「あかり」
小さな声だった。
雨音に紛れそうなほど小さくて、それでも確かに、自分の名前だった。あかりは鉛筆を置いた。
「……?」
時計は夜の八時半を指している。こんな夜に誰か出歩いているとは到底思えなかったが……。あかりは机の椅子から立ち上がり、すぐ側にある窓の障子をすっと開けた。
「……」
外は漆黒の闇だった。雨足が余程強いのか、いつもは遠くに見える街灯もほとんど見えない。雨が窓を打つ音が聞こえていたが、それ以外に何も聞こえなかった。
真っ暗な外を見ているとあかりは次第に薄気味悪くなってくる。
なぜ躊躇いもなく開けてしまったのだろう?
時間は八時三十四分。こんな雨の日に、ましてや玄関からならまだしも、誰が人の家の敷地に入って窓から人を呼ぶというのか。
しかも思い返せば、これだけ窓を打つ雨音がしっかり聞こえるのに……。あの声はとても鮮明に、はっきり聞こえた。それはつまり、何者かはこの窓のすぐ側であかりに声をかけたのだ。
あかりは身震いした。そして何かに見つからないようにそっと再び障子を閉めた。
翌朝、雨は弱まっていたが、いまだに分厚い雨雲はどんよりと薄暗く村に覆いかぶさっていた。あかりは布団から出て障子を恐る恐る開け、そのままガラス窓も開けてみた。すぐそこは庭で、地面は泥で泥濘んでいた。雨に流されたかもしれないが、足跡のようなものは確認できなかった。今日は土曜日。でも、だれとも会う約束はない。
その日の夜、あかりは机の椅子に座って考え事をしていた。家族に昨日の夜、誰か自分に声をかけたか聞いてみたが、父も母もかけてないと言うし、それに当たり前の事だが両親の声なら直ぐに分かる。
あかりは時計に目をやった。短針がコチコチと時を細かく刻み、時間はまたも八時半頃だった。昨日とほぼ同じ時間だ。外はまた雨が降っている。今日も声が聞こ───「あかり」
「……!」
あかりは驚いて椅子から飛び退いた。椅子がキィ……と鳴った。窓の外からはポツポツと雨音が聞こえる。その音の合間を縫って、確かに声が聞こえた。昨日同じ声だ。
あかりの心臓はドクンドクンと強く打っていた。誰かいるのか……。だけれども、やはりこんな時間に人の庭に入り込んでましてや雨の中、声をかけるはずもない。それに改めて聞くと、その声は大人なのか子供なのか、男なのか女なのか。声はそれすらもよく分からない。
開けてはダメだ。反応してはダメなんだ。こういう障は構わない、知らない、気が付かない、に徹するべきなのだ。しかしあかりは何故か開けたくなってしまう。
あかりは深呼吸した。理性を保たなくてはいけない。
動悸は収まっていく。このまま無視をしよう。気が付かない振りをするのだ。気がついたとバレれば厄介なことになる。
あかりは伸ばした手を引っこめる。そしてもう一度深呼吸をして椅子に座った。窓からは雨音だけが聞こえていた。構わなければいいのだ。あかりは目を閉じ、ほっと胸を撫で下ろした。
「あかり」
その声は真後ろから聞こえた。
───
あかりは後になって知った。
この村には、梅雨の増水の夜に、窓の外から名前を呼ぶ声がすることがある、という古い話があったことを。
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