-帰宅
ハンドルを握る妻の表情が硬い。元来生真面目なひとではあるが、いつになくただならぬ緊張が伝わってくる。
ぼくは車の免許を持っていないので、運転はいつも妻がする。 というわけで今は、学生時代からの妻の愛車、ホンダフィットで、郊外の直線の道路を走っている。天気はのどかだし、道路は空いていて、なかなかのドライブ日和と言っていい。 妻をリラックスさせることが出来れば言うことなしだが、そうもいかない。妻が何故緊張しているのか、というその肝心の理由が分からないからだ。
午後の日差しが傾いてきている。道の両側は雑木林や畑、田んぼばかり。平屋か二階建ての建物もぽつりぽつりあるが、どれも無個性で何だか倉庫のように見える。建物や小屋の壁に貼られた古びたブリキ看板が通り過ぎる。舗装道路の路面は荒れていて、断続的に小さな振動が伝わってくる。妙に気を張りつめらせての単調なドライブをずっと続けてきて、妻も疲れているはず、と思う。
「ちょっと休むところはないのかな。車を停めて休憩しようよ」とぼくは言う。
「急がなきゃ」と妻は答える。
「休んでいたら間に合わなくなるから」
何に?と思う。ただそれを訊くと妻の機嫌を損ねそうな気がして、ぼくは黙っている。ぼくはとにかく忘れっぽいのだ。些細なことからそこそこ大事なことまで、しょっちゅう忘れて妻に怒られることが多い。妻が短気というよりは、ぼくの物忘れの程度が普通の人の受忍の限度を大きく超えているのだということは自覚している。必修試験を受け忘れて大学を留年したし、友達の結婚式を忘れていてすっぽかしたことさえある。
あまりにひどい物忘れをした時は、妻は叱責の言葉を投げつけてくる代わりに、しばらくぼくに口をきいてくれなくなる。軽くて数時間、ひどい時は一週間ほど。我々夫婦はどちらもさほど饒舌な方ではないが、決して話すことが嫌とか面倒だというわけではない。いやむしろ夫婦の会話はぼくにとって空気中の酸素のようなものだ。これが途絶えると、ぼくは酸欠で身動きができなくなり、嗜好が麻痺して窒息してしまう。妻に口をきいてもらえなくなること以上の拷問はない。
前方の信号のない交差点に、黒い人影が幾つか見える。四人か五人、いや、ひょっとしたらそれ以上いるようだ。道のわきに立っている彼らは、黒っぽい服を着ているのか、文字通りの影のようにみえる。そこにただぼんやり佇んでいたいのか、交差点を横断するのかしないのか、彼らの動きは各々ばらばらで目的が読めず、まるで野生の猿の群れのようだ。
「危ないな」とぼくが言い、妻も少しスピードを落とす。ゆらゆら揺れる複数の人影が、交差点の中に入り込もうとしている。ぼくたちの車を阻止しようと企んでいるようでもある。車を停めたら連中に囲まれて、何かされそうな、そんな嫌な予感がした。妻も同じことを考えたのだろう。更にスピードを落としながら、彼らの横をすり抜けようと、妻がハンドルを切った。
タイヤが軋む音とともに、軽い衝撃があった。
車の後方、リアウインドウ越しに、路上に二人の黒い影が横たわっているのが見える。全身から汗が噴き出してくるのが自分でもわかる。路上の影はどんどん遠ざかる。前を見たまま黙っている妻の額にも汗の粒が浮いているが、彼女はそれを拭おうともしない。
このままだと轢き逃げになる。まずい。止まらないと、という言葉を、しかしぼくは飲み込む。いつだって妻は正しい判断をする。ぼくより聡明で、意志が強く、絵空事は信じないし、ネット詐欺にも引っかからない。ちなみにぼくはこれまでに三回やられた。その妻が、ここで敢えて止まらないという選択をした。ならばそれに異議をさしはさむ前によく考え、理解するべきではないか。納得できる理由があるはずだ。スピードは三十キロも出ていなかった。衝撃も大きくはなかった。正面から撥ねたのではなく、車の側面にかすっただけだろう。数分後には彼らは立ち上がり、ぶつぶつ文句を言いながらあそこから歩き去るはずだ。物乞いをしようとしたのかもしれないし、車を停めさせて強盗を働こうという魂胆があったのかもしれない。示談金狙いの集団当たり屋なのかもしれない。いずれにせよ彼らはしくじったのだ。
ともかく一刻も早く現場から遠ざかりたい。そう思っているのは妻も同じだろう。しかし彼女は殊更にスピードを上げるわけでもなく、黙って車を運転し続けている。硬い表情は変わらないが、冷静さを失っているということはなさそうだ。妻の横顔を見て、少し躊躇してから、ぼくは口を開く。
「さっきは止まらなかったけど、それでよかったのかな」
妻はふう、と小さく息を吐いたが、黙っている。
「あいつら、明らかにわざと車に当たりにきたよね」
ぼくはそう付け加えた。妻はもう一度ため息をついてから「だめ」と言う。
「あれは止まらなくちゃだめだった」
「……じゃ、戻らないと」
「もう今戻ったとしても立派に轢き逃げよ。現場にはもう警察が来ているわ」
「でも、このまま逃げてもまずいよ」
「いや、でも間に合わなくなるから。仕方ないけどこのまま行く」
「間に合わないって、何に?」
ぼくはとうとうそれを訊いてしまう。
「締め切りに決まってるでしょう。あと三時間しかないのに」と彼女は苛立たし気に答える。反射的にぼくは腕時計を見た。午後五時だ
った。何の締め切りなの、とはもちろん訊かない。訊けない。非常に気になるが、相当大事なことに違いないだろう。そもそも今日のドライブの目的はおそらくそれなのだし。なのにそれをぼくが忘れているのは大変にまずい。
「普通の道はもう間に合わないから、近道を行くわ」と彼女は決然とした調子で言う。
ともかく何かの締め切りに追われて、我々はどこかに向かっている。家にいる子供たちはどうするのか。それに轢き逃げの通報がなされていたら、目的地に着く前に検問が張られるかもしれない。どうしてよいのか、わからない。
いつの間にか車は荒涼とした草原の中を走っている。ガードレールは錆びつき、舗装道路の路面はいよいよ荒れて、小さな亀裂が無数に入っている。空に雲が出て、あたりは薄暗くなってきている。道のわきの家はまばらで、すれ違う車もない。前方を見ると、道は先で左右に分かれていて、右は緩やかにカーブして山の端に消えている。左の、さらに先を見て、何だあれ、と声が漏れてしまう。道がものすごい急角度で真っすぐ上っていくのが薄暮の空にシルエットになって浮かび上がっている。道路標識のようなものはない。スキーのジャンプ台のように反り返っているその左の道は、車一台がぎりぎり通れるほどの細さの道幅で、その道の上部は、垂らされた蜘蛛の糸のように、灰色の雲の中に消えている。急坂というよりも、途中からは完全にそそり立っていて、車では絶対に上れないのは一目瞭然だ。とても道といえる代物ではない。あれではターンも不可能だ。見ているだけで鳥肌が立ち、全身が竦む。もしあの道を行けば、途中で失速し、その地点から車は屋根を下にして真っ逆さまに墜落することになるのではないか。いや、間違いなくそうなる。
「ひょっとして、左に行くの?」ぼくは妻にそう訊いた。
「うん」妻はあっさりと答える。
「あれを?」とぼく。
「うん」と妻はまた言って小さく頷く。ちょっと微笑んだように見えた。ばくは悟る。彼女は腹を括ったのだと。いつも冷静に正しい判断をしてきた彼女が、ついさっき犯した決定的な誤り。それを黙ってみていたぼくも同罪。そしてその罪を二人で贖うために、彼女は自分が取るべき正しい行動を選択する。彼女なら、確かにそうするだろうという気がしていた。ぼくは?それは彼女に従うしかない。選択肢は他にはない。ぼくは妻を愛しているし、信頼しているのだから。でも家で待つ子供たちはどうする?いや、待て。ひょっとして妻はあの蜘蛛の糸をそのまま上りきろうと本気で考えているのではないか。いやそうかもしれない。彼女は子供を家に残して夫と無理心中するような人間では決してないはずだ。ならば彼女は正気を失って、静かに逆上しているというのだろうか。わからない。ここは何か声をかけるべきなのだろうが、いい言葉が口から出てこない。
締め付けられるように胸が苦しくなってきた。汗ばむ手を握りしめる。このままだと死ぬ。遠い将来ではなく、すぐに。結婚して家族を持てたこと以外はとくに語るべきこともないような四十五年ではあったが、それなりの愛着を抱けなくもない平凡なぼくの人生は、あと数分後に断ち切られる。でも仕方がない。この妻と一緒ならば良しとしなくてはならない。子供たちよ、運命に翻弄されながらたくましく生きて行くんだよ。君たちのママが決めたことなんだから、これでいいんだ。ママは正しいんだから。間違っていても正しい。ほら、ディズニーの映画であったでしょう。何だったっけ。そう〈ルイスと未来泥棒〉だ。あの中のルイスのママの台詞に、確かそういうのがあったよね。
分かれ道のところに来た。言葉通り、妻は左の道に入った。その躊躇いのなさがどこか爽快ですらある。草原の中を走る道の幅がだんだん狭くなる。妻はアクセルを踏み込んでゆく。窓の外の緑が飛ぶように流れていく。坂道に入って更に加速してゆく。ガタガタと車体が細かく振動し、背中がシートに押し付けられる。斜度がみるみるきつくなる。フィットのエンジンが、こんな凶暴な音を出せるのかと思うほど咆哮する。視界が前方の路面と、その両側に拡がる空だけになる。
怖い。目を閉じてぐっと腹に力を入れる。じたばたせずに耐え抜くのだ。身体が粉々に砕ける瞬間までのわずかな時間を乗り越えるだけだ。あっという間に終わって、その後は全てが無になる。
ああ。あああ、でも怖い。どうしようもなく怖い。息を吸う。吐く。吸う。あと何回呼吸できるか。残りあと数秒。
軋む鋭い音が耳に突き刺さり、前方に投げ出される。それから無重力の感覚があり、一瞬の後に、シートベルトでシートに押し付けられる。轟音が消滅し、無音が世界を満たす。しばらくしてからその中に、自分と妻の呼吸の音が聞こえてくる。濃い灰色の路面と、少し薄いブルーの曇り空が見える。
墜落したのではない。妻が急ブレーキを踏んだようだ。車は数メートル逆行して、離陸直後の飛行機よりも急な角度で停まっている。
「戻る」と妻が言った。
「うん」とぼくは答える。口の中が渇いていて声が掠れた。
坂道をゆっくり時間をかけて真っすぐにバックする。草原の中の道路もしばらくそのままバックし、道幅があるところでUターンする。
来た道を引き返す。行きと同じように、妻は黙って硬い表情でハンドルを握っている。
「怖かった」ぼくは思ったままを正直に口に出す。
「うん。怖かったね。ごめん」と妻が言う。
草原の中の道から、やがてまた元の田舎道に戻っている。相変わらずすれ違う車が少ない。道路わきのガードレールが曲がっていて、路面に黒くタイヤの跡が残っているところを通り過ぎる。
「事故の跡だね、あれ」とぼくは妻に話しかける。
「うん」と妻。
「この道、車が少ないから、飛ばす人が多いのかもね」
「そうだね」
妻が小さく頷く。ぼくはさりげなく付け加えるように言う。
「締め切りは?」
妻は黙ったまま小さくため息を吐く。
「大丈夫なの?」ぼくは更にそう言う。
「もういいの」
妻は呟くように、どこか投げやりにも思える調子で答える。絶望しているのか、諦めているのか。それ以上はやはりここで訊くべきではないように思えた。
先ほど事故を起こした現場の交差点まで来た。再び動悸が昂まり、冷えた背中にまた汗が流れる。人影はない。我々は車を路肩に停め、車から降りて路面を調べた。何の痕跡も残っていなかった。
帰り着いたときには日が暮れていた。家には灯りがついていて、鍵をかけて出たはずの玄関が少し開いている。警察?と一瞬凍り付くが、中からはかすかに笑い声が聞こえる。更には子供が叫んでいる甲高い声も聞こえてくる。うちの子ではない。もっと小さい子供のようだ。
玄関から中に入ってみると、土間には見慣れないたくさんの靴があり、奥の座敷に人の集まっている気配がする。大人が笑っているのがまた聞こえた。何かお祝いでもやっている様子だ。妻の方を見ると、かなり疲れた様子で、上がり框に腰を下ろしたまま放心した表情で虚空を見つめている。
座敷の襖の隙間から中をそっと覗くと、大広間に長テーブルが三列並べられ、馴染みのない親戚やら、普段は挨拶程度の交流しかない近所の人やらが大勢いて談笑している。主賓はこの家の主である我々ではない、他の誰かのようだ。小学校三、四年と思しき、うちの子と同じくらいの子供も何人かいるが、うちの子の姿は見えない。あれ、そもそも妻とぼくとの間に子供はいたんだっけ?などと妙におぼつかない気さえしてくる。まあどうせ内弁慶な彼らは子供部屋に引っ込んでゲームでもしているのだろう。
ところで我々の家ってこんな和風の豪邸だったか?という疑問がわく。それにこれは一体何のお祝いなんだろう。だが気後れして誰にもそれを訊けないのでわからない。今日はそもそもどうにも分からないことばかりだ。
妻は靴を脱いで上がったが、部屋に入ろうとせず、眉根にしわを寄せ唇を噛んで、広い玄関ホールの隅に黙って立っている。近寄り難いほどに険しい表情をしている。事故のことで頭が一杯なのだろう。彼女と少し離れたところに立っているぼくも、自分のいる場所から動く気になれない。
座敷の方に目を向けると、並べられたテーブルの上にはいろいろな料理やビールなどが並んでいるが、全く食欲がわかない。
警察は来るだろうか。事故現場で検証が行われていたような様子は無かった。ひょっとしてばれないんじゃないか。いや、来る。来るに違いない。現場にいて、事故を目撃した何人かの中には、通報した人が間違いなくいるはずだ。交差点にカメラがあったかどうかはチェックするのを忘れた。それに田舎の交通量の少ない道とはいえ、途中にNシステムがあって、我々の車の写真を撮っているかもしれない。
座敷の中から小太りで禿げ頭の男が、満面の笑みを浮かべて手招きをしている。
「どうぞ、いらっしゃい」
ぼくは妻の方を見る。妻もこちらを見て、小さく頷いた。
主催者でも主賓でもないとしても、それでもこの家の主はぼくなのだから、宴席に全く顔を出さないというわけにもいかないだろう。
どぞ、こちらへ、と男が上座を勧めるのを、いやいや、と手で制して、ぼくは端の方へ行き、空いていた座布団に腰を下ろす。妻もついてきていると思いきや、姿が見えない。彼女が大の宴会嫌いだったことを思い出す。
向かいに座っているのは茶髪の女だ。三十歳くらいだろうか。色白で、赤い唇がやけに目立つ。どこか見覚えのある顔だが、誰なのか思い出せない。それに人と会話をする意欲が全くわかない。ぼくは空いている右隣の座布団に移ろうと腰を浮かしかけたが、もうすでにビール瓶の口が、どうぞ、という声とともに、こちらに向けて前から差し出されている。
「お久しぶり」と言ってその女は会釈をした。やはり知り合いのようだ。でもこちらは記憶が全く朧でばつが悪い。ぼくは曖昧に笑顔を作って、軽く会釈を返す。
「何だか顔色が良くないわ」
「そう?」ぼくは右手にグラスを取って、注がれたビールを受ける。女の注ぐ勢いが強すぎて泡が溢れた。ぼくは慌ててグラスに口をつけるが、シャツとズボンにこぼしてしまう。
「ごめんなさい」と女はぼくに謝り、ハンドバッグからハンカチを取り出し、席を立ってテーブルの端からこちら側に回り込んできて、ぼくの右隣に身を寄せるように座り、胡坐をかいているぼくのシャツとズボンを拭う。
「いいよ。自分で拭くから」というぼくの言葉を無視して、女は再び「ごめんなさい」と小声で言い、さらに右手を伸ばしてぼくの股間を拭く。指先に妙に力を入れてハンカチを動かしてくる。そのためにぼくの意志とは関係なく、好ましくない生理的反応が生じそうになり、ぼくは腰を引いた。
「自分で拭くから、いいって」ぼくは小声で繰り返す。
「いいえ、拭かせて」と女は言い、さらに執拗に手を動かす。そこに変な動きが加わっていて声が出そうになる。
「大丈夫」と彼女が囁くように言う。何が大丈夫なのか意味が分からない。左隣で向き合って話しながら、ちらりちらりこちらを気にしているような二人の中年女性の視線も気になる。
「ちょっと、もういいから、ほんとに」ぼくは女の手を押さえてその動きを止める。その手は滑らかで柔らかくて冷たかった。女からハンカチを取り上げて自分で拭いた後、女に返し、箸を手にして、目の前の大皿から鰹のたたきを一切れつまんで口に入れる。それから泡が溢れたせいで飲む前から半分くらいに減ったビールを飲む。
「ひと月前に亡くなったんです。夫が」
向かいの席に戻った女が、真顔でそんなことを言う。
え、それは、と言ったきり、何と言葉を継いでいいかわからず、黙っていると、女は目に垂れた前髪を手でかき上げてから、ふふっと笑う。
「嘘。ちゃんと生きてます。今トイレに行ってます。そこ、彼の席なの」
「あ、ごめん。それは失礼」ぼくは慌てて立ち上がろうとした。女はまた笑う。
「夫なんていません。嘘です。私まだ独身ですって。その席は空いてたから大丈夫」女はそう言ってくすくす笑い、空になったぼくのグラスにビールを注いだ。今度は泡を溢れさせることはなかった。
「何なんですか?」ぼくは憮然として言う。
「ごめんなさい。冗談が過ぎたかしら。でも、やっぱり、騙されやすいのね」
女は両の口角を上げ、ぼくの目を上目遣いに見つめながら、揶揄する口調で言う。挑発しているな、と感じる。やっぱり、ということは、以前にもぼくは彼女から騙されたことがあるのだろう。
「今、変な冗談で笑える気分じゃないんだよ」
「あら、どうしたの?やっぱり具合悪いの?」
「別に」ぼくは首を振る。ついさっき人を轢いて、そのまま逃げて来たばかりだなどと、どうしてこんな女に話せるだろう。ぼくは女の
グラスにビールを注ぎ、烏賊の刺身を一切れつまむ。
「悩みごとでもあるなら聞きますよ」女の声が媚びを含んでいる。
「いや、いいから」ぼくは出来るだけ素っ気なく答える。女が何か言いたそうにしているが、気がつかないふりをして、ちょっと失礼、
と女に小さく片手をあげてから立ち上がる。
座敷の外に出る。玄関ホールに戻ると、妻が同じ場所に立っていた。こちらを見もしないで虚空に視線を向けている。黄色い照明の下、その顔の整った輪郭が陰影によって強調されていて、額のない一枚の絵のようにみえる。
ピンポン、と飛び上がりそうな大きな音で玄関のチャイムが鳴る。
「お客さんだよ。誰か出て」と後ろから誰かの声が聞こえる。玄関ホールにはぼくと妻の二人しかいない。ぼくはのろのろと靴を履き、
玄関を開ける。
警察官が二人並んで立っている。その後ろの暗がりに、顔を血まみれにした黒い人影が立っていて、ぼくを指さす。
「病院に運ばれた方の一人は、たぶんもう助かりませんよ」
警察官の一人が言う。
「まさか」思わず声が出る。
「何がまさかだって?」もう一人の警察官がぼくを睨み据えて、低く、ドスの利いた声で言う。
こっちに来い、と手招きされ、ぼくは警察官たちの前に歩いていく。膝から力が抜けて、路上に正座してしまう。涙があふれてくる。
「すみません」隣で妻の声がする。妻は靴を脱いで土下座し、頭を地面に擦りつけた。ぼくも妻に倣って同じようにする。一緒に、すみ
ません、と何度も繰り返す。妻の声は震えていてほとんど悲鳴のようだ。いつも冷静な妻が、これまで見たこともない取り乱し方をしていることに、ぼくは打ちのめされる。
妻とぼくの謝罪の言葉が、だんだんシンクロしてきて頭の中に反響し、気持ちが悪くなってくる。舌がもつれて呂律が回らなくなってくる。ぼくは顔を上げて言う。
「ぼくが轢きました」瞬間、妻から肘打ちをされる。
「違います。私です。轢いたのは」妻の声が聞こえた。鋭い声だった。見ると、険しい顔でぼくを睨んでいる。彼女の目には怒りが宿っ
ている。ああ、やはり妻はどこまでも正しい。彼女はぼくにしばらく口をきかないだろう。もっともこの後、二人で会話できる機会が我々に与えられるのかどうかは分からないが。
背後の玄関で人々がざわついている。子供の嬌声と、それに続いて皿だかコップだかの割れる音と、母親らしき女性の怒声が聞こえる。馬鹿か、という男の声も聞こえた。ぼくは後ろを見る。闇の中に玄関の光が浮かび上がっている。何人かの人影の中に、さっきの茶髪の女の姿があった。玄関からこちらを凝視している。あ、この女、と一瞬記憶をたぐりよせかけたが、それはすぐに警察官の声にかき消される。
「女のことなんか気にしている場合か、あんた」
横で土下座していた妻が顔を上げて、ぼくの方を睨んだ。玄関の光に向けて腕時計を見ると午後八時だ。再び土下座しながら、子供たちはどうなるのか、と思う。ぼくたちがいなくなったら子供たちを世話する人がいない。逮捕されるわけにはいかない。そうか、それで妻はこんなにもなりふり構わず土下座しているのか。額と手のひらを通して、地面が湿っているのを感じる。ズボンもじっとりと濡れてくる。土の臭いがする。どうしようもない、なるようにしかならない、という諦めが押し寄せてくる。
「おかしい」妻の声が頭上から聞こえる。顔を上げて傍らを見ると、いつの間にか土下座をやめて立ち上がった妻が前を向いて、スカー
トの汚れを手ではたきながら警察官を睨みつけている。
「やっぱり、あなたたち警官じゃない」予想外の妻の言葉に、ぼくは呆然とする。妻の断言に圧倒されたかのように男たちは黙っている
。その顔は黒い影になっていて、どんな表情をしているのかわからない。しかしその影の奥の目がせわしなく動いているのは分かる。
「立って。行くわよ」と妻がぼくに言う。そのまま立ち上がってすたすたと歩きだす。ぼくも慌てて立ち上がり彼女に続く。誰も後を追
って来ない。
「あんなのに引っかかっちゃって我ながら呆れた」とハンドルを握っている妻が言う。
「あいつら、ひょっとしてグルだったの?」
「当たり前じゃない。土下座なんかして損したわ」
「というか、どうして分かったの?」
「 あんなすぐに、私たちの居場所を突き止めるなんて不自然でしょう。尾行されていたわけでもないのに」
「それならどうやって」
「車に当たってきたときに、GPSでも仕込まれたんじゃないかしら」
「じゃ、そのGPSはまだ車に?」
「さっき、家に着いた時点で、車から剥しているはず。流石に証拠をそのままにしておくほどまで、あいつらも馬鹿ではないでしょう」
そう言う妻の表情は、何事も無かったかのようにケロリとしている。ああ、やはりこの人は凄いと思う。
「これからどこに行くの?」とぼくが問うと、妻はぼくの方をみて怪訝そうに眉根にしわを寄せた。しまった、と思う。またやってしま
った。
「どこにも行かない。もう家に帰るよ」妻は少し苛立ちを含んだ声で言うが、そこに怒りは籠っていなさそうで、ほっとする。
でもそれなら、さっきの家は一体誰の家だったのだろう。妻はもちろん知っているはずだと思うが、ぼくも知っていて当然と思われているとすると、とても訊けない。
「途中でスーパーにでも寄って、子供たちにおやつ買って帰らないと、お腹減らしてるからきっと文句言うわ」妻がいつもの柔らかい表
情をしていることにぼくがすっかり安堵していると、彼女はふと思い出した、というように言う。
「で、さっきの茶髪の女の人は?」
「全然知らない人だよ」冷や水を浴びせられたぼくは必死でかぶりを振る。「本当だよ」
「あの人、あなたのことをじっと見てから、私の方を凄い目で睨んでたわよ」
「……」何と言っていいかわからない。
「睨み返してやったけど」
「どうだった?そしたら?」
「すぐに目を逸らした。そこでビビるんなら、最初から睨むなって」
「そうだね。本当」ぼくは妻の顔色をみながら相槌をうつ。妻の目力は強い。射すくめられた相手は相当慌てただろう。しかしあの変な
茶髪女に同情する気にはなれなかった。
「あの女、当たり屋とグルかもしれない」妻はそんなことを言う。言われるとそんな気もしてくる。
「そうか。なるほど」ぼくは慎重に言葉を選んだ。さっきと話題を変えて、女に関わる話を終わらせたい。締め切りのことは結局どうな
ったのだろうか。気になる。しかしこれはさっき、もういい、と一蹴されているから話題にしない方がいいだろう。
「あの当たり屋の連中、ずいぶん手の込んだことをするね」
「本当」
「本物の警察に連絡して捕まえてもらった方がいいんじゃない?」
「でもこっちが撥ねたのは事実だし。色々面倒なことになる」
「あ、そうか」確かにそうだろう。
道路灯の光がリズムを刻んで通り過ぎていく。道の両脇に立つ家や倉庫、工場の建物の灯り、対向車のヘッドライトが増えてきた。
「それにしてもさっきの道、あの坂。本当に死ぬかと思った」
「うん。あれはひどかった」
「ナビは圏外みたいだったけど、あれ、本当に地図に載ってる道なのかな」
「どうかしらね」
「あのまま行ってたらどうなってただろうね」
「そうね」
「そのまま天国に昇っていきそうだったね」
「そうね」
妻がそれ以上言葉を継ごうとしないので、話はそこで止まってしまう。あの道を選択したのは妻だから、これ以上この道の話を続けると妻を非難する感じになってしまうのでやめることにする。女の話に戻るのも嫌なので、ぼくは次の話題を探す。
「おやつ、何、買おうか」格好の話題が見つからず、結局そんなことを口にしてしまう。話が全然繋がっていないけれど、まあ仕方がな
い。
「いつものやつでいいんじゃない?」
「いつもの?」
「あれ買ってって子供たちからいつも言われるやつ。ほら、憶えてない?」妻にしては珍しく、その名前が出てこないようだ。妻が思い
出せないことをぼくが憶えているはずがない。
「ごめん、聞いたような気もするけど」本当は記憶のどの片隅にも引っかかっていないのだけれど、言いわけがましくそんなことを言ってみる。妻が、はあ、と声に出してため息を吐く。ぼくはもう一度、ごめん、と言う。妻は黙って首を振るが、怒ってもいないようだ。
車は市街地のにぎやかな通りに入った。そこを抜けたら我が家のある住宅街だ。
「黒糖きなこビスコ!」
妻が急に大きな声を出す。
「あ、あれか」とぼくは調子を合わせながら、内心何じゃそりゃ、と思う。子供たちがビスコを買ってくれなんて言ってるのを聞いたこ
とがない。あれは幼児のおやつだし、それにだいたいビスコに黒糖きなこなんてあっただろうか。いや、妻にかつがれているという可能性もないとは言えない。実際、妻は時々ぼくをひっかけるのだ。内緒で宇宙飛行士の募集に応募したら一次選考に受かっちゃったと言い、ぼくを仰天させたことがある。英文で書かれたNASAの合格通知ハガキまで自作してプリンターで印刷していたのだから恐れ入る。後でエイプリルフールでかつがれたのだと知ったときは全身の力が抜けた。どうせぼくは忘れっぽいだけでなく騙されやすい。
「今日は疲れた」と口に出した瞬間、ずっと運転していたのは妻だということに思い至り「でしょう?」と、とっさに付け加える。
「うん、くたくた」と妻。
「ほんと、くたくただよ」
「何だかわけわかんない一日だったね」
妻が言う。わけわかんない一日なんて、漫然と生きているぼくには別に珍しいことでもない。でも彼女がそんなことを言うのはめったにないことだ。
「帰って子供たち寝たら、ビール飲もうよ」とぼくは言う。
「いいわね」と妻が今日一番の笑みを浮かべる。
我が家はもう近い。
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