西の単騎待ちにしといて様子見だろ、いや違うでしょ、ここは待ちを広げて勝負するところでしょ、などとしょっちゅうやっていました。いや、それとも……また下村の憂鬱な表情を思い出し、今度は、彼に対する同情が沸き上がりました。特別進学クラスからは例年東大に七、八人受かります。下村もかおりもそのクラスでも五位以内には入っていたから、二人はおそらく東大に進学するでしょう。いつも余裕のある下村がそこまで追い込まれるほどにも、そういう地点に身をおき続けることはきついのかもしれない。そして目の前にいるかおりのやつれようもまたそのせいなのかも、と。
まずいことになっちゃったんだよね。
かおりは深く長い溜息をついた。
本当は女子で相談できる相手がいればいいんだけど、私のクラス男ばっかりだし、女子は女子でなんか互いにライバルみたいになってて、気安い相談できる子いないんだよね。
まずいこと、と聞いて僕は嫌な予感がした。
ひょっとして妊娠したとか、じゃないよね。
オニイにしては勘が鋭いね。
え、冗談じゃなくて?本当に?
うん。
しばらく僕とかおりは向かい合ったまま沈黙していました。十秒くらいだったかもしれないし、一分くらいだったかもしれない。
で、どうするつもりなの?
その前にさ、相手は誰って訊かないの?
だって、そりゃ下村だろ。
いや、違うんだよ。城田隆文。
ええっ。
そう言って僕は再び絶句しました。今度は前の沈黙より少し長かったはずです。
何でまた?
僕の口から出てきたのは、結局、そういうありきたりの言葉でした。
うん。まあ、色々あってね。
色々……と僕はその言葉を反復した。
うん。仕方ないね。
かおりの答えもまた十分すぎるくらいありきたりなものでした。仕方ないって……僕はまた同じ言葉を呟いてしまいました。そしてしばらく黙って考えました。仕方ないってことは、とにかく言葉の通り色々あったんだろう。彼らが僕を置き去りにして遠くへと駆け去っていくようで、まだ童貞だった僕は頭がくらくらしました。かおりが下村と別れたというのは何となく納得できました。つまりは二人は恋人というよりも、互いに競い合うライバルという関係に落ち着いてしまったということなのでしょう。それに日頃から、城田が情熱的なかおりに惹かれているのも、卓を囲みながら交わすたわいもない会話のうちに、僕は薄々感じていました。下村が時にかおりに苛立ち、邪険に否定したりするのに対して、城田はいつもかおりの言葉を真っすぐに受け止め、そしてほぼ無条件に受け入れていました。かおりに心酔していると思えるほどでした。
そして、仕方ない、という言葉が示すことはもう一つありました。つまり、諦める。それは、産まない、ということでしょう。僕はそれを確認するべくもう一度質問を繰り返しました。で、どうするの、と。
直後にかおりの口から出た言葉に、僕は思わず、えっ、と声を漏らしました。
とりあえず一年は休学して出産を優先する。来年の受験はやめる。
産むの?
当たり前じゃない。堕ろすんなら相談なんかしないよ。
そうか、と答えながら僕は安堵しました。堕胎という選択肢をとらないことで、かおりが単純に救われたような気がしたのでした。しかし次の瞬間、産むという選択がかおりを救う訳では全くないのだと気がつきました。どちらを選んでも逃げられないという厳しい現実がそこにあるだけです。それで、かおりは何を僕に相談するというのだろう。僕がその点について訊くと、かおりは素直に答えました。
隆文のお母さんが許してくれそうにないんだ。私が隆文の子供を産むことも、もちろん結婚も。
そうか。
だからこのままだと私は結婚できない。隆文には子供の認知も求めないで、シングルマザーになるしかないの。
かおりのご両親は?
お母さん、妊娠しているなら結婚しなさいって。子育てについては出来るだけ協力するって言ってくれた。でもお母さんも働いているし、経済的にも余裕がないから子供を任せきりにはできない。私、父がいないの。お母さん、離婚したから。
そう……それならもっとよく話し合うしか。
いいの。もう十分話し合ったの。それでね。オニイに相談……というかお願いがあるんだ。
何?
今度ね、隆文のお父さんと、姉ちゃんと、私と、隆文とで麻雀打つことになった。
何だよ、それ。
僕は絶句しました。この話の流れで、どうして麻雀という単語が出てくるのだろう。あり得ない。
もし私と隆文を合わせた点数が、あちら二人の点数を上回ったら、二人がお母さんを説得してくれる。お母さんも現実を受け入れて諦める。私たちの結婚を認める。
負けたら?
まあ、二人はお母さん側につくということね。私たちの、というか少なくとも私の未来は相当厳しくなる。
何でそういうことになったの?
もともと私は隆文のお父さんやお姉ちゃんとはそこそこ仲が良かったの。ただお母さんとはいまいち合わないの。とにかくお母さんは私が隆文の子供を産むことについて断固反対してる。結婚もね。
城田本人はどう言ってるの?
もちろん、隆文は私と結婚して子供を育てたいと言ってる。でも彼もお母さんにはなかなか頭があがらないのよ。
なるほど。でも、どうしてそれで麻雀なの?
まあ、待って。私たちには受験、就職という、これから超えないといけないハードルがあるから、二人だけでの子育てはまず絶対無理。だから、隆文の両親にもきちんと結婚を認めてもらって、必要なときには手を差し伸べてもらいたいの。生まれてくる子供のためにもその方が幸せだと思うし。
うん。それで?
それでね、隆文と私は、お父さんとお姉さんに一生懸命頼んだの。二人の結婚を認めてくださいって。
うん。なるほど。
二人とも最初はどちらかというと隆文のお母さんの味方だった。でもだんだん分かってくれて。ただ、それでも無条件にこちらの言い分を飲むわけにもいかないって。お母さんの気持ちも尊重したいと。まあそうよね。家族だもん。私とお母さんとは、結局どうやっても折り合わないの。歩み寄る余地が全くないの。そういう時はね、最後はもう闘って決着をつけるしかないのよ。城田家はね、家族の中で何か問題が起こって、それがなかなか解決できない時は、これまでも麻雀の勝負で決着をつけてきたんですって。全く、笑っちゃうよ。信じられないし、無茶よね、ほんと。
で、麻雀……。
そう。それでね、オニイには勝負の立会人になってもらいたいんだ。もう一人の立会人は隆文の弟。
お母さんは打たないの? 麻雀。
うん、ここぞという時の勝負に弱いんですって。それに私と打つとなると冷静ではいられなくなる分、自分は不利になるって言って、本人が辞退したの。城田家はお父さんがまず一番強くて、その次がお姉ちゃんなの。次いで母親。隆文はその下。隆文の弟は中二だからまだ大勝負は任せられない。
城田よりも強い二人を相手にして、勝てるの?
勝つわよ。だって勝つしか道はないから。
かおりは勁い目で僕を真っすぐ見つめてそう答えました。
学校で久しぶりに長沼と顔を合わせたとき、お前、下村と城田とかおりのこと知ってる?と訊いてみました。全く知らない様子だったので、僕は事の顛末を話しました。長沼は絶句し、ぐちゃぐちゃだな、と心底呆れたという表情で言い、あいつら、凡人の俺とは住む世界も、やらかすことも違い過ぎるよ、と笑いました。
三日後、僕は約束の午後二時きっかりに城田家を訪れました。麻雀は城田家の居間で行われることになっていました。勝負は半荘一回、東南戦の一発勝負です。
城田の母親が出てきて、わざわざすみませんね、何だか変なことになっちゃって、と言いながら、深々と頭を下げました。いや、本当にそうですね、と答えながら、僕も頭を下げました。通された和室の居間の中央に麻雀用の正方形のテーブルが置かれ、その上に緑色のゴム製麻雀マットが敷かれていました。こんにちは、初めまして、と僕が頭を下げると、既に卓についていた城田の父親と、姉の恭子さんが、二人とも殊の外、にこやかな表情で、こんにちは、と言いました。父親の対面に座っていたかおりは、黙って僕に軽く会釈しました。表情は硬く、笑顔はありません。部屋の隅に座っていた隆文の弟も、無言で頭を深々と下げました。弟は隆文そっくりでした。
今日はわざわざ、ありがとうございます、と僕に向かって、綺麗に撫でつけられた白髪に白い口髭を生やした父親が、微笑を浮かべながら言いました。その声はゆったりとして穏やかなテノールで、いかにも上品な感じがしました。恭子さんは父親にそっくりで、こちらもまた育ちの良さそうなすっきりとした顔立ちをしていました。かおりの下家である城田の席が空いていました。すみません、隆文は今、トイレです。すぐ戻ってくると思います。と恭子さんが涼やかな声で言いました。数分後、隆文が入ってきました。僕に向かって軽く右手を挙げ、よう、とだけ短く言いました。
勝負が始まりました。四人とも無言で洗牌して山を積み、無言で賽を振り、牌を自摸って捨ててゆきます。家族麻雀の和やかさは微塵もありませんでした。
東一局は父親が六巡目でリーチをかけ、三巡後にピンフドラ一を自摸上がり。二局目は隆文だけがノーテン、他三人聴牌の流局。三局目はかおりが早仕掛けしてタンヤオドラ三を自摸上がり。四局目は隆文が中ホンイツドラ一の満貫を闇聴で恭子さんから直上がりしました。東場を終えてトップはかおりの三万二千点、以下、父親の二万八千点、隆文の二万七千点、恭子さんの一万三千点となっていました。かおりと隆文のペアは合計で、父親と恭子さんのペアに一万八千点の差をつけていました。逃げ切りにはかなり有利な点差です。
こんなんじゃ安心できないからね。特にお姉ちゃんには気をつけてね。いつも南場で大きい手を作るから。
かおりがそう言うと、隆文は黙って頷いていました。
南場は第一局で親のかおりがリーチ一発自摸ドラ一というラッキーな出だしで四千オール。連荘となった一本場はかおりが高め親ッパネという勝負手で再びリーチしたが上がれずに流れ、二局目で恭子さんがチートイドラドラをリーチして、それにかおりが振り込みました。場に二枚出ている北での、いわゆる地獄待ちでした。三局目は全員ノーテンで流れ。
最終局である南四局に入った時点でかおりは三万六千点、父親が二万三千点、隆文が二万二千点、恭子さんが一万九千点。かおりの一人浮きだが、ペア同士の点差は一万八千点のままでした。このまま軽い手で流してしまうこともできるし、安手なら相手に振り込んでもいい。一番いいのはかおりと隆文が、互いに先に聴牌した方に振り込むことです。それであっさり勝負がつきます。かおりと隆文のペアが圧倒的優位に立っている状況でした。
ここまでほとんど口を開かなかった父親が、ちょっと、と口を開きました。
言ってなかったけど、わざとチョンボした場合、うちのルールでは親マン自摸と逆の形の、四千オール払いだからね。まあ、そんなことはしないと分かっているけど念のため。
わかってるよ、そんなこと。
隆文がぶっきらぼうに答えました。
僕ははっとしました。なるほど、この場でかおりか隆文が例えばノーテンでの上がりを宣言してチョンボにしても、通常の八千点の罰符ならペアのトータルで五万千点。相手ペアの四万九千点を上回ります。だが、その手は通用しないよ、と父親は釘を刺したのでした。圧倒的に不利な状況での、この余裕は何でしょう。母親の手前、麻雀で勝負するという、一見公正な(しかし普通の家庭ではまず考えられない)方法をとってはいるが、父親たちは内心、隆文とかおりを勝たせたがっているのではないか、と僕は思いました。父親と恭子さんは純粋に、家族麻雀の新しいメンバーに、長男の妻となるかおりを迎えるべく、今は勝負を楽しんでいるだけではないのだろうか、と。
その僕の甘い想像をあっさりと打ち砕いたのは恭子さんの、ロン、という澄んだひと声でした。隆文が北を切った瞬間、静かなアルトのその声が響いて、場の空気をすっと冷やしました。八巡目。恭子さんの捨て牌は妙でした。二萬、四萬、三萬と続いてその後、九ピン、八萬、八萬、八萬、中。マンズの面子を、ほぼ連続して二つ捨てています。北は、さっきかおりが恭子さんのチートイに振り込んだのと同じ牌でした。
逆転の手であることは間違いありませんでした。そうでなければ上がる意味がないからです。
うそ、と隆文が呻いた。
恭子さんがゆっくりと牌を倒した。ラス親の役満、国士無双。四万八千点。
恭子さんは俯いて小さく溜息をつきました。それから顔を上げ、隆文に、国士が見えてるこの局面で北切っちゃ駄目でしょう、と言った。だからあんたは甘いのよ。
俺は四巡目で既にもう張ってたんだ、しかも三面張だったんだよ、と掠れた声で隆文が言いました。
それから恭子さんは、かおりの顔を真っすぐに見て、言いました。
鷺島さん、ごめんね。
わかりました。私、高校は辞めます。子供は産んで一人で育てます。隆文さんとはお別れします。そして今後一切、ご迷惑はおかけしません。
その場で、かおりは静かに、しかし決然とした口調でそう宣言した。
何言ってるんだよ。
隆文がかおりに向かって、叫ぶように言いました。
俺が高校やめて働く。かおりは休学してもらう。でもかおりの方が俺よりずっと頭がいいから、自宅で子育てと勉強を両立できるように頑張ってもらう。俺も負けないくらい必死で働くから。そしてかおりが大学に進学して働きはじめたら、俺は仕事をやめて主夫になる。それまでは俺が稼いで三人の生活を支える。
隆文はそう言いました。
彼の父親は腕組みをしたまま小さく溜め息を吐き、唇を小さく動かしました。何かを言い出しそうに見えましたが、しかし言葉は発しませんでした。
よく話し合って結論出します、と今度はかおり。
二人のことは二人で決めなさい。勝負は勝負。あんたの甘さが負けを招いた。残念だけど私たちはかおりさんとあんたを今は支援できない。今はね。ごめんなさい。
恭子さんは、今は、という部分を強調して、そう言いました。隆文の弟が洟をすする音が、小さく聞こえました。
城田とかおりが最終的に選択したのは、城田が提示したプランに近いものでした。即ち、別れることはしないできちんと籍を入れる。異なったのは、城田は、かおりに一旦高校を休学してもらい、その後、復学してもらうつもりでいましたが、かおりは潔くⅭ高を退学し、一方、城田が学校に残ったという点でした。翌年の四月、無事女の子が生まれ、悠と命名されました。城田は高三の春から新聞販売店でアルバイトを開始し、生活費が足りない分は、かおりが自分の母親や伯父などから借金をしたようでした。高校を卒業後、かおりと籍を入れた城田は両親と絶縁し、二人で上京してアパートを借り、郊外のⅯ市のメッキ工場で正社員として働き始めました。家事は二人で分担。かおりは育児をしながら大検の資格を取得し、四年後に国立S大学の医学部に合格しました。多浪が多い医学部の中で、二十一歳での入学は別に珍しくもありませんでしたが、その年齢で四歳の子連れ学生となるとさすがに目立ったようでした。容姿端麗、社交的な性格も相まって、かおりは活躍するママ学生として取材され、地元の新聞に載ったりもしたようです。一方、城田は、勤務中の事故で有毒ガスを吸って数週間仕事を休んだ以外は、五年間フルのシフトでゴールデンウィークも盆も正月も返上で働き、親子の生活を支えました。かおりが大学を卒業し、医師国家試験に合格して研修医になった年、城田は工場の主任に昇進しました。その翌年、かおりが医師として民間病院に就職すると、予定通り、城田は工場を退職し、専業主夫になりました。
下村は、かおりと別れた後は、自宅と学校と図書館を往復するだけの禁欲的な受験生生活を送り、現役でT大の理一に入りました。大学時代は将棋部でそこそこ活躍し、卒業後は大手のプラントエンジニアリング会社に幹部候補として採用されました。
僕は国立の本命に落ち、文系の私立大に進学しました。これは後でもう少し詳しく触れます。
長沼は大学受験に失敗し、上京して予備校に入りましたが、漫然と一年を過ごし翌年の受験も失敗しました。その後は予備校にも行かなくなり、カフェのウェイター、輸入雑貨の販売店社員、居酒屋の店員、土木作業員などの職を転々としながら、詩を朗読するライブ活動をしていました。彼のライブを僕は誘われて二回聴いたことがあります。中央線の高架下にある狭いライブハウスはステージに近い座布団席と、その後ろの椅子席とがあって、僕は二回とも椅子に腰かけました。ライブハウスの暗闇の中でスポット照明に照らされた長沼は、中原中也や萩原朔太郎、寺山修司、それに自作の詩を叫ぶように朗読しながら、手製の打楽器を演奏していました。打楽器はブリキ缶や酒瓶やサヌカイトやメトロノームなどを組み合わせて紐で縛ったもので、それを朗読の合間や最中にバチや素手で叩くのです。僕の斜め前の座布団に座っていた客が、詩の朗読のリズムに合わせて、胡坐をかいた自分の太ももを、感極まった様子で、両手の拳で強く叩いていたのを覚えています。長沼の自作の詩はどうも抽象的過ぎて、正直なところ、彼が朗読で何を訴えたいのかよくわかりませんでした。
長沼と最後に会ったのは三十八歳の時です。西武線沿いのうらぶれた居酒屋で、二人でビールを飲みました。彼は、三十代とはとても思えぬ老け方をしていました。白髪が目立ち、目元口元には小皴が刻まれ、歯が黄ばみ、左の前歯が一本根元から欠けていました。人材派遣会社に登録して、日銭仕事で、どうにか自分を社会に繋ぎとめているのだと彼は言いました。
先月、兄貴を癌で亡くしてさ。性格的にも出来た兄で、俺と違って優秀だったから、親は期待していたんだけどね、と言って彼はビールを呷りました。俺に詩を書けって言ってくれたの、兄貴なんだよ。お前は才能があるから、ってさ。でもそれは兄の見立て違い。いくつか応募したりもしたけど結局全然ひっかからなかったよ。それでもまあ昔は何とか月二回くらいは朗読ライブやってたんだけどさ、今ではもう年に一回くらいだね、と弱弱しく笑いました。遊びの夏は終わったんだよな。冬が来たらくたばるだけ、と自分のことをイソップ童話のキリギリスみたいに言いました。
あの時に店員に頼んで、二人で並んで携帯で撮ってもらった写真を、いつぞや君に見せたら、君は、僕と恩師とが酒を酌み交わしている写真と勘違いしましたね。あれには思わす笑ってしまいながら、自分が長沼よりも若く見られたことに、僕は内心、安堵と優越感を感じたものです。僕も当時は不摂生して今よりずっと太っていて、相当やさぐれてはいたのですが。あれから僕と君との間では、長沼の話題になった時には、彼のことを恩師、と呼ぶのが習わしになりました。
長沼には、自分を粉飾するようなプライドなど微塵もない様子で、自分がいかに搾取されて生きてきたかということを、自嘲の笑みを浮かべながら、ぽつりぽつりと語り、僕はうんうんと相槌を打っていました。格差社会を呪詛する言葉をしばらく吐き散らしていた彼は、おかわりした中ジョッキのビールともつ煮込みを、ずずっ、と音を立てて喉に流し込んでから、ところでさ、と突然、かおりの話をはじめました。
俺、ショック受けたよ。下村は秀才だから仕方ないって思ってたけどさ、城田とできてたってのはさ。城田と俺なら成績も変わらなかったし。あいつと俺で違うのは家が金持ちか貧乏か、ってところだけだろ。顔は俺の方が下村よりましだと思ってたんだけどな。大体、城田ってこう言っちゃ悪いけど、どこが一体魅力あるんだよ。見た目も中身も大したことないだろ。なんでかおりはあんな男によ。
いや、城田はお前には分からなくても女にとっては魅力があるんだよ。あいつは誰にでも優しいしさ。それに足が速かったじゃん。体育祭の時、リレーでごぼう抜きして格好良かったし。足が速い奴はモテるんだよ
まあ、それはそうかもしれんけど。
俺はさ、城田とお前は何となく雰囲気似てるって思ってたけどな。
俺とあいつのどこが似てんだよ。
いや顔が、ってんじゃなくてさ、どことなくだよ。
そうか。自分では全然そうは思わんけど。
長沼は少し不機嫌そうでした。そんな長沼の、いい歳して外見の良しあしなどを持ち出してくる幼稚さ加減に呆れ、僕は城田の肩を持ちたくなりました。
城田は偉いと思うよ。高校三年ですっばり受験やめて働いてさ、金、持ちの実家にも頼らずに、ずっと工場で過酷な労働して。それでも俺が電話したときも愚痴の一つも言わなかったしさ。
それはさ、子供ができたら、そうするしかないだろうよ。
いや、そんなこと、簡単に言えるほど生優しくないさ。なかなかできないと思う。大体普通、裕福な実家と縁を切るという選択なんか、そうそうできないだろ。
まあ、そこは意味わからんな。俺なんか実家が貧乏だったから、余計に想像もできんな。実家なんて自然に縁が切れちゃったし。
長沼は座った目をして臭い息を吐きながらそう言いました。そしてこうも付け加えました。
かおり、いい女だったよなあ。好きだった。かおりが俺に振り向いてくれたら、きっと人生変わってた。きっと。下村も城田もずるいよな。あんないい女に惚れてもらってさ。兄弟になりやがって、その挙句に大事にせずに別れちゃってさ。
そうだよな、許せんよな、と僕も言いました。そして長沼と乾杯しました。
その二年後、ふと思い立って長沼の携帯に電話をしてみたら、十回以上鳴らしたところでようやく彼は出ました。
おう、元気か?と僕が言うと、あ、と彼は出るなり何かに少し驚いたように短く言い、それから、今ちょっとまずい、手が離せない、と慌ただしく言って、一方的に通話を切りました。用もないのに何だか取り込み中のところにかけてしまったようで、悪いことをしたと思い、翌日かけなおしてみました。が、何度コール音が鳴っても彼は出ませんでした。その日だけではなく、以来、彼が僕の電話に出ることは二度とありませんでした。
そういえば、かおりと君とはちょっと似ているかも。二人ともひねくれたところが全然なくて、勁くて真っすぐで。でも、もしそんな風に言うと、いや全然、あなたには私の本性が見えてないだけよ、とか二人とも苦笑いしながら答えそう。僕など、とても真っすぐどころではない。紆余曲折、完全に行き当たりばったり。僕の友人たちにも、まあそんな感じの奴らが多いようだね。つまりは類友ということなのでしょう。いや本当に、無駄が多くて非効率だと思います。真っすぐ生きてきた君と、ジグザグ生きてきた僕との人生が交錯し、結果、君と一緒に生きることになったのは紛れもなく奇跡でした。だから全て結果オーライです。
前述した通り、大学受験は本命の国立旧帝大に落ちましたが、私立のW大に受かりました。そしてそれが迷路の入り口でした。法学部でしたが、とりあえず法律には何の興味もありませんでした。周囲を見回してみても、法律そのものに興味があって法学部に来た、という人間はあまりいなかったように思います。それでも法曹の専門職に就きたいという目的を持っている奴はそこそこ多くて、そういう連中は勉強のサークルに入って真面目にやっていました。僕はというと、学業への情熱が薄い、というかほぼゼロだったし、だからといって何か個性的なサークルに所属してそっちに熱中した訳でもありません。一応入ることは入りましたが、シーズンスポーツをやって、合コンをやって、という典型的な遊び系のサークルでした。そういう類のサークルにだけは絶対入るまいと思っていたのに。大学祭の時に一人でぶらぶらとキャンパスを歩いていると、女の子から、一人?と声をかけられました。シーズンスポーツには興味ないです、と断ったのですが、スポーツは別に参加してもしなくてもいい、それより合コンとかテスト対策の情報交換のために入る人が大半よ、などと言われ、サークルのテントまで手を引っ張って連れていかれ、そのまま半ば無理やりに名簿に名前を書かされてしまいました。最初に勧誘してきた女の子がかおりに似ていたからかもしれません。
そんなサークルに入ってしまったせいもあり、大学生活の記憶は、講義はほぼゼロ、六割くらいがサークル仲間との麻雀で、三割くらいが合コンで、あとはテニス合宿旅行とかだったでしょうか。浮かんでくるのは享楽的、刹那的な日々の遊びの記憶ばかり。記憶の価値としては、そのほとんどは、捨てはしないけれども段ボールに放り込んで押し入れの隅にでも置いておこう、という程度のものでした。
アルバイトにはとにかく精を出しました。サークル仲間から紹介してもらったり、自分がやめる代わりに頼む、という形で半ば無理やり押し付けられたり、自分でも探したりして。土方、塾教師、居酒屋。テレビ局での裏方。それなりにいろんな出会いがありましたし、印象深い体験もしました。まあ、それらの記憶も同じ段ボール行きです。
完結しているもの、未完のまま放り出されているもの。僕の大学時代前半の記憶は、無数の断片的な物語が集まってぐちゃぐちゃに混ざり合い、ほとんどまともな形を成していません。その記憶の段ボール箱をひっくり返して、中のガラクタをフィルターにかけます。すると残るのは正直なところ、未熟だった僕の、馬鹿らしくて情けなくて危険で不器用で滑稽なセックスに関わるものくらいです。
僕の能天気な大学生活は、専門課程に進んで三年生の時の、必修の物権法を落としたことによってがらりと様相が変わりました。僕は、年に一回の大事な試験に寝坊したのです。やらかした事の重大さに気がついた僕は、すぐに教授の研究室を訪ね、再試験を受けさせてくれるように頼みました。そしてそれは当然の如くあっさりと断られ、その場で僕の留年は決定しました。試験を受けて落としたのならともかく、受けてさえもいないのに再試験を受ける資格など有る訳がない、という教授の正論には返す言葉もありませんでした。
そこからの大学生活後半はより一層、投げやり、無為さ加減に拍車がかかりました。物権法以外の単位は一応ほとんど取っていたから時間はありましたが、その頃はもう面倒くさくてサークルの部室にもほとんど顔を出さなくなっていました。麻雀や飲み会で漫然と使うお金がもったいなかったせいもあります。それに進級が決まった連中の、屈託のない馬鹿笑いで満ち満ちている飲み会に顔を出す気にもなれませんでした。
ピアノを再開したのはその頃のことです。何と言っても退屈と孤独とを同時に紛らわすのにピアノは最適でした。中学生の僕はアトピーの苦しさやいじめからの逃避先としてピアノに縋っていたけれど、もうそれらは過去のものになっていました。アトピーは完治こそしないけれど、ステロイドのおかげでコントロールできて目立たなくなっていました。
当時住んでいたアパートにはもちろんピアノなど置けず、もし置けたとしても中古のアップライト一台を買うお金もありません。僕は高円寺の時間貸しのピアノ練習室に、週に一、二回通うようになりました。高円寺文化ピアノ練習所という何とも昭和的な名前のその練習室の存在を教えてくれたのは、同じサークルにいた矢沢という同級生でした。矢沢は長崎出身で、社交的で軽薄な連中が多いサークルにあって、僕と同様、やや場違いな雰囲気をまとっていました。朴訥で不器用で、身長は僕より高くて百九十センチ近くあった。お人よしの矢沢は合コン時の安牌として、処理が追い付かないテストステロンを持て余した連中たちからよく招集されていました。連中は合コンの席上で正真正銘の天然ボケをかます矢沢にここぞと突っ込みをいれて大いに盛り上がり、その後女の子との連絡先交換を無事に済ませ、ターゲットの女の子を誘い出して次の目的地へと向かう段取りをつけると、矢沢お疲れ、そんじゃな、と言って彼を置いてけぼりにして、さっさと夜の街の雑踏の中にカップルで消えるのでした。そしてその場に置き去りにされるメンバーの中には、たいがい僕も入っていました。僕はアルバイトに忙殺される生活を送っていたので、サークルの合コンでは基本的に、欠員補充のために呼ばれる以外は、積極的に参加することはありませんでした。たまに参加しても、ギラギラしたメンバーに比べて圧倒的に熱意が足りませんでした。サークルの男子メンバーのなかで僕と矢沢の二人だけが童貞でした。僕と矢沢は、よく合コンの後に、女の子にあぶれた屈辱を共有する仲間同士、傷を舐めあうためのボーリングをしに行きました。僕らはそれを怒りのチェリーボーリングと称していた。二人ともスタイルが似ていて、それはボールをレーンに転がすというよりも、大男が腕力だけに頼っての、半ばぶん投げるようなパワーボウリングでした。回転しないストレートの剛速球が叩きだすスコアは二人ともしばしば二百を超えました。
矢沢が教えてくれたピアノ練習室は、中央線に沿って雑然とした飲食店が立ち並ぶ通り沿いの、三階建ての薄汚れた雑居ビルの二階にありました。ビルの一階は、高円寺女学館というピンサロで、練習室とピンサロの入り口は同じでした。ドアの入り口に立っているボーイに、いらっしゃいませっ、と声をかけられながら、電飾のピンクや黄色や青の光がちかちかと明滅するその入り口を入ると、リノリウム張りの廊下があります。右手のドアが高円寺女学館、廊下をまっすぐ歩いて突き当りの階段を二階に上がると、高円寺文化ピアノ練習室、というみすぼらしい看板がかかったドアがありました。
矢沢は、合コンで常に奉仕役を引き受けていることへのねぎらいをしてやるとのことでサークルの先輩に高円寺女学館に連れて行かれて、その時にピアノ練習所の存在を知ったのでした。ピアノは初心者だったが、坂本龍一の戦場のメリークリスマスを弾くことに憧れていた矢沢は、一人でこのピアノ練習所に通い始めたのだそうです。僕はというと、最初の頃はさすがに一人では入り口のドアをくぐり辛く、矢沢に付き合ってもらっていましたが、何度か通ううちに高円寺女学館のボーイや女の子とも顔なじみになり、時には、お兄さん、今日も練習頑張ってね、などと声をかけられるようになりました。貧乏な音大生とでも思われていたのでしょう。そしてその頃から、僕はようやく一人でも練習に通うようになりました。
高円寺文化ピアノ練習室のドアを開けると、中は更に狭い廊下を挟んで二つの小さな部屋に分かれています。右手一号室がグランドピアノ、左手の二号室アップライトピアノの部屋でした。それぞれの部屋を出たところのドア横の壁にはインターホンが付いています。スイッチを押すと、はい、とくぐもった声がして、数分後に階上から齋藤さんという七十位の老人が下りてくるので、希望する練習室と練習時間を申告して鍵を開けてもらい、練習が終わったら料金を支払うシステムでした。一号室は一時間五百円、二号室は千円で、金のない僕は当然、一号室をよく借りていました。矢沢によると、斎藤さんはこのビルのオーナー、つまり高円寺文化ピアノ練習所と、高円寺女学館のオーナーでもあるとのことでした。
二回目の三年生の秋だった。その日、僕は羽田空港の郵便物配送所で徹夜のアルバイトをしました。海外向けの小荷物を仕分けする作業です。単純作業の立ち仕事でくたくたになった僕は、そのままアパートに帰って寝るつもりでした。だが、その日のアルバイト先の更衣室のスピーカーから流れてきたのは、何故かいつものポール・モーリアではなくグレン・グールドが弾くバッハのゴールドベルク変奏曲の新しいバージョンでした。一説には不眠症に悩む伯爵のためにバッハが作曲したと言われるその音楽は、僕の疲弊した脳にまるで覚醒剤のように作用しました。ピアノに合わせて唸るグールドの鼻唄が何かの啓示に思えました。僕はすぐにでもピアノを弾きたくてたまらなくなり、アパートに帰って楽譜をカバンに詰めるなり高円寺に向かいました。
サンダル履きの齋藤さんが上から降りてきた。
二時間できますか?
ああ、今日は一号室は特に他の予約もないからいいよ。二号室は音大生の女の子が今、使ってるけど。
女の子が?
僕は少し驚いた。この高円寺文化ピアノ練習所で練習する若い女性がいるとは。入り口のあのけばけばしい電飾に縁どられたドアを開けることに抵抗はないのだろうか、と思うと妙に興味をそそられました。
齋藤さんに一号室の鍵を開けてもらい、僕は中に入った。ピアノの蓋を開け、カバンからバッハの平均律の楽譜を出して、譜面立てに置いた。椅子に座るとギギギ、と軋む音がしました。グールドの特注椅子に倣って座面の高さを低めに調整しました。
さらっと音階を何度か上って下りて指慣らしをし、バッハにとりかかります。グールドの真似をして、鼻先で指を動かしながら、メロディを歌いました。平均律をさらい終わると、次にショパンの前奏曲や練習曲をいくつかピックアップして弾きました。そうしているうちにトイレに行きたくなりました。トイレは一号室と二号室の間の廊下の突き当りにあります。廊下に出ると、隣の二号室からの音が微かに聞こえました。防音完備といってもかなり老朽化していたからそれは仕方がありません。しかし驚いたのは二号室から聞こえてきたのが、その日僕をその場所に誘った、ゴールドベルク変奏曲だったからでした。その演奏は、明るさと生命感に満ちていました。タッチは自己流で弾いている僕のそれよりもずっと明快で、安定していて力強いものでした。これはプロの音だ、と思いました。そのままトイレを我慢してしばし聞き惚れた後、トイレを済ませた僕が再び廊下に出たとき、二号室のドアが開き、中からパーカーとGパン姿の女性が出てきました。黒い髪をポニーテールにしていました。彼女はちらりとこちらを見て、軽く会釈しました。僕も頭を下げました。
筋肉質の力強い腕を持った、アルゲリッチみたいな感じの女性だろうと、僕は勝手に想像していたけれど、全然違いました。華奢で、半分捲ったパーカーの袖から出た腕は、僕の半分の太さもなかったでしょう。色は浅黒く、背は百五十センチあるかないか。音大生にしてはやけに化粧が濃い。ややえらの張った、意志の強そうな彼女の顔立ちだけは、彼女の指が紡ぎだす音のイメージに少しだけ近い気もしました。女は楽譜が入ってるリュックを重そうに肩に掛け、階段を下りて行きました。
練習終了を告げるためにインターホンを鳴らし、三分位待つと斎藤さんが降りてきました。二時間分の料金を支払いながら、僕は齋藤さんに、さりげなく言いました。
隣で練習していた女の人、凄く上手かったのでびっくりしました。
ああ、カナコちゃんね、彼女は上手いよねえ。本当に。
こう言っては失礼だけど、音大生がどうしてここで練習してるんですか?
ああ、カナコちゃんはいつも仕事前にここで練習するんだよ。下のお店で働いてるから。カナコっていうのは源氏名ね。
僕は絶句しました。斎藤さんは右手の人差し指を唇に当ててから、この話は聞かなかったことにしといてよ、と言いました。
カナコとはその後一緒に喫茶店に行ったり、映画を観に行くようになりました。声をかけたのは高円寺文化ピアノ練習所で彼女を二回目に見かけたときで、もちろん僕の方からでした。彼女は武蔵野音楽大学の三年生で、僕の二つ年下でした。彼女の父親は輸入オルゴールやアンティーク楽器の販売会社を経営していて、母親は専業主婦だということでした。彼女はその一人娘で、彼女に言わせると父は芸術家気取りの能無し、母親は自己中心的な差別主義者だということでした。僕は彼女がどうして高円寺女学館で働いているのか、その理由を知りたいと思いましたが、それを彼女に尋ねる訳にはいきませんでした。一度齋藤さんにもそれとなく訊いてみたことがあったのですが、そりゃあ、人それぞれ事情があんのよ、とはぐらかされました。カナコというのは彼女の源氏名だと齋藤さんは言ったが、本名もカナコでした。何と、片仮名でそう書くところまで一緒でした。
一度外から見せてもらった武蔵境の彼女の自宅は、鉄筋コンクリート打ちっぱなしの、窓の少ない直方体の大きな箱のような豪邸でした。ガレージの中には父のアストンマーチンと母のアウディがあるのだと彼女は言いました。彼女の家庭はどこからみても裕福に見えたし、実際裕福に違いありません。それなのにどうしてあんな場末の風俗店で働いているのか、全く理解できませんでした。
カナコは三歳の頃からピアノを習い、中学生になってからは、ごく最近まで、さる国際コンクールで受賞した高名な女流ピアニストについて習っていたのだそうです。そのピアニストは弟子を取らないと公言しているから、名前は明かせないの、と彼女は言いました。そして、ピアノ以外のことは何にも知らないお嬢、というより本当に馬鹿なのよそいつ、いや、ピアノのことだって結構知らないの。私の方が詳しいかも、と付け加えました。
カナコが初めて僕のアパートに来た日、僕が何となくスティーブ・ライヒの「砂漠の音楽」のⅭDをかけると、彼女はこれ聴きながらやりたい、と言いました。やるって?と訊き返すと、馬鹿じゃないの、と言いながら、彼女は畳の上で僕にキスをしてきました。ああそうか、確かに馬鹿だ、と思いました。
女性経験が無かった僕は、カナコから文字通り手取り足取りの指導を受けることになりました。彼女はそちらに関してはとても優れた教官だったと思います。そして僕はこれまでの人生で最も勤勉に学習に励みました。
カナコはすごく声が大きかった。しかもメゾソプラノの綺麗な声でいつも喘ぎました。アパートは壁が薄くて隣の部屋に音が筒抜けだし、その隣の部屋には竹岡という、少し変わった中年男がいつも部屋にいるので、僕は気になって仕方がありませんでした。竹岡はレンズに渦ができる分厚い黒縁眼鏡をかけ、薄くなりかけた髪を長く伸ばしていて、不精ひげを生やしていました。アパートの廊下で会って僕が挨拶をするとびくりと驚いたように反応し、眼鏡の下の目を一瞬泳がせてから挨拶を返してくるのですが、自分からは会釈するだけで挨拶はしてきません。仕事をしているのかいないのかも分かりませんでした。
彼は中島みゆきが好きなようで、よく聴いていましたが、僕たちが始めるといつも必ず、中島みゆきをいつもよりずっと大きな音量でかけました。そんな時、僕と繋がったまま彼女もアンプに手を伸ばしつまみを回してライヒの音量を上げ、また更に大きな声を出しました。
終わってから、畳の上に裸で並んで仰向けになって、僕は自分の右手で彼女の左手を握りました。それは彼女の教えの一つでした。
終わったら背中を向けてすぐに寝たりしてはいけないの。必ず手を握って。
その日、僕はそこに一つバリエーションを付け加えようとしました。即ち、彼女の手を引っ張って、自分の顔の前に近づけてみました。彼女の指が見たかったから。あの素敵な音をどうして華奢な手で生み出せるのか、その秘密を知りたかったのです。しかし彼女はその手を引っ込めようとしました。
どうしたの?
僕がそう言うと、彼女は溜息をつきました。それから僕の方に黙って左手を伸ばしてきました。彼女の手を見て、僕はごめん、と言いました。
気が付かなくてごめん。
彼女の左手首の内側には無数の傷跡がありました。白く薄い皮膚の線が何本も平行に、あるいは平行からずれて斜めに走っていました。長いものも短いものも。
僕もお返しに、彼女に自分の腹を見せました。アトピーが一番酷くなりやすい部分です。長年ステロイドを塗り続けた跡が黒い色素沈着として残り、皮膚も硬くなって鮫肌になっています。カナコはそれを撫でながら、ごわごわしてる。これ、皮膚病なの?と訊きました。僕はアトピーについて説明しました。完治させる治療法は今のところ無いんだということも。カナコは身体を起こして僕の上に屈みこみ、その部分に口づけをしました。
僕は話題を変えました。
君はピアニストになろうとしているの?
別に。何でもいい。事務員でも、主婦でも。
やっぱりピアニストになりなよ。
そう簡単じゃないよ、と彼女は笑いました。
他愛もない会話の後で、僕は何気ない風を装って訊いてみました。
なんであそこに通ってるの?
ああ文化ピアノ?
うん。
近くにバイト先があるから。
バイト…
カナコは僕の目をじっと見ました。そして小さなため息をついて言いました。
下の店よ。あるでしょ、風俗店。
どうして、そこで?
そりゃお金が稼げるからよ。それに上に上がれば、すぐにピアノも弾けるしね。
嫌じゃないの、バイトの仕事。
まあ、嫌じゃないといえば嘘だけど、でもそこまで別に嫌じゃないよ。今のところはね。労働の対価に見合った報酬を得られているし。
でもそんなに稼いでどうするの?
あはは、と彼女は屈託なく笑ってから、うーんこれを言うとサトシに嫌われるから言いたくないなあ、と呟きました。それから、笑わないでね、と前置きしてから、騙されたんだよね、詐欺にあってさ、と言いました。
詐欺って?
コンクール詐欺。色々とあるのよ。ピアノの世界も。本当にくっだらないの。それもそんじょそこいらのコンクールじゃなくてね、国際的にも名前が通っているコンクールよ。審査員にコネがあるっていう先生がうちの音大にいてね。どうしてそんな話を信じたのか、今にして思うと私も馬鹿だったけどさ。でも、その先生自身が他のマイナーなコンクールの審査員をしているような、そこそこ有名な人だったから、まあ仕方ないよね。
つまり、その先生が、金で入賞を請け負ったということ?
まあ、そう匂わされたわけよ。でもコンクールの予備審査で落ちちゃったわけ。もう話になんないよね。単なる口約束で契約書も何もないし、向こうはそんな約束した覚えはないし、できるわけもないし、って言ってあっさり。でもアドヴァイス料だとか特別レッスン料だとか適当なことばっかり言って金だけはしっかり受け取るんだから汚いよね。それもはした金じゃないからね。一千万近くだよ。もちろん返して、って言ったけど、スタインウェイを買い替えたから全額は無理だって。
告発してやればいいのに。
いや、向こうの弁護士がさ、そんなことしたら逆にこっちを名誉棄損で訴えるとか言ってきてさ。結局、示談ってことで三百万だけは返してくれたけどさ。でも七百万は戻ってこなくて。
だからって風俗で働かなくても。
いや、もういいの。その詐欺の件では親に金を出してもらったんだけど、すごく揉めちゃって。うちの親も頭おかしいんだよ。返さないと今度は家から出ていけとか、挙句には私を訴えるとか言い出しちゃったりしてさ。家とか車とか見栄張ってるから余裕ありそうに見えるでしょ。でもね、借金まみれなんだよ。経営してる会社が傾いててさ。しかも親戚とか身内を保証人にしているから身動きもとれなくなってる。完全に家庭内別居だし、それぞれに愛人いるし。
聞いていて、僕は黙って頷くしかありませんでした。
まあ、風俗で働いてるのは、そんな毒親への半分当てつけみたいなところもあるかもね。でももう借金もだいぶ返したし、サトシが嫌っていうならやめるよ。
うん。嬉しくはないね。やめられるならやめてほしい。
鷺宮の僕のアパートにカナコは週に数回来るようになりました。
その日も、カナコが昼前に来て、僕が作ったニラと豚ミンチ入りのオムレツを二人で食べた後、ライヒの砂漠の音楽のCDをかけながら抱き合いました、カナコが声を上げ始めると、隣の竹岡の部屋から中島みゆきが大音量で聞こえてきます。そこに対抗してカナコがボリュームを上げたライヒの音楽が絡んで奇妙なことになりました。世情というドラマチックな歌のメロディを聴きながら僕らは一回目を開始し、ⅭDの曲が一巡して再び世情がかかったとき、僕とカナコも丁度二回目を開始したところでした。二人でそれを歌いながら交わりました。シュプレヒコールの波と混然一体となった砂漠に僕が射精してことが終わると、彼女はすぐに高円寺女学館でのバイトがあるからと言って帰っていきました。
その夜、僕が銭湯から帰ってくると玄関のドアがノックされました。ちなみにインターホンは壊れていたので外してありました。僕がドアを開けると竹岡が立っていました。
昼間からまた女連れ込んでましたね。声、うるさかったです。本当、迷惑ですよ。常識をわきまえてください。
すみません、と僕は素直に謝りました。
竹岡は僕を睨むと、勘弁してくださいよ、と呟きながら玄関のドアを閉めました。
カナコが来て砂漠の音楽をかけながら交わって、竹岡が対抗して中島みゆきをかけて、後で苦情を言いに来る、というパターンは、しかしそれから月に一回くらいのペースで何度か繰り返されました。僕もカナコも中島みゆきの曲をたくさん覚え、そのうちのかなりの曲をそらで歌えるようになりました。
ある晩、僕の部屋のドアが叩かれました。いつもの竹岡の叩き方でした。その日はカナコが来る予定もなかったので、僕は一体何だろうと思いながらドアを開けました。
竹岡は、両手に四角い箱を持って立っていました。少し頭を下げて僕の顔を上目遣いに見ながら、その箱をこちらにずいと差し出しました。
これ、どうぞ。
何ですか、と僕は手を出さずに言いました。
いや、これ、受け取ってください。
竹岡の目が眼鏡の奥で瞬きを繰り返していました。僕に菓子折り持参で謝罪しないとならない何かまずいことでも彼はしでかしたのだろうか。不安に思うよりも僕は何となく彼が気の毒になり、黙って箱を受け取りました。箱は軽く、お菓子かな、と思いました。実際、焼き菓子の詰め合わせでした。
これは一体?
いや、実は、近いうちに引っ越すことになりまして。
あ、そうですか、そうなんですか。あの、どちらに。
いや、そんなに遠くないです。横浜の方。
そうですか。
就職するんです。
そうですか。それはおめでとうございます。
とりあえずそう答えはしましたが、そこに次ぐ言葉は見つかりませんでした。就職する、と告げてから向こうも黙っています。もとより別にお世話になったりお世話をしたりという間柄ではなかったし、いやむしろ、こちらが一方的に迷惑をかけていました。なのにこんなお菓子を配って引っ越しのご挨拶とはまた何と律儀な、と僕は感心するというよりは半ば困惑し呆れました。そして菓子折りを持ったまま、とりあえずまたお辞儀をしました。
いや、これはあの、引っ越しするからじゃなくて、お詫びです。
そう竹岡が言ったので、僕は、は?と思わず声を上げました。
いや、あの、私の部屋にですね、今度女の人を呼ぼうかと。
はあ。
いや、あの、井口さんがこのアパートに女性を連れて来られることに何度か苦情を言った手前、私としては同じようなことはしてはいけないと、まあ、そう思っている次第なんですけど、その。
はい。いや本当に、それはあの、いつも申し訳なく。
いや、それがあの、私、最近彼女が出来まして。
はあ、それは良かったですね。おめでとうございます。
ええ、あ、ありがとうございます。それでですね、明日、ここに呼ぼうかと、まあ、そう思ってまして。
ああ、呼んだらいいじゃないですか。もし何なら、その時間、僕はアパートに居ないようにしますよ。
いや、そんな。別にそこまで。でも、すみません。あの、もしうるさかったりしたらすみません。ここは壁が薄いから。私も気をつけますけど。
ああ、いやこちらは全然。いや、第一、気にするなんてとても言えた義理でもないですし。本当、気にしないでください。そんなこと気を遣ってたらせっかくのデートも楽しめないですしね。
翌日の夕方、竹岡の部屋の玄関の鍵がガチャガチャ音を立てて空き、お邪魔しまあす、という女性の声が聞こえました。女性の声はアニメの声優のように高く、どことなく取ってつけたようなわざとらしい抑揚がありました。流しで洗い物をする皿のぶつかる音がして、それから女の子のソプラノに交じって竹岡のくぐもった笑い声が聞こえました。竹岡の笑い声を聞いたのはそれが初めてでした。カナコはその日も来なかったので、僕は一人で砂漠の音楽のⅭDをかけました。しばらくすると隣からは中島みゆきの曲に交じって、小さく女性の喘ぎ声が聞こえはじめました。すごい、という、女性の吐息交じりの声が聞こえました。意外と言っては失礼だけど竹岡さんやりますね、と僕は心の中で竹岡さんに喝采を送りました。
それから二週間のうちに、少なく見積もって十回以上、僕は隣室からのアニメ声での、すごい、という言葉を聞きました。すごい、というのは竹岡が本当に凄腕のテクニシャンなのか、あるいは営みの時の彼女の、単なる演技あるいは口癖なのか、そのどちらなのだろうと思いました。どうも前者だとは思えませんでした。
僕の部屋にカナコが来て、始める時間が丁度かち合ったこともありました。乾いたリズムが延々繰り返されるライヒの音楽と、震えるような情感がこもった中島みゆきの歌声と、カナコの声と、向こうからのアニメ声とが混ざり合い重なりました。
竹岡が僕のところに菓子折りを持ってきてから二週間ほど経ったころ、隣の部屋から人の気配が消えて急にしんとなりました。その翌日、バイト帰りに竹岡の部屋の前を通ってみたらドアが開いていました。部屋の中は空っぽでがらんとしていました。
僕がS駅、城田は同じ西武線のK駅近くのアパートに住んでいたこともあって、城田とは時々会って飲んでいました。出産後、育児に専念した三年の後、受験勉強を始めたかおりは、その翌年、S大の医学部に合格し、四歳になった娘の悠を連れてN県に引っ越しました。試験では上位の成績をとって学費免除を受け、悠を保育園に預けて大学に通っていました。
城田はかおりと別居したままで、M市の、メッキ塗装や金属加工を請け負う会社で高卒の正社員として働き、主任に昇進していました。
かおりも何とか医者になったしな。俺は約束通り年度末で退職して主夫になるよ。それまではせいぜい一人暮らしを楽しむさ。
城田はそう言って、時々、酒を抱え、会社の同期の友達を連れて僕のアパートに来ました。二人は大概、灰色の作業服姿で、いかにも工場勤務という感じでした。城田の友人は槇原という札幌出身の男で、体育会系の爽やかさがありました。彼は八王子の大学を中退したあと城田と同じ会社に就職したとのことでした。その年の新入社員は城田と槇原の二人だけで、しかも高校時代は二人とも陸上部で短距離を走っていたこともあって意気投合したようでした。槇原は酔うと、僕のことを先輩、と呼びました。年下に向かって先輩はおかしいですよ、と槇原より二つ年下の僕が言うと、いや、精神年齢的に俺は三つくらい下なのでイグチくんのことを先輩と呼ばせてもらってるだけです、などと訳のわからないことを言いました。
槇原は僕のアパートに酒の一升瓶とギターを抱えてやってきては、芸人の物真似や、オリジナルの一発芸を披露してくれました。僕は大口を開けて馬鹿みたいに笑いました。笑いの発作が一度起こるとなかなか収まらなくなって、城田や槇原を驚かせたりもしました。今にして思えば、当時の僕は感情をコントロールする能力が心許なくなっていたのではないかと思います。カナコに振り回されて疲弊していたせいかもしれません。城田と槇原は僕をカナコから引き離そうとしました。そして彼らがそうすればするほど逆に、僕はカナコに吸い寄せられました。彼女は僕の性の指導教官であり、僕のアトピー肌に口づけすることができる。彼女が蜘蛛で、巨大な網を広げて待ち受けていたとして、僕はそこに絡まっても一向に構いませんでした。
カナコさんは駄目だよ。深入りするのはやめときなよ。
カナコのどこが駄目なんだよ。
それは自分が一番よく分かってるだろ。あの人は結婚とかには絶対に向かない。
そんなことは結婚してみないとわからないだろう。
第一、サトシは経済力無いだろ?きちんと就職してないし。
ちゃんと働くさ。
とにかくあの人はやめた方がいい。サトシは絶対に痛い目にあうよ。
何でそんなにむきになって反対するんだよ。
酔いが回るとこんな言い合いになり、雰囲気も険悪になりました。確かにカナコは危ういところがある。それは僕にもよく分かっていました。実際まともではありませんでした。衝動的に何着も服やアクセサリーを買って、箱から出しもしないでそのまま放置したり、泥酔して保護され、指紋を取られた挙句に麻布のトラ箱に泊められたりもしました。奔放で、不安定で脆く、僕はカナコを壊れ物のように扱っていました。だけどそれを城田たちに云々される筋合いはありません。あくまで僕とカナコの問題だと思っていました。
僕がカナコが付き合い始めて一年ちょっと経った頃のことでした。その日、カナコと僕、城田と槇原の四人で、新宿の居酒屋で飲みました。最初は機嫌よく飲んでいたカナコが、途中から妙に僕に絡み始めました。彼女はその前の週の週末に、僕が連絡なしに待ち合わせに遅刻したことを責め始めました。いつもそうだと。いつもとまではいかないまでも実際それはよくあることだったので、僕はごめんと言って謝りました。しばらくしていきなり彼女は、嫌だ、許せない、と大声で言いました。僕が黙っていると、何もかもが許せない、と彼女は叫びました。それは言い過ぎだよ、カナコさん悪酔いし過ぎ、サトシが気の毒だよ、と槇原が言うと、カナコは据わった目を槇原に向けて訊きました。
槇原さんは風俗で働いていた女性を好きになれますか?
槇原はしばらく考え込んでから、好きになる、ならないの基準が、自分でもよくわからないけれど、その人の魅力次第だと思う、と答えました。
じゃ、好きになったとして、彼女に風俗で働くのは止めさせる?
それは男なら誰だってそうだろうね。
サトシは私のことを愛してると思う?
思うよ、もちろん。
私が風俗で働いた経験があっても?
うん。サトシは君に惚れてるし。
じゃ、サトシは私と結婚すると思う?
わかんないよ。本人に訊いてみなよ。
訊くわけないじゃん。嫌だって言われるに決まってるから。
カナコは啜り泣き始めた。僕は急に酔いが回っていることを自覚しました。泣いているカナコに何か言わなくては。どうにもならない感情が不意にこみあげました。その勢いのまま、カナコに向かって言葉をかけました。
君と結婚できたらいいと思ってる。
自分の口から出た言葉を聞きながら、ああ自分は酔っている、と思った。おう、と言って城田と槇原は拍手した。こいつらも酔っている、とも思いました。気がつくとカナコは僕に縋りついて泣いていました。城田と槇原は、俺たちが証人だからな、と口々に言って僕とカナコを祝福しました。
そのくせ数日後には、二人は酒を持ってアパートにやってきて、僕に結婚は止めた方がいいと言い始めたのでした。
そもそも、僕にはプロポーズする資格など全くありませんでした。必修の物権法の単位を二年連続で落とし、大学生活は六年目に入ることが確定していました。単位を取ることは不可能ではなかったけれど、卒業するのが面倒でした。いや全てが面倒くさく、もう全てがどうでもよくなっていました。両親には司法試験の勉強のために留年していると嘘をついて、僕はその日暮らしのアルバイトで食いつないでいました。その頃僕の生活は完全に昼夜が逆転していました。それに実のところ、僕はカナコとの結婚に確信が全く持てませんでした。それでも暗闇に向かって突き進んだのは、反対されたことで逆に退路を断たれ、そうするしかなくなったからでしょう。彼らは僕が酔いの勢いで点火した火種に油をざばざばぶっかけました。彼らも何回かの説得が無駄どころか完全な逆効果な結果に終わると、今度は僕とカナコの乗った泥船を海に向かって押し出す側に回りました。
その頃のカナコは家を出て多摩地区のT市のマンションで独り暮らしをしていました。アパートで同棲することを僕は提案したのだけれど、彼女から断られました。彼女の新しい職場から遠かったからです。彼女はT市の楽器店にピアノ講師として就職していました。彼女は両親とは絶縁状態だったので、僕の両親の許しがあれば、それでさっさと結婚してしまおうということになりました。
父親は僕に言いました。
子供ができたとき、その子をちゃんと育てることができるならいいよ。その覚悟がないならやめた方がいい。でも子供を持たないという方針ならそれはそれでいい。結婚はかまわない。二人で決めるものだから、したいならすればいい。
父の言葉を聞きながら、どこか突き放されたようにも感じました。いい加減独り立ちをしろ、ということでしょう。こちらとて大学に入ってからはろくに帰省もせず、一方的に脛をかじるだけで親のことなど全く顧みずに過ごしてきていたのだから文句はいえません。母はもうその頃認知症を発症していて、父はその介護に追われていたはずです。その父自身も、自分の認知症をそろそろ自覚していたでしょう。それでも結婚するまでは僕に細々と仕送りを続けてくれていたのですから、父には感謝しかありません。
社会で揉まれて精悍さを増した、城田の自信に満ちた顔が浮かびました。彼の真似など到底無理だと思いました。僕よりずっと優等生だった城田は、大学進学を諦め、ブルーワーカーになりました。そして立派に労働者としての義務を果たし、かおりと我が子を支え、あと少しで主夫になります。なのに僕は二十五歳になってもまだ社会の寄生虫でした。
結婚を勇ましく宣言したくせに、いざとなって、僕は尻込みしてしまいました。先に進むための具体的な手続きの日程決めの段になって腰が引けて、ぐずぐずとああでもないこうでもないと行動を先延ばしにし始めました。カナコは僕が突然マリッジブル―に陥ったと思ったようでした。そして無理しなくていいよ、と言いました。
僕とカナコの結婚がそうやって僕のせいでぐずぐずと先に進まないでいる間に、槇原に追い越されました。彼の結婚は、僕とカナコのそれとは対照的に、とんとん拍子に進んだようでした。
槇原が婚約したのは僕たちの婚約の直後だったということは後で知りました。友人から紹介されたという彼の婚約者は、丸顔で目が細く、いつも笑っているようなふくよかな人でした。保母さんをしているとのことでしたが、いかにもそういう職業が似合っている感じでした。
空気の澄んだ冬の夜でした。羽田空港での徹夜のアルバイトの後、駅前の深夜屋台で一杯ひっかけて酔って帰宅した僕は、そのまま布団に倒れ込みました。目が覚めたのが午後四時。夕方、電話の鳴る音で目が覚めました。
どうしたの、と電話が城田からかかってきたとき、僕は、え、何が?と間の抜けた声で訊き返しました。
いや、結婚式だよ、何で来なかったの?
意識が一瞬空白になりました。全身の毛穴が開いて汗が噴き出してきました。やらかした事の重大さに言葉を失い、あれ、と呟くのがやっとでした。槇原の結婚式の招待状を、数か月前に僕は本人から直接手渡しで受け取って、日付けも確認していました。うっかり、というのではない。完全に忘れていたのでした。
ああ、今日は朝から熱が出て動けなくなってて……
僕はそう言って、言葉を継ぐのもしんどい、といった感じでそこでこれ見よがしに咳き込んでみせた。滑稽な猿芝居でした。
そうか。じゃ、お大事に。
城田は言って電話を切りました。何も彼は追及してきませんでした。呆れたのか、優しさからなのか分かりませんが、おそらく後者だと思います。城田はそういう奴でした。
僕は槇原に謝罪どころか、何の連絡もしませんでした。ああ、もうどうしようもない、という思いがぐるぐると渦を巻き、それ以上どうしてよいか本当に分からなくなってしまったのです。失敗の上にさらに致命的な失敗を重ねて駄目押しをしたという訳です。当然のごとく槇原からも連絡は来ませんでした。彼は相当に激怒していただろうと思います。こうして僕は友人を一人失いました。彼とはそれ以降一度も顔を合わせていないし、声も聞いていません。どうせ槇原は元々城田の友人であって、僕とは城田を介して付き合っていただけなんだし、と僕は自分に言い訳をしました。
僕のそのしくじりが、城田との付き合いに影響を及ぼすことはありませんでした。城田とその後飲んでいても、結婚式すっぽかし事件については、彼は一切触れることはありませんでした。
その年の春、城田は仕事を辞めてⅯ市に転居しました。僕はカナコと籍を入れてカナコのマンションに転がり込みました。僕は在籍六年目となる大学にはほとんど行かず、もっぱら塾教師のアルバイトに精を出していました。
結婚生活は最初から不穏な空気に満ち満ちていました。僕とカナコを結び付けていたものはとにもかくにもピアノとセックスだけだったから、僕らは毎日、マンションのピアノを弾いては猿のようにやりまくりました。部屋が狭かったのでグランドピアノの下でも上でもやりました。避妊もしなかったけれど、子供はできませんでした。カナコの性格があちこちかなり破綻していることには結婚前からある程度は分かっていましたが、一緒に暮らし始めて突き付けられた現実は僕をしばしば驚愕させました。例えばカナコには経済観念というものがほぼ欠落していました。お金の管理が全くできませんでした。ホストにも貢いでいました。物をしばしば無くしました。それも大切なものを。僕とて招待された結婚式をすっぽかすような、多分にADHD傾向の強い人間ですからカナコのことをあれこれ言えた義理ではありませんが、カナコは贔屓目にみても僕よりずっと重症だったように思います。例えば銀行からお金をおろした直後に財布を無くしたということが一年で二回ありました。結婚して半年くらい経ったある日、カナコが出勤して僕がマンションに一人でいるときに電話が鳴り、出ると名乗らない若い女の声で、カナコさん浮気してますよ、といきなり言われました。ピアノ教室に通っている中年男性と遊んでいる、それも手あたり次第なのだと。美しいバッハを弾く彼女と、無軌道に性的放逸に身を任せている彼女とは同じなのだという現実に気がついて、僕は破滅を予感しました。ああ、カナコと僕にあるのは今だけで、未来はない、と絶望しました。絶望は、奇妙な興奮を伴っていました。それは僕を夜の街へと駆り立てました。ブランドのスーツなど一着も持っていない僕は、学生が多い六本木のカジュアルなディスコで、男に声をかけられずにあぶれていて、それでいて物欲しそうな目付きで踊っている女の子を選んでは声をかけました。十人に声をかければ一人は釣れました。性欲解消だけが目的だったから相手の容姿には目をつぶりました。カナコも僕も、互いに同じことをしていました。僕たちは無断で外泊をし、互いに単なる同居人に過ぎなくなってゆきました。それでもたまに夫婦二人で一緒に過ごす夜は、よくビデオを借りてきて観ました。カナコはホラー映画を好みました。
彼女は時々、何の前触れもなく泣きました。そして死にたいと言いました。それでも夜には消音器をつけたピアノを必ず二時間は練習しました。練習中に声をかけるとカナコはたちまち不機嫌になり、うるさい、と怒鳴りました。僕は全くピアノに触れなくなりました。僕とカナコでは歴然とした技量の差があり、カナコに聴かれるのが苦痛だったからです。
国内のコンクールでは彼女は結果を残せませんでした。彼女が詐欺で訴えようとした重鎮が、今だ実権を握っていて、自分はブラックリストに名前を載せられているからだ、というのが彼女の言い分でした。それが本当なのかカナコの思い込みなのかは僕にはわかりませんが、彼女にコンクールに入賞する実力はあったと思います。ただコンクールというものは、実力以外に、運もある意味必要で、彼女には運が無かった、というだけのことかもしれません。
彼女の両親の仲が冷え切っていることは知っていました。しかし結婚後に詳しく知った彼女の家庭環境は思っていた以上に酷いものでした。家庭内で完全に孤立している父親は、カナコの高校時代の同級生を愛人にしていました。母親は新興宗教に入れあげて、高額の寄付によってそこの幹部になっていました。またカナコは一人っ子だとばかり思っていたのですが、ヒロという異母弟がいました。最初、カナコはヒロの存在を僕に隠していました。僕がそれを知って咎めると、僕がそれを一度も尋ねなかったからだと開き直りました。カナコはこの弟と何年も口をきいていないと言いました。一時期はホストをしていたようだが辞めて、その後何をしているのかは全然知らないということでした。ただ金には困っていないようで、バブルで浮かれている世相の最先端を行くような遊び方をしていると。ヒロの写真を見せてもらったことはあります。髪をオールバックにして固め、白いスーツを着ていました。どこか威嚇するような鋭い目つきでふてぶてしい笑顔を浮かべている彼の横には、一目で水商売関係と分かる女が立っていました。どう見てもヤクザにしか見えませんでした。もし会ってみたいなら一応連絡は取れるとカナコが言いましたが、もちろん僕は断りました。
僕とカナコの結婚生活は二年もちませんでした。毎日喧嘩が絶えず、家の中は殺伐としていました。カナコも僕も整理整頓や掃除が苦手で、家の中はごみ溜めのようでした。一度いきなり遊びに来た城田が絶句して、三時間ほど黙々と掃除をしてくれたことがあったほどです。離婚の決定打となったのは、カナコが僕のクレジットカードで勝手に借金していたのを知ったことでした。近所のスーパーに珍しく二人一緒に買い物に行ったとき、財布を忘れた僕が彼女から渡された財布を開いて、その中に身に覚えのない僕名義のクレジットの支払い通知書を発見したのがきっかけでした。僕と彼女を結び、縺れて固まりながらも何とか支えていた糸が、そのときぷつりと切れたのでした。カナコは確かに破滅型のタイプでしたが、僕はといえば、そんな彼女を一方的に責めながらも、何の手立てもうたず、彼女を精神的に追いつめてばかりいたのではないかと思います。僕は八年かかって何とか大学を卒業すると同時に、カナコと離婚してマンションを出ました。
城田の結婚もまた、短いものでした。彼が都内に戻ってきたのは僕が離婚した直後のことです。城田は主夫として家事育児に専念すべくⅯ市に転居したのですが、同居をはじめて一年経たないうちにあっさりと妻のかおりに三行半をつきつけられてしまいました。都内で一人暮らしをしている間に羽目を外した彼はクラミジアを患っており、それがかおり感染したことで浮気が露見したのでした。城田は都内で一人暮らしをしている間にネットで相手を探しては遊ぶことを繰り返していました。性的な欲求を満たすためだけの行動であって、排泄以外の何物でもないのだと彼は言っていたけれども、そんな言い訳がかおりに通用するはずもありません。
僕と城田は、離婚したもの同士、傷を舐めあうように会っては飲み歩きました。城田は裕福な実家と絶縁していたし、僕は就職したばかりで給料も安く、おまけにカナコの作った借金を返済しなくてはならず、二人ともその頃には常に経済的に逼迫していました。行くのは安い場末の居酒屋か、そうでなければ酒を買ってアパートで飲んでいました。
私と再婚などしなかったら、あなたはもっと自分らしく生きていけたでしょうに、と君はよく言いましたね。一人でもっと自由にのびのびと、クリエイターとして色々もっともっとチャレンジして、と。いや、僕は十分のびのびと生きてきたし、創造的、革新的なことだってちゃんとやってきたつもりです。それに大体、君と再婚していなかったら、僕は今生きていない。あの頃、既に狭心症だって患っていたし、まず間違いなく糖尿病にはなっていたでしょう。そして心筋梗塞で倒れて、今頃さそり座かどこかの近くの、名もない星にでもなって夜空に浮かんでるはずです。
君と再会したときのことを思い出します。あれは確か、地元鹿児島の内科・整形外科病院の廊下でした。徘徊の末に転んで入院した父を、久しぶりに帰郷して見舞いに行った僕は、前から歩いてきた白衣姿の女性医師を見て、すぐに君だと分かりました。君が内科医になっていたことを知らなかった僕が、驚いて声をかけると、君は僕をしばらく凝視してから、ひょっとしてサトシくん?と訝し気に答えてくれた。その瞬間わいてきたのは喜びの感情ではなくて、みじめな後悔でした。どうして声などかけてしまったんだろう。君が僕のことをすぐに分からなかったのも無理はない。あの頃、不摂生を極めていた僕の体重は百キロを超えていました。心理状態の荒みが如実に外見に現れていました。髪の毛は坊主にしていて、当時名前が売れてきていた格闘技のマーク・ハントに似ていたので、当時の飲み友達からはマーくんと呼ばれていました。タトゥこそ入れていませんでしたが、新宿の路上ですれ違ったヤンキーのお兄さんからも目を逸らされるような、かなり柄の悪い、いかついなりをしていました。コンビニで立ち読みしていて職務質問されたことも数回ありました。困窮して借金の督促から逃げ回りながら、細々と日銭を稼いでは酒と賭け麻雀に溺れていた僕は、あの時、それまでの人生で最も惨めな日々を送っていました。
ちょっと話が前後してしまいますが、卒業後、一度は僕も背広を着てネクタイを締めて、満員電車で都心に通勤するサラリーマンをやったことがあります。いわゆる就職氷河期が到来する前で、まだバブルははじけていませんでした。八年かかって卒業するような落ちこぼれでも拾ってくれるところが、当時はあったのです。僕が就職したのは、空調や衛生設備の施工を行う中規模の会社でした。
入社して研修を受け、僕は経理部経理課に配属されました。同期の新卒は九人いましたが残りの八人は営業でした。その連中からは陰であれこれ嫌味を言われたものです。曰く、上下関係の厳しい営業の現場では先輩社員が年下だとやりにくいので内勤に回されたんだろう、いいよなあ、外で汗をかかない楽な仕事でさ、と。確かにそういう面はあったと思います。経理課は新卒の社員を数年間とっておらず、僕より年下の先輩社員は一人しかいなかったからです。その、僕より一つ下の佐久間という先輩は、大学のゴルフ部でかなり鳴らしていたということで、ほとんど毎週末のように課長や、営業の人たちと一緒にゴルフに行っていました。僕はゴルフに全く興味が無く、またそれにつぎ込む時間もお金も無駄に思えたので、ゴルフの誘いをやんわりと断っていました。とりあえず打ちっぱなしの練習には行け、と課長に半ば命令口調で言われましたが、それも何となく断っていたところ、佐久間からうちの会社でゴルフやらない奴は大体みんな三年以内に辞めるよ、と言われました。そういえば僕の前任者の経理の若手が入社三年目で辞めて、僕がその補充に回されたということは聞いていたので、なるほどゴルフをしなかった人だったのだろうか、と少し憂鬱な気分になりました。佐久間は一見明朗で親切そうに見えましたが、底意地の悪い奴でした。わからないことはまず佐久間君に訊くように、と課長から言われていたので、隣に座っている彼に何かと質問をしたのですが、その度に彼はため息をつき、普段の気安い口調とは違う、その時だけの不自然に慇懃な敬語で喋りました。ご理解いただけましたか、というのがその時の彼の口癖でした。
ある日、佐久間から、井口さんってひょっとして童貞ですか、と訊かれたので、バツイチです、と答えたら、うそ、マジで、とあまりに大袈裟に驚くので、余程女性に縁が無いように思われていたのかと腹が立ちました。まあ、確かにモテる方ではないですけれど。
続けて、じゃ、今彼女とかいるんですか、と訊かれ、いません、と答えたら、それなら社内で募集掛けたらどうですか、とにやにやしながら言われました。俺の同期も何人かそうやって彼女つくったし、女の子たち、みんな、うちの大卒独身の男狙ってるから、彼女がいないって分かると飛びつきますよ、と言うのです。いや、別にいいですから、と一度は断ったのですが、まあそう言わずに、としつこく食いついてくるので、募集ってどうやって、と訊くと、佐久間は嬉しそうに、社内の総務部の廊下の広報掲示板に募集告知を張り出すんですよ。実はね、もう原稿、準備してあるんですよ、ほら、とボールペンでメモ紙に書いたものを差し出しました。
〈再来週の週末、一緒にディズニーランドに行ってくださる女性を大募集します。経理部経理課・井口聡(二十七歳・彼女募集中)。連絡先は社内内線〇〇〇まで。応募者複数の場合は先着順❤〉
ディズニーランドには全く興味が無かったし、大募集とか、複数の場合は先着順、などと書く臆面の無さ、❤マークの軽薄さに僕はたじろぎました。嫌ですよ、と固辞したのですが、まあまあまあ、せっかく作ったんだから、と食い下がってきます。大丈夫大丈夫、俺が太鼓判押します、俺知ってる限りでは井口さんのファン、意外に多いですよ。絶対何人か飛びついてきますから、先着順ということにしといて、後でかけなおしますって答えといてから、電話くれた人の中で一番可愛い子を選べばいいですよ、と言い張りました。結局、佐久間の軽いノリに押し切られてしまい、言われるままに募集告知をする羽目になったのでした。
やらなければよかった、とすぐに思ったけれど後の祭りでした。社内の若い女の子たちは廊下で僕と顔を会わせると目を逸らすし、男性社員は、よ、調子どうや、と茶化すように訊いてきます。課長も、お前、なかなか大胆なことしよったなあ、やるなあ、と言って僕の肩をぽんと叩きました。
期限の二週間後の週末になっても、応募者複数どころか、一人の連絡もありませんでした。惨敗でした。後で同期の営業の奴から、お前のせいで千円損したじゃん、と言われて初めて知ったのですが、この彼女募集の企画は、最初から仕組まれたものでした。僕の営業の同期の奴が言い出して、佐久間がそれに協力して、応募してくる女性がいるかいないかで社内で一人千円の賭けをしようという企画になっていたのだそうです。佐久間はゼロという数字に賭けていました。
俺は一人いる、ってのに賭けてたんだけどさ。同期の彼はそう言いました。そしてこうも付け加えました。男たちが賭けをしてるってのが女の子たちの間で噂になっちゃったんだよね。それ失敗だったな。だから余計に誰も応募してこなかったんじゃないかな。
一切を知らずにいたのは、コメディの主役を押し付けられていた僕だけ、という訳です。ひょっとしてその噂を流したのは佐久間ではないかと思いました。
月曜日、佐久間が僕の所ににやにやしながら近づいてきて、まあ、気を落とさないで、と言いました。残念会やろうよ。女の子も呼んであげるから、と。僕は、結構です、と答えるのが精一杯でした。
それから数週間後のこと。年度末の仕事の区切りがついて、いつになく上機嫌だった経理部の部長が、たまには課内の皆で飲みに行こうか、と言い、鶴の一声で急遽週末に飲み会ということになりました。職場の同僚たちと飲むのは自分の歓迎会以来です。その歓送迎会では、僕は同僚や上司のイッキコールに乗せられるままに飲み、一次会で潰れてしまいました。それ以降、一度も職場の人たちと飲みに行くことがありませんでした。そもそも誰も僕を飲みに誘わないし、僕も定時になったらいつもさっさと職場を出ていくようにしていましたので周囲としても、この後どう、などと声をかけにくかったのでしょう。同じ若手でも佐久間はほぼ毎週のように飲みに誘われていましたから、自分が課内で浮いている、というのははっきりと自覚していました。僕は、その二度目の飲み会をきっかけに課内の人たちとの距離を縮めたいと思いました。佐久間とは顔も合わせたくないけれど、やはり会社という組織の中で、これからずっと生きていかなければならないのだから。
その貴重な二度目の飲み会で、佐久間に彼女募集の失敗をネタにされて散々揶揄われた僕は、手酌で酒をがぶ飲みして酔いつぶれ、気がついたら自宅のアパートにいました。一次会の最初のあたり、佐久間が大声で笑っているのを黙って聞いていた記憶はありましたが、それ以降の記憶がきれいさっぱり欠落しています。
翌日は日曜日でしたが、二日酔いで一日中布団から出られませんでした。
次の月曜日、遅刻ぎりぎりで出勤して自分のデスクにつくなり、青木さんという課内の女子社員が近寄ってきて、井口さん、佐久間さんに謝っておいた方がいいわよ、と耳打ちされました。僕より少しだけ先に出勤していた佐久間は、朝一番で他の課に用事があるとのことで席を外していました。僕は自分が何をしでかしたのか、おずおずと青木さんに訊きました。すると青木さんは答えました。
井口さん、佐久間さんにビールをかけたんですよ、と。
えっ。僕は絶句しました。
憶えていないんですか。
ええ全然。
ビール瓶持って佐久間さんのところへ行ったから、佐久間さんがグラスを差し出したんです。そしたら井口さん、黙ってグラスじゃなくて頭にビールを注いだんです。井口さんもびっくりして固まってました。もう、服とかも、全身びしょびしょになって。
それで、佐久間さんは?
おしぼりで頭拭いて、今度のゴルフコンペで優勝する予定なんで、これで前祝いしてもらったってことにしときます、なんて冗談言ってましたね。でもやっぱりかなり怒ってましたね。井口さんのことを酒乱って言ってました。もちろん、その後すぐ家に帰りましたよ。井口さんは高橋課長が家までタクシーで送って行ってくれたんですよ。家の前にタクシー停めてもらっても、一人じゃ降りられなさそうだから、って。
こうして惨めな結果に終わった彼女募集騒動とか、その後の、飲み会での失敗だけが原因ではありません。他にも失敗は幾つもやらかしましたし、営業の同僚とのトラブルもありました。同期が全員集められて受けさせられた、営業、総務合同のフォローアップ研修では僕は見事に最低点でした。会社辞めたいのですが、と言って課長に相談したとき、課長の表情が一瞬ほっとしたように緩んだのを憶えています。当然のことでしょうが、送別会は開いてもらえませんでした。
会社を辞めてからは定職につかず、僕は三十を過ぎてもなおその日暮らしのアルバイトで食いつないでいました。部屋が汚いせいでアトピーも喘息も調子が良くなく、たまに城田と飲む以外は、人付き合いも避けていました。その城田も僕と似たり寄ったりで、あたかもダメ人間ぶりを競うかの如き、不摂生で自堕落な生活を送っていました。城田と僕の違いは、太りやすい体質の僕がぶくぶくと太ってしまったのに比べ、彼のアスリートのような体型が全く変わらなかったことと、そのせいかどうか、城田が女に全く不自由しなかったことでしょう。城田は飲み屋で知り合った女を篭絡してヒモのような生活を始めたかと思うと、突然、髪を明るい茶色に染め、六本木のホストになりました。この稼業はイケメンで社交的な城田に向いていたらしく、三十歳超えての転身にもかかわらず順調に人気を獲得して、店の看板ホストの一人になるまでにそう時間はかからなかったようです。城田が多忙になり、僕との飲みに付き合うことも稀になると、僕も何となく近所の飲み屋から足が遠ざかりました。一人で飲むのは虚しかったし金も無かったからです。それでもたまに城田は僕を誘ってくれ、六本木や西麻布あたりのバーで奢ってくれるようになりました。そういう店に女性二人で来ている客がいると、城田は、これも営業だから、と嘯いて、さりげなく声をかけて、こちらのテーブルに連れて来るのでした。自然と合コンのような感じになるのですが、当然ながらモテるのは常に城田で、僕は彼の引き立て役になるのが常でした。城田はそんな僕に気を使ってか、女性たちに僕のことをしきりにアピールしました。曰く、こいつ、ピアニストなんだよ。メインはクラシックだけどさ。すごいんだよ。そしてわざわざピアノの置いてあるバーを選ぶようになりました。女性たちが興味を示しだすと、僕にピアノを弾けと勧めるのです。僕はアルコールが回って縺れそうになる指で、エリック・サティのシャンソンやガーシュインのソングブック、スコット・ジョプリンのラグタイムなどを弾きました。ネタが尽きるとセロニアス・モンクを真似ての即興演奏をしたり。店によっては、居合わせた客にアンコールやリクエストを募って弾いたりなどしました。それなりに受けたりもして、徐々に客の覚えがめでたくなってくるうち、一人のいかにも裕福そうな客から、自分の経営している乃木坂のラウンジバーでピアニストをしないか、と声をかけてもらえました。自堕落な生活を送るうちにいつの間にか背負い、膨れ上がっていた借金を返しながら生活していくのにはぎりぎりの給料でしたが、好きなピアノで生活できるのですから、建設現場で一日中重いコンパネを運ぶ肉体労働よりはるかにましで、しかも、まかないや交通費、家賃の補助などもついていたので大いに助かりました。東京近郊の系列店に出張して弾くこともありました。
君と再会したのは、惨めにもがいていたどぶ川から、片足だけをどうにか岸に引き上げたような時期のことでした。ラウンジピアニストの仕事がなければ、僕はそのまま自暴自棄の泥水の中で溺れていたでしょう。
君が僕と同様に、一度結婚に失敗していたことは意外でした。看護師との不倫を繰り返す夫と離婚して大学病院を辞め、父が入院している病院に就職したという経緯を君の口から聞かされたときは驚きました。君は、日の当たる明るい道を、真っすぐに歩いていく人だと思っていたので。
僕の変貌に驚いた君が、医師として的確なアドヴァイスをしてくれたおかげで、僕は今生きているようなものです。僕は君の言いつけを守り、東京に戻ってからの二カ月で体重を五キロ、さらに半年後には十キロ落としました。酒を断ち、ランニングを始め、キロ五分のペースで十キロを走れるようになりました。三十歳で九十五キロあった体重が、三十五歳の時点で七十キロになりました。学会で上京してきた君が笑顔を浮かべて、ああ元のサトシ君だ、良かった、と言ってくれたのは本当に嬉しかった。君が泊まっていた八重洲のホテルのレストランで食事をしながら、僕は君の目をまっすぐ見て、その言葉を口にしました。迷いはありませんでした。中学校の時から君がずっと好きだった、と。斉田たちからの陰湿ないじめから体を張って僕を守ってくれた君。僕の酷いアトピーの肌に直接軟膏を塗ってくれた君。そんな君が、自分の命よりも何よりも大切なのだと。よかったね、もう目立たなくなったね、アトピー、と言ってから、彼女は、ありがとう、嬉しい、と付け加えました。
離婚歴あり、不安定な非正規雇用のラウンジピアニストの男と、医師になった自分の娘が再婚するという話を、君の両親が祝福することなどありえないことは当然覚悟していました。君はそんな両親をあの手この手で説き伏せ、最後はしぶしぶ再婚を承諾させました。結婚式は挙げませんでした。結婚式の三カ月前に父が誤嚥性肺炎で死に、母はその前年に亡くなっていたので、君の両親と歳の離れたお兄さん、君と僕の五人で、結婚式の代わりに簡単な食事会をしました。
その席で、税理士事務所を経営していた君のお兄さんからかけられた言葉はよく覚えています。酔った彼は、瑞穂を泣かさないでくれよな、と言いました。あいつは前の結婚で相当懲りてるのに、それでも君と一緒になることを決心したんだから、と。嬉しかったです。横から君が、私もういい大人だし今更いちいち夫と喧嘩したくらいで泣いたりなんかしないわよ、と言って笑いました。君は僕と籍を入れると、鹿児島の病院を辞め、上京して僕のアパートに転がり込み、早速国分寺の病院に職を得ました。君の給料が僕の三倍以上あったことには驚かされましたが、二人の間でそのことが話題になることはありませんでした。君はどう思っていたのかわかりませんが、少なくとも僕には、それは気になりませんでした。
言葉通り、君を泣かせることは、僕は一度もしていなかったと誓えます。なのに君はたったの五年で僕から去ってしまいました。もう二度と会えないところへ。一人になった僕は、ずるずると元の自堕落な生活に戻っていきました。
夏の終わりごろだったか、一人暮らしの部屋に帰宅し、郵便受けを手で探ると、一通のエアメールが以前の住所から転送されてきていました。差出人は下村でした。勤務先の会社の社名入り封筒ですぐわかりました。彼の住所はジャカルタでした。手紙には彼の近況が記してありました。
彼は順風満帆なサラリーマン人生を歩んでいるようでした。東大卒後入社したその会社で、彼は営業管理の部署に配属され、東京本社で三年勤務した後ジャカルタに転勤になり、現在は技術統括部門のプロジェクトリーダーというポストに就いているとのことでした。まだ独身だとも。
手紙で彼は、城田とかおりがどうしているかということを気にしていました。二人の連絡先を教えてほしいとも。
書き添えてある携帯の番号に至急連絡してくれとありましたが、僕は当時ものすごい勢いで普及してきていた携帯電話をまだ持っておらず、しかもその時たまたま固定電話も料金未納で止められていて使えませんでした。それで自分と仲間たちの近況を伝える手紙を書きました。僕と城田は二人とも離婚して、城田はホスト、自分はラウンジピアニストとしてそれぞれ暮らしていること。城田はそこそこ羽振りがよいけれど、僕の暮らしは楽ではないこと。かおりは医師になってシングルマザーとして頑張っていること。長沼は詩人としてライブで活動していたけれども挫折し、音信不通になっていること。現在、連絡先が分かっているのは城田だけだということ。僕が再婚し、それからその相手を不慮の事故で失ったことは書きませんでした。あまりに辛くて書けなかったというのが正解ですが。
下村はすぐに返事をくれました。内容は、さっさと携帯電話を買えということと、仕事が何とかなるなら二週間ほどジャカルタに来てみないか、という誘いでした。城田もよければ誘ってくれ、と。
ピアニストの仕事がようやく安定し、何とかそれで食っていけるようになっていたところに二週間の穴をあけることが不安で、僕はかなり躊躇しました。ですが、独りぼっちの生活に戻ったばかりのタイミングでの下村の誘いに運命を感じもしたのです。もちろん城田にも声をかけました。彼はちょっと考えさせてくれ、と言いました。
東京を発つ三日前の晩でした。城田から飲みに誘われました。五反田に面白いところがあるから連れて行ってやるというのです。五反田駅の待ち合わせ場所で顔を合わせるなり、よう、と右手を上げて、さっさと歩きだした彼について行きました。ピアノの仕事はどうだい、と訊かれたので、まあ何とかやってるよ、と答えました。そっちは、と問い返すと、うん、まあぼちぼち、という答えを返してきました。ホストがぼちぼち、というのは、ひょっとしてあまりよくないのだろうかとも思いました。どこ行くんだ、と問うと、行ってのお楽しみ、とはぐらかされました。駅前の繁華街を抜けて十五分ほども歩き、商店街を抜け、マンションの立ち並ぶ通りから、戸建ての瀟洒な住宅が立ち並ぶ路地へ入ってしばらく行ったところで彼は足を止めました。彼の指さす先には二階建てのコンクリート打ち放しの建物がありました。小さな円形の窓が側面に二つ並んでいるだけで、他に窓は無く、何だか巨大な灰色の箱のように見えました。玄関らしい入り口は見当たらず、ビルの側壁に赤い手すりのついた外階段がついていて、二階の入り口には防犯カメラが設置されていました。
城田は入り口脇のインターホンを押し、どちらさんですか、と聞こえてきた低い声に対して、城田です、連れと二人です、と答えました。階段を上がると二階の踊り場の横の壁にドアがあり、ドアの小窓は内側から黒いフィルムが貼られているようで、中の様子は伺えません。妙に物々しい感じがしました。
ここはどういうとこ、と僕が訊き、ちょっといかがわしいとこだよ、と城田が答えたところで、ドアが内側から開きました。赤いシャツの首元に太いゴールドのチェーンネックレスをのぞかせた黒人が顔を覗かせて、城田に、どうも、と挨拶をしました。すらりとしていて身長が二メートルを超えていそうでした。城田が、やあ、お久しぶり、と右手を挙げると、相手は笑顔で、再び、はい、どうもどうも、と言いました。そして横目で僕を見ながら、小さく会釈をしました。
建物の中は暗く、ロキシーミュージックのアヴァロンがBGMに流れていました。エントランスで靴を脱いでいると、先程の黒人から、私が一緒にロッカーにしまいますので、靴下も脱いで裸足になって頂けますか、と、訛りの無い流暢な日本語で言われました。城田は言われる前にさっさと慣れたように靴下を脱ぎ、靴の中にそれを入れて彼に渡し、腕につけるバンドを受け取っていました。僕も城田に倣いました。渡された黒いバンドにはROBINと赤い蛍光文字がマジックペンで書かれていました。城田はRALLYでした。
あそこのカウンターでお好きな酒をどうぞ、と黒人に言われ、城田と部屋の中に入りました。足元は毛の長いカーペットが敷いてあり、真っ暗な中にバーカウンターだけが、間接照明の黄色い光に包まれるように浮かび上がっていました。カウンターの中にいたのは若いのか中年なのかよくわからない、化粧をした男でした。城田はジンフィズを注文し、僕は何でもいいのでスコッチのロックを、と言いました。差し出されたグラスを受け取り、カウンターに肘をついて城田と乾杯しました。
カウンターと隣の部屋との間は遮光カーテンで隔てられていて、向こうから、はおっ、とか、あ、とか、ああっ、という男女の声が聞こえてきていました。二人してグラスを乾すと、城田が僕に手招きをして、遮光カーテンを捲りました。中を見ると仄暗い照明の中、二十畳ほどもあろうかと思われる広さの部屋の壁に、クリムトやエゴン・シーレの大きな絵が額に入れられて掛けられているのがまず見えて、そこから視線を下げると、カーペットの床の上で裸の男女が三組ほど全裸で絡み合っていました。その横にはやはり全裸の、三人の男女が無言で座っていました。横座りしている中年の痩せた女、片膝を立てている若い女、足を前に投げ出している、ちょっと髪の生え際が後退した金縁眼鏡の男。カーペットの上で絡みあっている人たちは、それほど若くもなく、老いてもいない。つまり僕や城田と同じ位の年齢のように見えました。眼鏡男のペニスに、横で片膝立てているショートボブの女が手を伸ばし、軽く握って、掌で猫の喉を撫でるように愛撫を始めました。少し離れてところに座っていた横座りしている髪の長い女が、僕と城田の方に視線を向けました。その目が光ったように思えました。女は右手を挙げて手首を曲げ、指先だけを微かに動かして手招きしました。彼女の指先に糸が巻き付けてあって、それを引っ張る、というような動きでした。その糸の端は、城田と僕から出ているのです。
男が一人余るな。サトシ行けよ。俺はもう少しカウンターで飲んでから、適当に誰か相手を見つけるからさ。服を脱いで部屋の隅のバスケットに入れるんだ。腕に巻いてるテープと同じ名前のが書いてあるから、そこに。
城田はそう言って、遮光カーテンの向こう側のバーカウンターの方へと姿を消しました。
僕は服を脱ぎ、簡単に畳んでからROBINと書かれているバスケットに入れました。自分がこれから何をするのか、何も考えられませんでした。ただロキシーミュージックの曲が気怠く流れているのを聴きながら、横座りしている髪の長い女性の横に向かってゆっくりと歩き、その女性に向かって頭を下げてから腰を下ろしました。女性も会釈してにっこりと微笑みました。僕が胡坐をかくと、女性は上体を僕に凭れ掛けさせてきました。僕は女性の髪を撫でました。彼女の髪は滑らかでしたが乳房はやや張りを失っていて、四十代後半か、五十代くらいに思えました。女性の腕のバンドを見るとSARAHと書かれていました。どことなく浮世絵の美人画を連想させる、和風の顔立ちの女性でした。
ROBIN、あなた、ここ初めてなの、と女性が訊いてきました。落ち着いたアルトでした。
はい。と答えると、女性は頷いてにっこりと微笑みました。
RALLYとはお友達なのね。
そうです。高校からの古い付き合いで。
いいわね、そういうの。じゃ親友なのかしら。
まあ一応、親友ですかね、少なくとも僕にとっては。
私もRALLYとは、そうね、もう五回はここで会ってるわね。だから少なくとも身体では、互いによく分かり合えてるの。身体の親友かな。
彼女の言葉に、僕は少し心がざわつきました。
SARAHさんと僕も親友になれますか、と僕がSARAHに言うと、彼女は両の口角を大きく上げました。猫のような微笑みでした。
しかし、そう自分から誘うようなことを言ったにもかかわらず、僕はSARAHとのプレイに没入できませんでした。SARAHにリードされるがままにカーペットの上に腰を下ろしながら、城田はいつカウンターから戻ってくるだろうかと思ったのがきっかけでした。周囲を見ると、僕がこのルームに入ってきたときに絡まり合っていたカップルの面々が、一戦を終えて休憩に入り、僕らのプレイをじっと観察しているのに気がつきました。彼らは、新入りの僕がどんな感じなのか、見極めようとして観察しているのだな、と思うと、僕のあそこは緊張のあまりに脱力してしまい、胡坐をかいた僕の股間に顔を埋めたSARAHが手や口であれこれ叱咤激励してくれたにもかかわらず、さっぱり硬くなりませんでした。SARAHは僕を横たえ、頭を逆の方にして僕の上に跨りました。一旦雑念が生じてしまうと、ありとあらゆるものが、例えば、目の前にあるSARAHの割れ目から微かに漂ってくるバルサミコのような匂いさえもが気になりだして、ますます僕は縮みあがりました。SARAHはくすくす笑って、項垂れた僕のあそこに、何かのまじないのようにふっと息を吹きかけてから、初めてだから緊張しているのね、大丈夫、気にしないで、と言って立ち上がりました。SARAHが遮光カーテンの向こうに消えると、一人で残された僕は敗北感に打ちのめされました。その時、SARAHと入れ替わりに城田が戻って来ました。のろのろと身体を起こし、服を着ようとする僕を制して、城田は笑いながら、俺もここに来た最初の日はそうだった、気にするな、と言いました。大丈夫、誰かがきっとフィニッシュまで付き合ってくれるから、まだ服着るのは早いよ、とも。RALLY、と囁く声が聞こえ、振り返るともう戻ってきたSARAHが後ろにいました。城田はSARAHの手を取って部屋の中央に歩み出て抱き合い、悠然と立ったままファックし始めました。その二人の姿には、まるでこの場を支配する王と王妃のような威厳さえもがありました。
僕は裸のまま、のろのろと部屋の隅に移動しました。頭は真っ白で何も考えられませんでした。僕の横に、先程僕の傍らで、眼鏡の男と交わっていたショートボブの女が来ました。ROBIN、と僕を呼ぶ彼女の声に、どこか引っかかるものがあり、僕はその女の顔をじっと見ました。大きく変わった髪型と、カラーコンタクトと化粧で最初、分からなかったのでした。左手首に巻いたバンドにはDOROTHYという文字が書いてありました。そして、そのバンドの脇からはみ出して走る傷跡を見て、えっ、と声を上げてしまいました。そこにいたのはカナコでした。
カナコは黙って僕をフロアの中央に引っ張っていき、立ったまま繋がっているROBINとSARAHの横に立って、僕を仰向けに寝かせました。そして先ほどのSARAHとは逆に、僕と顔を合わせる向きで跨りました。僕をじっと見つめている彼女の目に、僕は何の感情も読み取れませんでました。ああ、これはカナコじゃなくてDOROTHYだ。もう完全に別人だ、と思いました。自分でも驚いたことに、いつの間にか僕のペニスはしっかり屹立していて、DOROTHYが腰を下ろすと、するりと彼女の身体の中に収まりました。ああ分かる、知っている、という感覚がありました。だがその感覚は親しさを伴っていませんでした。快感もありませんでした。ただ、ああ繋がっているな、という感覚だけでした。こんなところで、見知らぬ他人に見られながら何故、この女と僕は繋がっているのだろう、とも思いました。
横を見ると、城田の白い筋肉質の背中が見えました。彼の腰骨に掛けられたSARAHの白い足がピンピンと跳ね上がるように動き、彼女のアルトはコロラチューラのソプラノに変わって、切れ切れのレシタティーボが歌われていました。
その後、城田と新宿に行って飲みました。
城田はカナコがDOROTHYとしてあの店に出ていることを知っていました。彼女はね、あそこでサクラのバイトをやってるんだよ、と教えてくれました。サクラ?と訊き返すと、あそこは基本的にカップルで来る客が多いんだけど、一人で来る人も結構いる。女性もいるけど、大半は男性だね。そういうフリーの男性客を呼ぶためにはサクラが必要なんだよ。大体あの店は、彼女に教えてもらったんだから、と。
お前、ひょっとしてカナコと出来てたの?
やってたのか、という意味なら、やってはいたよ。でももちろん君が彼女と離婚してからだ。離婚前には何度か相談を受けてたけど、何もなかった。彼女、俺のホストクラブにも客として来ていたからね。
そうか。
うん。
今頃訊くのも何だけどさ、お前、かおりとは、どういう経緯で付き合い始めたの?
まあ、かおりから下村とうまくいってないって、色々相談されてさ。
カナコと同じパターンか。
まあ、そんな感じだな。
お前って、女の弱みに付け込んでないか。相談されたついでに口説いてんのか。本当、手当たり次第寝てるよな。なんか卑怯じゃないか。
いや、そんなつもりは毛頭無かったよ。大体、かおりもカナコも全然口説いたりしてない。どっちも向こうから来たんだよ。こっちは完全に受け身だった。もし疑うなら、彼女たちに直接訊いてみてくれって。俺は全然構わない。
で、来るもの拒まず、か。据え膳食う主義なんだ。
それは嫌な言い方だな。
お前一体、何人くらいこれまで経験ある?
さあ、数えたことなんか無いからよく分からないけど五十人、いや六、七十人くらいかな。
二股とかもやるの?
自分から進んでそういうことをやるわけではないけれど、結果的にそうなってしまうことはあるよ。
女のせいにするのか、やっぱりお前、屑だよ。
城田は黙りました。それ以上言うと自分が醜くなるだけだと僕も思いました。だからそれからは二人とも黙って、ただレモンサワーをぐいぐい飲みました。かおり、いい女だったよな、と呟いた長沼の寂しげな顔が浮かびました。
時々、時刻の感覚が怪しくなります。朝の六時と夕方の六時との区別がつかなくなるのです。今朝は出勤前に着替えた後、シャツを掛けていたハンガーを冷蔵庫に入れようとしました。入れるスペースが無くて、中の牛乳とか納豆のパックとかの配置を変えていておかしいと気がついて、しばらくその場に固まってしまいました。数日前には家の鍵を冷蔵庫に入れていました。僕はやはり、少しずつですが確実におかしくなってきています。それでもこうして書き続けてはいます。誰に読まれることが無くても、浮かんだままに書いて、書いて、書けなくなるまで書いてから、君のところへ行きたいのです。
ジャカルタへは結局一人で行きました。カオリと別れた城田は、やはり下村に合わせる顔が無かったのではないかと思います。僕に責められたことも、彼の、下村に会いたいという気分を削いだ一因になったかも知れません。
下村は、スカルノ・ハッタ空港までバイクで迎えに来てくれました。ヘルメットは被っていませんでした。きびきびとした動きでバイクから降り立った彼は、日に焼けて精悍な感じで、かつての色白で華奢な印象は全く無く、何だか強靭な感じがしました。久しぶり、と言って彼が右手を差し出してきたので、僕も彼の手を握りました。それから彼に、これしかないんだ、まあ乗って、と顎でバイクを示したので、僕もノーヘルで彼の後ろに跨りました。
そういえば、昔、こうやって安岡のバイクにノーヘルで二人乗りしたっけなあ。
安岡、それはまた懐かしい名前だな。あいつのエロ本、お前から回ってきたやつを親に見つかったときは最悪だったな。俺は学校でも家でも優等生で通してたんだけど、あれで一気に信用失ったからなあ。
あの時、お前が口を割らなかったおかげで本当、助かったよ。
そりゃ言うわけない。言ったところで俺の罪が軽くなるわけじゃないし。
下村はそう言って愉快そうに笑いました。
まずは飯でも食いにいこうや、何か食いたいのあるか、と彼が言い、僕は何でも構わない、と答えました。じっとりと蒸し暑い夕方の大気中に、そこはかとない白檀のような匂いが漂っていました。道端に視線をやると、等間隔で生えている棕櫚の木の間を埋めるように、ピンクや白の可憐な花が、植えられているのか自生しているのかわからない無造作な風情で繁茂していて、いかにも南国という雰囲気でした。下村は渋滞した車の間をすいすいと器用に抜けて走りました。T中時代、安岡とノーヘルで二人乗りしたことを思い出し、心が浮き立ちました。
城田は色々忙しいみたいでさ、と言うと、下村は黙って頷きました。そして、お前、ピアニストやってるんだってな、と、昔のまま全く変わらない調子で言いました。
僕は城田のおかげでラウンジピアニストの仕事を得たことを、かいつまんで話しました。城田の話題にはなるべく触れたくありませんでした。
お前がピアノ弾けるなんて知らなかったよ。なんかピンと来ないわ。お前、意外に器用なんだな。
いや全然器用じゃないよ。指先は、そりゃ多少動くかも知れんけど、人が当たり前にやれることをやれることをできんし。要領悪いし。
そうなのか。
ああ、だから就職してもすぐ辞めた。サラリーマンが要求される器用さの欠片も持ち合わせていないからな。その点お前は凄いよ。ずっと一流企業のエリートでバリバリやってるんだからさ。
いや、それがさ。
下村は一瞬口籠ってから言いました。
俺も会社辞めちゃったんだよな。一昨日。
え、冗談だろ。
僕は絶句しました。下村は、石油だか天然ガスだかの精製プラントを現地で立ち上げて一から作っている、相手の国の方針がいい加減でなかなか仕事が捗らない、というようなことを、つい最近寄こしたばかりの手紙で書いていました。
何があったの。
いや、前から辞めようと思ってたんだよ。別に仕事に飽きた、って訳じゃなくてさ、他にやりたいことがあって。
何だよ、それは。
絵描き。
絵描き?何だそれ、いきなり。
だよな。いや、こっちにいて、仲良くなった女がいてさ。まだ籍は入れてないんだけど。で、その彼女が元々絵描きでさ。
ああ、それで?
彼女の描いている絵を見てたら、何と言うのかな、そのエネルギーに圧倒されてさ。で、自分も描いてみたくなった。
はあ、なるほど。
でもって、少し描いてみたんだけど、それではまっちゃって。
そういうものか。
彼女がな、自分よりお前の方が才能あるって言うんだ。いや実はさ、俺、元々絵が好きでさ。東大じゃなくて本当は芸大に行きたかったんだよ。親から大反対されて諦めたけど。時々、休日とかに細々と描いてはいたんだ。
知らなかった。
俺だって、お前がピアノ弾くの知らなかったよ。お互いアーティストになるなんて奇遇だよな。
食っていけるのか、それで。
まあ、何とか。絵はジャカルタの画廊でたまに売れる程度だけど、副業で、彼女と一緒に、こっちの子供に絵を教えたり、ついでに日本語を教えたりしてるんだ。こっそり兼業してたんだけど、そっちが忙しくなってきてさ。ちょっともう無理になって。
僕が考えていた下村という人間は、いささか斜に構えたところはあるけれど、頭の回転が速い合理主義者で、アートとはどちらかと言えば無縁のタイプでした。大学を出たら起業して何か面白いことを始めるのかなと思っていたので、東大を卒業して大企業に就職したのはちょっと意外ではありましたが、鷺島かおりと別れてからは仕事に邁進しているのだと思っていました。
飯食ったら俺の家に行こう。絵を見せてやるから、と下村は言いました。
スラバヤ通り近くの店の横にバイクを停め、近くの食堂に入りました。店の周りは木が鬱蒼と茂り、鳥の鳴き声がうるさいほどです。店の建物は瓦葺の一軒家で、玄関もどことなく昭和の日本の民家のような雰囲気を漂わせていました。玄関わきにダチュラが咲いていて、僕は自分が小学校から中学校にかけて過ごした島を思い出しました。
店内は広く、ナンプラーの香りが薄く漂っていました。下村は、じゃ、勝手に注文するぞ、と言って、二人分のナシゴレンに、テンぺゴレンという香ばしい揚げ豆腐、ピサンゴレンというバナナの揚げ物、ソト・アヤムというスープを注文しました。
料理はすぐに運ばれてきました。香ばしい匂いが食欲をそそりました。
下村は料理を運んできたウェイトレスと流暢なインドネシア語で喋っていました。
すごいな、現地の人みたいだ。
まあ、語学は元々好きだしな。インドネシア語、ドイツ語、英語、北京語、広東語が一応話せる。
下村はこともなげに言いました。
料理は見た目も美しく、味も最高でした。少しビールが飲みたいと言ったら、下村は注文してくれました。運ばれてきた黄金色の、上部に泡の浮いた飲み物はまさしくビールでしたが、一口飲んで驚きました。生暖かいのです。それに味が全く違う。甘いジュースです。ジンジャーの香りが強い。これはビールじゃないな、と僕が言うと下村は笑いました。ここはムスリムの国だからな。普通の店ではアルコールは出さないんだ。まあ、とは言ってもゆるい連中が多いから、飲める店もあるし、実際イスラム教徒なのに飲んでる奴も結構いる。でもそうやって酒飲むような連中も、お祈りやラマダンはきっちり守っているけどな。
そうか。まあ、これはこれで悪くないけど。
僕がビールに見える奇妙なジュースを飲んでいると、下村が言いました。
何でも飲める店も、そのうち連れていってやるよ。
そう言ってふっと笑った下村の顔が、今までに見たことのない無頼の陰りを帯びているように感じられました。
下村の家は街はずれの山の中にあるとのことでした。バイクを川べりに停めて、近くの木に長いチェーンで巻き付けて鍵をかけると、彼は渓谷に沿って歩き出しました。舗装道路はすぐに途切れ、石ころの転がる細い道になりました。頭上で突然サワサワと音がしたので顔を上に向けると、何百羽とも知れないムクドリに似た鳥が舞っていました。少し行くと道は更に細くなり、行く人に踏み固められただけの獣道と言っても差し支えないような感じになりました。頭上は木々に覆われ、梢の切れ目から日光が帯になって降り注いでいます。
これはもう、完全なジャングルだな。
ああ、そうだよ。猿とか蛇とか結構いる。
おいおい、危険なやつはいないだろうな。虎とか。
このあたりはまあ、あんまりいないと思う。
思う?本当にそれで大丈夫か?
虎とかはさ、襲ってきたりする前に、まず人間の気配を察知したら逃げるからさ。人間を恐れてるんだ。
そんなやりとりを交わしながら十五分程歩いているうちに、獣道がいつの間にか、緩やかに渓谷に向けて下っていく石造りの細い階段に変わっていました。その階段を下りたところに、密林が薄くなった広い土地があり、ぽつんと、モルタル造りの、こじんまりとした平屋の建物がありました。その入り口の引き戸に、アトリエシモムラと太くカタカナで墨書された厚い木の板の看板がかかっていました。小屋はかなり古そうで、外壁には所々ヒビが入っていました。
これはまた、すごいところに家を建てたもんだな。
ああ、建てたのは俺じゃないよ。
そりゃ分かってるさ。古そうだし。
こっちに来てまずこの家を買った。
なんでまた。
これは元々、俺の彼女が一人で住んでた家なんだ。彼女は借金があってな。この家は担保になってたから俺が借金取りから買い取ったんだよ。それで今、彼女とここに住んでる。
下村はガタガタと音をたてて引き戸を開けて中に入り、僕を手招きしました。中に入ると正面は土間で、奥に小さな台所がありました。左手の襖を開けると、畳敷きの薄暗い部屋の奥の壁から、顔がこちらを見ていてぎょっとしました。よく見るとそれは老いた男女のお面でした。突然一切の物音が消えて、しんとした静寂がその部屋を支配しました。翁の面が僕に何かを語りかけているようでした。一瞬の後に静寂は途切れ、その部屋は再び元の鳥や虫のさざめきに満たされました。
あれはいい面だね。
僕がそう訊くと、下村は、翁と媼の能面だよ、と自慢げに答えました。
こっちで買ったの?
いや、こっちでは能面なんかどこにも売ってないよ。これは友人が作った。なかなか凄い人だよ。天才。こっちにも能面欲しいっていう人が結構多くてね。一切宣伝はしていないけど、口コミでなかなかの評判らしい。注文を受けたときだけ、彼はここの工房に来て仕事をするんだ。普段は農業やってる。
へえ、何て人?
持田義男って人。
下村が答えたその名前には憶えがありました。中二の時の学校に飾ってあった能面の作者。キミちゃんの兄。
その人、中学校時代の友達の兄貴だよ。
へえ、マジか。そりゃ奇遇だね。
下村は目を見開きました。
俺の絵もね、実は彼の能面をモチーフに使ってるんだよ。能面と、この島の自然を組み合わせているんだ。見せるから、上がってよ。
下村に続いて、僕も靴を脱いで、部屋に上がりました。下村が天井から下がっている裸電球をひねると柔らかく黄色い光が室内を満たしました。古い畳の香りがしました。丸い木製のちゃぶ台には有田焼のような急須が置かれていました。
翁と媼の面に視線が吸い寄せられます。アトピーの治療に通った、島のウガンサーの老夫婦を思い出しました。
襖で区切られて隣にもう一部屋あり、襖を開けると、そちらはもっと広い板の間になっていました。板の間の向かって右側が持田の工房のようで、テーブルの上には何本もの鑿や彫刻刀、ヤスリがあり、削りかけの厚い板があり、大鋸屑が床に散っています。
部屋の左側にはイーゼルが二台あり、それぞれに広げた新聞紙くらいのサイズの絵が置かれていました。右は、咲き乱れるダチュラの花の前に立つ、赤ら顔の面を付けた、紺のスーツにネクタイ姿、しかし何故か裸足の男の絵。左は、同様にブーゲンビリアをバックに、般若の面をつけた全裸の女が立っている絵でした。どちらの絵も、精巧な写実力に裏付けられ、妖しい、異様な迫力に満ちています。
右は俺自身がモデルなんだ。隣は俺の彼女だよ。
下村自身だという絵の中の男のスーツは、よく見るとかなりくたびれていて、所々破れて血が滲んでいます。
あれは何の面?
猩々だよ。
何で、あんなボロボロのスーツ着て、しかも裸足なんだ?
さあね。ジャングルの中をあてどなく彷徨ったからかな。靴は脱げちまったのかも。そして猿になっちまったのかな。
じゃ女の方は、何で般若の面なんだよ。
般若っていうのは嫉妬に狂った女が鬼になった姿だ。俺の彼女はやきもち焼きだしさ。俺を追い回してあんなボロボロな姿にしたのかもな。
描いた下村はそんなふざけた説明しかしませんでしたが、描かれた絵自らが、雄弁に語っていました。それは下村の手によって創り出された二つの独立した生命でした。自分が語る必要はない、勝手に語りかけて来る絵の声を聞けばいい、ということなのだろうと思いました。
持田さんの能面も凄いけど、お前の絵も凄いよ。
僕の口からは、そんな言葉が思わず溢れ出ました。
いやいや、俺はまだまだよ。田中一村の足元にも及ばんな。
田村一村って? 画家か?
奄美大島で活動した画家だよ。奄美の自然を描いた。
聞いたことない名前だな。
この人は生前、ほとんど無名だった。実力に見合った正当な評価を受けられなかったんだ。
下村の説明によると、田村一村という画家は、幼少時から天才と言われ、東京美術学校、即ち現在の東京芸術大学に入学したものの、二
ヶ月で中退。その後も展覧会への入選を辞退したり、周りとぶつかることが多く、中央画壇からは黙殺されていました。五十歳になって奄美大島に移住し、農業を営みながら絵を描き続け、六十九歳で生涯を終えたのだそうです。
農業やりながら、ってことは持田さんと同じか。
持田さん、自分のことを百姓アーティストなんて言ってる。農業がメインなんだってさ。好きなんだろうな。
へえ。
ところでさ、ジャカルタで大枚はたいて手に入れた一村の絵があるんだよ。どういう経緯でこっちの画廊に流れてきたのか見当もつかないけれど。たった一枚。でも正真正銘の本物だよ。
下村は部屋の隅にある納戸から、十六号だという、大きめのスケッチブックほどのサイズのカンバスを取り出して僕に差し出しました。薄暗い部屋の中、夕立を孕む雲と、波が打ち寄せる海岸が見えました。くすんだ黄色のアダンの木、ソテツ。海岸の石の一個一個までが精緻に描写されていて、僕は息を吸い込みました。潮騒が聞こえてきます。じわりと汗が出てきました。この海は僕のよく知っている、あの島の海でした。鮮やかというのではない。このリアルな色、生々しい存在感は一体何なのでしょう。一枚の絵の中に世界が切り取られて、現実にそこにありました。
ここからの景色を一村は気に入っていたみたいで、ほぼ同じ構図、アングルで描かれたもっと大きい絵もあるんだ。それは奄美大島の田村一村記念美術館に所蔵されてる。
素晴らしいな。
だろ。
それ以上言葉が出ませんでした。僕と下村はしばらく無言でその絵を見つめていました。
ところで、お前の彼女の絵は無いの、と僕は訊きました。残念だけど、ここには無いよ、と下村は首を振りました。ここは狭いからね。彼女の絵は、ジョクジャカルタの実家に運んだんだ。
そっちも見たかったな、と僕が言うと、下村は小さく頷きました。
彼女の絵もすごく良いよ。目にしたとき、生きててよかった、と思ったからね。技術的にはそんなに上手い訳じゃない。でも説得力があるんだよ。見ているとね、お前は正直に生きてるのか、って問いかけてくるような絵なんだ。俺はガツンとやられたんだ。彼女の絵と、この一村の絵とにね。
また別の機会に彼女の絵も見せてやる、と下村は言いました。
その機会は、しかしまだ訪れていません。これからもその可能性はなさそうです。何故ならほどなくして、下村は僕の前から姿を消してしまったからです。彼は書き置きを残していました。
色々あって、急に島を離れることになった。しばらく戻れない。ここに来たばかりのお前を、世話も案内もしてやれないままで、済まないと思っている。俺がいなくなったことは近所の人には話さないでほしい。日本に帰国するまではこの家を自由に使ってくれていい。部屋の隅のキャビネットの一番上の引き出しの中に少しばかり金を入れておくので好きに使ってくれていい。あまり無駄使いしなければ数年の滞在費分くらいは持つだろう。俺のことは心配無用。
下村がいなくなってからもうずいぶん経ちます。
机の上に木彫りの手が置かれています。肘から先の、おそらくは女性の手です。黒檀でしょうか。滑らかに研磨されて黒光りしています。微かに浮き出た血管、ごく微細な皮膚の表面の皺や、指紋の一本一本までが、驚くべき精密さで再現されていて、今にも動き出しそうにリアルです。実際の手をスキャンして超高性能の立体プリンターを使って加工しているのかと思いましたが、そのようなスキャナーもプリンターも、パソコンさえもここにはありません。硬い木をここまで自在に扱えるとなると、おそらくは持田さんが彫ったのでしょう。はじめこれを戸棚の中に見つけた時はぎょっとしたものです。丸いちゃぶ台の上に置いたその手をぼんやり見ていると、君の手を思い出します。白くて指が長くて、青く見える血管も真っすぐ、すうっと通っていて綺麗だった。今度は自分の手をじっと見てみます。爪が小さく、肉厚で、全体に大きな醜い手。何本もの浮いた血管が絡まり合いながら腱を斜めに横切っていて、蚯蚓とか蛇がのたくっているようです。
この前はちょっと昼寝をした後、夕方に起きたのに朝だと勘違いしていました。そのまま一時間くらいも経過して辺りが暗くなってようやく気がつきました。腰も膝も痛くなってきていて、外に出るのが段々と億劫になりつつあります。
ああ、君に会いたい。僕はこんな見知らぬ土地で、進行していく認知症への嘆きと不安を抱えながら一人で老いていくのです。耐えがたく寂しい。
先日ジャムの小瓶の中に詰めた落屑を全て、裏のオクラ畑に撒きました。固まりかけた摺り胡麻のようになっていました。たぶんいい肥料になるでしょう。落屑の中には僕のDNAが入っている。それが分解し、この島の植物に取り込まれることで、僕の身体がこの土地の一部になれるような気がしています。この高温多湿の島に来て以来、アトピーは大人しくしています。分子標的薬の定期注射の効果もあるのでしょう。ほとんど全く痒みも気にならなくなりましたし、見た目も特に気になるようなところはありません。
僕は今、下村のアトリエで絵を描いています。仕事ではなく趣味で、です。絵に関しては先生のアユが色々といいアドヴァイスをしてくれます。アユというのは下村の内縁の奥さんです。年齢不詳ですがおそらく四十過ぎくらいでしょうか。小柄で、黒々とした髪と、長いまつ毛に縁どられた大きな目が魅力的な女性です。元画家だった彼女の指導を受けて、僕はこの土地の風景画を描くようになりました。やがて、下村とアユが仲間たちとやっていたジャカルタのアートセンターの事務員兼手伝いをすることになって、今に至っています。ジャカルタのジャズバーでのピアノも不定期ですがまだ弾いています。まだ何とか大丈夫ですが、そのうち弾けなくなる日が来るでしょう。
最初にこの島に来たときは一週間で帰る予定でしたが、それが何故かこんなことになっているのですから、人生、本当に先のことなどわかりません。
アユは僕にお茶を淹れてくれます。地元の薬草を炒って煮だした苦みのあるお茶で、ドクダミのような香りが少しします。最初は抵抗があったのですが、すぐに慣れました。このお茶にはある種のアルカロイドが含まれているようで、飲んでしばらくすると体が少しだけふわっと浮く感じになります。空腹が強いときに飲むと、目に映るもの、例えば窓枠とかちゃぶ台とか、自分の手などの輪郭を、虹色の光が包むことがあります。これは麻薬の一種なのかとアユに訊いたことがあります。アユによればこの地域では比較的良く飲まれるお茶だそうで、地元の人は子供の時から飲んでいるからか、特にどうというようなこともないそうです。僕の体質のせいで、変な副作用が出ているのかもしれません。とはいえ別に不快でもないので、僕はアユの淹れてくれるこのお茶を、絵を描くときなど、むしろ好んで飲んでいます。
この島にやってきて過ごした約二十年の間に、一度だけ帰国しました。五年ほど前のこと。城田からの連絡があったのです。
実は余命宣告受けちゃったんだよね、と、いきなり電話で言われました。え、何だって、と僕は思わず訊き返しました。大腸癌でね、やばいんだよ。ステージⅣ。末期だってさ。城田はどこか突き抜けた明るささえ感じさせる口調で言いました。
実際会ってみると、城田は痩せこけて土色の顔をして、別人のように老けていました。恩師とあだ名をつけた長沼の若いころからの老け方は相当酷かったですが、城田はずっと若い姿を保つのではないかと想像していました。しかし彼は病気になってから突然、浦島太郎のような老け方をしました。僕の顔を見て、城田は、お前は相変わらず化け物みたいに老けないなあ、島はお前に合ってたんだなあ、と言いました。かつて人気ホストだった城田から自分がそういわれる日が来るとは思いもしませんでした。
その後別れるまで、僕と彼がどんな会話を交わしたのか、全く憶えていないのは、やはり認知症の影響なのかもしれません。もうそう長くこの文章を書き続けることができないかもしれません。
ジャワに戻って半年後、城田の死の知らせを受けました。連絡してきたのは彼が入っていた施設の女性介護士でした。城田は彼女に私の連絡先のメモを渡し、自分が死んだら連絡をするようにと依頼していたのです。体育祭のリレーでごぼう抜きをした城田のあの姿が脳裏に浮かびました。あの躍動し輝いていた肉体が、自分よりも先に消え去ったのだと思うと言葉に出来ない寂しさが押し寄せてきます。
知らせるべき人たちに、城田のことを知らせなくてはと思いますが、下村は相変わらず所在不明のままで連絡がつきません。長沼もそうです。ひょっとしたら彼らも今はもう城田の側に行ってしまったのではないか、という疑念がわきもします。長沼はともかく、下村は大丈夫な気もしますが。ただ彼はどうも僕に言えないような危ない境遇にあるのかもしれません。聡明で冷静沈着、度胸もある彼のこと、もし生きてくれていれば、またいつか会える気がします。
そうそう、あと安岡。十年くらい前に、アートセンターで学んだフィリピン出身の教え子から個展への招待状を貰って足を運んだマカオの路上で、彼とばったり会いました。あちらから気づいて声をかけてくれたのです。バーテンになるために中学を中退して上京した彼は、パチンコ台などの遊戯機器メーカーのⅭEOになっていました。カジノ誘致の仕事の関係で出張中だという彼は、髪をオールバックに撫で付け、ベルサーチのスーツを着こなし、スーツケースを持った部下とともに夜のマカオを威風堂々と歩いていました。そういえばサトシ、お前をバイクの後ろに乗せて走っててお回りに追っかけられたよなあ、と懐かしそうに彼は言いました。僕が下村がジャカルタで設立したアートセンターで働きながら合間にバーでピアノを弾いていること、下村が東大を出て、会社勤務を経て絵描きになった後、行方不明になっていることを話すと、なんじゃそりゃ、お前ら俺よりかなり無計画に自由に生きてやがんなあ、と笑った。
ともあれ僕と親しくしていた男たちは、それぞれ見事にばらばらになりました。
では女性たちはどうしているだろうか。
消息はわかりませんし、追ってもいませんが、城田を捨てた鷺島かおりは、おそらく相変わらず元気にやっているのではないでしょうか。ちなみに、かおりの娘の鷺島悠は三十歳で会社員を辞めて政治の世界に飛び込み、無所属で選挙に勝って都議会議員になり、その十年後には国政に転身しました。一度の落選を経て、衆議院議員をしています。公人なのでネットで検索すれば彼女の言動は詳しく知ることができます。かおりの娘らしく、リベラル寄りで、歯に衣着せぬ物言いで古参の男性議員相手に奮闘していますが、ネットを見るとあれこれ毀誉褒貶あります。僕は政治には興味が無いのでわからないけれど、政府が黙殺している例えばPFASなどの環境問題を取り上げている彼女のまっすぐな政治姿勢にはとても共感できます。カナコはどうだろう。おそらくは生きているはず。いやそう願いたい。でも彼女の手首の白い傷跡を思い出すと、あまり楽観的にもなれません。ただ、カナコの、あのゴールドベルク変奏曲の素晴らしい演奏を、僕以外の誰にも聴かせることなく彼女がこの世界から消えてしまうとしたら、それは耐え難く残念なことです。
そう、そして君はどこにいるの?
確かに僕は生涯で最も幸せな時間を、君と共有しました。それなのに君と過ごした記憶はごく一部を残して欠けて、残った部分もまだらになっています。君との別離が辛すぎて、僕の脳が、君にまつわる記憶フォルダの多くを抹消したのだと思います。それでも思い出した順に記憶をかき集めては書いていこうと思っているのですが、なかなかうまくいかない。
この文章は君に読んでもらうために書いてきましたが、だんだん支離滅裂になってきました。この文章も何度か書き直して、ようやく辻褄を合わせています。認知症の影響でしょうか、何もかもが億劫になってきています。そろそろ潮時なのかもしれませんが、悲観的にとらえるつもりはありません。呆けた者勝ちで意識は平準化、単純化していきます。君に会いたい。ひたすら会いたい。それだけです。今の僕の望みは。
人間はどこから来て、どこに向かうのか。
父と海で遊んだ日の珊瑚礁の、切れ目からのぞいた深淵が間の前に浮かびます。今はもう恐ろしいとは思いません。これから僕は、ゆっくりとあの深淵の中に沈んでいきます。
そして、いつかどこかで君にまた会えると信じています。
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