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こよいよい詩によい酒によう

曾根崎十三

それ、ほんまに、わかって言ってます? でも、詩の読み方ってほんまに合ってるのかわからんのです。詩人に「それは違うよ」と言われたら、たぶん「わかりました」としか言えない。いつも通りアイキャッチ画像はフリー写真素材のPhotoAC。

エセー

4,448文字

高校生の時、中原中也にハマっていて、角川ソフィア文庫の「中原中也全詩集」を買って愛読していた。そして当時の私は思っていた。「私は詩に酔っている」と。未成年だからお酒は飲めないけれど、詩に酔いしれることはできる。そんな粋なイキった16歳だか17歳だか、はたまた18歳だった。ふわふわと夢見心地で現実のことを忘れられる。小説の没入感とはまた違う。夢の中で彷徨うような。

同人誌「詩の盆踊り」を読んでそんなことを思い出した。詩は急いで読むことができない。ゆっくりしている。「速い文章」と「遅い文章」があるとしたら、詩は圧倒的に後者だ。普通の文章は、小説含め、難解でなけれが急いで読むことができる。小説は早食いできるけど、詩は早食いできない。詩は飴だ。飴は噛めないし、無理に飲み込んだら窒息死する。余白、余韻を楽しむ芸術だ。むしろ余韻や余白が本体じゃないか、と思う詩も多くあった。

さきほど、中原中也の詩集を部分部分かいつまんで読み返してみた。中原中也の詩集は、実家から一人暮らしにも持って行ったし、結婚しても持って行った。目の付くところに置いてある。全然読み返さないくせに、常にわかりやすい場所に置いているので表紙が折れている。今読むと、なんというか格好付けているようにしか見えない詩もあるがそういうみっともなさも含めてたぶん当時の私は詩に酔っていった。そういう泥臭さとか格好悪さとか自分で自分に酔っているようなおセンチな文章に、酔う。高校生の私も大概ひねくれていたが、今の私はよりはきっとまっすぐだったのだろう。泥臭い詩や歌を愚直に受け入れ、その言葉に浸り、酔いしれる素直さがあった。酒が飲めなくたって、詩で酔えるのだ、なんて内心イキりまくりながら中原中也を読んでいた。大人が酒を飲めるのをうらやましかった。大人が酒を飲んで酩酊していると、みっともなく、嫌悪感がある反面、ずっと「うらやましい」と思っていた。私もそうやって何もわからなくなって、ふわふわとしたい。大人になったら絶対に酒を飲んでやる。身内にアル中が複数いるので、きっと私はアル中サラブレットだ。男ばかりだけど。女でもアル中になれるってことを見せつけてやるぜ、と思っていたかもしれない。思っていた気もする。でも、今すぐは飲めない。だって大人じゃないから。それこそ酒を飲んでふわふわしたら怒られてしまう。未成年が酒を飲んだら怒る大人がいるような、恵まれた環境にいた。そんな時に私は「詩に酔う」ことを覚えたのだ。詩は余韻が長い。余白が多い。だから小説のように出入りが明確ではなくて、いつまでもふわふわといていられるのだ。そういう曖昧な境界であるゆえに私は救われていた。

味わわなければわからない良さ、一見すると格好悪い格好良さ、というのを理解するのに時間がかかる。子どもの頃よりも。子どもの頃は読み取ってすぐにすんなりとしみこんでいた。今は、一旦ぞわぞわして、目をつぶって、薄目で見て、目を開けて改めて見て、さらに反対側から見て、もう一回真正面から見て「そうか、こんな良さ/格好悪い格好良さがあるんだな」とわかる。遠回りをしてしまう。それはいろいろなことを経験して得た深みとも言えるし、純粋さを失ってしまってつまらない大人になってしまったとも言える。わざわざ立ち止まらなければ味わうことができない。意識して立ち止まらないと、立ち止まることができない。今で言う「ドパガキ」なのかもしれない。ガキじゃないけど。ドパ人間です。ドパババア。ドパ老人。つまるところ、分かりやすい即効性のある刺激に慣れてしまって、ゆっくりと味わうことを忘れてしまっている。酒を覚えてしまった大人はもう詩で酔えないのか。ストゼロで一撃酩酊をキメるような大人にはわからない良さが世の中にはたくさんある。詩の余韻がしみてくる前に辛抱できなくなって次の刺激にかじりついてしまうせかせかした大人。ちょっとそんな大人になってしまっている気がして寂しい。詩を書いたら直るだろうか。自分自身、小説を書く時「あえて書かない」部分のこだわりはかなりあるが、詩まで凝縮してコンパクトにできるか? と問われればそれは難しいように思う。字数が守れないことには定評がある。4000字くらいだと思って書いたら8000字くらいあるし、10000字くらいと思って30000字くらいいったりするし、自分の身の丈をわかっていない。日頃歩いていても物にしょっちゅう激突して痣だらけだから、思考の世界だとなおさらひどい。

それなら、じゃあ、詩は余裕があって心が美しいノンアル人間しか書けないのかというと、全くそんなことはない。詩人は結構な確率でアル中だと思う(ド偏見)。中原中也も中島らもも酒飲みだし、何より「酔いどれ詩人」なんて言葉があるくらいなのだから、詩人はアル中なのでは? え、あながち間違ってないよね? そうだ。詩かアルコールか、と思うのがそもそもの誤りなのだ。両方あって良いのだ。両方で酔えば良い。薬物をしながら酒を飲むとトべると言うし、そういう感じなのかもしれない。酔い×酔いで良い!? そういうことか! 私は世界の真理に気付いてしまったかもしれない。神よ!

そういえば、アルコール×詩はキメたことがない。キメたら追記します。仕事あるんで今はやめときます。そういうわけで今は素面でこれを書いています。

 

追記:

10/1 23時36分開始

窓にカメムシが激突してきている。気が散るのでカーテンを閉めた。この部分は全部今リアルタイムで書いている。でも読み返した時にはリアルタイムではなくなる。玄関の日めくりカレンダーは8月から16日で止まっているので今は8月16日だ。時は私を置いてはいかない。

低アルコールワイン(7%)を四合瓶2/3だとあまりにもほろ酔いなのでストゼロの普通缶をキメるもそんなに効かない。これが耐性であり、アル中サラブレットの力かと思ったが、サントリーの酔い判定サイト(https://www.suntory.co.jp/arp/alcohol_calculation/)でも「酩酊初期」の判定。酒は強くも弱くもない。普通だ。

賞味期限が今年の1月で切れた「飲むルマンド」をそのうち飲まなければと思いつつ、さっきようやく飲んだ。缶なので賞味期限が切れていても大丈夫。金属は頑丈です。ルマンドに入っている小麦のパリパリするやつの味がすると思ったら本当に入っていた。酔っぱらっているせいではありません。本当に入ってました。これが証拠。「クレープパパウダー」が入っているらしいので。

食器を洗っている時に「好きだから」で始まるすごく良い短歌を思いついたけどまな板を洗っていたら忘れてしまった。まな板を洗っていたら忘れてしまった、って語呂が良いですね。何でもまな板洗ってたら忘れられたら良いですね。何なら、家の中で恐らく一番高い食器であろう切子グラスを食器干すところに積みすぎて割りかけた。ドキドキしちゃう。

不思議なことに詩は酒を飲んでいる方が集中して読める。現実の余計なノイズが入らない。小説は現実や理屈が通ずる部分が大きいが、詩は物思いにふけらなければならない。思考の世界。空想の世界。夢想の世界。「詩の盆踊り」も改めて何となく開いては読み、開いては読みを繰り返したが、改めて嚙みしめることができた。良かった、好き、と思える詩が増えた。むしろ素面で読んだ時より新しい気付きがあった。ああ、ここはこういう繋がりがあるのか、とか連想ゲームのように気付く。ここで色を引きついでいるのか、とか。想像がはかどる。中原中也の全詩集もどこを開いても良く思える。どれを読んでも夢想できる。詩は酒に対してつまみ、肴みたいな関係なのかもしれない。相性が良い。道理で酔いどれ詩人が多いわけだ。小説では理屈が存在しているが、詩には理屈が通っていなくてもいい。ただ雰囲気や感性としての一貫性が必要でセンスが問われる。それならば酒を飲んでいるほうがいい。計算で小説を書けても詩は計算で書けない。いや、世の詩人たちは計算で書いているのだろうか。私は詩を書いたことがないのでわからない。いや、それは嘘だ。中学生の頃は痛いポエムを書いていた。ポエムとは詩である。でもあまりにも黒歴史すぎて内容を全く覚えていない。小説と独白の間のようなものだったような。詩は自由で懐が広いように思う。例えば、この文章も「自由詩です」と言えば、自由詩になるかもしれない。しかし、あくまでこれはエッセイだ。むしろ素面の時より写真を入れたりリンクを貼ったりと凝ったことをしている気がする。この調子ならいつも飲んでいる方がいいのでは。しかし、酩酊レベルで飲むと、飲んだ後がしんどいのであまりいつもは飲めない。水をめちゃくちゃ大量に飲むと酔いからの復活が速くなる傾向にはある。私は酒が強くも弱くもない。普通だ。

そういえばさっき考えていたとっておきの短歌は「好きだからふられるなんておかしいね」だったかもしれない。忘れちまった。とはいえ、字数的に短歌でもない。また思い出したら言うね。それにしてもストゼロはマジで美味しくない。酔うために飲む薬ですよアレは。バカ舌でもそれはわかる。

ストゼロを一気飲みするとマジで気分が悪い。普通に具合が悪い。空気が不足してあくびをたくさんしてしまうが、右目からしか涙が出ない。左目は故障中かもしれない。小説を書いてる時もそうだった気がする。右目からしか涙が出ない。でもよく痙攣しているのは左まぶたなのでやっぱり左目は故障しているのかもしれない。そして、まだ素面の自分が残っている。冷静に理屈とか整合性を考えてしまっている。そういうのを失った状態で文章を書くと気持ち良いのだろうか。わからない。前後不覚で書く文章は気持ち良いですか? わかりません。前後不覚で文章を書いたことがないから。そこまで酔うことはあまりない。以前とても仲の良い友達と日本酒を飲みまくって泥酔した時以外、全然ない。ストゼロを急いで飲んでも気持ち悪くなって寝るだけだ。やはり気持ちよく酔うには日本酒一気飲みしかないのかもしれない。一気飲みはね、たぶんまあまあできます。真似しないでください。飲む気持ちを盛り上げるためにコールとかしてもらっていいですか。なるべくかわいいコールがいいです。皆さんかわいい女の子になってください。本当にならなくて大丈夫です。気持ちだけで。おれはコールがあった時、自分だけふられないタイプです。多分そういうの強要しちゃいけないタイプだと思われてるんだろうな、と予想はつく。別にできるのでふってもらって良いですよ。自分、できます。急性アルコール中毒は怖いですけどね。アル中サラブレットなのでたぶん大丈夫だと思います。それでは、私はストゼロ一気飲みで眠いので風呂入って寝ますね。おやすみなさい。こんな文章を読んでくれた皆さんが良い夢を見られますように。

© 2026 曾根崎十三 ( 2026年9月30日公開 )

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