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近未来、人肉食が導入されてまだ日が浅い日本。とある初老の女性の日常の一コマ。

タグ: #第42回文学フリマ東京原稿募集

小説

9,145文字

窓の外はよく晴れている。庭から賑やかな雀の声がする。いったい何をあんなに騒ぎたてているのかしら。なるほど雀の学校とはよく言ったものねと美佐子は思う。小鳥の声は可愛い。ちっともうるさいとは感じない。

よかね、よかよか。

リビングのテーブルで一人コーヒーを飲みながら、美佐子はそう呟いた。よかよか。 九州出身の和彦がずいぶん昔に教えてくれたおまじないの言葉だ。

「そう言っていれば大概のことはうまくいくよ」

「そんな訳にもいかないでしょう」

「まあ、どうにもならないときは、よかよか、って言って諦める」

「なにそれ。じゃ諦めの言葉なの?」

「いや、そうじゃないよ。肯定の言葉」

「ふうん。じゃ、なんでも肯定して受け入れるの?悪いことでも」

「いやいや違うよ。これは大体は自分に向けて使う言葉なんだよ」

「自分に向けて?」

「そう。こんな俺でもいいじゃないかってさ、肯定してやるんだよ。自分を」

「それだと、そのうち、俺はいつもこれでいい、俺は正しい、ってなっちゃうんじゃない?」

「正しいとか間違ってるとかじゃないんだよ。そうじゃなくて、まあ仕方ないじゃん、くらいのものだよ。そうやって受け入れるんだ」

「何だかなぁ」

「君は、怒るべきことが多いって言ってただろ?世の中に対して」

「そうよ。怒るべきことに対しては、きちんと怒らなきゃ、って思ってる」

「よかね。よかよか。君らしい」

「何よそれ、何だか馬鹿にしてない?」

「してないしてない」

そんな会話を交わしたのがついこの間のことのように思える。でも振り返ってみると、それはまだ大学時代、二人が付き合いだして間もなくの頃だった。

和彦と美佐子が通った大学は、都内郊外の駅から歩いて15分くらいの距離にあった。当時、3年生の和彦が部長をしていた地域研究会というサークルに、その年入学した美佐子が入ったのが出会ったきっかけだった。半年ほどで付き合い始めた。一目ぼれしたのは美佐子の方で、初めてのデートは早稲田松竹だった。二人で観た映画はスコセッシ監督の〈タクシー・ドライバー〉。デートにはいささか重すぎる内容だった。映画館を出た時は夜で、雨が降っていた。高田馬場のネオンが映画の雰囲気に似ていたのをまだ憶えている。

地域研究会というのは和彦が作ったサークルで、何のことはない、目を閉じて都内の地図上のある一点を指さし、決定したポイントの周辺、直径約2キロの円内を数班に分かれてくまなく探索し、何か面白いものがないか探す、というのが主な活動だった。

暗渠や謎めいた史跡、廃屋など、風景の中に溶け込む異質なものに惹かれる和彦は、ときどき変な発見をした。例えば、マンション用に造成された空き地に隣接した斜面に、埋められた防空壕の入り口を発見したり、崩れかけた廃屋の裏庭に忍び込んで、家の壁に開いた穴から見える部屋の中に大きな金属製の檻が据えてあるのを見つけたりした。あれはきっと大型の動物用の檻だとか、いや座敷牢だとか、はたまた猟奇的な趣味のためのものだとか、サークル内で推理し合ったが結論は出なかった。それにしても気味が悪い廃屋だった。あの檻はいったい何だったんだろう。

一方、エリア内で良さそうなレストランや飲み屋を探すことにかけて動物的な嗅覚を発揮した美佐子は、その能力をメンバーから大いに重宝がられた。エリア内の探索が終わった後、そのエリア内の飲み屋などで班ごとの報告兼打ち上げをするのだが、店を決めるのはいつも美佐子の役割だった。外したことはほとんど無かった。

大学卒業後、和彦は出版社に就職したが、大学に戻り、五十歳で文学部の教授になった。和彦に2年遅れて卒業した美佐子は、住宅設備機器メーカーに入社し、広報部長のポジションまで昇進した。

美佐子が大学を卒業した翌年、美佐子は和彦と入籍し、田原から原田へと苗字の漢字が前後入れ替わった。結婚式は挙げず、浮いたお金で南米旅行をした。チリのアタカマ砂漠の中、両側に聳え立つ砂丘の山が迫る1本道をレンタカーで延々と走り、パタゴニアでは幻想的なオーロラを見た。目にしたもの全てが圧倒的だった。

社会人になってからも相変わらず、和彦は見知らぬ街を歩き回ることが好きだった。毎週末のように付き合わされたおかげで、美佐子はずいぶん足腰が鍛えられた。

夫婦とは互いに似てくるもので、よかよか、というのは今ではすっかり美佐子の口癖となっている。温和だが万事マイペースな和彦に、最初はいらいらしたものだが、年を経て気が付くと彼にすっかり同調していた。実際、美佐子は結婚して丸くなった、と多くの友人たちに言われた。40年間近く、大きな衝突も喧嘩もせずに、幸せな夫婦の日々を過ごしてこれたのは、和彦の側の譲歩が大きかったおかげかも、と今にして美佐子は思う。

互いに定年まで勤めあげたし、色々試みてはみたが結局子供は出来なかったし、和彦の保険金もある。老後を過ごす資金に不安はない。

家でじっとしているのが性に合わない美佐子は、退職した翌年から自宅で近所の子供向けにピアノ教室を開いている。ピアノは子供の頃から習っていて、大学時代に中断したが、社会人になってから職場のピアノサークルに入って再開した。2年前には全国規模のアマチュアコンクールのシニア部門で全国大会にも出場した腕前だ。去年は地区予選で敗退したが、今年はまた挑戦するつもりだ。久しぶりに取り上げた、ラヴェルの水の戯れと、ショパン晩年のノクターン。どちらも、もうかなり仕上がっている。

水の戯れ、だいぶいい感じになってきたよ。聴かせられたらいいのに。でもあなたは今頃どうせそっちで変なもの見つけようと探索してるんでしょ、何か面白いもの見つけた?美佐子は和彦に心の中で話しかける。こっちの世界に帰ってこれるマシンでもあればね。あなただったらすぐ見つけて飛び乗るだろうね。

コーヒーを飲み終えた美佐子は流しでカップを洗い、朝方に洗濯し終わるようにタイマーをかけておいた洗濯機の中の洗い物を浴室に干して、乾燥機のスイッチを入れた。外に干したいところだが、花粉情報によると、今日は大量に花粉が飛ぶらしいので仕方ない。春という季節は好きだが、アレルギー持ちの美佐子にとって、花粉だけは憂鬱だ。

今日はピアノ教室は休みなのでゆっくりできる。読書もしたいし、コンペに向けてピアノの練習もしよう。久しぶりに映画館に行くのもいい。マスクを忘れないようにしなくちゃ。そう、その前に午前中のうちに近所のスーパーで買い物を済ませておきたい。缶詰、トマト、パン。それに生徒たちに出すお菓子類を買っておこう。

買い物に出る前に部屋の掃除をし、少しピアノの練習をした。水の戯れは和彦が大好きな曲だった。時々リクエストされて弾いたものだ。右手の重音アルペジオが難所。手の小さい美佐子は苦労する。

練習が一段落して時計を見たら10時25分だった。開店は10時半だからちょうど良い。 服を着替えて玄関でマスクをし、美佐子は家を出た。

 

和彦との別れはあっけなかった。彼が逝ってまだ1カ月しか経っていない。彼の不在という現実は、透明な液体となって美佐子の世界に満ちて、美佐子はまだその中に漂っている。そして時々溺れそうになる。

あの日の朝いつも通り、行ってきますと言って、嘱託で勤めている文化センターに出かけた和彦は、夕方には病院の地下階の一室の、白々と明るい蛍光灯の下、顔に白い布を掛けて寝ていた。

歩行中に転倒、頭部を強打したことによる頭蓋内出血。医師から説明された死因はそんな冗談みたいなものだった。別に段差でも何でもないところで、普通に舗道を歩いていて、何かの拍子に転んで縁石に頭をぶつけたらしい。病院に搬送されたときにはもう息を引き取っていたという。まあ不運としか言いようがない事故ですね、と医師は言った。

舗道を歩きながら、美佐子はゆっくりと息を吐いた。 こんな感じの何でもない舗道でつまづいて転倒? あれだけ散々街歩きして足腰強かったんじゃなかったの? 両手に荷物持ってたわけでもないのになんで手をつき損ねたの? ああ、あなたはそういえばいつもポケットに両手を突っ込んで歩く癖があったわね。ぼけーっとしてたんじゃないの? 注意が足りないのよ全く、と美佐子は和彦を罵る。まだ66歳だったのに。賢く面白く生きることが俺のモットーとか言っていたくせに、なんでそんな間抜けなつまらない死に方してんのよ。まあそれほど苦しまずに済んだだろうから、それだけは良かったのかもしれないけど。あーあ、近いうちに一緒に沖縄に行こうよって、あんなに約束をしてたのに、結局行かなかったじゃない。

スーパーの中の缶詰コーナーの前までやって来て、美佐子はようやく我に返った。ずっと歩きながらぶつぶつ独り言を言っていた。ああいけない。早く気持ちを切り替えなくちゃ。

目の前に色とりどりの缶が並んでいる。美佐子は棚の手前に置かれた缶を手に取った。黒い中折れ帽をかぶり穏やかな笑みを浮かべた、白い口髭の男性の顔がラベルに貼られている。いかにもジェントルマンといった風情だ。ジューシーアンドスパイシー。棚に戻してもう一つを手に取る。こちらはテニスのラケットを持って微笑む初老の女性。銀髪に、きれいにウェーブがかかっている。クリーミーアンドマイルド。 美佐子はペーストのシリーズ中ではワイルドオヤジのラベル、ガーリックアンドオニオンが一番好きだ。ライ麦パンのサンドイッチにして食べるととても美味しい。

缶は男性、女性、男女混合の3種類。男缶は味もうまみも濃い。女缶は脂がのっている割にはあっさり。男女缶はその中間で、ほどよくこくがある。味付けには色々ヴァリエーションがあるし、部位も脳、レバー、その他の内臓や赤身肉、脂身、あるいはそれらが組み合わされているものなど色々ある。属性も、医者、肉体労働従事者などの職種とか、肥満、瘦せ型、アスリートなどの体型とか、北海道、西日本などの地域とか、色々な基準で分けられたものがある。そういう情報はラベルに細かく表記されている。それぞれに微妙な味わいの違いがあるから、ラベルをよくチェックすることが大事。

そうだ、昨日の昼、テレビでやっていた料理番組で、男缶の肉とレバーの混合ペーストと葱をたっぷりと使ったパスタがとても美味しそうだった。よし、今日はそれにしよう、葱は一昨日多めに買ったのが残っているし、と決めた美佐子が、手に取った缶を籠に入れていると、肩を軽く叩かれた。振り返ると、そこにかつての同僚だった江口なつみが立っていた。口元に笑みを浮かべてはいるが、片方の眉を吊り上げている。

「あら、なつみ、久しぶり。びっくりした」

「うん。ご無沙汰。なになに、美佐子、そんなの買ってるの?」

万事はっきりとした物言いをする、彼女のその気質は相変わらずのようだ。

「買うわよそりゃ。私、あんたと違ってヴィーガンじゃないし」

美佐子もきっぱりと返す。なつみ相手に遠慮は無用だ。なつみは美佐子の4つ下で今年還暦だが、早期退職して今はシニア向けジムのインストラクターをしている。お互い気が強いし、理詰めで納得しないと気が済まない性質なので、職場でも何度かやりあったものだ。しかしどちらもさっぱりした気質だから、いつもすぐに仲直りした。喧嘩もすれば一緒に温泉に行ったり富士山に登ったりもしたし。そんな付き合いを今でも続けている。

「プリオンは解決済みなんて、政府は言ってるけどさ、美佐子、あれ、まさか真に受けてないよね?」なつみが言う。

「どうだろ。脳や脊髄とかの危険部位は完全に除去するんだし、私は大丈夫だって思ってるけど」

「クロイツフェルト・ヤコブみたいな症状の患者が20年後にどんどん出てきたって、もう手遅れなんだよ」

「まあ、そうなったらなったで仕方ないでしょ。諦めるわよ。どうせその頃は80とうに過ぎてる婆さんだし」

「そんな達観してどうするのよ」

「政府に騙された人間の大半が滅びて、あんたみたいなヴィーガンだけが生き残るわよ」

「美佐子、あんた変わったね。以前の美佐子ならもっとじたばた抵抗したんじゃない?」

「もういい歳だしさ。残酷な現実とも折り合いつけなきゃ。自由は隷従なり、無知は力なりってさ」

「昔それ読んだなあ。何だっけ?」

「1984年。ジョージ・オーウェルよ。今の時代にぴったり」

「そうだ、それだ!」なつみが手を叩く。

「私、現実主義者だからさ。迎合して生きるの」と美佐子。

「やれやれ。鈍感なんだか度胸あるんだか。まあ、とにかく美佐子って逞しいよね。繊細な私と違ってさ」

「よく言うよ」

美佐子となつみは互いに顔を見合わせて苦笑する。

「でもさ、こんなのが棚に並ぶようになってまだ2年も経ってないなんてね。しかも、それがもう当たり前に感じるようになってるって、怖くない?美佐子」

「まあ、それは言われてみればね。確かに」

「私はあんたみたいに適応力がないんだよ。だから懐疑的なの。共食いってやっぱり嫌なんだよね」

なつみの言葉に、美佐子はかちんと来る。

「共食いなんて、そんな嫌な言い方しなくたって。別に殺して食べるんじゃないし。死んだ後に加工して有効にリサイクルしてるだけじゃない」

「美佐子みたいにそんな割り切れないんだって」

「でもさなつみ、あんたはもともと肉、大好きだったじゃない」

「まあね」

「肉、食べられないの、辛くない?」

「そりゃ、まあ少しは」

「それにね、豚や牛や鶏は平気で食べて、人は食べないっていうのは、それは間違ってるんじゃないかな?」

「そうかな?」

「そうだよ。牛だって豚だって生きてるし、感情もある。数だって認識できるっていうよ。それをこれまで自由を奪って、殺して食べていたのは、政府が言ってた通り、それはやっぱり虐待だったんだって、私も思う」

ため息をついて俯いたなつみを見て、これはちょっと強く言い過ぎたかな、と美佐子は思った。

なつみは一呼吸置いて言った。

「でも、だからって代わりに人を食べていい、というのは飛躍だと思う」

「別に飛躍じゃないよ。目を背けていたことに気がついただけじゃないかな。欠けてたパズルのピースがそこにあるってことに」

「美佐子は合理主義者だからなあ」

「なつみが情緒的過ぎるんだよ」

ふふっとなつみは自嘲気味に笑った。

「私、確かにお肉大好きだったよ。今も焼肉食べるの、夢にまで見るよ。でも魚は高すぎてとても買えないし、あとは選択肢が昆虫か人肉しかないって……」

「まあ確かに、人類が畜産を否定する時代が来るなんて、私も思わなかったけどね」

「私だって好きでヴィーガンやってるんじゃないのよ。食料還元管理法なんて作った奴ら、ぶっ殺してやりたいって、本気で思ってる」

「その気持ちはよくわかる。でもさ、民主主義で決まっちゃったものは仕方ないでしょ。ルールに適応するしかないのよ。どうせ私たちだって結局、死んだら誰かに食べられるんだし。食べないでいて食べられるだけ、って損な気がするし」

「そんなんじゃないんだなあ」

「じゃあ、何なのよ」

「頭では分かってるの。家畜殺して平気で食べてたくせに、自分が食べられるのは嫌だからって、人間だけが火葬や土葬を望んで、あるべき形の食物連鎖から逃れるなんて倫理的にもおかしいって」

「まあ、そうね。貴重な動物性蛋白質資源を無駄にすることでもあるし」

「牛一頭肥育するのに5、6トンの穀物が必要だったとかさ」

「そうよ。人間が食べる穀物だって足りてないのに」

「これまでは動物福祉の視点が全然欠けてたとかさ」

「うん」

「となると、畜肉食を止めて、昆虫の活用と人間の遺体の再利用をする以外になかったってこととかさ」

「うん」

「理屈では正しいのは分かる」

「なら、あとは割り切っちゃえばいいだけじゃない」

「でも私、人肉だけはどうしても駄目。たとえどんなに飢えても受けつけないと思う。人食べたらもう自分は人じゃなくなる気がする。やっぱり生理的に無理なの」

「うーん、結局そこに行き着くか。でもしょうがないよね。生理的嫌悪は理屈でどうこうできないし。私だって最初は抵抗あったしね」

「ごめん」

「いやいや、何で謝るのよ。実のところ私ね、本当はなつみの方がまともなのかもしれないって思ってる」

なつみは笑って首を振り、美佐子は肩をすくめた。

初めて人肉を食べたときのことは鮮明に憶えている。それは和彦と一緒に行った近所のレストランで出された小さなパテだった。添えられた温野菜を口に入れてから、それを思い切って口に放り込んだ。あ、なんだ、普通のお肉だ、ちょっと塩っ気が強いかな、と思いながら、そのまま嚥下した。数分間は何ともなかった。5分くらい経過してからいきなり突き上げるような吐き気に襲われた。が、耐えた。さすが美佐子、初めてとは思えない食べっぷりだね、などと和彦が言うので余計に意地になった。そのまま平静を装って食べ続け、きちんと食後のコーヒーまで飲んで、レストランを出てから買い物をして、2時間後、家に帰るなりトイレに駆け込んだ。指を口に突っ込んで吐いた。だがもう消化された後で、酸っぱい胃液しか出なかった。無理しちゃ駄目じゃん、と言いながら、和彦が背中をさすってくれた。僕も最初に友達と食べたとき、店ではなんとか我慢したけど結局家で吐いたよ、同じだね、と言いながら彼は笑った。

ああ取り返しがつかない、これでもう後戻りはできない、とそのときは思ったが、その1週間後には缶詰はもちろん、塩胡椒でミディアムに焼いたステーキでさえ食べられるようになっていた。実際、慣れてしまえば毎日食べてもどうということもない。今では缶詰のラベルを細かくチェックし、種類ごとの味わいの違いを楽しんでさえいる。薄切りやステーキ、ひき肉などの精肉は、もっとダイレクトに差が出るので面白い。

自分の買い物があるからと言って、なつみは美佐子に手を振って、別の棚に移動していった。美佐子はレジコーナーに向かった。店の壁に貼ってあるポスターに目がとまる。《人間に無駄なし捨てるところなし》というコピーが目を引いた。食料庁主催の、今年の人肉普及コンテスト公募でグランプリを獲ったポスターだ。ポスターの絵柄は、老若男女のたくさんの人たちが手を繋いで輪になっている真ん中に、食卓で美味しそうにサンドイッチを頬張る男の子。その傍らにはペーストの缶と小瓶。瓶の蓋は開いていて、そこから色とりどりのハートがたくさん蝶のように飛びたっている、というものだ。兵庫県の小学6年生男児が受賞したこのポスターが、今年は日本のあちこちに貼られている。

清算を済ませ、ぼんやりとポスターを眺めていたら、また和彦の記憶が脳裏によぎった。はっと我に返り、スーパーを出ようとしたところで、再びなつみと顔を合わせた。なつみの家も近所だが、彼女は自転車で来ていた。

スーパーに隣接する駐輪場まで並んで歩く。

「和彦さん、亡くなってひと月くらいだっけ」

なつみが自転車のチェーンキーを外しながら言った。

「そのくらいになるかな。ほんと、あっという間」

「じゃ、さっき美佐子が買ってた缶詰めの中に、和彦さん、入ってるかもしれないね」

美佐子ははっとした。そうだ、そういえば死後に加工された人が市場に流通するのは、缶詰の場合、ほぼ1か月後くらいだと聞いたことがある。健康な若い男女は、鮮度が落ちないうちにすぐ精肉になるが、中高年のほとんどは、属性や部位ごとに分類されて加工され、混ぜ合わされてペーストやパテになり、ペーストにも適さない後期高齢者や、状態の良くない有病者は乾燥、粉砕されて肥料になる。

「そうだね。和彦は持病は無かったし、66だったからペーストだね。とすると、これに混ざってるかもしれない」

「食べることで、和彦さんが美佐子の身体になるってのも、それはそれで悪くないことなのかもしれないね」

なつみの一言に、美佐子は身体の芯がほんのりと熱くなるのを感じた。それはどこかエロティックな感覚さえも伴っていた。そんなものは自分の中からとっくに消えたと思っていたのに。和彦が私と同化する。和彦と私は一つになる。そう思うとぞくりとした。なんて素敵なんだろう。

「ありがとう」美佐子は言った。

「なつみのその言葉、なんだか嬉しい」少し声が震えた。 なつみは黙って微笑んだ。それから彼女は自転車のスタンドを跳ね上げた。

「じゃ、私そろそろ。これからちょっとした用事あるから、もう行かなくちゃ。また会おうね。今度はお茶でもしながらゆっくり」 なつみはそう言い、チリンとベルを鳴らして、跨った自転車で帰って行った。還暦にしてはしっかりとしたなつみのペダルの漕ぎ方に感心しながら、美佐子は頬に一筋流れた涙を掌でそっと拭った。

 

予定より幾分余計に膨らんだトートバッグを下げ、心地よい日差しの中、舗道を歩きながら、また和彦の笑顔を思い出した。最初はなつみと同じく、食料還元管理法制定に断固反対していた美佐子に比べれば、さして抵抗さえしなかった和彦だった。子供の無邪気な好奇心と、達観した老人の悟りとが、矛盾なく同居していた人だった。結局なるようにしかならないのが民主主義さ、と彼は言った。彼なら今でも人肉否定派の立場を貫くなつみに向かって、何と言うだろう。

にっこり笑って、よかね、よかよか、と答える笑顔が浮かぶ。

そう、あなたはきっとそう言う。それしかないよね、やっぱり。でも人食べたら人じゃなくなるって、なつみは言ってたけど逆だよね。人が人になるんだから。和彦は美佐子になるんだから。

今夜はペーストと葱のペペロンチーノにしよう。たっぷりのオリーブオイルで鷹の爪とニンニクを炒めて。そして男ペーストを贅沢に使って。インテリジェンスシリーズの色白標準体型関東人、それとワイルドシリーズから筋肉質体型九州男児。今日はこの2種類の肉とレバーの男缶をチョイスした。和彦は前者の方にぴたりと合致しているから、入っている可能性は高い。きっと入ってるよね。入っててよね。結婚して一度も浮気をしなかった人だから、男女混合ペーストになるのだけは絶対拒否したんだ。そこんとこは病院で書いた書類にしっかり×を書いといたし大丈夫。他の人と混ざっているのは、まあそれはしょうがない。博愛の精神で受け入れる。きちんと料理して美味しく食べるから心配しないで。いつまでも一緒にいられるように。 食後はまたピアノの練習しなくちゃ。久しぶりに水の戯れをおさらいしてるの。あなたが好きだった曲。これからはいつでも聴かせてあげられるわね。

美佐子が心の中でそう言うと、よかね、よかよか、という和彦の笑い声交じりの返事が聞こえた。

© 2026 浅谷童夏 ( 2026年4月3日公開

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