「ナオ。僕、言わないといけないことがあって」
「何?」
「ごめん」
「だから何?」
「ナオ、怒るかも」
「いや、ヒロがそういう風に先に謝るときって、大体いつも大した事じゃないじゃん。言ってみなよ」
「…童貞じゃないんだ」
数秒間の沈黙。
「僕、終童なんだよ」
「…そう。わかった。それが?」
「いいの?」
「いいも悪いも、ヒロはヒロじゃん。童貞でも終童でも、同じ人間だもん」
「…本当にそう思ってくれてるの?」
「だって私、別にヒロの童貞が目当てで付き合ってきた訳じゃないし」
「…ナオ。僕…」
「大丈夫。気にしなくていいよ。ヒロ」
何となく気まずい雰囲気になった二人は、テレビ画面に顔を向けた。西郷隆盛似のアナウンサーが、顔に似合わない流麗な喋り方でニュースを伝えている。
〈水上さなえ容疑者の自白によると、容疑者は昨夜、自宅マンションのベランダから、隣の被害者男性宅に侵入し、就寝中の男性を脅してガムテープで縛り上げ、童貞を奪ったのち精液を強奪して逃走したとのことです〉
「うわぁ、また童貞狩り」
ナオが鼻の上に皴を寄せて吐き捨てた。
「被害者かわいそうに。終童になってしかも何の見返りも無しなんて、詰みじゃん」
ヒロがはっとした表情になる。ナオは一瞬しまった、という表情になり慌てて続ける。
「犯人、死刑かな。馬鹿だよね」
容疑者の写真がテレビの画面に映った。どこにでもいそうな、ごく平凡な顔立ちの若い女である。二十一歳の大学生で、以前、童貞詐欺に遭って金を騙し取られた挙句、自暴自棄となった末の犯行らしい。女性キャスターと、西郷隆盛とが深刻な表情で論評を交わしている。
〈また都内で一人暮らしの男性が狙われましたね〉
〈ええ。相変わらず、自宅に押し入っての童貞レイプ事件が相次いでいます〉
〈一人暮らしの男性は不安でしょうね〉
〈そうですね。まずは戸締りをしっかりと確認することが基本ですが、不審な女性が身辺をうろついていないか、ということにも日頃から注意を払っていただきたいですね〉
深く吸い込んだ息をゆっくり吐いてから、ヒロは口を開いた。
「ナオ」
「なあに、ヒロ」
「…結婚してほしい」
ナオはヒロを見つめ、それから視線を落とした。断られるだろうか。ヒロは唇を嚙みしめた。
〈捨てないで。よく考えて〉
ACジャパンの広告がテレビから流れている。憂いを帯びた表情の若い女性が、大きな目でこちらを見つめながら、胸の前で手を組んで言う。
〈守って。その童貞〉
「だよね。やっぱり終童と結婚なんてありえないよね。全く、誰も彼もバカの一つ覚えみたいに童貞童貞って…」
ヒロは呟くように言った。
ナオはテレビを消した。そしてヒロの目を真っすぐに見て言った。
「いいよ」
そして深々と頭を下げた。
「こんな私でよければ、よろしくお願いします」
※ ※ ※
日本人男性の初体験、つまり童貞喪失時の精液にのみ含まれるホルモン、チンコピンを元に作られたウタマロンという経口薬が、世界の不妊治療の常識を根底から覆したのが四年前。不妊が卵管閉塞や無精子症など幾つかの器質的要因に由来する少数のケースを除いて、不妊に悩む女性も、そうでない女性も、性交直前にその薬を服用するだけで、ほぼ確実に受精、着床し、妊娠する。つまり、ほとんどの女性が、自分の望み通りのタイミングで妊娠できるようになったのだ。
医学界の衝撃は大きかった。チンコピンを発見したのはベルン医科大学の崔閻燕博士である。ヒントは、彼女自身が医学生時代、日本からの留学生であった童貞の亭主の一発目で妊娠したことにあった。そこから日本人童貞男性に目をつけたのだから、恐るべき野生の勘の持ち主と言わざるを得ない。近いうちにノーベル医学賞を受賞すると噂されている崔博士の協力を得て、ウタマロンを開発したのはスイスの製薬会社アリアスである。当初、採算性の見地から商品化は無理と判断していたが、いざ試験的に発売してみると、日本円で1錠約600万円という高額にも関わらず、世界中から需要が殺到した。先の見えない辛い不妊治療をやめて、1回のトライで確実に成功するウタマロンのために大金を払う人は世界中にいたし、人口減少に悩む先進国にとって、ウタマロンは喉から手が出る薬だった。
チンコピンという奇妙な物質は、日本人男性が童貞喪失時に膣内に射出した精液にのみ含まれ、他の国の男性の精液には含まれていない。また日本人男性であっても膣壁との摩擦ではなくオナニーで出した精液や、膣から引き抜かれたペニスから射出された精液には、何故かチンコピンが全く含まれていない。この摩訶不思議な性質については、崔教授もまだその理由を突き止めることができないでいる。
ウタマロンの原料である日本人男性初交精液の安定的確保という難題を抱えたアリアスは、10億ドルで日本政府にウタマロンの製造販売の権利を譲渡した。
日本政府は当初、童貞ボランティアを募って、初交精液を20万円という報酬で、提携した製薬会社及び各地の保健所に設けた窓口に持ち込んでもらい買い取っていたが、微々たる量しか集まらなかった。しかも窓口に持ち込まれた精液は保存状態が悪かったり不純物が混入して駄目になっていることも多かったし、そもそも初交精液でないものが多かった。また、童貞にとって、極度の緊張下にある初体験時に首尾よく精液を採取することは技術的にも難しかった。コンドームが外れて膣内に漏らしたり、外にこぼしたりして、貴重な初交精液が無駄になることも多かった。
チンコピン発見後、一人の成人日本人男性から一生に一回、数CCしか採れない初交精液は大変な希少価値を持つようになった。処交精液の買い取り価格の相場はうなぎ上りで、「童貞1発家1軒」というキャッチフレーズが流行するまでに高騰した。実際、都内は無理にしても、田舎なら家が一軒買える額である。
ウタマロンが生み出す利益が莫大なものになると予想した日本政府は、童貞保護と初交精液の確保を重要な国策と位置付けた。そして政府は、各都道府県の指定医療機関で働く、筆おろしと同時の精液採取のプロを養成するべく、国家資格を新設した。初交精液採取士(1級、2級)というのがそれである。1級の報酬は都内の高級ソープ嬢の収入を基準とした。国家公務員としては飛びぬけて破格の待遇に加えて、身分、福利厚生が保証されている。応募者は殺到した。試験科目は性交実技に加え、語学、心理学、感染症学などであった。高倍率ゆえに狭き門で、合格率2%という超難関の国家資格となった。なお、初交精液採取士に童貞を捧げた男性は、未婚の非童貞、即ち終童となってしまう訳であるが、それと引き換えに、童貞喪失以降の住民税の減免、終童手当の支給、年金の終童加算など、手厚い見返りが得られることになっている。
政府はさらに一歩踏み込んで、任意となっている童貞喪失時の精液提供を、全ての日本人男性に義務付ける計画を発表したが、さすがにこれは人権侵害というので各方面からの反対が相次ぎ、立ち消えとなった。
ともあれ、初交精液の安定確保はなんとか軌道に乗り、ウタマロンの市場拡大と製造、供給の安定化につれ、販売価格は10分の1以下になった。それがまた更なる需要を生んだ。そして日本政府の皮算用通り、ウタマロンのもたらす利益は、自動車産業のそれに匹敵するものになった。
※ ※ ※
ヒロの姉は昨年、31歳で2級初交精液採取士の資格を取った。ヒロとは違い奔放に生きている姉は、19歳という若さで未婚のまま子供を産み、女手ひとつで子育てしながら合格を勝ち取った。そんな姉を、ヒロは密かに尊敬していた。
「ヒロ、童貞は私みたいな専門家じゃなくて、結婚相手に捧げるのよ。それが男の幸せよ。それまでは絶対に守り抜かないと」
姉はことあるごとにそう言った。彼女の言葉は自己否定にも聞こえ、ヒロはそれが嫌だったが、言い返したことは無かった。
※ ※ ※
国の宝、と童貞がもてはやされるようになった一方で、処女の価値は全く顧みられなくなった。そのことが男性の初体験年齢を押し上げる一方で、女性のそれを押し下げ、男女の初体験年齢に著しい格差を生じさせた。即ち初体験年齢の平均は、女性が18.8歳、男性は32.6歳と、14歳もの開きが生じた。男性が初めてセックスする年齢では女性はもうセックスの熟練者になっている。必然的にセックスは女性がリードするもの、というのが常識となった。また初体験の相手と結婚する割合は男性が61%、女性は11%である。つまり、男性の童貞を奪いながら、その相手とは結婚しない女性が圧倒的に増えたということである。男性の16%は初交精液採取士相手に童貞を失う。
童貞1人を卒業させてその精液を頂けば、家が一軒建つ。2人目、3人目の童貞を、となるのは当然の帰結といえた。童貞から童貞へと狩りをして回る獰猛な肉食獣のような女性は文字通りハンターと呼ばれた。
今や、男性は童貞を守り、性に対して臆病になり、女性は狩る側の性になった。世の母親は息子の純潔教育に腐心する一方で、娘が非童貞と交際したり結婚したりすることを許さなくなった。医療機関の発行した童貞証明書を持たない男性は、結婚相談所でも見向きもされなくなった。30代、40代でも童貞を守りながら片身の狭い思いをしてきた非モテ男性と、女性をとっかえひっかえして遊んでいたモテ男の地位は見事に逆転した。
但し、童貞非モテ男性の特権的地位も童貞を失うまでの話である。ひとたび童貞を喪失してしまったらもう用無しなのである。その落差は絶望的なまでに大きい。童貞喪失後に自分の存在意義を見失って心を病む者、自殺するものが急増し、こちらも深刻な社会問題となっている。童貞喪失恐怖症の患者で精神科は大いに賑わっている。
非童貞のうちでも、終童、特に初交精液採取士でない一般女性相手に童貞を捨てて結婚できなかった独身男性は、あからさまな侮蔑、差別の対象になった。
初交精液を狙っての童貞レイプが横行するようになってきたのは終童の自殺が社会問題化してきたのとほぼ同時期である。女性が童貞男性を脅し、無理やりコンドームを被せて、騎乗位で跨って精液を強奪する事件が頻発するようになったのである。
童貞が初めてのセックスに対し極度に慎重になった世相を反映してか、ネットで鑑賞できるAVも所謂、童貞喪失モノ、童貞レイプに童貞狩り、といったものが主流になってきた。体位は女性上位、騎乗位がごく一般的になった。
童貞が性犯罪被害者となる事件が増えた一方で、童貞詐欺、つまり童貞と偽って終童や非童貞が自分の精液を高額で売りつける詐欺も蔓延するようになった。国に買い取りを請求できない事情があるので格安で買い取ってくれないか、差額は君の利益に、と持ちかけて相手から金を騙し取るのである。童貞か非童貞かは見た目では判断できず、精液を分析してチンコピンが検出されない限り分からない。童貞詐欺をした男が、騙された女性から殺害される事件もしばしば報道されるようになってきた。また、女性に相手にされなくなった非童貞や終童によるレイプ事件も増えた。
そのような治安悪化の状況を打開すべく、童貞保護法の新設、刑法の改正が行われたのが一昨年のことである。女性が童貞をレイプした場合、二十年以内の懲役。加えて、レイプ後コンドームに採取した精液を強奪した場合は20年以上の懲役、無期または死刑と定められた。また非童貞や終童による女性レイプは無期または死刑である。
※ ※ ※
「ヒロ、いい?」
ナオが囁く。
「いいよ」
ヒロは掠れた声で答える。
二人はベッドルームに移動する。
互いに服を脱がせ、向かい合って立ち、お互いに相手の背中に手を回して、ゆっくりとキスをする。勃起しながら、ヒロは、相手を試したことに胸の痛みを覚えた。自分が終童だと告げたときに、ナオが大きく動揺したり、怒り出したりしたらきっぱり別れようと思っていた。けれども杞憂だった。今夜、ナオに捧げる。
ヒロは正真正銘の童貞だった。
姉や母に知られたら、28歳での童貞喪失なんて早すぎると言われるかもしれない。7つ下のナオは初めてなのかどうかわからない。落ち着き振りからしてたぶん違うのだろう。でもナオはハンターなんかではない。ナオの美しい白い手が硬くなったペニスに延びて、ゆっくりと包み込むように握る。ヒロの身体は微かに震えた。落ち着け。童貞と悟られてはいけない。サプライズが水の泡だ。ナオの手がヒロをしごいた。うねりながら高まってきた。やばいかも。
「ゴムつけて」ヒロは掠れる声でナオに頼んだ。ナオが頷く。
「いいよ」ヒロがナオに言うと、ナオはにっこりと微笑み、ヒロを横たわらせて上に跨った。腰を沈めたナオの口から小さな吐息が漏れる。
ヒロは喘いだ。ああ、何て温かいんだろう。僕は今ナオに包まれている。これが初体験。童貞喪失なんだ。この日のためにAVをたくさん観て勉強してきた。でも映像と実体験とは全くの別物だった。涙がヒロの頬を一筋伝わった。
ナオの腰の上下動が激しくなった。これはいわゆる杭打ちピストンというやつだろうか。ああ、だめだ。激しすぎる。
「優しくして」ヒロは思わずそう口走ってしまった。その瞬間ナオは閉じていた目を開けて微笑み、頷いた。しまった、と一瞬思った。童貞ということがばれただろうか。ナオの動きがゆっくりになり、前後運動とグラインドが加わる。
ああ、抗えない。もう我慢できない。さよなら童貞。ヒロは微かに呟いた。
押し寄せる快感に身を委ねる。
※ ※ ※
しっかりと精液を溜めたコンドームを、ACジャパンの広告で推奨されている通りに、外れないようにしっかりと押さえて慎重に抜き取り、縛った。そしてナオに向かって差し出した。
「これ、プレゼント。新居のマンションを買う頭金にしよう」
ナオは驚きの声を上げるはず、そう思っていたヒロの予想は外れた。受け取ったコンドームを、ポーチから出した専用のケースに大切そうにしまったナオは、ありがとう、と言い、微笑んだ。
「知ってたよ。ヒロ童貞だって」
「やっぱりわかっちゃったんだ。サプライズのつもりだったのに」
「最初から信じてたもん」
※ ※ ※
二人でコーヒーを飲んだ直後だった。まず舌が痺れ、それから喉が痺れて声が出なくなった。涎が顎を伝った。呼吸が苦しい。
ヒロは椅子から立ち上がろうとしたが、動けなかった。
「ナオ…」ようやく絞り出せた声はそれだけだった。
「ヒロ、ごめんね」ナオが微笑した。
「直美ってのは私の本当の名前じゃない。あんたと結婚するつもりもない。あんただってこの後、ずっと終童として生きるのは嫌でしょう?」
今まで聞いたことのない、ナオの低く冷ややかな声が遠くに聞こえた。
「……」
「あんたはあと5分もしないで死ぬ。その後、私と契約してる専門の業者がここに来てあんたの遺体を引き取って始末する。あんたは失踪者になる。私はプロだからね。証拠は残らない」
「……」
「あんた、そんなに悪くなかったよ。私、まあまあ気持ちよかった。それじゃね。さよなら」
ヒロはゆっくりと椅子から崩れ落ちた。彼の頬の一度乾いた涙の跡を、再び涙が伝った。
曾根崎十三 投稿者 | 2024-07-25 20:43
直球でお題に勝負を挑みつつ、まさかのSF&サスペンス。すごいです。
壮大でびっくりしました。まさかこのお題でこんなに広げられるとは思わなかったです。私は本当にアレ以外思いつかなかったので……。
ヒロインは童貞ハンターもびっくりの童貞嗅ぎ分け力ですね。
浅谷童夏 投稿者 | 2024-07-27 00:37
ありがとうございます。
破滅派同人に登録したばかりの新参者です。要領もわからないままに、目の前にあったお題に食いついてみました。読者にインバクトを与える物語を構築するには、どう風呂敷を拡げ、どう畳むか。考えながら書くというより、書きながら考えました。主人公の計画に由来するタイトルを、物語のラストの伏線として使うのは、ラストシーンを考える中で、思いつきました。
眞山大知 投稿者 | 2024-07-26 18:28
バカバカしくてゲラゲラ笑いながら読みました。童貞1発家1軒で吹き出してしまいしました。昔は貧困家庭は女の子が生まれると喜んだものですが、この世界だと男の子が生まれると大喜びするでしょう。ただ正直、ラストまでバカバカしくあってほしかったなと思いました
浅谷童夏 投稿者 | 2024-07-27 02:07
ありがとうございます。
コミカルで甘酸っぱいお題なので、捻くれ者の自分は、敢えて救いのないオチに繋げてみようと考えました。サプライズというタイトルに皮肉をこめています。相手を騙して喜ばせようとサプライズを計画した甘っちょろい主人公が、真にサプライズした時にはもう既に手遅れだった、というバッドエンディングは、ちょっと毒がありすぎたかもしれません。
大猫 投稿者 | 2024-07-28 13:29
チンコピンにウタマロンで大笑い!
没落しつつある日本経済の救世主になりえますね。
必ず妊娠できる薬でもいいけど、ガンが消えるとか脳細胞が生き返るとかだと更に話がエスカレートして面白かったかも。
男に生まれることが悲劇となる発想が良いのと、さも見てきたように話を進める構成力とで、楽しく読み進めました。
必死で童貞を守って愛する人と結ばれたいと願った主人公の純情を、無惨に打ち砕くラスト、悲しいですが綺麗に決まっていると思います。
小林TKG 投稿者 | 2024-07-29 04:41
いい話で終わるのかと思いきや、まさかのエンディング。とはいえ、最後に、彼女が言った通り、そのまま生きるのも辛いもの。そういう意味では、優しい。マンションの頭金にしようと未来を思い描いていただけに、辛いのは辛いけど、でも仕方ないですね。その後、生きる方が辛いのだから。だから優しい。優しい話です。体に良くないタイプの優しさ。