Drop

村星春海

小説

4,488文字

雨が降る中、『僕』はある喫茶店で不思議な女と出会う。
彼女の謎の質問で、『僕』は次第に引き込まれていってしまう。

 夏の雨が、急に夕方の強く焼けたアスファルトを叩いた。最初はパチパチと控えめに降っていた雨も、次第に無遠慮となって滝の様に降り出した。その時、ちょうど食料品を買いに出ていた僕は見事に雨に降られてしまった。急いで帰らなければならない様な買い物はしていなかったし、目に入った喫茶店に入ることにした。
 店内は長年のヤニとコーヒーの香りに支配され、天井も壁も茶色に染みていた。といっても下品な染み方ではない。落ち着きのある茶色だった。程よく効いたクーラーが、雨と湿気に濡れた体を冷やして乾かした。他に客はおらず、小さい音量でジャズが流れていた。
 通りが見える窓際の席に座ると、ウェイターが水とおしぼりとメニューを僕の目の前に置き、彼が姿を消すのと同時に僕はメニューを開いた。予想した通りに、多くのコーヒーの名前が記してあった。しかし残念ながら僕は日常的にコーヒーを飲むわけではないので、しばらく吟味した風を装い、ウェイターを呼んで無難にアメリカンを注文した。彼は一言何かをつぶやき奥へ下がっていった。
 しばらくしてから、僕の前にアメリカンが置かれた。その香りの中、外を眺める。通りはもちろん人なんて歩いていないし、時折通過する車にも元気がないように見えた。夕方とはいってもまだ暗くなるような時間ではないのだが、街は重苦しく灰色に暗くなり、喫茶店の店内のオレンジ色の間接照明の方が明るく見える。向かいの小さなブティックも、その隣の書店も、同じ様に活気を失っていた。路上駐車のシビックの下では、猫が僕と同じように雨宿りをしていた。そして、アメリカンが冷め始める頃には、僕はこの店内の雰囲気が気に入り始めていた。
 空間と僕の意識が妙な調和を取り始めた頃、傘を差してスーツを着た若い女が大雨の中を小走りで走ってきて、この喫茶店の軒下に入った。傘をばたばたとすぼめ、しばらく空を見上げていたが全く止む気配のない雨に諦めて店内へ入ってきた。傘の先からは、雨のしずくがぽたぽたと落ちている。
 おそらく僕と同じ境遇だろうと、その服の濡れ具合や表情から察することができた。彼女が店内へ入ると、ウェイターが彼女にタオルを渡してそのまま談笑を始めた。様子を見るに何度か来店をして顔見知りになっている様子だった。
 すらりと両手足が伸び、モデルのように背が高く、とてもスタイルが良かった。そして笑う度にローポニーテールが優しく揺れた。ジャケットはちゃんとボタンが止められ、几帳面な性格が見てとれる。僕は彼女に好印象を抱いた。
 かっちりとしたスーツを着ている所を見ると仕事帰りに雨に降られたというところだろうが、彼女は鞄の類を何一つ持っていなかった。仕事が休みの僕ですら、買い物袋を抱えているというのに。
 不思議に思いながら観察していると、タオルで体を拭き終わった彼女と目が合った、そして僕に微笑んだ。反射的に僕も微笑み返したのだが、いくら脳内を巡っても僕の知っている女性の顔と一致しなかった。もしかして顔見知りだろうか? と疑問に思っていると彼女は、実は僕と待ち合わせをしていたのだと思うほど自然に、僕の席までやってきた。
「誰かと待ち合わせですか?」
「いや、一人だよ」
「もしお邪魔じゃなければ、雨が止むまで一緒に時間を過ごしませんか?」
「どうぞ。僕も雨に降られて、時間を持て余してたから」
 僕がそう言うと彼女は真正面に座り、呼んだウェイターにアイスコーヒーを注文した。僕はアメリカンをお代わりした。ウェイターが下がると彼女は足を組んで僕をじっと見た。微笑んでいるわけでもないのに微笑んでいる様に見える不思議な唇だった。
 しばらく待っていると湯気の立つアメリカンが僕の前に、結露のついたアイスコーヒーが彼女の前に置かれた。ウェイターは伝票を差し替えて戻っていった。
「ところで」僕は先程から感じていた疑問を投げかけた。「僕らはどこかで会ったことがあったかな?」
「いいえ」
 彼女はこともなげに答えた。
「同じような境遇でこの店に流れついて、じっと雨が止むのを待っているあなたに興味を持っただけです。深い意味はないから心配しないでください」
 何を心配するのかよく分からなかったから、僕は曖昧な返事を返した。
「とりあえず、これでお互い退屈しなくて済みそうですね。雨の日って、何していいのか分からないんですよ。人によっては映画見たりするって言うんですけど、映画館まで行くのに濡れちゃうし」
「そうだね。今日は急な雨だったから仕方がないさ。君は仕事帰りなの?」
「いいえ」彼女は驚いた様に答えた。「なぜそう思ったんですか?」
「スーツ着てるからそう思ったんだ。もしかして私服とか?」
 僕は極めて冗談に聞こえるように言ったのだが、彼女は、あぁ確かに、とだけ返した。
「彼の趣味なんです。スーツが好きみたいで、いつも着ていろって言うんです。もちろん最初は彼の前だけで着てたんですけど、しばらく着てると、これがなかなか着心地が良くなってしまって。彼の趣味じゃなくて私自身が気に入っちゃったんです。彼も喜ぶし、特に問題ないなって」
 僕が、とても似合ってると言うと、彼女はうれしそうに微笑んだ。
 実際、そのスーツは着ているというより、彼女の素肌そのものの様に見えた。体のラインを主張するようにピタリと寸分違わず纏わりつき、雨で濡れたジャケットは艶やかに色を深めていた。タイトスカートも同じ様に色を深くし、彼女が足を組むたびに、それは僕をどきりとさせた。そしてシャツの胸元は第二ボタンまで開かれ、禁欲的にしっかり着こまれたスーツとは対照的に、彼女の少しの隙に見えた。
 まだ雨は止みそうになかった。
 
「────いますか?」
 彼女が僕に何かを問うた。
「失礼?」僕が聞き返すと彼女は緩やかなリップ・グロスの付いた唇を開いた。
「落ちていく方法を知っていますか?」
「落ちるとは、どこへ?」
「いろいろです」ストローから一口コーヒーを吸い上げ唇を離すと、そこにはリップ・グロスが付着していた。「彼が以前私に聞いたんです。『落ちる方法を知ってるか』って」
「君はどう答えたの?」
「分からないって言いました。そうしたら彼は少し寂しそうな顔をしました。──まずあなたの答えが聞きたいな」
僕は少し考えて、分からないな、と答えた。彼女は少し寂しそうな顔をした。
「普通はそうですよね。私もそうだったんですから。まず落ちるとは何かと聞くと彼は、一言『深層』と言いました。落ちる事が出来れば何でもできる。どこまで落ちていつまでその落ちた先で耐える事が出来るかによって、自身の結果が変わってくると教えてくれました。
 私はそれを聞いてから落ちる方法を模索しました。断食したこともあるし、しばらくシャワーを浴びなかった事もあるし、不眠をしたこともあります。彼と精根尽き果てるまでセックスしたこともあります。ですが、その落ちるという感覚には到達できませんでした。
 そんな悩んでいる時、彼がスーツを着て過ごせと言ったんです。私は落ちるという感覚を探すので忙しく、彼の変態的な趣味に付き合うような余裕はなかったのですが、模索すると同時になかなか答えの見つからない現状に、私は精神的に疲れていました。心の余裕を作るためにあえて彼の趣味に付き合うことにしました。最初は仕事以外でスーツを着るのは落ち着きませんでした。ごわごわしてるしリラックスできないし、靴だってヒールがあると歩きにくいですから。でも、そうですね、二ヶ月くらいしてからでしょうか。朝、いつものように着替えると、なんだか体にシャツやスカート、ジャケットもストッキングも、スーツを構成するいろいろな部分が私と同化している様な気がしたんです。そしてそう自覚した瞬間に、私は『落ちた』んです」
 彼女はそこまで言い終わると、再びストローに唇をつけた。
「今も、落ちているの?」
「はい。感覚的には」
 彼女を僕は観察してみた。その『落ちている』状況が、何か身体的に影響を及ぼし、表面化するものなのかを確かめるためだ。でも僕は、いつの間にか彼女をそのものを観察していることに気が付いた。
 
『この女は危険だ』
 
 僕はなぜか無意識にそう感じた。何が危険なのか何が僕をそんな風に思わせるのか、原因はさっぱり分からなかった。でも、そう感じたのだ。出会ったばかりの女性に、そんな負の感情を抱くことなんてないのに。
 外を見ると、まだ雨は止んでいない。
「彼もその時すでに落ちる感覚に気が付いていたようでした。今も落ちています。ですが問題は、やはりその方法です。通常は試行錯誤して、正・反・合の末に結果が来るものです。ですが私達の場合、それらの過程をとばして結果に行きついてしまいました。それはとても残念なことです。だから私たちは未だに『落ちる』ということを探しているのです」
 彼女が言い終わると、グラスの中の氷が音を立てて崩れた。僕ははっとした。目の前のアメリカンは冷めきっていた。そして僕が彼女を見るとほんの一瞬だけ、存在しない山火事を見ている様な空虚な視線を、僕の頭上に向けた。本当に一瞬だけ。
 そして、また元に戻った。
「すいません、こんな話で。あなたが聞き上手な人だからつい喋りすぎてしまいましたね。退屈だったでしょう?」
「そんなことはないよ。僕も少し『落ちる』ということに興味が湧いたよ」
「方法を探してみるのも面白いですよ。でも、ここまで話しておいて変な話ですが、あまり人に話す内容ではないかもしれませんね」
 そう言うと彼女は屈託のない笑顔で笑った。そこにさっきまであった、忍び寄る危険なものはなくなっていた。
 それからしばらく談笑していると、雨は上がり空にはうっすらと夕日が見えてきた。シビックはもちろん、雨宿りの猫もいつの間にかいなくなっていたし、向かいのブティックと書店には何人かの来客が見えた。
「晴れてきましたね。ではそろそろ私は帰ります。またどこかでお会いしましょう。お話を聞いてくれてありがとう」
「いえ、こちらこそ」
 彼女は立ち上がりアイスコーヒー分の小銭をテーブルの伝票の所に置き、傘を持って出て行った。彼女の姿が窓越しに見えなくなった頃、僕もそろそろ帰ろうと思い、買いもの袋を持って席を立った。
 彼女に興味を持った僕は会計の時、ウェイターに彼女が良く来るのかを聞いてみた。
「どなたのことでしょうか?」
「さっき僕と話をしていた彼女だよ」
「申し訳ありません、気が付きませんでした」
 ウェイターがふざけているのかとも思ったが、どうやらそんな風には見えなかった。僕は押し問答するのが面倒になってそのまま店を出た。 
 数歩歩いたとき、何かが引っかかった。いや思い違いなんかじゃない。彼女が何も頼まず、黙ってこっそり僕の席まで来たのなら気付かなかったとしても不思議ではないが、さっきウェイターは彼女の前にアイスコーヒーを置いたじゃないか。
 僕はよく分からなくなった。僕がおかしいのか、ウェイターがおかしいのか。それとも彼女がおかしいのか。考えていくうちに、それも面倒になった。僕は雨が止んでいるうちに、家路を急ぐことにした。

2019年10月31日公開

© 2019 村星春海

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