二
明治三十七年十二月一日。麓の幕営に居た織辺上等兵は、何を思っていたか頬杖を突いてぼんやりとしていたが、天幕をくぐって這入ってきた石見上等兵に気付いてそれを已めた。
「兄弟、児玉総参謀長*がきたらしいぜ」
「へえ、そうか」
石見上等兵は少しつまらなさそうな表情を浮かべた。
「え、おいどうした。何処か工合でも兇いのか」
「否、そういう訣じゃないのだが、──」
織辺上等兵は口を噤んだ。
あの後──岳麓へ退避した後の午後六時四十分──歩兵第二十八聯隊は告知通りの二〇三高地への攻撃を再開した。東北部山頂に突入した歩兵隊は、全員の奮戦もあって見事一角の占領に成功したものの、今朝午前二時に露軍夜襲を享けて手放さなければならなくなった。激戦故に屍者はやっぱり多かった。三千人余だった歩兵隊は一千の屍体を山道に積んで退いた。そこで流れた数々の血が余計だったと考えれば、織辺上等兵の気が重く落ち込んでいることは云うまでもなかった。
児玉総参謀長の到来は、どちらかと云えば好機であった。こうも曖昧なのは、別段総参謀長が戦況を覆せるほどの兵を連れてきた訣でもないし、敵の完全たる隙を見つけた訣でもないからであった。しかし、策戦の一部変更により、二、三十人余の小精鋭団を、二〇三高地陥落まで幾度も幾度も遣り続けるというものになった。織辺上等兵はこれを聞いて幾分か安堵した表情を見せた。無駄に全兵を以て突するよりも此方の方が断然勝ち筋が在った。児玉総参謀長の変更が、戦友たちの死(それも一瞬の)をより遠ざけたのである。
二日後、十二月四日早朝。二十八聯隊の歩兵たちは銃剣・歩兵銃を背負って再び山道を歩行いた。児玉総参謀長の目論見としては、二十八珊榴弾砲*を撃って堡塁を潰滅させそこに例の小団を突撃させ続けるというものであった。今、二〇三高地の西南部一角を死守している二十七聯隊*が在る。この突撃が成功した暁には、歩兵たちは其処へ赴いて挟撃*を開始し、西南部堡塁全域を占領するのである。
織辺上等兵は他兵の顔を窺った。初戦とは異なった──それとて暗い顔をしていることに変わりはないのだが──若干の明るみを帯びている。大方総参謀長の影響なのだろうと、しかしそんなもんで死への恐怖が薄れるものかと、つまり死への恐怖とは意外にも脆弱なものなのだろうと心中で苦笑した。
この歩兵の列の中に、佐藤庫之助一等兵と野村昌三九一等兵が居た。この二人は、奉天*で育ったらしく支那語が達者であるので、支那人の虜*の通訳として将官らに重宝されていた。年齢は、織辺上等兵や石見上等兵より二、三歳ほど下の、しかし何処か初々しい顔立ちであった。歩兵銃の扱いをどちらも得意としているので、織辺上等兵らが突撃する際には後方で狙撃を行う役であった。石見上等兵を含んだこの三人は、何処となく奮い立った容子だった。
「総参謀長が来て安心か? 己はそうでもないんだが……」
「そうなのか、兄弟。己は、随分とやる気だぜ」石見上等兵は胸を張った。
「僕もだ。無論総参謀長が来なくてもだが──」佐藤一等兵は少し黙って、
「兎に角、三長官*さえ出撃すれば他の歩卒も奮うもんだぜ」
「そういや乃木将軍*も、各地へ飛んでいるらしいぜ」
野村一等兵の発言に三人が反応した。唯一織辺上等兵のみ、さほど嬉々とした表情を浮かべなかったが。
「乃木将軍だ? あの爺さん、皆んな斉って挙って崇めやがって。それでいて死なねえ訣じゃないってのに──」
「死ぬか、死なぬかなんて閣下には関係ないぜ、兄弟。──お前には解らんだろうが、お偉いさまから讃されりゃ己ら兵卒共は難有く喜ぶものさ」
織辺上等兵は最後まで不服だった。「軍神」と崇められた帝国軍人の鑑である老将軍を、若き歩兵──しかも軍国主義に対する強い反抗心を抱いてる──織辺上等兵は、どうしてもこの男を崇拝することは出来なかった。
山道は、歩兵の隊列を含んだ荒んだ山道は、悲惨であった。山が黝いのと同じく、この道も如何なる状況下に擱かれたとて、いつまでも不変のだと、織辺上等兵は再び慥かな確信を得た。
羊腸のような山道を、彼らは只管に馳しり続けた。突撃の直前に総参謀長の願い出た二十八珊榴弾砲の砲撃は想像以上に功を奏した。露軍は瞬く間に潰滅した。砲撃で打ち毀された敵陣幕営や小拠点の中に、勇猛たる日本歩兵が傾れ込む。二、三十人の規模とて頻度が多いので、肉体的に露人が優ってはいたが小団を片付ける前に新手がやって来るという惨状であった。
翌、十二月五日午前十時頃。露軍兵の、死屍累々に庇われた山道を後にして、織辺上等兵ら二十八聯隊は西南部堡塁へ急いだ。
同日午後一時四十五分。西南部堡塁を見事占拠したした二十八聯隊は東北部堡塁への攻撃を決定した。今こそ、口惜しい気分で奪われた堡塁を、吾儕の手中へと戻すときだと金沢軍曹は豪語した。二十七聯隊の歩兵二千人余を従えて、彼らは東北堡塁へ突っ込んだ。猛々しい雄叫びを挙げた歩兵が山道を駛走する。露軍の中には尠からず、最後まで抗い続けた勇士が居たのやもしれぬが、しかし兵の殆どが、撃っていた機関銃を擱き棄て逃げ帰ったことは、誰にでも想像出来得るものだった。
斯くまでして露軍を翻弄せ使めた日本軍だったが、依然として九十九折の道は苦しかったようで、敵堡塁本陣へ近付くに連れて日本兵の屍山血河は明らかになっていた。
「おい兄弟! 無事か?」
石見上等兵は荒れた咾で叫んで、土煙の中右肩に負った銃創を物ともせず織辺上等兵の方へ馳せ参じた。数人の兵たちは、態々山道に従って山巓を目指すよりも、山陰に紛れて進む方が得策だと考え始めた。二人もその内であった。
「己は無事だが──駄目だ、すっかり逸れちまった」
その頃佐藤一等兵らも木陰に蔵れてやり過ごしていたのだが、織辺上等兵らとは真逆の位置を馳しっていた。
「随分と殺られちまったもんだ。突撃の前は皆んな奮ってたのに……」
「乃木将軍のことか?」
織辺上等兵は険しい表情をした。石見上等兵の云う、歩兵たちの奮起の要因が図星だったからである。
「何をそんなに厭うんだ? 軍国主義がお前を苦しめた訣でもないだろうに……将軍に労われるだけで名誉なもんだぜ。皆そのために奮ってんだ。名誉を得るために──」
「べらぼうめ! 名誉を得たいだと? 将軍だって人間だぜ神じゃないし陛下でもない、──戦争の名誉はそう軽くなっちゃ不可ねえ! 己は──吁やって易々と死を奨める奴を崇拝なんてしたくない。ましてやそんな人間から名誉を得ようなんぞ──」
織辺上等兵は、しかし自分の云ってることの意味が解らなかった。それを石見上等兵に訊われるのを避けるために、その剣幕を保ちながら、この発言が本能から生じた言葉だと自分に了解を強いて、息切も狼狽もせずに澄ました顔をしていた。
戦争は長かった。織辺上等兵と石見上等兵の二人は、山陰に沿って頂上へ向かった。歩兵の大半が彼らの真似をしていた。将官らは、その場に居なかった。将官だけでなく、やれ日本魂だ、やれ日本男児だ何だと喚く者たちは皆、こうした逃げの体勢を採らなかった。軍中には乃木将軍の称賛を是非享けたいという卒は大勢居たが、しかしその大勢たちは、死ぬことを拒んで生き延び称賛を享けたい者と玉砕覚悟で突っ込んで生き延び称賛を享けたいという者に分かれた。織辺上等兵にとっては何方も軽蔑の対象ではあったが、如何様な手段を用いたとて生残さえ遂げることが出来たならば、軍神と崇拝されし男からの称賛を享けれるのだから、彼らは必死に生に縋みついていたに相違なかった。
決死隊(そういった名称はなくとも、尠からず後世の民衆からはそう豪語されるであろう)の仂きと二十八珊榴弾砲とのお蔭で、二〇三高地の露軍兵は数百名近くまで減っていた。山腹の終わり辺りまで到達した織辺上等兵らが、一度集結したらしい歩兵隊は見る影もなかった。四千人余だった攻撃隊は、道中どこでどう死んだのか、半分を切っていても可怪しくない惨状だった。その死んだ半数の歩兵たちの殆どが皆、死を拒むことなく玉砕覚悟で突っ込んでいったとあれば、織辺上等兵は心苦しい思いを抱くと同時に、そういった輩を強く批判した。そして呆然っとしていた彼の眼の前に、山田一等兵の素形が映り込んだとき、やはり怒りの中に薪らしきものが焚べられたようだった。
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