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いつか君が戦う日

破滅派25号「児童文学」応募作品

浅谷童夏

パパが色々やらかしたせいで、戦うことが嫌いな君なのに、戦わなくちゃならなくなる。相手は猿の魂。どうすりゃいい?
対象年齢:15歳以下

タグ: #SF #サスペンス #ファンタジー #ホラー #破滅派25号「児童文学」

小説

10,442文字

テレビをつけると、ちょうどパパが映っているところだった。

「それで、これから我々が気をつけるべきことは何でしょう、さるたびら先生」司会者のキャスターがパパに問いかけている。

「そうですね、もはやネット世界はサメだらけの海だという認識を、我々はまず持つべきですね」

「気を抜いていると、やられてしまう?」

「ええ。あっという間に騙されますよ。相手はAIで、良心など持っていないわけですから」

どうやらネット詐欺か何かの話題らしい。よく言うよ、と画面の中のパパに向かって君はつぶやく。ついこの間も自分がネット詐欺に引っかかったくせに。

 

翌朝、教室で君は桜井から話しかけられる。

「おい猿田平、昨日、お前のお父さんテレビでかっけーこと言ってたじゃん」

「田平だっつうの」君は桜井をにらむ。

猿田平というのは、ニュース報道番組の中で、司会者がパパにつけたニックネームだ。そのせいで君まで学校で本名の田平の前に猿をつけられるようになっている。いい迷惑だ。

「昨日はテレビ観てねえし」と君は桜井の方を見ずにつぶやく。

 

パパは最近よくテレビに出る。半年前パパがやらかしたことが、結果的にパパを有名人にした。桜井みたいに大して親しくもないやつから、とりあえずの話のネタみたいにパパの話題を出されて相手しなければならないのが超面倒くさい。

パパは色々とダメなところが多い。酔ってスマホと財布を同時に無くしたとか、ネット詐欺に引っかかったとか、まあそんなことがわりにしょっちゅう。自分がダメな大人であることは自覚しているようで、「教え子の方が、僕よりずっと大人でしっかりしてる」なんて恥ずかしげもなく言う。君が小学生の頃に「尊敬する人はって訊かれて、父ですって答える子にだけはなるなよ」とも言ってた。

まあ、そんなパパにも取り柄はある。一応大学で社会学の先生をしているし、書いたものが新聞や雑誌にのるときもある。環境問題とか、難民問題とか、AIの問題とか、時々分かりやすく教えてくれる。そういうときのパパはすごく頭がよさそうに思える。でもネット詐欺に引っかかってるパパは本当にバカじゃないかと思う。そのことを君がパパに言うと、パパは変な答えを返してくる。

「パパの中には二人の人間がいて、一人がとってもしっかり者で頭を使い過ぎるせいで、もう一人がバカになって足を引っ張るんだよ」

意味がわからない。しかも二人どころか、今は猿までいる。

 

君のパパは言う。すべての生き物は争い戦いながら生き延び、進化してきた。生きることイコール戦いなのだと。

確かに、アニメでも漫画でも戦闘シーンばっかりだ。最初は弱い主人公が、戦ってだんだん強くなっていく。敵もだんだん強いのが出てくる。敵も味方もどんどん死ぬ。最後にラスボス出てきて決着、みたいな。戦い要素ゼロのアニメや漫画なんて見たことない。なんでこうどいつもこいつも戦ってんだろ。だるい。戦争のアニメや漫画が好きな奴でも、もし本当に戦争が起こったら戦う前に逃げるっしょ。

「勝つときもあれば負けるときもある。それは仕方ない。生きることは戦いだけど、大事なのは勝ち負けじゃない」パパはそう言う。

「じゃあ負けてもいいの? 負けたら死んだりするじゃん」君は訊く。

「しょうがないさ」とパパは答える。

「それで済ますの?」

「自分が滅びたら、代わりに誰かが生き延びる。ただそれだけのことだよ。生物はそうやって生き延びて進化してきたんだし」

それってどうなのよ。自分が滅びたらそこですべては終わりじゃん。その後の生物の進化とか知ったこっちゃない、と君は思う。

 

それはさておき、半年前、君のパパがやらかした話に戻る。

その日、パパは新宿で飲んだ。高校時代の友人たちと久しぶりの同窓会だったらしい。夕方から始まったその会が終わって、パパはママに、今から帰ります、というLINEを送った。愛してる、という言葉とハートマークを添えて(これはパパが酔っぱらっているときのお約束)。

でもパパは帰ってこなかった。

ああいつものパターンね、とママは思った。明日は仕事が休みだから思い切り羽伸ばして酔っぱらって、下りの電車で乗り過ごして遠くの駅まで行っちゃったのね、それで上りの電車はもうなくて、仕方なくそこからタクシーに乗るか、ネットカフェに泊まるかするわけね。仕方ない人。

なんてことを思いながら、ママはパパからの次の連絡が来るのを待った。今タクシーに乗ったよ、とか、今ネットカフェに入ったよ、とか。乗り過ごした時は、そういう連絡を必ずこまめにすること、というのはママがパパにいつも言っていることだ。そしてパパはママのその言いつけだけは、ほぼきちんと守る。

しかしその晩は、今から帰ります、の一言だけで、それ以降パパからの連絡は無かった。ママはさっさと先に寝ることにした。

ベッドの中でママは思った。どうせ終点の高尾まで行っちゃったんでしょ。始発かその次の電車で帰ってくるとしたら、大体朝6時から7時の間くらいに帰ってくるわね。ばつの悪そうな顔をして。おかえり、に続けて、何で連絡しないのって、ガツンと言ってやらなくちゃ。声のトーンはどのくらい低めに設定すれば、鈍感なパパにもしっかり怒りが伝わるかしら。そんなことを考えていたらママの神経は高ぶってしまい、結局寝付いたのは夜中の2時だった。

翌朝、ママは8時過ぎに目覚めた。パパは帰っていなかった。LINEも来ていなかった。

12時を過ぎても帰ってこなかったし、相変わらず連絡も無かった。

さすがにママは心配になった。パパはどこかの駅のベンチで酔いつぶれて寝てるんじゃないかとか(これは過去実際にあった)、ひょっとしたらオヤジ狩りにあって身ぐるみ剝がされたあげく、どこかに拉致監禁されているんじゃないか(幸いこれは今まで無い)、という最悪のパターンまで色々と想像した。夜になっても帰ってこなかったら、警察に捜索願を出そう、とママは決心した。

 

結局、夕方5時くらいにパパは帰ってきた。

「これから警察署に行ってパパの捜索願を出してくる。ついでに生協で明日のおかずの材料を買ってくるから少し遅くなるかも、ママが帰るまでに宿題を済ませてお風呂にも入っててね」と玄関でママが君に言っているところに、ただいま、というパパの声がした。おかえり、というよりも前に、ずっと連絡待ってたんだからねっ、という言葉をぶつけようとしたママは、パパの姿を見て、思わず小さな悲鳴を上げた。

パパはひどいなりをしていた。服は汚れ、ズボンの膝のところが破れていた。素足にサンダルを履いていて、おでこに青黒いあざがあった。

「どうしたの、それ? 大丈夫?」とママは言った。

「うん、大丈夫」とパパは答えた。

「何があったの?」

「うん、いろいろとね」パパは頭を掻いた。

「オヤジ狩りに遭った?」

「いや、そういうのじゃないけど」

君がママの方をちらりと見ると、ママも君の方をちらりと見た。ママも同じ違和感を抱いてる、と君は思った。

姿恰好は確かにパパだった。でも声がいつもよりかん高くて早口だし、しぐさや細かい動きがちょっと変だった。眉毛が上下にせわしなく動いている。全体に落ち着きがない。

「あなた、本当に大丈夫?」

「うん」

「声とかもちょっと変だよ」

「ああ」とパパは言った。

「そうだね、ちょっと変かもしれない」

「どうしちゃったの?」

「いや……実はね、説明するのが難しいんだけど」

「何で連絡しなかったの?」ママはようやくその言葉を口にした。

「スマホを盗られちゃって連絡ができなかった」

「盗られた? 強盗に遭ったの?」

「いや、猿に」

ママと君は唖然とした。パパはそのまま玄関から風呂場に直行してシャワーを浴びた。そのあと着替えて、リビングの椅子に腰かけて麦茶を一杯飲んでから、ママと君に向かって前夜の奇妙な体験を話し始めた。それは次のような話だ。

 

同窓会は盛り上がったよ。楽しかったね。夕方6時から飲み始めて、同じ店でずっと飲み続けて、11時に解散になった。30分に1杯くらいのペースでジョッキを空けてたから、単純に考えて400mlのジョッキを10杯くらい飲んだということになるのかな。かなり酔っ払って帰りの中央線に乗った。高尾行き快速に乗るつもりが、ちょうどホームに入って来た中央特快大月行き最終、23時28分発に乗っちゃったのが、そもそもいけなかった。三鷹で席が空いたから座ったらすぐに寝込んじゃって、国分寺で降りられなかった。そのまま乗り過ごして、やがて電車が停車した振動ではっと目が覚めた。ドア上の電光掲示板に知らない駅名が表示されてた。やばい、乗り過ごした、と思ったら反射的に足が動いて、開いていたドアから外に出ちゃったんだよ。

真っ暗のがらんとしたホームだった。降りたのは僕一人。しまったと思って車内に戻ろうとしたが遅かった。ドアが目の前で閉まって電車はホームを出ちゃった。

猿橋というその駅は、終点大月のひとつ前だった。大月まで行けばビジネスホテルがあったのに、慌てたばかりにそんながらんとして何もないところに降りてしまった。あーやっちまったと思ってスマホで調べてみると、大月までは直線距離で4キロほどらしい。ならそこまでタクシーで行ってホテルに泊まろうと思った。ところが、駅の外に出てみると、タクシーなんか全然いない。ネットで調べた周辺のタクシー会社に電話をかけてみたけど、あいにくすべて出払っていて空いているタクシーがないというし。

仕方ない、歩こう。直線距離で4キロなら1時間も歩けば着くだろう。まだ酔ってるけどまあ大丈夫だろう、と思って歩き始めたんだ。いかにも山奥の秘境らしく周囲は静かで、鳥や虫の鳴き声が聞こえるだけ。田舎で熊に襲われる人のニュースもここんとこ多いから、ちょっと怖かったよ。ナビを立ち上げたけど、道は表示されないし、スマホの充電の残りがあと6%しかないことに気がついた。前の晩に確かめておくべきだったね。充電の節約のためにスマホを消した。日中からどんよりとした曇り日だったから、空には月も星も出てないし、街灯も少なくて周囲は真っ暗でさ。アスファルトの路面が荒れてひび割れてて、何度か躓きそうになった。車が全然通らない道路を、とりあえずたぶんこっちが大月だろうという方に歩いてみた。でも1時間歩いても駅に着かない。間違えたかと思って引き返した。けれど歩いているうちに、道の両側に民家が無くなって畑と林ばかりになって、おまけにアスファルトの舗装がいつのまにか砂利道になった。街灯もないから足元の地面がまったく見えなくて、これは無理、って訳で、またまた引き返した。そのうち行ったり来たりしながらぐるぐる同じところを回っているような感じになってきてさ。心細いし足も疲れてきた。

さすがにこれはどうにもならない。で、近くの木の根元に座って足を休めながら、そうだ、やばい忘れてた、ママにLINEしなきゃ、と思ってスマホの電源を入れたの。スマホの画面が暗闇の中で白く浮き上がった次の瞬間、それが自分の手を離れて空中に浮いた。いやびっくりしたね。

頭上の木の上から手が伸びてきてスマホを奪われたんだと気がついた。四角い光がどんどん小さくなっていくのを呆然と見上げたよ。スマホが毛むくじゃらの手に握られているのがちらりと見えた。猿だと分かった。

いやもう途方にくれたよ。出くわしたのが熊でなくて、まだましだったのかもしれないけどさ。でもここにいるのは危険だと思った。街灯の明かりがだいぶ先の方にぽつんと見えてたから、その光があるところまでなんとか歩こうって思って。

 

パパはそこでいったん話をやめて、すごくお腹減った、と言った。ママはお昼ご飯の残りの焼きそばをよそってパパの前に置いた。パパは鼻を皿に近づけて匂いを嗅いだ。それから焼きそばに手を伸ばした。

「パパ、お箸!」ママがパパに向かって叫んだ。パパは手づかみで食べていた動きを止め、ママが差し出したお箸を一瞬不思議そうに見つめて、それからはっとした表情になった。

「あ、ああ」パパは立ち上がった。

「手、洗ってくる」

キッチンで手を洗っているパパの後ろ姿を横目で見ながら、ママは声をひそめて君に言った。

「パパ、変だね」

「絶対、変」と君。

キッチンからパパが戻ってきた。また眉毛をせわしなく上下させている。見ているこちらが落ち着かない。

「お腹すいてたから、思わず」

パパはそう言って、今度は箸を使って普通に食べた。パパの口から変な声が聞こえる。くっくぅ、とパパが呟いていた。

「何言ってんの?」君はパパに尋ねた。

パパは「あ」とつぶやいて、ちょっと間をおいて言った。

「美味しい、って言ったつもりなんだけど」

君とママはパパを見つめた。パパも上目遣いでちらりと見返してきてから、うつむいた。完全におかしい。この男はパパの姿をした別人ではないか、と君は思った。

気まずい沈黙が降りた。

それからパパは再び食べ始めた。今度はちゃんと「うん。美味しい」と言いながら箸を動かし、やがて食べ終わった。

「ごちそうさま」と言ったパパは、お皿をキッチンに運び、洗剤をつけたスポンジで洗って、食器用の洗い籠に入れた。このへんはいつも通りのパパで、君は少しだけほっとした。

リビングに戻ってきたパパは、ママと君に向き直って「さっきの話の続きだけど」と、また語り始めた。

 

とにかくその場から動きたくてね。上にはスマホを奪った猿がいるし。で、遠くに見える街灯を目指して歩き始めたんだ。真っ暗で、足元も全然見えなかった。数メートル行ったところで、木の根っこに躓いてよろめいた。次の瞬間、背中から強く突き飛ばされた。身体が吹っ飛ぶくらい凄い力だった。猿にやられたんだと思う。倒れて、それからしばらく何も覚えていないんだ。木の根元かなんかで頭を打って気絶してたのかも。

 

目が覚めてすぐに異変に気がついた。何気に手で頬を触ってみてびっくりした。手が剛毛に覆われてた。手だけじゃなくて全身も。猿になってたんだよ。この時の気持ちはもう何と言うか、とても言葉では表せないね。

しばらくあたりを動き回った。他に何もすることがなかったからね。気がつくと四つん這いで歩いていた。立って歩けないこともなかったけど、それはすごく面倒くさかった。

そのうち眠くなってきて木の上にのぼった。枝と枝の間に座って、幹に身体をもたれさせて、あっという間に眠った。

朝、目が覚めた時、やっぱり木の上にいた。猿のままだった。あれ夢じゃなかった、と思った。人間としての意識はちゃんとあって、ママとソウタが心配してるだろうな、とか、明後日は月曜日だから講義があるのにどうしようかな、とか思った。その一方で、敵のはぐれ猿が追っかけてこないか気になったところとかは、意識も半分くらい猿になっていたんだろうね。その日の午前中は、はぐれ猿を避けながら山をうろうろして、近くの農家の柿の実をもいで食べた。あと木に生えていたキノコを食べ、小鳥の巣から卵をとって食べた。

 

昼過ぎ、木の上にいたら僕が歩いてその下にやってきた。正確に言えば、人間の僕の恰好をした猿がやってきた。鏡に映ってるのではない自分の姿を見るのは変な気分だった。そいつは木の上にいる僕を見上げて、あおぅ、って言った。猿の言葉で、悪いな、みたいなことを言ってるのは何となくわかった。猿は僕の身体を盗んで、代わりに自分の身体を僕に押しつけた。つまり僕に無断で勝手に身体を取り換えてたんだよ。

でも僕の身体を盗んだことを奴は後悔していた。実際僕の身体になってみて気がついたんだね。つまり、猿の意思通りに僕の身体を動かすのが思ったより大変だったんだろう。一方、猿の身体になった僕の方はというと、これが悪くなかった。何といってもすごく動きやすいんだよ。木の枝から枝に飛び移ったり、四つ足で駆けてみたり、木の梢の先の方までするすると上ってみたり自由自在なんだ。猿と人間の身体能力の差は凄いからね。跳躍力なんかもうレベチ。蚤が痒いのだけは参ったけど。

 

下からこっちを見上げている僕、じゃなくて僕の身体を奪った猿がなんだか哀れだった。だって奴は僕がいる梢に上ってくることもできない。人間の身体だからね。僕は奇妙な優越感を感じながら、近くにいたムカデを捕まえて投げてやった。

僕の身体になった猿は、地面に落ちたムカデを口に放り込んだ。うげっと思ったね。自分の身体がムカデを喰うのを見るのは気色よくない。それから奴は僕のいる木の根元に腰を下ろした。と、木にもたれた奴の口が開いて、白くてフワフワした何かが出てきた。それは外に出ると小さな白い猿のかたちになった。一方、そこに残された僕の身体はくたっと動かなくなった。文字通り魂の抜け殻みたいに。白い猿はするするっと敏捷に木を駆け上ってきて、次の瞬間には僕のところまでたどりついていた。1秒もかからなかったんじゃないかな。白い猿は、僕の口を両手でこじ開けて、そこにいきなり頭を突っ込んできた。あ、口が裂ける、って思ったけれど、抵抗する間も無かった。

口は裂けなかった。白い猿の頭は僕の口に抵抗なくするっと入り込んだ。そこから肩、上半身、下半身と入ってきた。苦しくもなかった。だけど、猛烈にうんこがしたい感覚に襲われた。そしてお尻から白いフワフワが出てきた。同時に自分が押し出されていくのを感じた。うんこをひり出している猿の僕がいて、ひり出されているそのうんこは人間の僕、いや正確には僕の魂なんだ。二つに分裂しているような妙な感覚だった。押し出されたその白い僕の魂は、そのまま木の幹をするすると降りて行った。そして木の根元に人形のようにへたばっている僕の身体の口をこじ開けて、さっきの白い猿の真似をして、頭からその口の中に入っていったんだ。

 

腕組みして聞いていたママは言った。

「何だか訳わかんないけど、とにかくそうやって元の自分の身体に戻れたってことね」

「うん。あそこで失敗してたら、二度と戻れなかったと思う」

「もし戻れなかったら?」

「そしたら、僕の身体はそのままあそこで朽ちていって、行き場を失った僕の魂も、いずれ消滅しただろうね」

パパは頭の後ろで手を組んで、椅子の背にもたれながらそう言った。

 

まあ、そんなこんなで無事、パパの魂はパパの身体に戻った。その時自分の身体をパパはとても重く感じたらしい。無重力の宇宙から地球に帰還した宇宙飛行士のように。腹立たしかったことには、猿はパパの身体をかなり雑に扱っていたようで、体中にたくさんの擦り傷や切り傷ができていて、あちこちすごくひりひりした。靴は無くなっていたけれど幸いズボンのポケットに入れていた財布は無事だった。とにかく元の身体に戻れて、パパは涙が出るくらい安堵した。

元通りになったパパはその後、迷い込んでいた林道を裸足で下り、川沿いの道を歩いて国道に出た。そこから真っすぐに歩いて大月の駅まで行き、近くのコンビニでサンダルを買い、そしてその恰好を人にじろじろ見られながら快速東京行き中央線に乗って帰宅して、玄関でママに悲鳴を上げさせたって訳。

 

平穏な日常に無事復帰できたとはいえ、パパは完全には元に戻っていない。短時間とはいえ猿の魂が身体の中に入り込んでいた影響なのか、あるいは猿の魂がわずかだが残ってしまったのか、要するに少し猿っぽいままだ。たまに食べ物を手づかみで食べそうになったり、庭にいるバッタを捕まえるなり口に入れそうになったりする。職場でなにか失敗をやらかすのではないかと、君もママも落ち着かない。

案の定、いくつかやらかす。

ある日の帰宅後、パパはこんなことを言う。

「ちょっと失敗しちゃった」

「何やった?」

「今日の昼、大学のコンビニに入ったら、バナナ売ってたんだよね」

「うん」ママと君は嫌な予感にとらわれる。

「で、どうした?」

「レジに持って行って、そのバナナを買った」

ああよかった、と君は思う。その場で食べてしまい通報された、なんて話はごめんだ。

「で、コンビニを出た」

「問題ないじゃない」

「いや、それがさ」

パパが言うには、コンビニを出た途端我慢できなくなり、パパはそのバナナを袋から出して食べた。店外の路上で食べるのはちょっとマナーとしてはどうかとは思うけど、購入した後で食べること自体に問題はない。ただ食べ方がまずかった。パパはそのバナナの皮を手で剥かずに、両手で持っていきなり噛り付いて、口で皮を剥いてぺっぺっと路上に吐き捨てながら、中身のバナナを食べたのだ。しかも近くにいた学生の誰かが、何の目的があってかよく分からないが、それをスマホで動画に撮っていた。

〈田平准教授のバナナの食べ方マナー講座〉という動画がネットでバズってしまっているという。

「その吐き捨てた皮はどうしたの?」

「はっと気がついて、ちゃんと拾ってゴミ箱に捨てた。そのままにしとかなくてよかった」

君もママもその動画を敢えて観ないという選択をする。観たところで精神衛生上のメリットは何もないからだ。

 

そんなことが短期間のうちに何度か重なって、パパは大学で奇行の人として評判になる。パパは講義の中で、脱線ついでに自分の奇妙な体験を学生に語り、ちょっとした反響を巻き起こす。テレビの取材を受ける。放送された番組の中で、パパは猿マナーでバナナを食べ、猿の物真似をして(それは似ているというレベルではなく、本物の猿そのものだ)、猿語を少しばかり披露する。奇天烈でインパクトのあるその姿と、新聞や雑誌に普段寄稿している硬派な文章との落差の大きさが受け、君のパパは人気者になる。ニュース報道番組のコメンテーターとして呼ばれて、さるたびら先生という芸名をつけられて有名人になる。君は学校で、いじめられこそしないけれど、まあ、軽くからかわれたりはする。

 

ニュースで奇妙な猿のことが報道される。山梨の路上を2足歩行で徘徊している1匹のニホンザルのニュースだ。野生のニホンザルは通常2足歩行をしない。専門家がコメントする。曰く、過去に人に飼われていて(現在、ペットとしてニホンザルを個人が飼うのは違法)、ああいう歩行を仕込まれたのではないか。あるいは別の識者は言う。サーカス、あるいは日光猿軍団みたいな曲芸団体の猿が逃げて野生化したものではないか。

そのニュースはネット上でも話題になる。

「こいつ、僕の身体を奪ってたやつだ。僕の癖そっくり移ってるじゃん」

新しく買ったスマホで、ニュース動画を再生しながらパパが言う。2足歩行で歩く猿が、突然肩を小さく回し、首を右にちょいと曲げるシーンを繰り返し観ている。これは確かにパパが時々やる変な動きだ。不審者っぽいからそれやめて、とママからは言われている。

「ほんとだ。パパみたい。そっくり」

「猿に真似されると何か腹立つな」とパパ。

「そもそもどうして、あの猿はパパの身体を奪おうとしたの?」とママが言う。

「たぶん一発逆転を狙ったんだよ」パパが言う。

「一発逆転?」

「奴は群れの権力闘争から脱落してはぐれ猿になって、ちっぽけな自分の縄張りも別のはぐれ猿に奪われて、言い寄ったメス猿にも全然相手にされなくて、むしゃくしゃしながらあそこをうろついてたんだ」

「そういうの分かるもんなの?」と君。

「うん。奴とはいろいろ記憶も混ざり合ったみたいで」

「へえ」

「奴は人間を怖がってた。人間は猿よりずっと強いと思ってた。だから身体を人間と取り換えさえすれば強くなれると思ったんだね。所詮猿知恵だよ」

「で、いざそうしてみたけれど、あなたの身体をお気に召さなかったわけね」とママ。

「そういうことなんだろうね。贅沢な野郎だよ全く」

パパはふんと鼻を鳴らす。

「それにしても、奴の身体で木に登るの、ものすごく気持ちよかったな」

「そりゃお猿さんだもんね」とママ。

「木登り、マジで一生分楽しんだなあ」

そんなことを言ってるパパに君は呆れながらも、ちょっとだけうらやましく思う。

 

パパがリビングで椅子に座ってうたた寝してる。端から涎を垂らしたパパの口が少し動く。君が耳を澄ますと、こんなことを言ってるのが聞こえる。

「ソウタ、取り替えさせてくれよぉ」

パパじゃなくて、パパの中に取り残されている猿の魂の一部がそう言ってるのだと直感的に分かる。どうやら狙われているらしい。君はぞっとする。

しばらくしてパパは目を覚ます。

「パパ、僕に何か言った?」君は尋ねる。

「うん? 何かって?」パパは寝ぼけて何も覚えていない。

 

5歳か6歳の頃、パパとママと行った野山公園で、パパと木登りをしたことを君は思い出す。無邪気な小学生のように木登りが大好きなパパは、やたら高いところまで登ってママを呆れさせた。そういうパパ自身が元々持っていた猿的な資質も、猿に狙われた原因かもしれない。

君も小3から中1までは器械体操クラブに入っていたし、パルクールも好きだ。ひょっとしたらそういうところに猿は目をつけているかもしれない。

結局、パパの言う通りなんだろう。生きることは戦いなのだ。いずれその日は来る。敵はパパの中から出てきて、君の口をこじ開けて入ってこようとするだろう。そして君の魂を追い出そうとする。奴はそのチャンスを待っている。

戦うのは嫌だ。面倒くさい。だるい。けれど猿に身体を奪われたくない。猿の魂に押されて自分の魂をうんこみたくひり出されたくない。そしたら君の魂は行き場がないから消えちゃうし、君の身体なのに中身が猿になってたらパパとママは悲しむだろうし。大事なのは勝ち負けじゃないとパパは言ったけど、こればかりは勝たなきゃしょうがない。

そして君は戦う覚悟を決める。

© 2026 浅谷童夏 ( 2026年7月25日公開

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