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よかね、よかよか

第42回文学フリマ東京原稿募集応募作品

浅谷童夏

近未来、人肉食が導入されてまだ日が浅い日本。とある初老の女性の日常の一コマ。

タグ: #SF #ホラー #純文学 #第42回文学フリマ東京原稿募集

小説

9,509文字

窓の外はよく晴れている。庭から賑やかな雀の声がする。いったい何をあんなに騒ぎたてているのかしら。なるほど雀の学校とはよく言ったものねと美佐子は思う。小鳥の声は可愛い。ちっともうるさいとは感じない。

よかね、よかよか。

リビングのテーブルで一人コーヒーを飲みながら、美佐子はそう呟いた。よかよか。 九州出身の和彦がずいぶん昔に教えてくれたおまじないの言葉だ。

「そう言っていれば大概のことはうまくいくよ」

「そんな訳にもいかないでしょう」

「まあ、どうにもならないときは、よかよか、って言って諦める」

「なにそれ。じゃ諦めの言葉なの?」

「いや、そうじゃないよ。肯定の言葉」

「ふうん。じゃ、なんでも肯定して受け入れるの?悪いことでも」

「いやいや違うよ。これは大体は自分に向けて使う言葉なんだよ」

「自分に向けて?」

「そう。こんな俺でもいいじゃないかってさ、肯定してやるんだよ。自分を」

「それだと、そのうち、俺はいつもこれでいい、俺は正しい、ってなっちゃうんじゃない?」

「正しいとか間違ってるとかじゃないんだよ。そうじゃなくて、まあ仕方ないじゃん、くらいのものだよ。そうやって受け入れるんだ」

「何だかなぁ」

「君は、怒るべきことが多いって言ってただろ?世の中に対して」

「そうよ。怒るべきことに対しては、きちんと怒らなきゃ、って思ってる」

「よかね。よかよか。君らしい」

「何よそれ、何だか馬鹿にしてない?」

「してないしてない」

そんな会話を交わしたのがついこの間のことのように思える。でも振り返ってみると、それはまだ大学時代、二人が付き合いだして間もなくの頃のことだ。

和彦と美佐子が通った大学は、都内郊外の駅から歩いて15分くらいの距離にあった。当時、3年生の和彦が部長をしていた地域研究会というサークルに、その年入学した美佐子が入ったのが出会ったきっかけだった。半年ほどで付き合い始めた。一目ぼれしたのは美佐子の方で、初めてのデートは早稲田松竹だった。二人で観た映画はスコセッシ監督の〈タクシー・ドライバー〉。デートにはいささか重すぎる内容だった。映画館を出た時は夜で、雨が降っていた。高田馬場のネオンが映画の雰囲気に似ていたのをまだ憶えている。

地域研究会というのは和彦が作ったサークルで、何のことはない、目を閉じて都内の地図上のある一点を指さし、決定したポイントの周辺、直径約2キロの円内を数班に分かれてくまなく探索し、何か面白いものがないか探す、というのが主な活動だった。

暗渠や謎めいた史跡、廃屋など、住宅街の風景の中に溶け込みながら異質な雰囲気を醸し出すものに惹かれる和彦は、ときどき変な発見をした。例えば、マンション用に造成された空き地に隣接した斜面に、埋められた防空壕の入り口を発見したり、崩れかけた廃屋の裏庭に忍び込んで、家の壁に開いた穴から見える部屋の中に大きな金属製の檻が据えてあるのを見つけたりした。あれはきっと大型の動物用の檻だとか、いや座敷牢だとか、はたまた猟奇的な趣味のためのものだとか、サークル内で推理し合ったが結論は出なかった。それにしても気味が悪い廃屋だった。あの檻はいったい何だったんだろう。

一方、エリア内で良さそうなレストランや飲み屋を探すことにかけて動物的な嗅覚を発揮した美佐子は、その能力をメンバーから大いに重宝がられた。エリア内の探索が終わった後、そのエリア内の飲み屋などで班ごとの報告兼打ち上げをするのだが、店を決めるのはいつも美佐子の役割だった。外したことはほとんど無かった。

美佐子が大学を卒業した翌年、美佐子は和彦と入籍し、田原から原田へと苗字の漢字が前後入れ替わった。結婚式は挙げず、浮いたお金で南米旅行をした。チリのアタカマ砂漠の中、両側に聳え立つ砂丘の山が迫る1本道をレンタカーで延々と走り、パタゴニアでは幻想的なオーロラを見た。目にしたもの全てが圧倒的だった。

社会人になってからも相変わらず、和彦は見知らぬ街を歩き回ることが好きだった。毎週末のように付き合わされたおかげで、美佐子はずいぶん足腰が鍛えられた。

夫婦とは互いに似てくるもので、よかよか、というのは今ではすっかり美佐子の口癖となっている。温和だが万事マイペースな和彦に、最初はいらいらしたものだが、年を経て気が付くと彼にすっかり同調していた。実際、美佐子は結婚してから丸くなった、と多くの友人たちに言われた。40年間近く、大きな衝突も喧嘩もせずに、幸せな夫婦の日々を過ごしてこれたのは、和彦の側の譲歩が大きかったおかげかも、と今にして美佐子は思う。

出版社に就職した和彦は、大学に戻り、五十歳で文学部の教授になった。美佐子は、住宅設備機器メーカーの広報部長のポジションまで昇進した。

互いに定年まで勤めあげたし、色々試みてはみたが結局子供は出来なかったし、住宅ローンは払い終えた。和彦の保険金もある。老後を過ごす資金に不安はない。

家でじっとしているのが性に合わない美佐子は、退職した翌年から自宅で近所の子供向けにピアノ教室を開いている。ピアノは子供の頃から習っていて、大学時代に中断したが、社会人になってから職場のピアノサークルに入って再開した。2年前には全国規模のアマチュアコンクールのシニア部門で全国大会にも出場した腕前だ。去年は地区予選で敗退したが、今年はまた挑戦するつもりだ。久しぶりに取り上げた、ラヴェルの水の戯れと、ショパン晩年のノクターン。どちらも、もうかなり仕上がっている。

水の戯れ、だいぶいい感じになってきたよ。聴かせられたらいいのに。でもあなたは今頃どうせそっちで変なもの見つけようと探索してるんでしょ、何か面白いもの見つけた?美佐子は和彦に心の中で話しかける。こっちの世界に帰ってこれるマシンでもあればね。あなただったらすぐ見つけて飛び乗るだろうね。

コーヒーを飲み終えた美佐子は流しでカップを洗い、朝方に洗濯し終わるようにタイマーをかけておいた洗濯機の中の洗い物を浴室に干して、乾燥機のスイッチを入れた。外に干したいところだが、花粉情報によると、今日は大量に花粉が飛ぶらしいので仕方ない。春という季節は好きだが、アレルギー持ちの美佐子にとって、花粉は憂鬱の種だ。

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© 2026 浅谷童夏 ( 2026年4月3日公開

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