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旅順 一

旅順(第1話)

鷹埜狩月

一人の兵卒を取り巻く玉砕と名誉、戦友の死。戦争という獰悪な存在に漬け込んだ帝国主義に抗い続ける一人の兵卒を取り巻く苦悩と葛藤を描いた大作。

※第五十八回新潮新人賞

タグ: #リアリズム文学 #日露戦争 #明治 #歴史小説 #歴史物 #純文学 #軍国主義

小説

4,459文字

     一

 

二〇三高地*は一貫して沈黙を保ち続けた。雪を少々冠かぶった、柔らかな、そして厳かで黝あおぐろい丘陵地帯は、どことなく完璧に近い悲壮を纏まとっているようだった。それに加えて、辺り一面に拡がる枯死木こしぼくとそれを見下す曇天とが相俟あいまって、如何いかにも冬であった。高地の山巓さんてん近くに在る鉄条網てつじょうもうを塹壕ざんごう*から見上げる歩兵たちの眼めは哀切あいせつに充みちていた。厳寒の所為せいで白い靄もやが漂っていても、しかしこの丘陵だけは、ハッキリと肉眼で捉えることができた。それはやはり、この丘陵が完璧な悲壮を纏っていただけでなく、完璧な戦争というものの体現たいげんを遂げていたからであった。

歩兵第二十八聯隊れんたい*の織辺おりべ雙六すごろく上等兵は、塹壕から二〇三高地山巓附近の堡塁ほるいを眺めていた。堡塁と云っても、見えるのはそれを取り囲んでいる鉄条網と・更に一囘まわり、尾根おねに沿って拡ひろがり列つらなっている胸墻きょうしょう*のみである。彼は銃剣を提ひっさげて、片脚かたあしを木台に乗っけて険しい表情で凝視じっと見続けていた。彼がそのような表情で在ったのは、決して幕僚ばくりょうたちが彼の気に障るようなことを仕出かした訣わけではなく、単に視力の兇わるいために眉間みけんに皺しわを倚よせていただけである。──隣で寝轉ねころんでいるのは山田やまだ小次郎こじろう一等兵である。彼らの属するこの聯隊は今から、山頂東北部へ突撃して堡塁を打ち毀こわすのである。

「いつまで見ている気だ?」

山田一等兵は馘くびだけ起こして苦しそうに訊ねた。

「いつまでって──他にすることもないだろう。貴男あんたみたいに寝轉がっているよりかは、戦場を眺めるよりかはずっと暇潰しになる」

「暇潰しか。其奴そいつァお気楽だな」彼は毒を秘めた厭味いやみったらしい発言を擲附ぶつけた。

「悪かったね、気楽で。それとも何だ? これからの軍いくさに向けて狼狽ろうばいしろって云うのかい。死んだ同胞どうほうたちのために平生ふだん通りの元気は見せなきゃ不可いけない」

「そうは云わないさ。ロシア人も日本人も軍までの数刻は暇なもんだ。──そう睨にらむのは好いことだがな。死んだ同胞たちのためにと云うんなら暇潰しとという簡素な言葉として片付けるのは無礼じゃないか」

「そうかい」

織辺上等兵は苦々しい表情で顔を二〇三高地の方へ戻した。平素からの山田一等兵の気質かたぎ上、どうしてもその後口論になる予感しかないのである。──山はやっぱり黝い。幾度いくたび見ても、その荘厳そうごんさと険しさは完まったく失われない。稜線りょうせんから山襞やまひだにかけての黝い布に、これから舞い上がるであろう黄色い砂煙すなけむりを投影して、感動した沈んだ表情を見せた。おそらく今から厭いやほどの晴天となっても、この山はいつまでも黝いんだろうと織辺上等兵は確信を得た。

明治三十七年十一月三十日午前五時のことだった。歩兵第二十八聯隊の金沢かなざわ丙吾へいご軍曹と江積えづみ三郎さぶろう兵長が早朝に中気霜きじもを吐きながらやって来た。つい最近まで歩兵第二十六聯隊に籍を擱おいていたのだが、急遽所属先を変更されたらしく、別段二人が何かしら不祥事ふしょうじを起こした訣ではない。二人は、何やら他の将官らと話し込んでいるようだった。

「なあおい、軍曹の隣に居る驢馬ろばみてェな奴は、一体誰だい?」

織辺上等兵は傍に立っていた石見いわみ春馬はるま上等兵にこう訊たずねた。

「ん? ──吁ああ、あの、兵長のことかい? 彼奴は江積っていう奴さ。何でも──ほら知ってるだろ? 東京の市ヶ谷いちがや*に在る、大商社の御曹司だっつう……」

幼少からの戦友はこっそり指を差してこう云った。織辺上等兵は、大商社の御曹司という言葉を聞いて顔を顰めた。

「へえ。──お坊ちゃんだナ」

彼は有福ゆうふくを毛嫌いしている。全部が全部、悪人ではないのだが、過半おおくは大抵、自分ら庶民しょみんとは違うような優雅な挙動ふるまいをする。否いや、しようとする。現に江積兵長の評判を聞いてみると、二十六聯隊に居たときは過度に自らの財産力を仄ほのめかしていたという。それが織辺上等兵には滑稽こっけいで、害な醜態しゅうたいとでしか見て執とれないのである。自分の保身を先ず第一として、それでいて上品さを保とうとする彼らの言動は、すべて幼少からの環境により育まれてきた「己と皆んなと違う」という優越感の所為である。そんな無様ぶざまな容子で、どうして優美さを保とうとするのか。ただ並を越えた財産を持っているだけで、それが急激なものであるというのに見せびらかして優越に浸る。そう云った行為が、織辺上等兵には甚はなはだ疑問であったと同時に軽蔑であった。自分の出自が庶民であるというもの理由の一つだが、尠すくなくとも己が生まれ変われるのならば、決して有福の地位にだけは就きたくないという矜持きょうじがあった。

「吁そうだ。ピストル兵長っつう渾名あだながあったぜ。なんでもピストル強盗清水しみず定吉さだきち*の物学ものまねが大層得意らしい」

「物学か。活動写真でも見たのかな」

「さあな。やっぱり金持かねもちの考えていることは理解できんな」

「だな。先まず軍人がやるかね」

「しかし阿吉牛堡あきつぎゅうほうの将官らは殉死じゅんしの劇を見て感動しているぜ*」

「それは殉死の面だろう。第一警官だ。強盗の方じゃただの悪人だぜ、下らない」

織辺上等兵は、江積兵長の面長おもながな皺しわの剞きざまれた顔を能よく見て、やはりどこか親しみ難がたい雰囲気を醸かもし出すのであった。

将官らの軍議ぐんぎの結果、今日六時に山巓へ突撃するものになった。

出撃が一時間弱後ということで、織辺上等兵たちは軍議の首尾を知るとすぐに支度を始めた。そうして塹壕を発った。歩兵全員が、三十年式銃剣*と三十年式歩兵銃*を脊せに背負しょって山道を黙々と歩く容子は、悲壮さの体現を確固たるものにしていた。織辺上等兵が他兵の顔を窺うかがってみると、皆暗い、悲々ひひたる顔をしているのがハッキリと解った。手の顫ふるえ脚の顫えの止まらない者もいた。そこで織辺上等兵は自らを、街道を歩く歩兵隊の一列を物珍しい眼で見物する群衆ぐんしゅの一部になって考えた。しかしどう考えても歔欷きょき*の感には至らなかった。彼はその要因を、己が已すでに軍人という存在になって了ったからだと知って歎息たんそくした。

山道には、木は在るが草はなかった。そのために木という幾本もの太い棒から悲哀に充ちた叫声きょうせいがどことなく聴こえる。織辺上等兵は、もし草が在って木がなかったら自分は何か聴こえただろうかと一考した。おそらく何も聴こえてこない。自分たちの蹠あしうらで踏み潰して了うからである。もし草が在って木がなかったら自分は今どんな気分なのだろうかと一考を可試ためしてみたが、もう已に戦場は眼前がんぜんに迫っていた。彼らは戦場の、五百メートルほど前で歩みを駐とめた。将官の命令が下るまで、歩兵たちは列を組んで暫時しばらく駐まっていた。その間山田一等兵は他の歩兵たちに「おい知ってるかい。あの長官は二十歳んときに──」「己おれは知ってるぜ。あの鳳輦供奉ほうれんぐぶ*の連中らが一般師団の奴らから金を巻き上げていたってことをな」などと執拗しつように話しかけて揶揄からかっている。歩兵たちは苦笑して引いているようだったが、山田一等兵の思惑としては皆の緊張を燮やわらげたかったのだろうと織辺上等兵は態わざとらしく溜息を吐ついた。その容子が、石見上等兵の眼に止まった。

「どうした兄弟。妙に堅かたい顔をしているが……」

「別にどうってことはないさ。ただ、なにか口には出せないが、不快な感情を抱いてる」

「え、なんだって。よく解りはしねえが──」

「否、たった今ハッキリした。あれだ──肉弾にくだんにだけはなりたくねえなってことさ」織辺上等兵は虚言うそを吐いた。そしてその不快こころわろき感情は最後まで靄もやっとしていたのだが、とうとう滅切めっきり忘れ去って了った。

「そうか。そりゃ己おれも同感だな」石見上等兵は前を向いた。

 

×     ×     ×

 

ひっそり閑かんとした山道に、九人ほどで一列となった歩兵隊が列んでいる。織辺上等兵はそれを空然くうぜん*と凝視めた。露軍が今どのような陣で構えているか、抑そもそも日本軍の到来を熟知しているのかすら、歩兵は知らない。ただ将官の意思に随したがうだけである。織辺上等兵がふと振り返ってみると砲台が数台設置され始めていた。砲台の口はどこまでも落ちる深淵。

ほどなくして、燻くすぶった鉛球なまりだまがぶっ飛んで来た。それが地に落ちる寸前、金沢軍曹の低い咾が山間さんかんに響き渡った。

歩兵は皆一斉に銃剣を突きつけながら馳はしり出した。その後方を、歩兵銃を構えた数百の歩兵が少しづつ前進するのである。慎重な江積兵長の進言で、歩兵隊三千人を二つの小隊に──しかし織辺上等兵ら第一隊は、まるで捨駒すてごまのような兵力差であったが──分けさせた。八百人の歩兵隊は、砲弾の甲斐あって充分進めたようだった。だがそれも、第三攻撃陣地に来て駐められたのであった。

山道が九十九折つづらおりになったところで、その囘り角で敵の斉射せいしゃに遭った。織辺上等兵と石見上等兵は、態と遅く馳しっていたから先登せんとうの銃撃で咄嗟とっさに木陰に身を蔵かくした。そこから逐一ちくいち、見えぬ敵の射うつ方へ銃弾を還かえすのであった。露軍も二人のような行為を想定してか、途中から彼方此方あちこちに銃弾を飛ばして来た。

露軍の攻撃が已んだと見えて、二人は勢い能く躍おどり出た。疾とうに露軍兵は去ったらしく、在るのは仲間の屍骸しがいだけだった。

「酷え有様だな」織辺上等兵は口を庇った。

「おい、あれを見ろ」石見上等兵は屍骸の中を指差した。熟視よくみてみると、死屍累々ししるいるいの中に、横倒よこたわった山田一等兵の姿が在った。匍匐ほふくの姿勢を保っていた山田一等兵は辺りを見巡みまわしていた。

「吁云う奴が生き残るんだ」織辺上等兵は嘲笑を交えた笑みを浮かべた。

山田一等兵は、二人の跫音を聞いてすぐに頭を降ろしたが、織辺上等兵の咾が聞こえると笑いながら地面から起き上がった。

「いやァ大成功だ。天才だろ? 丁度前の奴が撃たれたから咄嗟に身を傴かがめたんだ。そしたら露軍の奴ら、一向に気付かなくってさ。ハハハ」

織辺上等兵は山田一等兵に対する軽蔑の度合いを強めた。、仲間のお蔭かげで済すくわれたことは僖よろこばしいことなのだが、この男が、それも笑いながら云うと、「仲間のお蔭で」という事実が「仲間を売った」という事実に成りかねないのである。山田一等兵のその発言という薪たきぎが、織辺上等兵の怒りの火の中に焚くべられた。

暫くして、江積兵長が駆けつけて来た。聞くところに因よると、歩兵隊が突撃した後に待機兵の中に雑まじっていたのだが、耳を劈つんざくような銃声と戦友の悲鳴とがほぼ同時に已んだのを知って急いで来たという。石見上等兵がそのときの容子を訊ねてみたところ、皆粛然しゅくぜんたる感じで、流涙りゅうるいする者が殆ほとんどだったらしい。

織辺上等兵は山田一等兵に対する憤いきどおりをすっかり忘れて、当時の情景を想像して悲嘆ひたんの感に耽ふけっていた。耽る場が、仲間の屍体したいに囲まれた場だからというのも一つの理由である。しかし、不思議と涙は湧いてこない。それに気付いた織辺上等兵は己を激しく叱責しっせきした。大勢の仲間の死が哭なくに値しないいう見解が彼を襲った。そんなことはない。ただ、事実が剰あまりにも残酷だから、感泣かんきゅうの念を盡ことごとく枯渇こかつさせて了っただけだと何度も自分に云い聞かせた。自分の見解がなんとしても赦ゆるし難かったのである。

三人は、待機していた歩兵隊に加わった。金沢軍曹は一度麓附近へ退去し再び追撃をすると命を下した。織辺上等兵はそうだろうなと思っていた。八百人もの歩兵が全滅し、生き残ったのはたった三人である。もしこのまま追撃を再開すると軍曹が云い出したのなら、彼は撲なぐりかかろうと覚悟していたから援たすかった。

© 2026 鷹埜狩月 ( 2026年10月1日公開 )

作品集『旅順』第1話 (全3話)

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