三
激戦は、九時間経って幕を閉じた。露軍歩兵は、逃走兵の行衞はいざ知れず、最期まで残った兵全部が戦死した。翌日の朝、二〇三高地の山巓で集って勝鬨を挙げた日本歩兵らの元に、陸軍大将乃木希典将軍が徒歩でやって来た。
「随分と減りおったな。どれ、村上大佐*は居るか?」
九百人の歩兵たちは、一同大袈裟に直立不動としていた。将軍の一言一句に、その緊張を高める原因があったらしかった。大佐と話を終えた将軍は、
「諸君ら、ご苦労だった。よくぞこの要塞を陥落せ使めて呉れた、──何そう切迫しては不可んぞ。諸君らにはこれから、もっと仂いて貰うことになるから」
織辺上等兵は、乃木将軍の激励を聞いて聞かぬ振りをして過ごした。隣の石見上等兵が熱心に、笑顔になって聴き入っていたから、乃木将軍は彼の心情に気付いていたのかもしれなかったが、織辺上等兵は別段障りはなかった。佐藤一等兵も野村一等兵も同じ面持だった。
織辺上等兵たちは、将軍の激励後、集って話し込んでいた。
「閣下は、大いに吾儕を称賛して下さった」野村一等兵は機嫌を好くしていた。まるで子共のような亢奮であった。
「称賛だと? 己には──少々がっかりしていた容子だったぜ」
「しかしあの面構えは、僖んではいなかったか?」佐藤一等兵が反論した。
「そう思うか──将軍は狡賢いナ。まだ気付かないのか? あの爺さんはな、あれだけ己たちを鼓舞させておいて、結局は突っ込んで死ぬことを大いに奨励するんだぜ。──否奨励じゃないな。強いてるんだ。そのための人望だよ、ありゃ」
織辺上等兵は、他の歩兵たちを励ましている乃木将軍を、蔑むように尻目に見た。
乃木将軍は、歩兵隊を労った後、二〇三高地を敢然と去っていった。旅順は陥落ちた。
× × ×
明治三十八年一月一日の午頃、二十八聯隊の歩兵たちは、旅順口区二〇三高地の幕営で雑煮を喰っていた。細い鉄棒を幾本も組み込んだ貧相な焚き火を囲んで、それでも皆元日を祝い合っているのだが、その見窄らしい、火力の少ない燎火*の所為なのか、歩兵の喝采に敗けないくらいの寂寥感が、山巓に棚引く雲霞と共に漂っていた。
「おいそこの──何とか云った、織田か? 何でもいい、ちょっと此方へ来い」
一人の将官が、寂寞な酒席を眺めていた織辺上等兵を喚び出した。彼の眸は、数秒前までは、勝利と寂寥の矛盾な光景を眺めていた、虚ろな眸であった。
「先日閣下がな、初めの突撃隊で生き残った奴は居るかと訊ねた。そうだ、あの、十一月のことだ。慥かお前と、石見とかいう奴と、後一人居たような気がするが──」
「山田でしょうか」
「吁そうだ。それで、閣下が恩賞を授けたいと仰言った。どうだ、一つ、請けてみないか」
織辺上等兵は機嫌を兇くした。こんなことなら山田一等兵の名を出さなければと、態々自分の厭いな奴と一緒に昇格しないよう謀るのにと思ったのだが、幾らなんでも己の良心が決して赦しはしないだろうと諦めた。
「これは異なことを仰言いますな。──恩賞はお断りしましょう。どうせ偶発物です。小生は何かと天運が好いので……」
将官は吃驚したが、急に哄い出した。
「ハハハ。偶発物だと? お前みたいな欲のない軍人は初めてだ」
「では乃木将軍は、一体欲がお有りなのですか」織辺上等兵は、気付けばこのような疑問を発していた。
「どうかな。あの人だってもう齢さ。ただ扮っているだけかもしれんが──」
「それなのい、皆ああやって崇拝するのですか」
「崇拝か。随分と誇張しているな」
「誇張ですか。私にはそうしか見えぬのですが」
将官は、ちょっと黙って、
「お前、閣下が厭いだろう?」
織辺上等兵は焦った。この将官も、乃木将軍を崇拝する者の一人だと考えていたからである。
「解るさ。己だって昔の頃はな、偉い奴らが大厭いだった。人を神だって崇める連中に雑じりたくなかったさ。そういう連中を奮い立たせて死を奨める上官も厭いだった。仕方のないことさ。それ自体が、今や国の柱となって了ったのだから……しかし思いの外、あの爺さんはおもしろいぞ。ちょっと雑ざってもみれば、お前のその生意気な思想も変わるやもしれんな。ハハハ」
将官は、──懐古的な表情を浮かべながら、宴会の中に雑ざっていった。
彼は幕営に戻って、勢い能く寝台へ轉がり落ちた。外の同僚は皆どんちゃん騒ぎである。頌春と、戦勝とが併されば、こうも亢奮することに別段不満はないのだが、死んだ仲間の屍体が点々と列んだ九十九折の想起が、彼が、その亢奮を纏いそうになってから現れるのである。それでも一先ずは、大国露を撃滅し得たことを彼は僖ぼうとして必死であった。そうずっと、死んだ戦友たちを気にしていれば、折角生き残った彼らに失礼であるのだと織辺上等兵は考えていた。しかし少しでも油断すれば、彼の眸は重くなる。盃を取って高く上げることが、戦友に申し訳ない気がした。彼は勝鬨を挙げることさえ躊躇した。戦友も、決して織辺上等兵にその様な気負いを望んではいないし、恨むような奴がいるとは流石にないのだが、彼らの心の遼か奥底に、塵ほどに、共に凱歌*を挙げ盃を交わしたいという切望が、秘められていることは否めない。
彼が大きな溜息を吐いたと同時に、天幕を退けて石見上等兵が這入って来た。
「兄弟、少しで好いから皆んなと呑まないか。──否、知ってるさ。お前が死んだ奴らのことを案じている身は解るのだが……騒ぐことも彼らへの弔いじゃないか?」
石見上等兵は、手で盃を持って呑む振りをした。死んだ戦友への弔いという言葉を聞いて、織辺上等兵はとうとう起き上がって、「行こう」と云って幕営を出た。
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