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エリンギ

合評会2026年7月応募作品

浅谷童夏

前回の合評会でふと思いつくままに口にした「エリンギ」というお題について、大猫さんが「パックの中のエリンギって家族みたい」というようなことを言っておられて、あ、なるほど確かに、と思いました。それで、この話が浮かびました。2026年7月合評会参加作品。

タグ: #リアリズム文学 #純文学 #合評会2026年7月

小説

5,409文字

繋いだ手が汗ばんでいる。

「何に乗ろうか?」

「コーヒーカップ」

入口のゲートを抜けて、右手の坂を下ったほう、50メートルくらい先に見えているコーヒーカップへと向かう。いずみが手を離してスキップし始め、隆も後を追う。

コーヒーカップに到着する。日曜日だというのに誰も並んでいない。

「誰もいないよ。独り占めだね」いずみは笑顔だ。

「ほんとだね」

いずみが軽い身のこなしで黄色のコーヒーカップに乗り込む。それに続いた隆が向かい合って座る。軽快な3拍子の音楽とともにカップは回り始める。

「あっちゃん、部活?」

「うん」

いずみの小鼻の横に小さなにきびがぽつんと一つ。小学校4年生にしては早いかな、と隆は思う。二つ上の敦は半年前会ったとき、まだつるんとした顔をしていた。

「あっちゃん、元気にしてる?」

「うん。元気にしてるよ」

「もうだいぶ会ってないなあ」

「お兄ちゃん忙しいからね。部活とか塾とか」

いずみは気を使ってくれている、と隆は思う。敦はもう面会に来たくないのだろう。

渚と離婚して4年になる。月一度の面会日に、最初は兄妹とも揃って来ていたが、2年前からはいずみ一人ということが多くなり、半年前から敦は全く来なくなった。もともといずみがどちらかといえば隆に懐いていたのに比べ、敦ははっきりとママっ子だった。

「まだ私が3歳くらいのとき、あっちゃんと私と、ママとパパとで、コーヒーカップに乗ったの、憶えてる?」

いずみが言う。うん、と隆は頷く。

「あの時、あっちゃんがすごくグルグル回し過ぎて、私、目を回したよね」

「あったねえ、そんなこと。カップ止まってからも、いっちゃん、頭がぐるんぐるんしてたよな」

「パパ笑ってるんだもん、ひどかったよね。ママは心配してたのに」

「ごめんごめん」

「まったくさ、こっちは笑い事じゃなかったんだから」

「ほんと、ごめん」

「あの後、しばらくコーヒーカップがトラウマになったんだから」

「そうだったの?」

「遊園地で一番怖い乗り物は何って訊かれて、コーヒーカップって答える子って、日本中でたぶん私くらいだよ」

「でも乗ってるじゃん、今」

「もう乗り越えたの。大きくなったから」

「そうか。えらい。大きくなったか。うん」

回る景色の中で隆は手を伸ばして、いずみの頭をぽんぽんと軽くたたく。さらさらの柔らかな髪の毛が自分に似てくれてよかったと思う。母親はとにかく量が多くて硬い髪質だった。

コーヒーカップがゆっくりと止まり、二人は降りた。

 

「次はどこ行こうか?」

「パイレーツ行こ」

「いいよ」

いずみの手が伸びてくる。隆はそっとその手を握る。髪と違って手は自分よりも母親似だ。爪が横長の自分の大きな手にすっぽり隠れる、華奢で小振りな手。こちらは自分に似てなくて良かった。

小学校5年生の娘が、家族から離脱した父親に、こうして自分から手を繋いできてくれることに、隆は胸が熱くなる。

「パパ、ちょっと太ったね」

「うん。そうかも」

「走ってるの?」

「いや、今はもう走ってない」

「大会とか出てないの?」

「うん。出てない」

「どうして?」

「膝を壊しちゃったから。半月板」

「そうなんだ」

「うん」

「手術とかするの?」

「うん。今は痛み止めでごまかしてるけど、考えてはいる」

「パパ可哀そう。あんなに頑張っていたのに」

「いや、馬鹿みたいに走り過ぎて罰があたったんだよ」

「そうなの?」

「うん。医者からも言われたよ。走り過ぎが原因って」

「そうか」

そう。これは罰だ、と隆は思う。

 

元々、スポーツは得意ではなかった。小中高、一度も選抜リレーの選手になったことはないし、体育祭は嫌いだった。皆の声援の中、グラウンドを疾走するクラスメートを羨みながら、ムカデ競争とか、二人三脚とか、そういう競技にばかり参加していた。高校は囲碁部、大学では映画研究会で、社会人になるまでスポーツとは全く無縁だった。

大学を出て就職したのは住宅設備機器の製造会社で、根っからの体育会系の社風だった。慣れないルート営業のストレスで過食気味になって太り、身長173センチなのに体重が80キロを超えた。

さすがにまずいと思い週3日のジョギングを始め、1年かけて73キロに落とした。

ちょうどその頃、社内駅伝大会があった。マラソン好きの営業部長の発案で5年前に始まった年1回の大会は、社内の多くのスポーツイベントの中でもメインの恒例行事だ。社内の各部署対抗で、会社工場裏手の河川敷の1周1.5キロのコースを走る。1チーム3人。第1走者は1.5キロ、第2走者は2周の3キロ、アンカーは3周の4.5キロを担当する。

若いから、というだけの理由で、隆は問答無用でメンバーに入れられ、さらに課長の一声で、営業部1課のアンカーに選ばれた。

「僕、遅いから無理です。絶対抜かれてビリになりますよ」と言って抵抗してはみたものの「営業成績の悪い順に長い距離。お前がアンカーで決まり」という課長の命令には逆らえなかった。ところがいざ走ってみると1人に抜かれたが3人を抜き、7チーム中2位の成績だった。1年間続けていたジョギングの効果があったのだろう。自分でも予想外の結果だった。お前、見直したよ、やるときはやるんだな、と課長にも褒められた。

それがきっかけでランニングが楽しくなった。漫然と走るのではなく、キロあたりのタイムも意識するようになった。社内のランニングクラブに入り、そこで経理部の渚と知り合った。隆より1年先輩でクラブのアイドルだった彼女と、休日の早朝に一緒にジョギングしたり、社内外の駅伝大会に一緒に参加したりするうちに惹かれ合うようになった。プロポーズに渚が頷いてくれたときは天に昇る心地だった。

結婚後、渚に誘われて生まれて初めて参加したフルマラソンでは、前半飛ばし過ぎて失速し途中で歩いてしまい、6時間かかってゴールした。渚は隆よりも1時間先にゴールインしていて、ゲートで笑顔で出迎えてくれた。その後2回一緒にフルマラソンを走り、3回目のマラソンで4時間半を切って、やっと渚に勝てた。その日のビールの美味さは忘れられない。

 

マラソンのタイムが上がっていくのと連動するように仕事が楽しくなった。早く帰れた平日の夜と休日は、渚と一緒に自宅の近くを走った。走ることでストレスが解消され、メンタルが強化されているのを実感した。残業してもさほど疲労感を感じなくなった。営業成績は右肩上がりに伸び、課内でも上位に入るようになった。

あの頃は何もかもが充実していた、と思う。

 

渚が妊娠し、夫婦で走る習慣は終わった。やがて長男の敦が生まれ、渚は退職し育児に専念することを選んだ。敦の世話で渚は手が離せないので、1人で走るようになった。

クラブに入ったばかりの頃、自宅近くの5キロのジョギングコースをキロ6分で走っていた。それが、渚のお腹に二人目が宿っていることが分かった頃には、キロ5分で10キロを走れるようになっていた。

ランニングの負荷を徐々に増やしていった。週3日を5日に増やし、5キロだった距離を、平日は10キロ、土曜日は20キロ走るようにした。きつさを感じるときもあったが、これは、どんな危機に直面しても家族を守れる、心身ともに逞しい父親になるために必須のトレーニングなんだ、と思えばますます熱が入った。

マラソンシーズンの冬になると、都内だけでなく、茨城や静岡の大会にも泊りがけで遠征参加するようになった。5回目のフルマラソンで4時間を切り、サブフォーランナーの仲間入りをした。そして10回目の大会でようやく3時間半を切った。

「渚、やったよ。ネットタイム3時間22分」

静岡の大会から帰った夜、玄関を開けるなり、渚にそう報告した。

「良かったね」

渚は膨らんだお腹に両手を置いて、ベビーベッドの柵にもたれて座ったまま、気怠そうに言った。隆は手を伸ばして、ベッドの中で寝ている敦の小さな頬にそっと触ろうとして、やめた。その手の動きを追っていた渚が一瞬、眉間にしわを寄せたからだ。

「次は3時間切り。サブスリーを目指すよ」

渚にそう言ったが、返事が無かった。

「渚、どうしたの?」

「何でもない。ちょっと睡眠不足で頭が痛いだけ」

「大丈夫? 今日は早く寝た方がいいよ」

渚はまたしばらく黙り込んでから、小さな声でぽつりと言った。

「私、もう産みたくない」

隆は耳を疑った。

 

その言葉はそれからも時々、渚の口からこぼれ出てくるようになった。

生真面目な渚は、育児にも家事にも手抜きをしようとしなかった。身重の身体だし、それがいかに大変であるかは分かっているつもりだった。だからこそいつも渚に、無理をしないでいい、家事なんか二の次でいいからとにかく君は無事に赤ちゃんを産むために自分の心身を整えることを最優先にして、と言ってきた。そのためのサポートは何でもするから遠慮なく言ってくれ、と。

その一方で、仕事にはこれまで以上に打ち込み、雨の日も欠かさずランニングを続け、渚と話し合って分担を決めた家事をきちんとやる。渚がきつそうなときは渚の分まで。とにかくやるべきことをしっかりこなす。それで万事うまくいくと思っていた。

 

無事産まれた女の子にいずみと名付けた。敦は保育園に通い始めた。

隆は平日も休日も走り、月間走行距離は400キロを超えるようになった。会社では順調に昇進し、同期の中では一番早く主任になった。35回目のフルマラソンの日、渚は朝から少し咳が出て体調がすぐれない様子だった。走りながら、渚がんばれ、風邪なんかに負けるな、とエールを送った。俺も頑張ってるから、と。そして初めてサブスリーを達成した。2時間58分56秒。隆が意気揚々と帰宅すると、家の電気が消えていた。子供部屋に敷いた布団の中で渚は寝込んでいた。その傍らで敦といずみも寝相を崩して熟睡している。渚の額に手を当ててみると微熱があった。大丈夫、平気だから、という渚をなだめて熱を測らせたら37度8分あった。とりあえず薬箱から解熱剤を出して飲ませた。翌日には熱が引き、隆は胸をなでおろした。

 

離婚してほしい。敦といずみの親権は自分がもらう。慰謝料とかはいらない。

渚からの通告は、青天の霹靂だった。

とにかく別れてくれ、の一点張りだった。隆が首を縦に振らないでいると、養育費もいらないからとまで言い始めた。取りつく島が無かった。

養育費くらい払わせてくれ、と逆に隆の方から頼み、月1回の面会、養育費は月10万、という取り決めをし、隆は離婚に応じた。

 

渚が敦といずみを連れて家を出た日、パパも一緒に、と言って泣きながら渚に手を引かれて小さくなっていくいずみの後ろ姿に、心が引き裂かれる思いがした。

それでも、その日も走った。

 

一年後、渚は、2つ年下の男性と入籍した。会社員の本業の傍ら、育児ママをサポートするコミュニティセンターでボランティアをしている男性で、子供たちを連れてそのコミュニティセンターに出入りしていて知り合ったのだという。敦は彼にとても懐いているのだ、と渚は言った。

「パパがマラソン大会に出てる日に、健二さんとママとあっちゃんと私で、ここにお寿司を食べに来たんだよ」と何度目かの面会の時に回転寿司に連れて行ったときに、いずみがそう言った。敦は隆の方に顔を向けずに黙々と食べていた。そうだったのか、と腑に落ちた。

 

55回目のフルマラソンの時だった。走る前から右膝に違和感を感じていたが、走り出してすぐに痛みに変わった。3キロ地点で、激痛のあまり立ち止まった。初めて途中でリタイアして救護車に乗った。

その日を境に、走るのを止めた。

 

「パパと、もう会えなくなる」

観覧車の籠が一番高いところに来たとき、いずみがぽつりと言った。

「どうして?」

「シドニーに引っ越しするの」

「シドニー……」

「健二さんがみんなを連れて行くって」

「そうなのか」

「あっちで仕事をするんだって」

「何の仕事?」

「よく分からないけれど、何か文化交流とかに関係する仕事みたい」

「ふーん……」

「家族みんなについてきてほしいんだって」

「そうか」

隆は黙った。家族という言葉が重く響いた。

 

「パパ、ばいばい。元気でね」車から降りたいずみは何度も振り返って手を振った。暗闇の中に浮かび上がるエントランスの明るい光の中にいずみが消えていくのを、運転席の隆はじっと見つめた。

スマホが震えた。見てみると、渚からのメールだった。いずみから聞いたと思うけど、家族でシドニーに行くことになりました、という短い内容だった。

 

がらんとした自宅に、そのまま帰る気にはとてもなれなかったので、スーパーに寄ることにした。走るのをやめてからは再び太ることも気にしなくなって、夕食はもっぱら外食ばかりで済ませるようになった。でもたまには食材を買って久しぶりに何か料理でも作ってみるのも悪くない。

スーパーの入り口に積んである黄色い籠を取り、手前の野菜コーナーから見てまわった。

トマトとパプリカを籠に入れた。本日のお買い得というエリンギのパックに目が留まる。大きいエリンギが2本、その脇に小さなエリンギが2本、中に入っていた。

 

女性客がちらりと隆を見て、怪訝な表情を浮かべた。

手に持ったエリンギのパックを凝視しながら、肩を震わせ、彼は嗚咽していた。

© 2026 浅谷童夏 ( 2026年6月7日公開

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